太陽がまた輝くとき




「―――これで最後、と」

その手に残る炎を振るい消しながら、浩之が周囲を見回す。
柳川もまた、最後の夕霧を相手にしているところだった。
鷲掴みにされた夕霧の頭が握り潰されるのを目にして軽い嘔吐感を覚えるが、眉間を押さえて堪える。
相手は人間ではない。同じ顔をした人間が何百人もいるはずがない。
それ以上は深く考えずに、浩之は柳川の大きな背に軽く拳を当てる。

「お疲れさん。ここいらの連中はあらかた片付いたな」

振り返れば、廊下には至るところに焼け焦げと血飛沫がこびり付いていた。
倒れ伏す夕霧の群れをなるべく視界に入れないようにしながら、浩之は凄惨な光景の中に立ち尽くす男に声をかけた。

「あんたにもお疲れ、だ」
「……」

ぐったりとした白皙の美少年を背負ったその男、高槻はどろりと濁った瞳で浩之を見やると、無言で頷いた。
その陰気な様子に少し鼻白みながら、浩之は言葉を続ける。

「何発か危ないのが行っちまってすまねーな。けど、本当にヤバいのはこっから先だ。
 そいつのこと、気合入れて守ってやれよ」

言いながら顎で指し示したのは、校舎全体でいえば北東の隅にあたる曲がり角だった。
南北に延びる校舎を夕霧を撃破しながら縦断し、辿り着いたのがこの場所である。
ここまでの道程はほぼ無傷。しかしこの先はそうはいかないだろう、と浩之は思案する。
振り返った廊下の薄暗さと、曲がり角の向こうから漏れてくる明るさの差に眉を顰める浩之。

「窓、か……。厄介だな」

知らず、口に出してしまう。
ここまで突破してきた校舎の南北部分は、廊下の両側に教室が配されていた。
それぞれの教室には勿論、窓が存在していたが、扉と壁に隔てられた廊下には直接の光はほとんど届かなかった。
なればこそ、各教室からの採光を中継する個体を遠距離から潰していくことで夕霧群の攻撃能力を激減させ、
柳川の頑強さを頼りに突破することも可能だったのだ。
しかしこの先、東西に伸びる校舎は勝手が違った。
校舎の北側、曲がった先の向かって右側には、これまでのような教室が存在しなかった。
そこには採光性に優れた広い窓硝子が、延々と連なっていたのである。
余計なことをしやがる、と口の中で呟く浩之。
学生の健全な精神の育成には必要かもしれないが、今現在の浩之たちにとっては有害以外の何物でもなかった。

「ダイジョウブ……オレ、タカユキ、マモル」

浩之の思案顔を見て、柳川が無骨な黒い手をそっと伸ばしてくる。
遠慮がちなその仕草に、浩之のしかめ面が苦笑に変わった。
ハイタッチをするようにその手をはたいて、ことさらに明るい声を上げる。

「そうだな、俺と柳川さんなら大丈夫だよな!」

己を奮い立たせるような声。
ぱん、と頬を挟むように叩く。

「うっし、気合入った。……すまねーな、心配させちまったみたいで。
 グダグダ考えてても仕方ねえ、どの道、時間が経てば経つほどヤバくなるんだしな」

言って、視線を窓へと向ける。
硝子の向こう側にはいまだ曇天が広がっていたが、しかし所々では雲に切れ間が見え隠れしていた。
天候は回復しつつある。
敵が太陽光線をその攻撃の要因としているならば、直射日光によってその威力が跳ね上がることは想像に難くない。
何としても、その前に包囲を突破する必要があった。

「オッケ、それじゃ基本はさっきまでと同じ、フォワードとバックアップだ。
 完全に制圧する必要はねえ、一気に駆け抜ける。―――あんたも、いいかい?」
「……ああ」

高槻が首を縦に振るのを見て、浩之が一つ頷き返す。

「じゃ、いくぜ……一、二の、三!」

声と同時。角に張り付いていた柳川が、咆哮と共に躍りだした。
その背に隠れるように、浩之も続く。
手近な夕霧を撃ち落としつつ弾幕を展開しようとした浩之の表情は、しかし次の瞬間、凍りついていた。

「何だ……この、数……!?」

浩之たちを迎えていたのは、無数の視線と、濁った笑顔だった。
床に這いずっていた。
天井に張り付いていた。
壁に身を預けていた。
立っていた。跪いていた。あるいは倒れてさえいた。
互いに互いを押し退けんばかりに、砧夕霧がひしめき合っていた。
奇妙な笑みを貼り付けたその顔が、一斉に浩之たちを見つめていた。
刹那、光条が炸裂した。

「やば……っ!」

あまりの光景に一瞬、我を忘れていた。
先手を取るどころか、いまや迎撃すら遅きに失していた。
廊下を薙ぎ払わんばかりの光に思わず目を瞑ろうとする浩之。
しかしそれよりも僅かに早く、その視界を黒い影が遮っていた。

「柳川、さん……!」

オォ、と。
応えるような咆哮が、浩之の耳朶を打った。
浩之を抱えるように庇ったその背に、光線が幾つも直撃していた。
目映い光芒の一閃が文字通りの光速で飛び去り、廊下にほんのひと時の静寂が戻る。

「グ、ォォ……」

明るさの反動か、突如として暗がりに踏み込んだような錯覚を覚える浩之の眼前で、
柳川の巨躯がガクリと膝を落とした。
真紅の瞳も苦しげに歪められていたが、浩之を認めると必死に優しげな笑みの色を浮かべようとする。
思わず声を詰まらせた浩之に、柳川の低い声が語りかけていた。

「タカ……ユキ、ダイジョウ、ブ……カ……?」
「―――ッ!」

言葉にならなかった。
眦に込み上げる熱いものを心中で燃え盛る炎と変え、浩之は拳を打ち出していた。
これまでとは比較にならない、巨大な火の鳥が柳川の背後へと飛んでいく。
着弾。轟、と風が吹き抜けた。並んだ窓硝子が、片端から割れ砕けた。
次の瞬間、爆炎が噴き上がった。

「ォォォオオオッッ―――!」

最前列の夕霧が一瞬にして消し炭と化すのを見届けることもなく、浩之が次弾を叩き込む。
大気を呑み込みながら、炎の鳥が羽ばたいていく。
割れた窓から気圧差で吹き込む暴風が、炎の尾を渦巻かせる。
胴を穿たれた夕霧が、頭と足を残して吹き飛んだ。
翼の先が掠めたものは、熱で溶けた化繊の制服を水脹れに包まれた肌に張りつかせ、悶えて死んだ。
暴虐の炎を逃れたものも、熱風を吸い込んで肺を焼け爛れさせ、もがいている。
びくびくと手足を痙攣させていたものたちは、三羽め、四羽めの炎の鳥によって灰塵に帰した。

「ハァ……ッ、ハァ、ッ……!」

乱れた呼吸を整えようともせず拳を突き出したままでいた浩之が、視界の範囲に動くものがなくなったのを見届けて、
ゆっくりと膝をついた。
見れば、スチールの扉は軒並み高熱によって歪み、開閉を拒んでいた。
床からは陽炎が立ち昇っている。
吹き込んだ涼風が、赤熱した壁や床にあてられて、たちまちの内に熱を帯びていった。
灼熱の地獄の中で、浩之が膝をついたまま、柳川を見上げる。
その装甲の如き黒い皮膚が、光線の直撃を受けた背の部分だけごっそりと欠け落ち、その下の肉を垣間見せている。
湯気を上げながら再生しようとするその傷に、浩之はそっと手を伸ばす。

「痛いか……?」
「ダイ、ジョウブ……オレ、ツヨイ……」
「そっか……。あんま、心配させないでくれよ……」

安心したように脱力して、壁に肩を預ける浩之。
聖衣に護られた身体は、陽炎を立ち昇らせるコンクリートの熱をものともしない。

「今の内に抜けちまいてえが……しばらくは動けない、か」

柳川の傷を痛ましげに見ながら浩之が言う。
だがその眼前で、柳川の黒い巨体が動いた。
どうやら震える膝を押さえながら、立ち上がろうとしているようだった。

「お、おい、無理すんなって!」
「オレ……モウ、ヘイキ……」
「歯ぁ食い縛りながら言う台詞じゃねえって!」

慌てたような浩之の言葉も、柳川は頑として聞き入れようとしない。

「イマノ、ウチ……イク……」
「……ああくそ、わかったよ! けど、頼むから無理しないでくれよ!?」
「ワカッテル……タカユキ、ヤサシイ……」
「その傷が治るまでは俺が前に出る、面倒だけど出た端から一つづつ潰していくぞ。
 ……あんたも、いちいち振り回して悪いがついてきてくれよ」

いつの間にか無言で立っていた高槻に言葉を残すと、浩之もまた立ち上がる。
傷を庇う柳川を先導するように、油断なく周囲を見回しながら歩き始める浩之。
だが、その遅々とした歩みが、東西に伸びる校舎の半ばまで進んだ頃。

「さっきのであらかたは潰したはず、だったんだがな……」

苦々しげに、浩之が呟く。
前方に、新たな夕霧が姿を見せていた。
ぞろりと揃ったその数は、先程に勝るとも劣らない。
目指す階段の向こうから、尽きることを知らぬように涌いて出ていた。

「―――西校舎との、渡り廊下か……!」

失念していた。
それぞれL字型をした東西の校舎は、北側で渡り廊下によって結ばれていると、自身で口にしたことだった。
そして西校舎は、完全に夕霧によって占拠されているとも。

「くそっ、とにかく進むしかねえってのに……! 鳳翼、天翔ッ!」

火の鳥を展開しながら、浩之が毒づく。
こうなれば、とにかく間断なく攻撃して戦線を押し上げていくしかない。
敵の予備戦力は、絶望的という一点において無限と等しかった。
柳川の傷が回復するまで、あと何分か、何十分か。
その間、自分の弾幕で状況を維持できるのか。
様々な自問を振り払って、浩之は両の拳に力を込める。

「鳳凰星座は逆境に真価を発揮する……そうだろ、俺の聖衣……!」

纏った白い鎧が、どくんと脈動したように、浩之は感じた。
それを返答と受け取って、次なる炎を撃ち出そうとした浩之の、その後ろから、飛び出す影があった。

「な……柳川さん、無茶だっ……!」

薄皮が張ったばかりの背中が、浩之の視界を埋める。
黒い巨躯が、狼の遠吠えの如き咆哮を上げながら猛烈な突進を開始した。
炎の弾幕に遮られていた光芒が幾条も柳川に突き刺さる。
その都度、小さく鮮血を撒き散らしながら、柳川は止まらない。
広げた両腕が、廊下の端から端までを覆う。
そのままの勢いで、夕霧の群れと接触した。
べぎ、と何か硬いものが圧搾機に放り込まれたような音が連続する。
最前列に立つ夕霧の何人かが、柳川の巨体を受け止めかねて文字通りの挽肉になる音だった。

「やな、がわさん……!」

朗々と、狭い廊下に咆哮が響き渡った。
鬼の突進が、数十人の砧夕霧を撥ね飛ばし、ひき潰し、ついには押し返していく。
その間も、同胞の遺骸を貫いて無数の光線が柳川の身体を灼いていた。
対する浩之はしかし、廊下一杯に広げられた腕とその巨躯に射線を塞がれ、見守ることしかできない。

「柳川さん、もういい、無茶するなっ!」

浩之の悲痛な叫びも空しく、柳川の黒い肉体はじりじりと夕霧の群れを圧していく。
そしてついに階段の向こう側まで辿り着いた柳川は、一際高く吼えると、その広げた両腕を身体の前で
強引に閉じていく。圧潰した夕霧の肉片が、血と混ざって飛び散った。
両の手指を組んだ柳川の拳が、天井をかすめて振り上げられた。
瞬間、凄まじい音が轟いた。

「な……!?」

爆風の如き衝撃に、思わず身を庇う浩之。
翳した腕の陰から見たのは、驚くべき光景だった。
塵芥の収まったそこに、続いていたはずの渡り廊下は、存在しなかった。
ひび割れた床は階段へと続く角のすぐ先で断絶していた。
壁も、天井も、壮絶な衝撃を物語る断裂を残して、途切れていた。

「まさか……渡り廊下ごと崩した、ってのか……」

途切れた廊下の手前側に倒れ伏す黒い巨躯が、それを成し遂げたのだと思い至って、浩之は我に返る。
一も二もなく駆け出した。

「柳川さん……!」

断絶した西校舎から散発的に飛ぶ光線を、弾幕を展開して沈黙させる。
途方もない重量の身体をどうにか引きずって、階段の踊り場へと退避させる浩之。
いつの間に逃げ込んだものか、高槻は彰を背負ったまま、既に踊り場に佇んでいた。
それをいぶかしむ余裕もあればこそ、浩之は柳川の巨大な頭部を抱え込んで、必死に声をかける。

「柳川さん、しっかりしろ! おい! 目を開けてくれ!」

叫びが届いたか、柳川の瞼が片方だけうっすらと開き、真紅の瞳に浩之の姿を映した。
何事かを言おうとして口を開き、果たせずに荒い吐息だけが漏れる。

「いい、喋るな……!」

首を振る浩之。
だがそのとき、抱きかかえた柳川の重みが、ふと掻き消えたように感じられた。
愕然とする浩之の眼前で、柳川の黒い巨躯が、その姿を変えていく。
瞬く間に、柳川は人の姿に戻っていた。血に塗れた痩身が、床に倒れている。

「どう、して……」
「……心配、するな……、浩之……」

呆然と呟いた浩之の耳に、苦しげな吐息交じりの声が聞こえた。
それが人の姿に戻った柳川のものだと気づくまで、一瞬の間を要した。

「や、柳川、さん……」
「そんな……顔を、するな……」

言って、口の端を上げようとする柳川。
だがすぐに身を丸め、咳き込んでしまう。
吐き出した痰に、血が混じっていた。

「……鬼を、保つ力が……残っていない、だけだ……」

しばらく息を整えてから、柳川が静かに言った。

「時間さえ経てば……傷は、癒える……こう見えても、我が一族は、しぶとくてな……」
「そっか……はは、柳川さんがタフだってのは……俺も、よく知ってる……」

苦しげに顔をゆがめながら言う柳川に、浩之は無理に笑ってみせる。
叫び出したい内心を必死に堪えて、言葉を紡いだ。

「だから……今はゆっくり休んでくれ、な……?」
「……い、や」

ぐ、と身体に力を込めようとして、柳川が崩れ落ちた。
慌てて抱きかかえる浩之。

「おい! 何やってんだよ、あんた!」
「浩之は……俺が、守ると、言ったろう……」
「な……!」
「あと、一息だ……ここさえ、抜ければ……」
「バ……、」

堪えきれなかった。
内心の嵐が形を成すように、言葉が溢れた。

「バカ野郎! そんな身体で何言ってんだよ! いくら柳川さんだって本当に死んじまうぞ!」
「ひろ、ゆき……」

浩之は、抱きかかえている柳川の身体に目をやる。
傷の治りかけていた背中は、無理な運動に薄皮が破れ、血を流している。
そして身体の前面は重傷を通り越して、見たままを言うならば、生きているのが不思議なくらいだった。
胸から腹にかけて至るところが焼け爛れ、水脹れが破れて血とリンパ液の混じった膿がじくじくと溢れている。
端正な顔には、片目を縦断する大きな傷が走っている。腕や足にも、無数の火傷があった。

「それ、でも……俺は……、お前を……」
「まだわかんねえのかッ!」

叫ぶ。
心の底からの悲痛な声に、柳川が言葉を止めた。

「今度は……、今度は俺が、あんたを守る番なんだよ……!
 そんくらいわかってくれよ、なあ……」
「浩之……」

それでも何事かを言い募ろうとした柳川だったが、口を閉ざすと、そっと微笑んだ。

「……ならば、頼む」
「ああ。……ああ、まかせとけ」

そのまま、柳川の身体から力が抜けた。
動転しかけた浩之が、すぐに聞こえてきた規則正しい呼吸に安堵する。
どうやら気を失ったようだった。

「……まかせとけ」

もう一度呟いて、柳川の身体を両腕でそっとかき抱き、立ち上がる。
階段の下の様子を窺うが、夕霧の気配はない。
どうやら職員玄関を抜けることはできそうだった。
しかし、問題はその先だった。
職員玄関から裏門までの、十数メートル。
ほんの僅かな距離が、今は果てしなく遠く感じられた。
そこには、先ほど柳川が廊下ごと落とした夕霧の群れが、確実に存在する。
そしてまた、断絶した西校舎の二階からも、裏門を抜けようとする自分たちは格好の的だった。
渡り廊下の崩落で、中庭の大群にも気づかれたと考えるのが妥当だった。
それだけでも状況は最悪に近いというのに、それを正真正銘の最悪へと叩き落すとどめの一撃が、
浩之の腕の中にあった。
前衛となるべき柳川は、いまや完全に無力だった。
更に悪いことには、浩之の鳳翼天翔は、両腕が自由にならなければ放てない。
防御と攻撃、両方の手段が失われていた。

周囲は敵に完全包囲され、集中砲火を浴びることが確実な状況で、盾も矛もなく、十数メートルを
駆け抜けなければならない。
そう考えて、浩之は思わず苦笑を漏らす。

「鳳凰星座は逆境に真価を発揮する、ってか……マジで、頼むぜ」

頼りは聖衣の防御力だけだった。
炎を操る鳳凰星座、熱に強いのが唯一の救いと言えた。
呟いてから、浩之は傍らに目を移す。
まるで存在していないかのように、無言で立ちつくす男の姿があった。

「とんだことになっちまったな。お互い怪我人抱いて走ることになりそうだ」
「……俺のことは、気にしなくていい」

陰気な声が、踊り場に染み込むように響いた。

「そう言ってくれると助かる。
 景気のいいことを言っといてすまねーが、どうもあんたたちまで庇いきれそうにはねえ」
「構わない。……俺たちは、大丈夫だ」

無口を貫いてきた男の、その奇妙に迷いのない断言に違和感を覚えたが、浩之はひとまず疑問を胸にしまい込む。
実際、彼はここまでの道のりもいつの間にか潜り抜けてきていた。
それが強運によるものなのか、何らかの能力によるものなのかは定かでなかったが、
今はそれを考えている場合ではなかった。
大丈夫だというのなら、それでいい。

「なら……行くぜ」
「……」

無言で見返してくる視線に一つ頷いて、浩之が階段へと踏み出す。
高槻もまた、後に続いた。
中庭から狙撃される可能性のある踊り場の窓を、身を伏せてやりすごす。
折り返しの階段を、一気に駆け下りた。
一階は奇妙に静まり返っていた。これ幸いと、階段脇の職員玄関を飛び出す。
扉を蹴り開けた先、正面に位置する中庭をちらりと見やる浩之。
噴水が、花壇が、ベンチが、植えられた桜の樹が、砧夕霧で埋め尽くされていた。
まるで隙間を作ることが罪悪であるかのように、ぎっしりと詰め込まれた、それは歪んだオブジェのようだった。
虚ろな笑みを浮かべる人型のタイルを貼り付けた、悪夢のオブジェ。
正視すれば叫び出してしまいそうで、浩之はそれを視界から外す。
その内のいくつかが、きらきらと輝く眼鏡と額を、こちらに向けていた。
胸にしっかりと抱きかかえた柳川の重みを感じながら、浩之は中庭に背を向ける。

一歩目を踏み出した瞬間、背中に異様な感触が走っていた。
ひどく熱いような、それでいてどこか冷たいような、息の詰まる感覚。
それが激痛だとようやく理解して、浩之は噛み締めた歯の隙間から声を漏らした。

「が……ぁ……!」

足は止めない。
振り返ることもしない。
ただ耐えて、長い十数メートルの、次の一歩を踏み出した。
第ニ波が、直撃する。

「―――ぁぁ……ッ!」

背中に当てられた五寸釘を、力ずくで捻じ込まれるような感覚。
身を捩りかけて、堪えた。
どうにか前傾姿勢を維持するその背に、更なる衝撃が走った。
後方からではない。上からか、と思う。
西校舎二階、そして三階。
渡り廊下が失われ、ぽっかりと校舎に開いた穴から、射線が開いていた。
足を、踏み出す。三歩、四歩、五歩。

「ぐ……おぉ……!」

幾度めかの直撃に、意識を持っていかれそうになる。
白一色に染まりかけた視界を、小さく首を振って引き戻す。
胸の中の、柳川の体温が、浩之の意識を押し止めていた。

一歩、また一歩と、校門が近づいてくる。
その先は、細い林道に続いていた。
遮蔽物の多い林に逃げ込むことができれば、やりすごせる可能性は格段に高くなる。
だが、それはどこか、手を伸ばしても届かない蜃気楼の如く儚い目標のように、思えた。

(遠すぎる、だろ……)

駆け出してから、ほんの数秒のはずだった。
思い出せないほど遠い昔のように、感じられた。
駆け抜けるまで、ほんの数歩のはずだった。
決して叶わぬ夢物語のように、思えた。

一歩を踏み出す。
それすらも、惰性のようだった。
次の一歩を踏み出す。
背中からの衝撃に、押し出されただけのようだった。

意識が、遠のいていく。

(ここ……までか……)

その瞬間。
浩之は、自身の背に新しい熱を感じていた。
衝撃はなかった。
光線による暴力的な灼熱ではなく、どこか心を和ませるような、柔らかな温もり。

「―――」

それが、陽光だと。
雲間からついに顔を覗かせた日輪の、遮るもののない原初の温もりだと理解した刹那。
浩之は、真の絶望を覚えていた。

耐えられるわけがなかった。
分厚い雲に遮られた光ですら、あの衝撃なのだ。
死への恐怖よりも、苦痛への忌避が、浩之の心を侵していた。

足が、止まった。
柳川を抱いたまま、その場にくずおれる。
抱きしめたその身体が、ぼやけた視界に映る。
ごめんと呟いた、その唇が震えた。
訪れる死を、待っていた。

「―――?」

ひどく長く感じられるその時間が、実際に相当な間を置いているのだと、浩之は気づいた。
高鳴る心臓が数度、数十度の鼓動を刻んでも、死の閃光は見舞われなかった。
そっと、後ろを振り向く。

それは、実に奇妙な光景だった。
中庭を埋め尽くしていた砧夕霧の、そのすべての笑みが、ただ一つの方へと向けられていた。
自分を狙っていたはずの至近の夕霧、更には校舎の上にいる夕霧たちまでもが、一点を見つめている。
静かに風が吹き抜ける、その視線の先には、校門があった。
そこに、誰かが立っているように、浩之には見えた。
小さなその人影を見定めようと目を凝らす浩之の傍らに、音もなく近づく影があった。

「……!」

高槻だった。
どこをどう逃げたものか、或いは今まで物陰にでも隠れていたものか、その身体には傷ひとつない。
背負った彰にも、変わった様子はなかった。

「……」

無言で見下ろすその視線に、浩之は我に返る。
何が起こっているにせよ、今が千載一遇の好機だった。
立ち上がり、走り出す。
あれほど遠く思えた裏門は、ほんのすぐそこだった。あっさりとそれを乗り越える。
追撃すら、なかった。
振り返れば、夕霧たちはやはりただ一点を見つめたまま、動かない。
校門の人影はどこか見覚えのあるシルエットのような気がしたが、それもすぐに見えなくなった。
林道に入ったのだった。
頭の片隅に残る疑問符を振り払って、浩之は足に力を込める。

(そうだ、今は―――)

一刻も早く、ここを離脱する。
それだけを考えるべきだった。




【時間:2日目午前10時30分過ぎ】
【場所:D−6 鎌石小中学校北・林道】

藤田浩之
 【所持品:鳳凰星座の聖衣・柳川】
 【状態:鳳凰星座の青銅聖闘士・重傷】

柳川祐也
 【所持品:俺の大切なタカユキ】
 【状態:鬼(最後はどうか、幸せな記憶を)・重態・気絶中】

高槻
 【所持品:支給品一式】
 【状態:彰の騎士?】

七瀬彰
 【所持品:アイスピック】
 【状態:気絶・右腕化膿・発熱】

砧夕霧
 【残り27117(到達0)】
 【状態:電波】
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