黒陽平の宴




藤林杏は泣き喚く春原陽平を引き連れ、平瀬村役場の一室で疲れた体を休めていた。
部屋の明かりは点けず、机の中にあった使い古しのローソクで最小限の照明を得る。
小型の赤外線ヒーターに当たり、濡れた着衣を着たまま乾かす二人はどちらとも口をきかず、ただヒーターのランプを見ていた。
「雨、止まないね」
「うん」
いろいろと話題を振ってみるが、陽平は空返事をするのみである。
魂の抜け殻のような陽平を見るにつけ、杏の心は苛立ちが募るばかりであった。
陽平の気持ちがわからない訳ではない。
杏にしても行動を共にした観月マナが目の前で射殺されたのだから。
「あの二人、相討ちになるといいね」
朝霧摩麻子と来栖川綾香の殺人鬼同士の対決のことを振ってみる。
「もう、どうでもいいや」
「どうでもいいって? いい加減にしなさいよ! 女の腐ったみたいなウジウジした男って大っ嫌い」
杏の平手が飛びパシンと乾いた音が響く。
打たれた頬を押さえ呆然とする陽平。だがその瞳が憎悪に満ちたものに変わってゆく。
活を入れたつもりが予想もしなかった反応に杏はたじろいだ。

「てめぇ……。女の腐った奴だと? 僕だって、僕だってやる時はやるんだからなっ」
返り打ちが飛び杏は壁際に飛ばされる。
頬の痛みを堪え立ち上がり、怯むことなく睨みつける杏。
「ぶったわね。あんた、女の子をぶつなんて精根が腐ってるよ。顔に辞書めりこまれたいの?」
「おまえなんか、女と思ってねえや。めりこむのはおまえの方だ!」
陽平は杏のデイパックを掴み、彼女の顔目がけて投げつける。
デイパックにはボタンや辞書等が納まっており、顔に当たればただでは済まない。
──体が動かない!
目の前の陽平はもはや、いつものヘタレな彼ではなかった。
邪悪なオーラと異様な目つきに杏はこれまでにない恐怖を覚える。
「ぎゃああああっ!」
壁を背に頭がクラクラし、鼻に来るツンとした痛みを感じながら、杏は一瞬気を失いかけた。
鼻の下に温かい液体が流れ、それが血だと理解するに時間はかからなかった。

「どうした? いつもの威勢の良さは」
「嫌、やめて……やり過ぎだよ」
「やめない。やめるか。な〜にが『やり過ぎ』だ。ザケンナッ、目に物を言わせてやる」
陽平が右手の人差し指と中指をゆっくりと突き出す。
──目を突くつもりだわ!
そうはさせまいと目を閉じ両手で顔を覆う。
その場しのぎの策だが陽平の行動は予想もしないことだった。
鼻の穴に突き入れられ、そのまま持ち上げられる。
「イタイイタイイタイイタイイタイイタイ、痛いよぉ〜」
足が床から離れ体が宙に浮き、杏は激しくもがく。
「ハハ、無様だな。まるで豚だ。そういえばおまえ、猪飼ってたな。猪も豚も同じだからこれからはメス豚と呼ぼう」
「ごめん。謝るから許してぇ。お願い、許してぇー」
「痛いか? いつだったか、よくもバイクで轢いてくれたな。すごく痛かったんだからな」
陽平は指に力を入れ杏の体を更に高く持ち上げる。
「ごめんなさい! おフザケにしてはやり過ぎましたっ! 心を入れ替えますから許してください!」
言った直後、指を入れられたまま部屋の真ん中付近に投げ飛ばされる。
──狂ってる。いつもの陽平じゃない!
ルーシー・マリア・ミソラへの想いを軽視したのがいけなかった。
杏は体を震わせ恐怖におののくばかりである。
「今までヘタレヘタレって、さんざん馬鹿にしてくれたな。メス豚め」
「ヒッ、何するの?!」
両足首が掴まれる。
「豚が空飛ぶところ見たい。ハハハハハ、もっと泣け。もっと喚け」
「いやあーっ! やめてーっ!」
陽平は両足首を持ったまま回転を始める。俗にいうジャイアントスウィングである。
「とんでとんでとんでとんでとんでとんでとんでとんでとんで、まわってまわってまわってまわぁるぅう〜」
どこかで聞いた歌を口ずさみ、天井目がけて放り投げる。
「きゃあぁぁぁーっ!」
華奢な体が弾丸のごとく飛び、天井にぶつかり、そして床に叩きつけられた。

全身に激痛が走り意識が遠退いて行く。
仰向けに喘いでいると陽平が近づき歪な笑いを見せる。
捲れ上がったスカートからは白い下着が覗いていた。
「おや、純白の……いや、ちょっとシミがあるかな。よりどりみどり、いや黄色に染めてみよっと」
「やめてーっ! あぁーーーーーっ!」
陽平は容赦なく臍のあたりに飛び乗り圧をかける。
「イチニ、イチニ、イチニ……さあ、早く漏らしちまいな。でも僕は早漏は嫌いだぁっ」
体中の力が抜け、腹部で足踏みする陽平をどうすることもできない。
そのうち片足が少し下のあたり──膀胱を押し潰した。
「あああぁぁぁぁぁぁーっ!」
絶叫と共に股間から黄色い液体が湧き出し床に水溜りを作って行く。

陽平の暴走はなおも続いた。
しゃくり上げる杏の髪を掴み、彼女が作ったばかりの水溜りに鼻先を押し付ける。
「舐めろ。舐めて飲んでリサイクルするんだ。今はリサイクルの時代。リサイクル最高! 自分の小便を味わえ」
「ゲホッ、ハァハァ……もう、勘弁してください」
杏は仕方なしに舐めるがすぐにむせた。
自分の物とはいえ、排泄物を口にするのは女の子として耐え難い屈辱を感じざるを得ない。
それでも反抗的な態度を見せる訳にはいかず、泣きはらすのみである。

「なぜなんだ。椋ちゃんと同じ顔してるのに、おまえは醜い。椋ちゃんの出来損ないとして名を否定の『否』の字に改めろ」
「ううっ、藤林 いな、ですか?」
「そうだ。『藤林 否』だ。字が似ていてまさにピッタリだな。ハハハハ」
なぜこんなことになってしまったのだろう。
どうにか折檻は収まったが杏はただ怯え、うなだれるしかなかった。

陽平が水溜りに顔を近づけ臭いを嗅ぐ。
「アンモニア臭いな。椋ちゃんなら甘くていい匂いがするだろうになあ」
いくらか落ち着きを戻したが異常な行動は相変わらずだった。
部屋の片隅で蹲りじっと見ていると、何を思ったか陽平は背を向けヒーターにあたり始める。
(もう、精神が錯乱してるんだ。このままでは殺されるに違いない。殺やるなら今だ)
杏の心をドス黒い澱が包みこみつつあった。
音を立てないよう、傍に落ちているワルサー P38を拾い邪悪な背中に狙いを定める。
撃てばまず外れることのない距離なのだが、手が震えてどうしても撃てない。
「さっさと撃てよ。狙ってるのわかってるんだから」
「撃てないよ、あたし」
「もういいんだ。どうせみんな殺されるんだ。妹やるーこの元に行ってもいい。おまえに殺されるなら恨まないよ」
低く沈んだ声。陽平の声は悲しみに満ちていた。
「あたしだって妹が死んやりきれないのよ」
搾り出すような声で訴えるのがやっとだった。

それから暫くの間沈黙が続いた。
「撃たないのか? そうか……では、お別れだ」
荷物を手に陽平は部屋を出て行った。
──助かった。
杏は全身の痛みを堪えながら安堵の溜息をつく。
投げつけられたデイパックを開けてみるとボタンは泡を吹いて気絶していた。
「よかった。生きてた」
血に塗れた手で撫でていると、ふいに虚無感に襲われる。
──酷い目に遭ったけど、それでも陽平には傍に居て欲しい。
初めて見せた陽平の意外な性格にどこか惹かれるものがあった。
──もうヘタレなんかじゃない。
胸に切ない想いが溢れ、杏はよろめきながら後を追う。

(まだ止まないな。るーこの居たところはどのあたりになるだろうか)
陽平は玄関に佇み真っ暗な空間の彼方を凝視していた。
ぼうーっとしていると背後から駆け足の音が近づいてくる。
足音は真後ろで止まり、背中に柔らかく温かい物が押し付けられた。
「行っちゃ嫌。行かないで」
両脇から伸びた手が絡み陽平の腰を抱き締める。
「放してくれ」
「あたしを独りにしないで。陽平くん、勝手な言い分だけど、あたしを助けて欲しいの」
「お断りだ」
そう呟いたが陽平は振り払おうとはしなかった。
「……せっかく乾きかけたのに、また濡れちゃうよ」
押されるように庁舎内に引き戻される。腰に回された手は震えていた。
「なあ、杏よ」
「否でいいよ。『いな』で……」


先ほどまでいた小部屋に戻り、ヒーターの前に座らされる。
「ねえ、寒くない?」
「少しな」
ローソクが燃え尽き、あたりはヒーターの仄かな赤色に包まれた。

「ねえ、陽平くん」
「くん付けで呼ばなくてもいい。もう何もしないから」
「お願いだからあたしといっしょに居て……」
すがるような上目遣いが向けられていた。
「ああ、居てあげるよ」
肩に手を回し引き寄せると杏がピクリと体を震わせる。
二人してそのままじっと赤いランプを見つめる。
陽平はそれだけで満足だった。

足を投げ出していると杏が上に跨ってきた。
「こうするとあったかいよ」
「お、おい……」
敢えて拒まなかった。
ゆっくりと押し倒され、杏が体を重ねる。
陽平はなすがままにされていたが、やがて杏の背に手を回した。
「わがまま言ってごめんね」
「僕の方こそ酷いことしてごめんな。血舐めてあげるよ」
「ひゃあっ」
鼻血で汚れた鼻の下から口回りを舐められ、杏は一瞬大きく仰け反った。
だが後頭部を押さえられ、むず痒さに苛まれながらも身を任せる。
「杏、キスしていいか?」
「うん、いいよ」
互いに見つめ合い、そして唇が触れ合う。
杏の温もりを堪能しながら考える。
(何がなんだか訳がわからないままこんなことをしている。これは夢だろうか。まあ夢でもいい。こんな夢なら何度でも……」
悲しみから怒り、そして困惑へと目まぐるしく移り変わる思考に陽平は最後まで混乱していた。




【時間:2日目・21:45】
【場所:F-2平瀬村役場】

春原陽平
【持ち物1:FN Five-SeveNの予備マガジン(20発入り)×2、LL牛乳×3、ブロックタイプ栄養食品×3、他支給品一式(食料と水を少し消費)】
【持ち物2:鉈、スタンガン・鋏・鉄パイプ・首輪の解除方法を載せた紙・他支給品一式】
【状態:夢見心地、抱擁中(杏の下)。右足刺し傷、左肩銃創、全身打撲(大分マシになっている)・数ヶ所に軽い切り傷・頭と脇腹に打撲跡(どれも大体は治療済み)、疲労】

藤林杏
 【装備:ワルサー P38(残弾数4/8)、Remington M870の予備弾(12番ゲージ弾)×27】
 【所持品1:予備弾(12番ゲージ弾)×27、辞書×2(和英、英和)、救急箱、食料など家から持ってきたさまざまな品々、支給品一式】
 【所持品2:ワルサー P38の予備マガジン(9ミリパラベラム弾8発入り)×2、カメラ付き携帯電話(バッテリー十分、全施設の番号登録済み)、9ミリパラベラム弾13発
入り予備マガジン、他支給品一式】
 【状態:ハイな気分、抱擁中(陽平の上)。全身打撲、疲労】

ボタン
 【状態:気絶、杏の鞄の中に入れられている】

【備考】
役場の位置は地図上の「瀬」のあたり
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