満足




「はっ……はっ……」
長瀬祐介は走っていた。体力がある方では無いのに、身体を酷使して走り続けていた。
何故祐介がここまで焦っているのか――それは、第三回放送を聞いたからだ。
悪夢のような放送で、柏木一家の名前が一気に告げられてしまった。ただ一人、初音を除いて。
全てを失った初音がどうするか――考えるまでも無い。
自分の身の危険など顧みず、悲劇の元凶となった有紀寧を倒そうとするだろう。
しかしあの恐ろしい有紀寧に初音が勝てるとは露ほどにも思えない。
有紀寧と初音が戦えば、確実に初音は殺されてしまう。一刻も早く、初音を見つけて保護しなければならない。
(初音ちゃん……どうか早まった真似はしないでくれっ……!)
祐介は駆けた。氷村川の中を、ただひたすら駆け回り続けた。
  
   *     *     *

倉田佐祐理、七瀬留美。二人の背筋を、冷たい汗が伝い落ちてゆく。
眼前には勝ち誇ったような笑みを浮かべる宮沢有紀寧。そして有紀寧に銃を突き付けられている、藤井冬弥の姿があった。
「では武器を――そうですね……鞄に入れて、こちらに投げてもらえますか?」
その声は弾むように、愉しげに――有紀寧が武装解除を要求してくる。
装備を手放せばこの後どうなるか、火を見るより明らかなように思えたが、それでも冬弥を見捨てる事など出来ない。
留美は手に持っていたS&W M1076を、佐祐理は握り締めていた投げナイフを、指示通り鞄に仕舞った。
「素直で助かります。さ、早くその鞄をこちらに……」
「駄目だ! そんな事をしたら、全員殺されるっ!」
有紀寧の言葉を、冬弥の懸命な叫び声が遮る。
(――余計な事を!)
有紀寧は不愉快気に表情を歪めた後、銃口をゴリゴリと冬弥の後頭部に押し付けた。
「自分の置かれている状況を、理解していらっしゃらないようですね。余り余計な事ばかり言っていると、つい撃っちゃうかもしれませんよ?」
「そうよ……悔しいけど藤井さん、ここは有紀寧の言う通りにして!」
冬弥の仲間である留美ですら、有紀寧の弁護をしていた。にも関わらず、冬弥は―ー
「……撃ちたきゃ撃てよ」
「藤井さんっ!?」
留美の目が見開かれる。冬弥は大きく息を吸い込んで、それから叫んだ。
「俺は守りたい人を守れないなんてもう嫌だ! 留美ちゃん、俺に構わず逃げてくれっ!」
「――――ッ!」
留美の身体がピクンと硬直する。本当は冬弥の言い分の方が正しいのは、留美にも分かっていた
ここで有紀寧に従った所で、全員殺されるだけだ。それより犠牲を一人で抑える方が、何倍もマシというものだろう。

一方で有紀寧は、相変わらず冷静を保ったままに思考を働かせ、思った。
(『俺に構わず逃げろ』……馬鹿ですか? 死んだら何にもならないし、本当に捨て身の覚悟なら、私を倒させようとするべきじゃないですか)
捨て身で、冬弥を犠牲にして戦えば、恐らく留美達は有紀寧を倒せるだろう。
だが冬弥達は全員が全員、この極限状態の最中で正常な判断を下せる余裕が無い。
そう考えた有紀寧は、素早く選択を投げ掛けた。
「――だそうですが、どうします? この方を犠牲にして逃げ延びるか、武器を渡すか、お選びください」
有紀寧としては、ここで三人全員始末しておきたかった。
それでは何故、冬弥を見捨てて逃げるという方法を、敢えて自分から提示したのか。理由は簡単だ。
留美達の思考を、冬弥を見捨てるか、武器を手放すかの二つに絞らせる為だ。
下手に他の事を考えさせて、真の正解である有紀寧の打倒という結論に思い至られては堪らない。
(さて、どう出ますかね――?)
暫しの間続く沈黙、それは留美の呟いた一言によって破り去られる。
「……駄目よ」
「留美ちゃんっ!?」
冬弥が驚きの声を上げるが、それを無視して、留美は張り裂けんばかりに叫んだ。
「折角藤井さんとまた会えたのに……分かり合えたのに……そんなのってないよ!」
「留美ちゃん……」
留美の大きな瞳には涙が滲んでおり、その肩は震えている。
有紀寧は最高の戦果が得られる事を確信し、唇の両端をぴんと持ち上げた。
「鞄なら渡すわ! だから藤井さんは……藤井さんだけは、助けてあげてっ!」
「良いでしょう。では今度こそ鞄をこちらに投げてください」
留美と佐祐理が、緊張した面持ちで、しかしはっきりと頷き合う。

彼女達が鞄を投げようとした、その時だった。
一つの感情に支配された少女の足音が、近付いてきたのは。
「……やっと見つけたよ」
かつて有紀寧の傀儡として、良いように利用され続けてきた少女――柏木初音が駆けつけてきたのは。
この場にいる全員が目を丸くして初音を見ていたが、すぐに有紀寧だけは事情を把握した。
「放送――聞いたよ。耕一お兄ちゃんも、千鶴お姉ちゃんも、梓お姉ちゃんも、皆死んじゃった」
底冷えするような声で、初音が言葉を紡ぐ。何の事は無い――初音は、復讐しにきたのだ。
しかし初音の性格を一から十まで把握している有紀寧は、余裕の笑みで応えた。
「ご愁傷様です。ですがそれ以上近付かない方がいいですよ……あまり近寄られると、この方が死ぬ事になりますから。
 初音さんが人の命を見捨てる事が出来ないお人好しだという事は、分かっていますよ?」
それは絶対の自信を持った推論。あの初音が見ず知らずの人間とはいえ、人の命を犠牲にするとは思えなかった。
しかし初音は一瞬きょとんとした表情を浮かべた後、腹を抑えて笑い始めた。
「あは……あはは……あはははははっ…………!」
「……?」
何が可笑しいのか全く理解できず、訝しげな表情を浮かべる有紀寧。
初音の笑い声は何故かとても不気味な物に感じられて、この場にいる誰もが、愕然としていた。
笑い声がピタリと止んで――初音は、物の怪のようなおぞましい眼つきで睨みつけた後、言った。
「馬鹿だね、有紀寧お姉ちゃん。全てを失った私が――そんな事で止まる訳ないじゃないっ!」
「――――なっ!?」
初音は鋸を右手で強く握り締めると、地面を蹴って、一直線に有紀寧の方へと疾走した。
その俊敏な動作には、何の迷いも有りはしない。

「血迷いましたかっ!」
有紀寧は素早くコルトバイソンの銃口を向け、その瞬間にはもう引き金を引いていた。
照準を碌に定めなかった銃弾は、狙った場所とは着弾点のズレが生じ、初音の左腕を貫いていた。
左肘の半分が消失し、そこから下の腕はだらりと垂れ下がるだけとなっていたが――初音は止まらなかった。
「アアアアアァァァッ!」
咆哮を上げて、夥しい血を噴き出す左腕を意にも介さず、初音が斬り掛かる。
有紀寧はその一撃を、後ろに飛び退く事で何とかやり過ごした。
(……ここまでですね)
幸い初音と自分以外の三人は状況の変化についていけず、呆然としてしまっているようだが、それもほんの数秒しか保たぬだろう。
このままこの場に留まれば、四人の集中攻撃を受けて死ぬだけだ。
有紀寧はすぐに踵を返して、留美達とは正反対の方向へと駆け出した。
「逃がすもんかぁ!」
鬼気迫る形相でそう叫ぶと、すぐに初音も有紀寧の背中を追って走り始めた。
(く……まさか、こんな事になるなんて……!)
有紀寧は初めて自分が死の危機に瀕している事を悟り、脳がじじりと焼け付くような感覚を覚えた。
足音から判断するに、今の所追って来ているのは初音だけだが、他の三人が追撃を選択しない保障は何処にも無い。
リサはいつ戻ってくるか、分からない。自分一人で……この絶望的な死地を凌がなければならないのだ。
(こんな所で死ぬ訳にはいきません……。策を――戦局を覆す策を、考えなければ……)
まずは地の利を取らなければならない。
過剰なまでに保身を優先する有紀寧は、自分の留まる家の構造――とりわけ逃げ道に関しては、特に注意深く調べている。
正面勝負では勝ち目が無い以上、それを利用するしかない。
この付近で構造を熟知している民家は一つ。祐介捜索の名目で初音を切り離した、あの家だ。
あそこに逃げ込んで、まずは玄関の鍵を閉める。
初音はすぐに回り込んで、窓を割って中に侵入してくるだろうが、二ー三十秒は時間を稼げる筈だ。
その間に――

   *     *     *

地面に膝を付いたまま、走り去る有紀寧達の背中を呆然と見送る冬弥。
急展開の連続で思考が付いていかなかったが、とにかく助かったのだ。
冬弥はすくっと立ち上がって、留美と佐祐理の方へ振り向いた。
「よく分からないけど、今がチャンスだ。留美ちゃん、それから……倉田さん、で合ってるかな。早くこの場を離れよう」
柳川が足止めをしてるとは言え、余り長居をすると、リサ・ヴィクセンが舞い戻ってくるかも知れない。
人数こそ勝っているが、アサルトライフルを持つリサを相手にすれば、全滅は避けられないだろう。
ここは深追いせずに、柳川の指示に従って逃亡に徹するのが最良だ。
それなのに――留美が俯いたまま、ゆっくりと呟いた。
「……待って。あの子、長瀬さんの言ってた初音ちゃんだよね。今私達が逃げたら、あの子絶対殺されちゃうと思う……」
見た所有紀寧は飛び抜けた戦闘能力は持っていないようだが、銃を持っているし、何よりも様々な謀略を駆使する。
初音一人では、勝ち目が無いのは明らかだった。
留美はバッと顔を上げて、それから強い調子で言った。
「私、人が殺されるのを黙って見過ごすなんて嫌だよ……助けに行こう! それに今ならきっと、有紀寧を倒せるわよ」
確かに留美の言い分にも一理ある。危険は伴うが、今は有紀寧を倒す絶好の好機でもあるのだ。
どちらを選ぶにせよ、時間的な余裕は全く無い。冬弥はすぐに思考を纏め、口を開いた。
「……分かった。留美ちゃんが望むのなら、手伝うよ」
留美は真剣な表情で頷いた後、視線を佐祐理に向けた。
「佐祐理も良い? 怪我は大丈夫……?」
「はい、佐祐理も行きます。柳川さんに守られているだけでは、私何の為にいるか分からなくなりますから」
肩の怪我の影響か顔色が優れない佐祐理だったが、それでもはっきりと頷いた。
三人はもう一度頷き合い、そして有紀寧が走り去った方向へと駆け出した。



「くそっ……何処に行った……!」
冬弥が苛立ちを隠せない様子で毒づく。
有紀寧と初音が走り去ってから、冬弥達が追跡に移るまで、時間にすれば三十秒にも満たない。
しかし陽が落ちてしまい、すっかり見通しが悪くなった視界では、二人の姿を捉えるのは叶わなかった。
ただがむしゃらに民家の密集地帯を走り回る三人。
たまに聞こえてくるのは、柳川とリサが戦いによるものであろう銃声のみ。
もう有紀寧と初音は別の場所に行ってしまったのかも知れない――そう思い始めた矢先。
「……っ!?」
ガラスか何かが割れたのだろう、派手な音がすぐ近くの民家から聞こえてきた。
「あっちよ!」
留美達は一目散に、その音の出所に向かって、夜の静寂をかき乱す足音で疾走した。
古ぼけた和風の民家を囲む背の高い塀を避けて、正面の門へと駆け込む。
玄関に辿り着いた冬弥が力一杯、扉を開こうとするがビクともしなかった。
「駄目だ、閉まってる!」
一目見た所、この家の玄関を塞ぐ扉は頑丈な作りであるようだった。
三人は早々に正面からの侵入を諦め、裏庭へ回り込んだ。
そこで、留美達はさっき聞こえた音の正体を知った。庭に面した大きな窓が、粉々に割れていたのだ。
十分過ぎる程の大きさである穴が開いていたので、そこを通って民家の中へと入り込む。
入る瞬間に外の方から一際大きな爆音と閃光が発されていたが、三人はそれを無視した。
「……暗いですね」
家の中は薄暗く、視界が非常に悪いので、佐祐理が懐中電灯に火を灯そうとする。
しかし留美が無言のままに手を伸ばして、佐祐理の行動を制止した。
懐中電灯などつけてしまえば、こちらの居場所を敵に教えているようなものなのだ。
懐中電灯を鞄へ戻した後、三人は息を潜めて周囲を観察する。
微かに漂う血の臭いが、この家が決戦の地である事を顕著に表していた。


(これは……)
留美に肩を叩かれ、冬弥が彼女の視線を追うと、床に丸い赤の斑点――怪我を負っていた初音のものであろう血が零れていた。
三人が血の道標に従って、抜き足差し足で廊下を進むと、すぐに個室の扉の前に辿り着いた。
その扉の隙間から漏れている明かりが、この中に初音と有紀寧がいる確信をもたらす。
留美達はごくりと唾を飲み込んだ後、各々の武器を手に勢い良く扉を開け放った。
「――――っ!?」
和風の広間の中央部に立っていた初音が、驚いた顔でこちらに振り向く。
既に腕の傷口から多くの血を失ったのであろう――その顔色は蒼白となっており、額には大量の汗が滲んでいた。
初音は留美達の正体を確認するとすぐに顔を戻し、何かを探すようにきょろきょろと首を回し始めた。
部屋の中に初音以外の――つまり、有紀寧の姿は見当たらなかった。
冬弥が恐る恐る、初音に言葉を投げ掛ける。
「――なあ、有紀寧は何処へ行ったんだ?」
「……分かんない。でもこの部屋の方から音がしたから、何処かに隠れてると思う」
初音は冬弥に背を向けたまま、それだけを答えた。
――この部屋に隠れている?
冬弥達は部屋の中を見渡したが、あるのは開け放たれたクローゼット、小さなベッド、タンス……とても隠れる場所があるとは思えない。
しかしもし、何処かに身を潜めているとすれば、今も有紀寧はこちらの様子を――そこまで思い至った瞬間、冬弥が叫んだ。
「まずいっ、今すぐこの部屋を出るんだっ! 狙い撃ちにされるぞ!」
その一言に、留美が大きく息を飲んだ。
有紀寧は銃を持っていた――こんな所で右往左往していては、良い的になってしまう!
冬弥の言い分を全員が素直に聞き入れ、彼らは弾かれたように部屋を飛び出した。

「あの女、何処に隠れたのよ……!」
廊下まで後退した留美が、扉の向こう側にある部屋を観察しながら苛立った声で話す。
あの部屋に窓らしき物は無かった。となると、確かにあの中に有紀寧はいる筈である。
全員で部屋の中を隈無く探せば直ぐに見つかるだろうが、そんな事をすれば一人か二人は、確実に射殺されてしまうだろう。
留美が少しばかり思案を巡らした後、悔しそうに言葉を漏らした。
「……ここは退きましょう。条件が不利過ぎるわ」
逃げ道の無い部屋に有紀寧を追い詰めたこの状況は絶好の好機だったが、仲間の命には変えられない。
佐祐理と冬弥は直ぐに頷いた。しかし初音だけは、留美の提案に大きく首を振る。
「お姉ちゃん達が誰か知らないけど……私は逃げないよ。私は有紀寧お姉ちゃんを殺せれば、死んだっていいもん」
左肘から今も血を垂れ流し続けながら、掠れた声で話す初音。
自分が死んでも相手を殺す――それは、留美が理想としている道とはまるで正反対の考えだった。
「ちょっと、何を言ってるのよ! そんな……」
今にも掴みかからんばかりの勢いで留美が猛る。
そこで背後から、ガチャッと撃鉄を上げる音が聞こえた。
「あらあら……お喋りしてるなんて随分余裕ですね」
「――――ッ!?」
心臓がドクンと一際大きな鐘を打つのを感じながら、冬弥達は後ろを振り向いた。
そこには、まだ部屋に隠れている筈の宮沢有紀寧が、コルトバイソンを構えて立っていた。
銃口は――留美の方を向いている。
冬弥が半ば反射的に留美の前へ躍り出て、その瞬間にはもう有紀寧が撃っていた。
留美を貫く軌道で飛来した銃弾は、冬弥の腹部に吸い込まれてゆく。
有紀寧は冬弥の腹の辺りが赤く染まるのを見て、酷く歪んだ笑みを浮かべた。

――有紀寧の用いた作戦、それはクローゼットの中、天井部分にある屋根裏部屋への入り口を使う物だった。
開け放たれたクローゼットの中に、相手が隠れていると疑う者はいないだろう。
外から見る分には、屋根裏部屋への入り口があると気付かれる事はない。
それを利用して、わざとクローゼットの扉を開けたまま屋根裏部屋へと昇った。
続いて秘密裏且つ迅速に屋根裏を移動して、冬弥達の背後に回ったのだ。
作戦は見事的中、完全に敵の隙をつく事に成功した。
敵の中で唯一銃を持っている少女を狙い、男が身代わりとなった。
だがお人好しの多いこの島だ、そのくらいの事態は当然想定している。
男が倒れた瞬間に、後ろで呆然としているであろう銃持ちの少女を、今度こそ射抜けば良いのだ。


しかし――有紀寧はすぐに驚愕で目を見開く事となった。
「あ……ありえない……」
笑みの消えた唇から、呆然とした声が漏れ出る。
間違いなく冬弥は腹を撃たれ、顔を歪めていたが――倒れなかったのだ。
冬弥がかっと目を見開き、叫んだ。
「みんな、今だっ!!」
その一言で、止まっていた場の時間が動き出した。冬弥の横から猛然と初音が飛び出してゆく。
すぐに有紀寧は踵を返して、玄関の方へと脱兎の如く逃亡する。
遅れて留美が有紀寧の背中を狙おうとしたが、初音の身体が邪魔で引き金を引けなかった。
冬弥は鞄で自分の腹部の辺りを隠した後、留美の肩を掴んで静かに言った。
「あの初音って子には気の毒だけど……俺達は長居し過ぎた。リサが戻ってくる前に、この場を離れよう」
「確かにもう、仕方ないと思う……って藤井さん、大丈夫なのっ!?」
慌てて留美が尋ねると、冬弥は笑みを作って見せた。
「大丈夫、ちょっと血が出てるけど急所は外れてるさ。それより急ごう、時間が無い」
銃で撃たれた傷が浅い訳が無いが、この様子ならば大事には至らないだろうと、留美は思った。
冬弥は強引に留美の手を引いて、足を進め始めた。



冬弥が先頭に立って、どんどんと村の中を進んでゆく。
民家の密集地帯は見えない位置まで遠ざかり、氷川村の最上部に位置する街道が見えてきた。
「あの……藤井さん。怪我の治療をなさった方が……」
「心配してくれてありがとう、倉田さん。でももう少し先に進んでからにしよう」
冬弥は平然とした――少なくとも、薄暗い闇夜の中ではそう見える顔で、答えた。
佐祐理の肩の傷は、歩きながらも傷口の横を包帯で強く縛り付けて、止血だけは行った。
しかし冬弥は先程からこの調子で、佐祐理や留美が治療を申し出ても、一向に聞き入れようとはしない。
それからも冬弥は速度を緩める事なく足を踏み出してゆき、やがて街道を通過して薄暗い森の中へと入っていった。
「藤井さん、もう良いでしょ?怪我を……」
「まだだ。もう少し進もう」
また治療するよう留美が話し掛けたが、冬弥はまるで取り合わない。だがここまでリサが追ってくる、という事は無いだろう。
「もう、何を焦ってるの?」
留美は強引に冬弥を立ち止まらせようとその肩を掴み――途端に、冬弥の身体が崩れ落ちた。
そのままどさっという音を立てて、冬弥が背中から地面に倒れ込む。
「――藤井さんっ!?」
留美は冬弥に駆け寄り、その頭を抱き起こした。
佐祐理も留美と同様に駆け寄って、それから彼の腹に押し付けられた鞄を引き剥がす。
「ああ……あああっ…………」
佐祐理の喉の奥から、意図せずして掠れた声が絞り出された。
冬弥の服は――小さな穴を中心に、真っ赤で大きい染みを作り上げていた。
留美が慌てて冬弥の服を捲り、大きく目を見開いた。
鮮血、深い傷口、その奥底に見える赤黒い何か――どう見ても、致命傷だった。

「藤井さん……藤井さんっ! どうしてこんな酷い怪我、隠してたの!?」
留美が悲痛な声で叫んだ。冬弥が一回吐血してから口を開く。
「隠してたのは、謝るよ……。でも、ああしなきゃ……留美ちゃんは、逃げようとしてくれなかったろ?」
冬弥の怪我がどれ程の物か知れば――留美が放っておく訳が無い。危険を顧みず、その場で治療しようとしただろう。
そんな事をすれば、銃声を聞いて駆けつけたリサ・ヴィクセンに、全滅させられてしまう可能性が非常に高い。
冬弥はそれを分かっていたからこそ、痩せ我慢をしたのだ。
「いいかい、留美ちゃん」
冬弥は焦点の定まっていない目で、しかしはっきりと留美の目を見据えながら言った。
「俺が死んでも復讐しようだとか、絶対に考えないでくれ。俺は一度復讐鬼に成り下がった……だからこそ分かる。復讐なんて下らないものだよ」
留美がポロポロと大きな瞳から涙を零し、絶叫した。
「死んだらなんて、縁起の悪い事言わないでよ! 死ぬなんて駄目、絶対駄目よっ!」
「……留美ちゃんだって、分かるだろ?俺の怪我は……、もうどうしようもないって……」
ごほっと一際大きな堰をして、冬弥が大量の血を吐き出した。
「藤井さんっ! 嫌ぁぁっ!」
静かな森に泣き声はよく響いたが、留美は構わず泣き喚いていた。
「泣かないでくれ……、留美ちゃん……。俺は、満足してるんだからさ……」
「…………え?」
留美の涙で滲んだ視界の中で――冬弥は笑った。苦しそうに、それでも笑っていた。
「理奈ちゃんも……はるかも……由綺も……まもれなかったけど……最後に……君を、守れた……」
「わた……し……?」
「ああ。るみちゃんを……かばって、死ねるなら……本望……さ……」
その言葉を聞いて、留美の瞳から一層強い勢いで涙が溢れ出し、ぽたぽたと冬弥の顔に零れ落ちた。

「……なあ、留美、ちゃん」
今にも消え入りそうな声で、冬弥が言葉を押し出した。
「……さっきの俺、格好良かった、かな?……あの世で、由綺に……かおを、合わせられるくらい、男らしかった、かな……?」
留美はごしごしと服の袖で涙を拭き取り、冬弥に口付けをした――血の味だった。
それから大きく息を吸い込んで、叫んだ。
「あったりまえじゃない!! 藤井さんは本当に……胸が締め付けられるくらい格好良かったわよ!」
冬弥は目をとじて、ニコッと微笑んだ。
「……よかった」
それが最後の言葉だった。冬弥の唇からはもう、何の言葉も発されなかった。
「――藤井さん?」
冬弥の身体を大きく揺すったが、その身体はぴくりとも動かない。
留美は冬弥の身体に覆いかぶさって、声にならぬ嗚咽を上げ続けた。


――藤井冬弥がこの島で成した事は決して多くない。
元の生活での知り合いは、誰一人として救えなかった。
唯一生きたまま出会った弥生も、冬弥と弥生、双方の裏切り行為という最悪の形で決別してしまった。
コインの出目などというものに身を委ね、罪の無い者を何人も殺してしまった。
それでも、最後に決めた目標……留美を守るという事。
それだけはやり遂げたから。精一杯、その道を貫いたから。
藤井冬弥は、満足した顔のままにこの世を去った。




【時間:2日目19:35】
【場所:H−7】
倉田佐祐理
【所持品1:支給品一式×3(内一つの食料と水残り2/3)、救急箱、吹き矢セット(青×3:麻酔薬、赤×3:効能不明、黄×3:効能不明)】
【所持品2:二連式デリンジャー(残弾0発)、投げナイフ(残り2本)、レジャーシート】
【状態:やり切れない思い。左肩重症(止血処置済み)、まずは教会へ移動】

七瀬留美
【所持品1:S&W M1076 残弾数(7/7)予備マガジン(7発入り×3)、日本刀、あかりのヘアバンド、青い矢(麻酔薬)】
【所持品2:何かの充電機、ノートパソコン、支給品一式(2人分、そのうち一つの食料と水残り2/3)】
【状態:涙。人を殺す気、ゲームに乗る気は皆無、まずは教会へ移動】

藤井冬弥
【所持品:暗殺用十徳ナイフ・消防斧】
【状態:死亡】


【時間:2日目・19:15】
【場所:I-7】
柏木初音
【所持品:鋸、支給品一式】
【状態:有紀寧を追跡中、何としてでも有紀寧を殺害、左肘が半分欠損、出血大量、首輪爆破まであと13:35(本人は37:35後だと思っている)】

宮沢有紀寧
【所持品@:コルトバイソン(2/6)、参加者の写真つきデータファイル(内容は名前と顔写真のみ)、スイッチ(2/6)】
【所持品A:ノートパソコン、包丁、ゴルフクラブ、支給品一式】
【状態:逃亡中、前腕軽傷(治療済み)】


【時間:2日目18:30頃】
【場所:I-7】
長瀬祐介
【所持品1:100円ライター、折りたたみ傘、金属バット・ベネリM3(0/7)・支給品一式×2、包丁】
【所持品2:懐中電灯、ロウソク×4、イボつき軍手】
【状態:後頭部にダメージ、疲労大、ロープ(少し太め)で木に括り付けられている。有紀寧への激しい憎悪、全身に軽い痛み】
【目的:初音の救出、その後は教会へ】
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