少女軍歌




立っていられるはずがない、と柏木楓は思う。
与えた傷は文字通りの致命傷となっている、はずだった。
血の海で死を待つはずの獲物は、だが、笑んでいた。

「あー……血ィ流れてる」

けたけたと、笑っている。
ゆらゆらと風に揺らめく白い特攻服が、血染めの緋色に変わっていく。
相手にするな。放っておけ。理性が告げる。
あれだけの出血だ、しばらくすれば野垂れ死ぬ。
それが常識的な判断というものだった。
しかし柏木楓の、狩猟民族としての本能は、まったく別の回答を提示していた。
即ち、戦闘はいまだ続いている、と。
だから、素直に言葉が出た。

「……何故、動けるんです」
「んー……?」
「人間が、その傷で立っていられるはずがないのに……」

率直に、訊ねる。
不可解を残したまま殺すには、この相手は些か奇矯に過ぎた。
答えは、明快だった。

「なァに言ってんの、あんた」
「……」
「関東無敗の湯浅皐月さんがさあ……斬られた程度で、くたばれないでしょ?
 常識で考えろ、って。あー、クラクラしてきた……」

言ってまた、けたけたと笑う。
理由もなく、根拠もなく、ただ理不尽に、少女は立っていた。
精神論というにはあまりに幼く、我慢と呼ぶには度を越している。
そういうものを何と呼びならわすか、楓は心得ていた。

「……見上げた根性ですね」

共有できない概念、理解できない情念。
それが少女の原動力だというならば、疑念の霧は晴れた。

 ―――この少女はやはり、柏木梓と同じ類の生き物だ。

ならば、採るべき道は一つだった。
楓は真紅の瞳を細めると、右の手を握り、開く。
折れた指の骨は、既に繋がりかけていた。

「……終わるまで、やるだけです」
「へえ」

獲物の声が、低くなる。

「上等切ってくれんじゃん。……やってみなよ」

答えず、す、と身を低くする。
撓めた身体に、音速の壁を越える力が蓄えられていく。
視界が、クリアになる。
音を超える世界に、意識がシフトしていく。
生垣から垂れ落ちる水滴の一粒一粒を、認識できる世界。
ヒトの踏み入れること能わざる、神速の領域。
確殺の意思を込めて、真紅の爪が鳴く。
宙空を、駆けた。

鮮血に塗れ、なお立つ獲物の姿が、迫る。
薙ぎ、刻み、切り払うべく、必殺の爪を繰り出す。
刹那という単位。
瞬きすらも叶わぬ、絶対時間。
その中で。

「―――!?」

立ち尽くし、狩られるだけの獲物が、ニヤリと顔を歪めたのである。
ぷう、と獲物の口が、膨らんだ。
爪の間合いに飛び込むよりも、文字通りの一瞬だけ早く、視界が暗転した。
べしゃりとした気色の悪い感触が、楓の顔一面に広がる。

「……ッ!?」
「―――ォォォォオオオオオッ!!」

咆哮が、楓の耳を震わせた。
獲物が咥内に溜めていた血を噴いたのだ、と。
理解するよりも早く、風を感じた。
失われた視界の中で、楓は確信する。

 ―――これは、拳だ。拳の迫る、風だ。

カウンター。
正確な軌道。間違いなく顔面を直撃すると、楓はどこか他人事のように考える。
神速の突撃は、敵の拳にも同等にその恩恵を与えていた。
頭蓋の破壊さえ避けられれば再生は可能か、とまで思考したところで。
黒一色の視界が、白く染め上げられた。

通常を超過した認識速度が、鼻骨の潰れる感触と上顎骨の砕ける音、折れた前歯が舌を裂き、
咥内に刺さる瞬間の痛みまでを、正確に伝えてきた。
極端な慣性に揺られた脳が、一瞬意識を落とす。

楓の意識が再起動したのは、受身もとれぬまま背中からアスファルトに落下し、肘や膝、腰、
その他各部の関節を巻き込んで盛大に痛めつけながら転がっている最中だった。
瞬間、天地を認識。重心を制御して、強引に回転を止める。
袖で乱暴に目を拭い、片膝をついたまま、見上げた。

「……くくっ」

いまだ霞む視界の中、獲物は、湯浅皐月と名乗った少女は、やはり笑っていた。

「……惜しいなあ、惜しい」

呟いて笑う、皐月の拳は完全に砕けていた。
音速を超過する一撃、鬼である楓の顔面を砕くほどの衝撃である。
反作用に人体が耐えられるはずもないと、楓は分析する。
しかし肉が裂け、骨すら覗く拳を事も無げに振って、皐月は続ける。

「もう少しだったんだけどなあ……この妙なナイフさえなけりゃ、決まってた」

言いながら、太股に手をやる皐月。
そこには、鈍色に煌く巨大なナイフが、深々と刺さっていた。
はっとして、楓は己の脚に目をやる。
果たして、そこに取り付けられていた器具から伸びるフレームが折れ、ナイフが一つ失われていた。
残る三つのナイフが、まるで楓に気づいてもらえたことを喜ぶように小さく揺れている。

「完璧なカウンターだったんだけどなあ……こいつが刺さった分、踏み込みが浅くなっちまった。
 ……便利なもん、持ってるじゃないの」
「……そうですね」

すっかり存在を忘れていた、とは口にしなかった。
それを言えばまた目の前の少女に笑うのだろうし、何より、おそらくは命を救ってくれたのであろう
ナイフたちが悲しむような気がしていた。

 ―――ナイフが悲しむ、なんて。

ひどく非論理的なことを考えている自分に苦笑する。
口元を歪めようとして、上顎が砕けていることに気づいた。
舌先で、咥内に刺さった歯の欠片を取り除く。
溜まった血ごと、吐き捨てた。

「へえ、随分と男前になったじゃん。感謝してよ」
「……それは、どうも」

拭ったそばからじくじくと染み出す血に辟易しながら、楓が返す。
再生は既に始まっているが、折れた歯が生えてくるまでにはしばらく時間がかかるだろう。
それまでの自分の顔を想像しようとして、楓は強引に思考を止める。
代わりに黙って潰れた鼻をつまむと、軽く握った。
鼻腔に溜まっていた鼻水と血が、噴き出す。

「うわ、すげえ顔」
「……」

ふと見れば、白いワイシャツの両の袖口が、すっかり赤く染まっていた。
じっとりと血を吸ったそれを、楓は無造作に破り取る。
白い肌が、肩口までさらけ出された。

「……やる気じゃん。そうこなくっちゃあ、ね」

ニヤリと笑って、皐月は己の太股に刺さったナイフを、何の躊躇もなく引き抜いた。
鮮血が、噴き出す。

「大腿動脈が裂けているようですが……?」
「知らないよ、そんなの」

呆れたような楓の言葉に、軽く肩をすくめて皐月が答える。

「生き汚いですね」
「どこの星の言葉よ、それ。お互い様でしょーが」
「……違いありません」

小さく、楓が笑った。
白い肌を血に染めて、端正な顔に幾つもの醜い傷痕を残して、楓が笑う。

「……いい女だね、あんた。一緒に暴走ってみたかったよ」
「きっと姉に止められます」
「そう、残念だね」
「ええ、残念です」

言葉が、途切れた。
ほんの一瞬だけ見つめあうと、二人は同時に動いていた。
ブロック塀に、アスファルトに、互いの血が飛び散っていた。

神速は最早、自分の専売特許とは言えなくなったと、楓は思考する。
どういう原理かはわからないが、皐月は神速の領域に反応していた。
理由を訊ねれば、きっと理不尽な答えが返ってくるのだろう。
常識を度外視して、あの女は生きている。
一撃の重さでは、あるいは皐月の方が自分を上回るだろう。
ならば、勝負をかけるべきは―――。

「……両手で十本、そして脚には三本の刃……!」

ぎ、と楓は歯を食い縛る。
左手も、鬼のそれへと変化させていた。
鬼の血に呑まれずに戦える時間には、限りがある。
圧倒的な手数をもって、飽和攻撃を仕掛けるが、勝利への筋道。
仕留めきれれば、

「私の、勝ちです……!」

疾駆が交差する一瞬、同時に十三の斬撃を叩き込む。
右上から五、左から胴を狙って五、左の脚はかち上げながら顔面を、そして軸足の右からの二本は、
間合いギリギリで相手の脚を削ぐ円の軌道。
十三すべてに手応えがあり、そして、

「浅い……!」

左の脚からフレームを伸ばし、手近なブロック塀に突き入れる。
アンカーの要領で、強引にブレーキをかけた。
同時に右の脚とフレームを地面に叩きつけて、即時反転。
視界の先では、腕を上げて顔面だけをガードした皐月が、同じように振り向いていた。
ズタズタに避けた腕と、新たに鮮血を零す右の脇腹を庇おうともしていない。
前屈みのまま、走り来る。

「……ゥラァァァッッ!!」

中手骨をさらけ出しながら、真紅に染まった拳が繰り出される。
咄嗟に脚のフレームの内、二本を緩衝材として翳す。
そこに裏から腕を交差させながら当てることで、防御と為す。

「……ッ!」

相応の衝撃はあったが、止まった。
突進を止められた皐月が、右拳を突き出したまま、歯を剥く。

「けど、こっからどうするよ……ッ!」
「……両腕が、塞がっていたって……!」
「―――ッ!?」

右脚のナイフの内、一本は自由。
フレームが伸び、銀色の刃が走る。

「な……ッ!?」

深々と、ナイフが皐月の腹に刺さるかと見えた、瞬間。

「……こんな、もんでぇ……ッ!」

すんでのところで刃を止めていたのは、皐月の左手であった。
掌の真ん中に刃を突き刺したまま、掴み止めている。
だらだらと、鮮血がナイフを伝って零れ落ちた。

「ォォアアアアアッ!!」

咆哮と共に、ナイフがフレームごと引き千切られた。
ほぼ同時に、皐月の前蹴りが楓の腹を抉る。
ダメージにはならないが、強引に距離を開けられた。

「ハァ……ハァ……ッ、ふたぁ……っつ、めぇ……!」

ガラン、と重い音がして、皐月の手からナイフが落ちる。
常軌を逸したその生命力にも、楓は最早驚くことはなかった。
ナイフの一つで片手が潰せれば、安いものだ。
もっとも風穴が開いたくらいであの拳が止まるかどうかはわからないけれど、と内心で呟いて、
楓は再び加速する。

「死ぬまで、切り刻むだけです……!」
「上ッ、等ォォォッッ!!」

鮮血と咆哮を撒き散らしながら、湯浅皐月が天を仰ぐ。

「こっから先、こっから先だ、あたしらの勝ち負けはッ!!」
「結末は変わりません……!」

仁王立ちの皐月に向かって、楓は疾駆する。
今や十二となった刃のすべてが、皐月を微塵に刻むべく、奔った。
バックハンド気味に、右の爪を叩きつける楓。
後ろにかわせば詰む状況、皐月は当然の如く、刃の嵐の中に身を投じてくる。
爪の届かない裏拳の甲、そこにぶつけるように、頭を投げ出す皐月。
硬質の皮膚に当たった額が、ぱっくりと割れた。
しかし流れ出す血を気にした風もなく、皐月は真っ直ぐに楓を見つめている。口元には、獰猛な笑み。
応えるように、楓は真紅の瞳を弓形に細める。
皐月の額で止められた右手の、その上から切り裂くようにして左の爪を落とす。
狙うのは一点、皐月の眼。
貫手の形に整えられた爪を、しかし皐月は瞬間的に身をずらし、肩で受けた。
皮膚を裂く感触にも、楓は苦々しげに表情を歪める。
肩を貫き、鎖骨を断った程度でこの女は、

「止められない……っ!」

瞬時に判断。
左右のフレームから伸びたナイフを、自分と皐月の間に割り込ませるように展開する。
十字に交差し、大鋏の様相を呈した二本のナイフが、皐月の胴を左右から襲う。
が、

「なんて……無茶な……!」

皐月は、それをかわそうとは、しなかったのである。
二本のナイフは、皐月の両の脇腹を、確かに刺し貫いていた。
刺し貫き、そして、ただそれだけのことだった。

「―――つかまえぇ、たぁぁ……」

湯浅皐月は、臓腑を貫かれた程度で止まりはしなかった。
彼女の腕が、ズタズタに裂けて血に染まり、見る影も無い腕が、楓の右手を、跳ね上げていた。
離れなければ、と本能が警告を発するが、それは叶わない。

 ―――ナイフが……!

深く刺さったナイフとフレームが、二人を結び付けていた。
そして左手の爪は、いまだに皐月の肩に刺さっている。
密着した状態で、防ぐものとてない楓の視界を、皐月の笑みが塗り潰していく。

「死んだら―――」

声が、ひどく遠くに聞こえた。
衝撃と、流れ出る血と涙で、視界がブラックアウトする。
治りかけの鼻が、再び潰されていた。
渾身の頭突きを受けたのだと理解した瞬間、次の打撃が入っていた。

「ぐ……ぇ……」

左右の脇腹に、連打を受けていた。
腹が裂けるかとすら感じられる、痛撃。
身体を連結された状態では、吹き飛ぶことで衝撃を逃がすこともかなわない。
五臓六腑を貫通する地獄の痛みに、胃の内容物が血と共にせり上がってくる。

「―――死んだら化けて出ろッ、待っててやる……ッ!」

第三の打撃が、鳩尾に入っていた。膝が突き刺さっている。
下がった頭を上から押さえ込むように、首に腕が回された。
血反吐を吐き散らしながら、楓は己が回転しているのを感じていた。

「……ぁ……か……」
「これがあたしの―――、メイ=ストームだぁぁッッ!!」

首を支点として、皐月の背中側へと、投げ飛ばされようとしている。
遠心力で加重された、二人分の体重が、楓の頚骨を捻り上げていた。
ごぐり、と。
奇妙な音が響くのを、楓は感じていた。
頚骨が粉砕される音だと、理解していた。
体が動かない。脊椎で脳からの指令が遮断されている。
このまま叩きつけられれば確実に死ぬと、楓は正しく状況を読み取っていた。
そして、体が動かない以上、受身は取れない。
柏木楓は、死を覚悟していた。



荒い呼吸が、住宅街に響いていた。
妙に濡れたような咳が、時折混じる。

「が……ハァッ、……ハァ……ッ、」
「くぁ……、ゲホ、ゲェ……ッ……」

血反吐と肉片が飛び散り、この世の地獄を思わせるその一角で、鮮血の少女たちは、
ゆっくりと立ち上がろうとしていた。

「ハァ……ッ、ハァ……畜生、……本当に、ゲホ……ッ、厄介な、ナイフだね……!」
「……そちら、こそ……ッ、命冥加……な、ことです……、が……ッ!」

重大な損傷に回復が追いつかないのか、反吐塗れの顔を歪めながら身を起こそうとする楓。
その脚に残っていたはずのナイフが、フレームの根元から折り砕けて転がっている。

「受身……代わりってか……! けど、もう次は……助けて、くれないよ……ッ!」
「充分、です……っ、あとは……、死に損ないを、片付ける、だけですから……っ!」

少女たちの瞳には、互いの影しか映っていない。
敵と認めた、ただその存在を打倒すべく、少女たちは立ち上がる。

「……こっから、だ……ッ!」
「……終わり、です……!」

だから周囲を埋め尽くす、無言の影に、少女たちは眼もくれずに走り出す。

「―――ォォォォオオオオオッッ!」
「―――ぁぁぁッ!」

光線が、奔った。
周囲の家を燃やす光線を、湯浅皐月が片手で打ち砕き、
街を灼かんとする光芒を、柏木楓が真紅の爪で薙ぎ払う。

少女たちの戦場に迷い込んだ介入者が、次々にその仮初めの命を散らしていく。
煌く光条をまるで舞台装置とみなすが如く、少女たちはただ互いの敵を滅するべく、物言わぬ人形達を蹂躙する。
街を鮮血に染め上げて、幾多の屍を積み上げて、そして二人は止まらない。




 【時間:2日目午前11時前】
 【場所:平瀬村住宅街(G-02上部)】

柏木楓
 【所持品:支給品一式】
 【状態:満身創痍・鬼全開】

湯浅皐月
 【所持品:『雌威主統武(メイ=ストーム)』特攻服、支給品一式】
 【状態:満身創痍・関東無敗】

砧夕霧
 【残り29548(到達0)】
 【状態:進軍中】
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