僅か半日とはいえ、強固な信頼関係を結んだはずなのにその絆は脆かった。 長森瑞佳は豹変した月島拓也を前に呆然としていた。 瑠璃子に対する愛情は聞いていたが、正邪をひっくり返すほどのものだったとは。 (もう駄目。月島さんは狂ってしまった) 宵闇の中、それぞれの姿はもうほとんど見えない。 かろうじて影がわかる程度である。 ナイフを手に襲いかかる拓也と、かわしながら石を武器に反撃を試みる水瀬名雪。 体力からして名雪が力尽きるのは時間の問題であった。 名雪が殺されれば次は自分の番なのだ。 手探りで手ごろな石を拾い呼吸を整える。 過去二回命拾いしただけに、気持ちの切り替えは早かった。 (やっぱりわたしには月島さんを殺すなんて……でも、どうしたらいいの) そのうちに「キャッ」という短い悲鳴とともに、名雪が転倒したのがわかった。 「このぉっ、分際を思い知らせてやる!」 「おにいちゃん、やめて!」 瑞佳が悲鳴を上げた直後、一条の照明が絡み合う二人を闇の中から浮かび上がらせた。 「ううっ、誰だ。眩しい」 照明の中心は確実に拓也の目に向けられる。 「女の子を放しなさい」 「はっ、その声……」 「そこの不良少年、聞こえませんか? 放しなさいと言ってるんです!」 押し殺したような女性の声。 次の瞬間、一発の銃声が響いた。 「う、撃つな! 放すからっ」 「お母さん! お母さんだね」 名雪は拓也を突き飛ばすと声の主へと駆け寄る。 そこには左手に懐中電灯を、右手にジェリコ941を手にした水瀬秋子の姿があった。 「よくぞ生きていてくれました。会いたかったわ……名雪」 「私何回も殺されそうになったんだよ。怖かったよ。命からがらずっと逃げ回っていたんだよ」 「名雪、持ってなさい」 秋子は感慨に耽ることもなく、名雪に懐中電灯を渡すと銃口を向けたまま歩み寄る。 「おばさん、待ってください。僕の話を聞いてください……くっ、だめだ」 相手が名雪の親だけに言い訳は通用しない。 毒電波を用いたが秋子にはまったく効かなかった。 「ナイフを渡してもらいましょうか。もう威嚇用に弾は使いたくないので警告はしません」 秋子は笑みを浮かべたまま、しかし冷ややかな声で話しかける。 座り込んだまま拓也は仕方なく八徳ナイフを放り投げた。 「うぐっ」 次の瞬間、拓也は蹴倒され地べたに転がっていた。 「両手を伸ばしなさい」 「するから……赦してください! ゴホッ」 「光陰矢のごとしというでしょ。命乞いなんて聞いてたら、おばあさんになってしまいますよっと」 「うあっ、あぁぁぁぁぁぁっっ!」 右の掌にナイフが深々と刺さっていた。 「まったくもう、悪い子ですね。名雪が受けた苦しみをたっぷりと味あわせてあげましょう」 「あぁぁぁぁぁぁっっ! やめてくれぇ! 許してくれぇ!」 秋子はナイフを抜くとすかさず左の掌を貫通させた。 名倉有里の時と同様、苦痛を味あわせた上で殺すつもりである。 「男の子だから……そうだわ、クルミ割りをやってみましょうね、ウフフフ」 足先で拓也を仰向けに転がすと楽しむように股間を踏みつける。 ──つま先が睾丸を捉えていた。 「おばさん! 頼むからやめ……ぎゃああああああっ!」 危うく潰れかけたところを拓也は渾身の力を振り絞り、身をよじって逃れた。 瑞佳は名雪の力を借りるべく彼女を見た。 よくはわからないが名雪は楽しむようにニタニタと笑っているようだ。 (ああ、名雪さんまで狂ってる!) 思いつめた末、秋子の前に走り出る。 「お願いです。どうか──」 言い終わるよりも早く銃口が額に突きつけられていた。 「名雪、この方は?」 「長森瑞佳さん。私を助けてくれた恩人なの」 「これは娘がたいそうお世話になりました。ありがとうございます」 秋子は瑞佳の瞳をじっと見つめた。 悪企みとは無縁の純粋な心の持ち主の少女ということは聞かずとも解った。 「そこの極悪人、月島さんの従妹だそうだよ」 「えっ、いとこ?」 眼下の二人の関係が名雪と相沢祐一のことと重なり、戸惑いを覚える秋子。 瑞佳は俯き跪いた。 真面目なことで嘘をついたことがないため、嘘を通そうものなら顔に出てしまう。 名雪には義理の妹といってあるが、本当のことは伝えてない。 初めてながら真剣勝負の演技をするしかなかった。 顔が強張り背中を冷たいものが流れ落ちる。 「は、はい。そうなんです。どうか拓也おにいちゃんを赦してあげてください」 「何いってんの? 私達殺されそうになったんだよ。今殺さないでどうするの?」 「瑞佳ちゃん、これはどういうことなの?」 「おにいちゃん、放送でいってた優勝したら何でも願いを叶えるということを聞いておかしくなったんです」 つい先ほど前までは自分と名雪のためにかいがいしく面倒を見てくれた。 話せるところは正直に話して拓也を赦してもらうのが瑞佳の考えであった。 もちろん赦してもらったところで拓也が悔悛する見込みは殆どない。 境遇が折原浩平と似ていることから、拓也をなんとか助けたい──それが瑞佳の切実な願いであった。 「あなたには悪いけど、拓也さんには死んでいただかなければなりません」 しばし考えた末、秋子はきっぱりと言った。 「わたしが命をかけて説得しますから、もう一度おにいちゃんに悔い改める機会を与えてください」 「長森さん、そんなことしてたら命がいくつあっても足りないよ」 「名雪さんのお母さん、どうか命だけは助けてあげてください。お願いします」 瑞佳は引き下がらず懇願する。 「さてどうしましょ。ねえ、名雪」 目の前の少女の身内を処刑するとあって、秋子はどうしたらよいものか名雪を振り返る。 薄明かりに浮かぶ名雪は、一寸の迷いもく首を横に振った。 「おにいちゃん、あなたからもお願いしなさいよっ!」 拓也の胸倉を掴むな否や瑞佳は平手打ちをした。 「……瑞佳」 「ほうら、水瀬さんに謝るんだよ! 早くするんだよっ!」 夜の闇に乾いた音が何度も響く。 「……ごめんなさい。心を入れ替えますから、どうか赦してください」 拓也は痛みを堪えながら起き上がると、土下座して赦しを乞うた。 彼自身どこまでが本気がわからないが、この機会を逃すと助からないと判断したのである。 「わかりました。今回は瑞佳ちゃんに免じて赦してあげましょう」 必死の願いに秋子はついに折れた。 「おかあさん! 駄目だってば。月島さんは猫かぶってるんだよっ」 「私と名雪はここに来る途中にあったお寺に泊まります。瑞佳ちゃんもいらっしゃい」 「わたしは……もう暫くここにいます。おにいちゃんと話をした上で参ります」 「長森さん、あなた殺されるわよ」 「お気遣いありがとう。わたし頑張るから」 「馬鹿だよ、こんな極悪人を助けるなんて。私、あなたといっしょにいたかったのに……」 名雪は瑞佳をひしと抱き締め涙を流した。 「また会えるよ、きっと」 秋子は名雪の肩を借りながら闇の中へと消えて行った。 八徳ナイフとトカレフの弾倉は没収されてしまった。 「怪我、大丈夫? 止血しなきゃ」 デイパックから懐中電灯を取り出し、灯りを点ける瑞佳。 胸のリボンと右手に巻いていたリボンをほどき、拓也の両手に巻きつける。 「赦してもらってよかったね。しばらく手を上げてると血が止まるよ」 労いの言葉をかけた途端、左の頬に強烈な痛みが走る。 「ありがとよ、馬鹿な『妹』め。お前のお人よしには反吐が出るぜ」 言うなりまた殴りつけ、瑞佳をアスファルトに叩きつける。 怪我のためいくらか力は弱いが、それでも本気で殴られたため瑞佳は一溜まりもなかった。 「ねえ、もし願いをかなえてもらったとしても……あの兎が日常に帰してくれると思うの?」 「どういうことだ?」 「お約束の展開なんだよ。悪い人に何かのことで利用された挙句、最後は殺されてしまうんだよ。無事に帰してはくれないんだよ」 「そんな! ……でも、僕には瑠璃子が必要なんだっ」 「瑠璃子さんには及ばないけど、わたしじゃ駄目かな? わたしが付いていてあげるから……おにいちゃん」 瑞佳は肩で息をしながら悲しい眼差しで見つめる。 三発目を下そうとしたが、拓也は何を思ったかそれ以上はせず、鼻をすすりながら闇の中へと去って行った。 すべては徒労に終わった。 薄れ行く意識の中で瑞佳は命懸けの努力が水泡に帰したことを悟った。 (住井君、会えたらいいね。わたしももうすぐいくから待っててね) 夕方の放送で住井護の死を聞くも、悲しみを堪え名雪を励ますことに全力を尽くした。 ある意味、浩平よりも自分のことを大事にしてくれた住井。 彼に会えるならば、狼だろうがまーりゃんが現れようが怖くはない。 本来なら山の中で芳野祐介と運命を共にするはずだったのが、少しだけ遅れただけのこと。 心残りといえば、浩平に会えることなくこの世を去ろうとしていることだ。 (浩平、会いたかったよ。ぎゅってしてもらいたかった。どうか無事でいて……) 意識が途切れかかった途端、誰かに体が抱き起こされた。 「ごめんよ、瑞佳。僕が悪かった」 何があったか知らないが拓也は戻ってきた。 「おにいちゃん、わかってくれたんだね。ありがとう」 「瑞佳の優しさを、温かさを、愛を、僕はずっと感じていたいんだ。どうか死なないでおくれ」 地面に置いた灯りに涙を流す拓也の顔が照らし出される。 「もう大袈裟なんだから……恥ずかしいこといって──」 そこまで言いかけて唇が塞がれた。 軽いキスの後拓也は囁く。 「瑞佳とならこの苦境を乗り越えることができるような気がする。どうか僕のために生きてくれ」 再び唇を求められ、口腔を蹂躙されながら瑞佳はどこか安堵感に浸っていた。 (よかった。月島さんはまだわたしを必要としてるんだ) だが次の言葉で現実に引き戻される。 「僕は寂しいんだ。寂しさを紛らわすためにも瑞佳のすべてを知りたい。だから……交わりたい」 「交わるって……どういう意味なの?」 「セックスだ。セックス! セックス! セックス! セックス! セックス! セックス!──」 「やめてぇっ!」 「ごめん。うっかり高揚してしまった。……でも、より絆を深めるためにもセックスをしたい。駄目かい?」 すがるような目つきに瑞佳は戸惑ってしまう。 「ごめんなさい。そこまでは……その、わたし、こういう体だから……後になってから考えようね」 「うん、今は一刻も早く治療をしなければな。さ、背中に乗って」 拓也は狂気に走る以前の優しい少年に戻っていた。 「手は大丈夫なの? ちゃんと握れる?」 「まだ痛むけど、手当てしてくれたからどうにか使えるよ。それよりも具合はどうかい? 苦しかったら少し休むけど」 「わたしのことを大切に想ってくれるのが何よりも励みになるよ」 先ほどの悪夢を乗り越えるかのように互いを気遣う少年と少女。 雨降って地固まるとはこのようなものであろうか。 瑞佳は揺られながら希望を胸に眠りに落ちて行った。 【時間:二日目・19:40】 【場所:D-8街道】 月島拓也 【持ち物:支給品一式(食料及び水は空)】 【状態:両手に貫通創(止血済み)、睾丸捻挫、背中に軽い痛み。疲労】 【目的:瑞佳の治療のため鎌石村へ】 長森瑞佳 【持ち物:ボウガンの矢一本、支給品一式(食料及び水は空)】 【状態:睡眠中。重傷、出血多量(止血済み)、衰弱】 【時間:二日目・19:40】 【場所:E-8上部街道】 水瀬秋子 【持ち物1:ジェリコ941(残弾9/14)、澪のスケッチブック、支給品一式】 【持ち物2:八徳ナイフ、トカレフTT30の弾倉】 【状態:腹部重症(傷口は開いている)、出血大量、疲労大。マーダーには容赦しない】 【目的:休養のため名雪を連れて無学寺へ】 水瀬名雪 【持ち物:なし】 【状態:疲労、マーダーへの強い憎悪】 - BACK