光。 最初に浮かんだのは、そんな言葉だった。 ぼんやりとした光に包まれたまま、水の上に浮いているような感覚。 「―――私の声が聞こえるかね」 耳を打ったその音を、意味を持った言葉として認識するまでに、しばらくの時間がかかった。 返事をしようとして、口が開かないことに気づく。 口だけではない。不思議なことに、手も、足も、指の一本さえ動かすことができないのだった。 開いているはずの目は薄ぼんやりとした光を届けてくるばかりで、結局のところ私は自分が 今どういう状態なのかもよくわからないでいる。 「私の声が、聞こえるかね」 聞こえている。聞こえてはいるが、それを表わす術がない。 ぼうぼうと反響するようなその声がどこから聞こえてくるのかさえ曖昧だった。 そんな私の無反応をどう捉えたのか、声はしばらくの間、沈黙を保っていた。 「―――」 ほんの少しの間を置いて、世界に音が戻ってくる。 しかし不自由な私の世界に一度に詰め込まれた音は、いくつもの断片に分かれて暴れ回り、 声として認識できない。反響し、次々と消えていく音の乱舞。 僅かに残った音だけが、やがて一つに収束し、最後に意味を持った言葉になった。 「……君が答えるべきは一つ、たった一つだ」 その声は厳かで、些かの揺らぎもなく。 「―――君は、生きたいか?」 私を、審判する。 ****** 霧島聖は、眼前に横たわる少女をじっと見つめていた。 色を失ったその白皙の頬はぴくりとも動かない。 微かに開かれたその瞳に光はなく、何も映してはいないように見えた。 医師としての見地から言うならば、それは既に手の施しようもなく、ただ生命活動を終えていないというだけの 存在だった。やがて自発呼吸も止まるだろう。 だが聖は、そんな少女に向けて口を開く。 「―――君は、やがて死ぬ」 それは決して独り言めいた声音ではなく、しっかりと少女に語りかけるような、そんな口調だった。 「君の体には既に、生きる力は残されていない。時間の問題だ」 聖の声が途切れると、代わって時計の秒針の刻む音が狭い部屋を支配する。 昨夜から降り続いていた雨の音は、いつしか聞こえなくなっていた。 「……君の前には」 しばらくの沈黙の後、意を決したように聖が口を開いた。 「君の前には、二つの道がある」 雨に打たれながらも少女から失われずにいた温もりを思いながら、聖は続ける。 「一つめは、このまま生を終える道。そして二つめは……人を捨て、存える道だ」 傍らに置かれた小さな鍋を、聖の視線は捉えていた。 すっかり冷めて表面に固まった油の浮いたその鍋の中には、小さく刻まれた肉片がいくつも入っていた。 「私には、君を生かすことができる。 ……しかし、それによって君は、ヒトと呼べるものではなくなるかもしれない。 君が得る、力と命……それは君の中のヒトを喰らって大きくなる」 ムティカパ症候群。 その病名は、常におぞましい猟奇事件と共に語られる。 不幸と悲劇を呼ぶ奇病。医師としての倫理を踏み躙りながら、聖は振り絞るように声を出していた。 「それでも、それでも欲するか。君の求めるものへもう一度手を伸ばす、その機会を。 ヒトを捨て、醜い姿を晒してもなお、君は立ち上がりたいと望むか」 聞く者の胸を締め付けるような、それは声音だった。 瞳を閉じ、首を振って、聖は言葉を続ける。 「……いいや、いいや、そうではないな。ああ、訊ねるべきはそういうことではない。 私が訊ね、君が答えるべきは一つ。たった一つだ」 間。 一瞬の静寂の後、聖はそっと、少女に問いかけた。 「問おう。―――君は、生きたいか?」 ****** ―――生きたいか、と。 その声は私に問いかけ、そうしてそれきり、世界は静かになった。 光の中に浮かびながら、私は思いを巡らせる。 生きたいか。 私自身に問い直しても、答えは返ってこない。 わからない。 これまでだって、生きたくて生きていたんじゃない。 私は生まれ、お母さんを傷つけた。 私は生まれ、何も守れなかった。 私は生まれ、ただ生きていた。 生まれたくて生まれたんじゃない。 だけど、それは言ってはいけないことだとわかっていたから。 お母さんと私の全部を捨ててしまう言葉だとわかっていたから、口には出さなかった。 生き終わろうとしている今だから、こうして言葉にすることができる。 私のちから。 私を苦しめ、支えてくれたちから。 剣と魔物と―――そして、麦畑。 金色に輝くあの場所はもうない。 私が守れなかったあの場所には、もう誰も戻ってこない。 たいせつな約束をした、黄金の野原。 それが永遠に失われてしまったのが悲しくて、悔しくて、それを認めたくなくて。 だから、認めなかった。 私の中には永遠に輝く麦畑があると、世界を作り変えた。 誰に見えなくとも、誰に蔑まれようとも、私にとって大切なのは、そんなことではなかった。 あの場所が、あるということ。それだけが、私にとってのすべてだった。 約束は失われてなどいないと、ずっと守り続けているのだと、私は私を塗り潰した。 ―――全部、嘘だった。 私は私を騙しきれずにいて、塗り潰しそこねた空白から錆は拡がっていった。 大切なものが、大切な約束が薄れていくのを感じながら、私は何もしようとしなかった。 倉田佐祐理という雑音が、私の大切を塗り替えていく。 それは決して赦してはいけないことのはずなのに、あの場所への裏切りに他ならないのに、 私はそれを、ひどく心地よく感じてしまっていた。 愚かしい勘違いだったと、今になってようやく思う。 生きるということに疲れていたのだと、抗うということに迷っていたのだと、そう思えた。 私は私の大切を履き違え、そうして擦り切れてしまっていた。 重荷を下ろそうと、誰も見ていないのだからと、そんな風に磨耗していたのだ。 他ならぬ私自身の目が、いつだって一番近くで見ていることを忘れて。 ああ、ああ。 私は、生きたくて生きていたんじゃ、ない。 ―――だけど、そんな確信の裏側から、小さな声が聞こえてくる。 一生懸命に耳をそばだてなければ聞こえないような、微かな声。 鼓動や呼吸、私自身の生きる音で聞こえなくなってしまうような、小さな小さな声。 声は、問うていた。 ―――あなたは、生きたくないの? それは小さな問いだった。 小さな、そして私の一番深くから聞こえてくる、問いだった。 私の中の雑音の全部が、消えていく。 いつの間にか、金色に輝くあの場所が、私を包んでいた。 音はなく、穂を揺らす風と傾きかけた陽射しだけがあった。 私の守れなかった場所。 私が、守ってきた場所。 今はもうない、いつまでもそこにある、大切な場所。 私にしか見えない、そしていつか、いつか誰かが戻ってくるための、約束の場所。 手には、剣。 私を囲む、私の憎むべき、大切な魔物たち。 黄金の野が、月光に煌く刃の銀色が、蠢く魔物の漆黒が、私を包んでいた。 雨が降っていた。泥があり、炎があり、吹雪があり、鬼がいた。 輝く猪と魔犬の咆哮があった。私自身の血飛沫が私を濡らした。 私は私の腕を切り落とし、そしてチエは死んだ。 ああ、と。 私の中の混沌が、渦を巻きながら凝集していくのを見ながら。 私はようやく、理解する。 ―――喪われた命が掴めないと、誰が定めた。 結局のところ私は、それが赦せなかったのだ。 死は喪失で、喪失は罪で。 だが、それだけだ。 取り返しのつかぬものなど、私は認めない。 守れなかったものが、もうこの手には戻らないと、そんなことを私は肯んじない。 抗うもの。 黄金の野に刃を翳し、あり得べからざる真実を切り伏せようとするもの。 それが私だ。 川澄舞の十年間だ。 ならば、私は認めてはならない。 死が取り返しのつかぬことなどではないと、私は私に示す。 ―――私は、死を認めない。 それが、川澄舞の意志だ。 瞬間、光に包まれた世界に、私の声が満ちていた。 ****** 午前十一時。 小さな寝息だけが響くその民家の静寂を破る、声があった。 「―――大変! 大変なの……聖さん、助けて!!」 数時間前に出ていったはずの少女、長岡志保の声に霧島聖が振り向く。 焦燥に満ちた声音に、悲壮と恐慌を混ぜ合わせたような表情。 着込んだ制服は所々でほつれている。 「……何事かね」 ただならぬその様子にも動じることなく問い返す聖。 その傍らには、すっかり空になった鍋が転がっていた。 【時間:2日目午前11時ごろ】 【場所:F−2 平瀬村民家】 霧島聖 【所持品:魔法ステッキ(元ベアークロー)、支給品一式、白虎の毛皮】 【状態:ドクター】 川澄舞 【所持品:村雨・大蛇の尾・鬼の爪・支給品一式】 【状態:安定・睡眠・獣】 長岡志保 【所持品:不明】 【状態:異能・ドリー夢、狼狽】 - BACK