Climacus -The Ladder of Divine Ascent-




 ―――東京某所


喧騒さめやらぬ室内に、ひとり静かに情勢を見守る男がいた。
肘掛に頬杖をついたまま、なんでもないことのように呟く。

「―――唯一者が、消えたようだな」
「ま、こんなものだろうね。錆の浮いた救世主にしては、よくもった方だと思うよ」

独り言めいた呟きに答えたのは、男の傍らに影の如く立つ少年であった。
その軽い口調に、男が片眉を上げる。

「いいのかね、そんなことで」
「別に構わないだろう? 今回の計画に、あんなものは必要ない。僕にとっても、そっちにとってもね」
「それはそうだが、な」

男が嘆息する。
本気なのか、ポーズなのかは見て取れない。どうにもつかみどころのない男であった。

「……しかし、必要ない、か。その程度の言霊で消滅するものなのか、唯一者は」
「勿論、昔からそうだったわけじゃないさ。あそこまで脆くなったのは最近の話だよ」
「神殺しの剣、究極の一……哀れなものだな、道化の救世主というのも」
「昔は皆が望んだ存在だったんだよ。命が神に抗っていた時代には、彼は紛れもなく救世の希望だった」
「神なき今は無用の長物というわけか」
「それでも彼は甦り続けた。救いを求める者の前に、求められるまま、求められる形で」
「挙句があの様かね」
「あれは本来、世界を救うために造られたんだからね。エゴの救済なんて、ノイズを溜め込むばかりさ。
 造物主のメンテナンスもなしに復活を繰り返せば、ロジックは崩壊していく一方だ」
「今となっては簡単な言霊……救済を否定する意思で消えてなくなる、泡沫のメシアと成り果てたか」
「そういうことだね」

おどけるように、肩をすくめてみせる少年。

「……しかし、唯一者の消滅は数年前にも観測されている。どうせまたすぐに現れるのだろう」
「さてね。それはあの島に残った人間次第だけど」
「救済を求める者など、残っていたかね」
「僕に聞かれても困るな」

少年が苦笑する。
と、男がにやりと口の端を上げて話題を変えた。

「そうだ、消えたといえば」
「……何だい?」

男の怪しげな笑みに、少し警戒したような表情で聞き返す少年。

「君の影も消えたようだが、」
「問題ない」

にやにやと笑う男の言葉をはね付けるように、少年が断言する。
呆れたように男を睨みつける少年。

「何を思いついたのかと思えば……まったく、それは嫌味のつもりかい」
「嫌味とはひどいな。これでも心配しているんだよ」
「その顔でかい? ……まあいいさ、改めて言うほどのことでもないけど、問題はないよ」
「おやおや。君の、文字通り手足となって動いてくれた彼に、随分と冷たいじゃないか」

男の軽口は止まらない。
閉口したように、少年が眉根を寄せる。

「……確かに、あれは影の中でもなかなか精巧に作ったつもりだからね。
 手間も時間もそれなりにかかってはいるけど……それだけだよ。似姿だけなら、今すぐにでも作れるさ」
「その精巧な影も、今回はあまり役に立たなかったようだね」
「うるさいな。ここまで膨れ上がったら、影なんかじゃ手のつけようがないんだよ。
 これまで、個々が目覚めることはあったけど……これほどに大規模な覚醒は見たことがない」

どこか心配げな少年の声音に、男が少し慌てたように言う。

「おいおい、ここまできて手綱を放さんでくれよ」
「伝えとくよ。……それより、そっちこそいいのかい、神機のこと」
「ん? 何か問題があるかね」

突然の話題転換に、男がとぼけてみせる。
少年は男の態度など気にも留めずに続けた。

「カミュに続いてウルトまで覚醒してるみたいけど……あれはそっちの切り札じゃなかったのかな?」

斬りつけるようなその口調にも、男の表情は変わらない。
茫洋とした態度を崩さずに答える。

「……なに、構わんさ。切り札は一枚というわけではない。
 それにどの道、約束の日を越えられなければ、いくら戦力を温存したところで意味などないのだろう?」

奇妙なことに、上座に座るその男の声は、周囲でモニターからの情報を逐一処理している白衣の男たちには
何一つとして聞こえていないようだった。傍らに佇む少年だけが、男の言葉に答えている。

「思いきりのいいことで。……その割に、貴方の部下は随分とエキサイトしていたみたいだけど」
「長瀬博士は何も知らんからな。彼はまだ今回のプログラムが実験の一環だと考えている。
 ……困ったものだね」
「貴方が説明しなくちゃ誰にもわからないだろうに、困った人はどっちだろうね……」

参った、というように天を仰いでみせる男を、少年は軽く睨む。

「いや実際、長瀬博士の行動は頭が痛いんだよ。
 君もさっき見ていただろう、久瀬君の怒鳴りようときたら、まだ耳鳴りがするくらいだ」
「貴方が余計に怒らせたんだろうに……」
「何か、おかしなことを言ったかね。覚えがないな」
「……そもそも最初に御子息を捻じ込んだのは貴方だ、公私混同のツケをこっちに回すな、とか」
「ああ、言ったな。……だが私はこうも言ったぞ。御子息も何やら頑張っておられるようだし、」
「―――ここは一つ、温かく見守るのが親の務めというものじゃないかね、って?」

自身の言葉を引き取った少年の冷たい声音に、男が戸惑ったような表情で少年を見返す。

「……まずかったかね?」
「貴方はそういう人だよ……」

深くため息をつく少年。

「しかしね、久瀬君もあの調子でゴリゴリやる方だから、制服組からの評判が芳しくないってことは
 自分でもわかってただろうに」
「おや、随分と長瀬とやらの肩を持つね」
「吊るし上げを食いかねない素地はあった、ということさ。
 ……とはいえ、長瀬博士も技研時代は現場と大分やりあってた人間だからな。
 そう簡単に制服組が彼の言葉に従うとは思えないんだがね」
「何か、裏があるって?」
「君たちのことだ、どうせ知っているのだろうに」
「そういうことにはあまり興味が無いんだよ」

国家の命運をかけた問題を、まるで明日の天気の話題のように軽く扱う二人。
虚々実々のやり取りを楽しんでいるかのようだった。

「……まあ、その辺りはいずれ報告が上がってくるからな。それを待つさ」
「いいのかねえ、そんなことで」
「それに、向こうには『彼』がいる。任せておけばどうとでもなるだろう」
「……いい加減なものだね。仮にも一国の頂点に立っている人間が」

半眼で睨む少年の視線を受け流すように、男は小さく笑ってみせる。

「そう言ってくれるな。確かに私一人の力では、小舟の一艘も漕ぐことはできないがね。
 皆が力を貸してくれれば、国家という大船の舵を取ることだってできるのさ。
 人の上に立つとは、そういうことだよ」

男の、どこか自信に満ちた言葉に、少年は肩をすくめて呟く。

「そんなものかね」
「……ま、黙っていても勝手に要点をかいつまんだ報告書をまとめてもらえるのが、
 この仕事のいいところでね」
「台無しだよ……」

少年が何度目かのため息をついたのとほぼ同時に、男にかけられる声があった。

「―――総理、お電話です」
「私に直接? ……誰かね、この番号を知っている人間はそういない筈だが」

受話器を持って男に差し出した係官が、何事かを耳打ちする。

「……ふむ。少し、面白いことになるかもしれんな」

男が、一瞬だけ政治家の顔を覗かせる。
受話器を受け取ると、回線の向こうの相手に向かって口を開いた。

「―――ああ、久しぶりだね。うん、今ちょうど、その話をしていたところだよ」


「こうなると長いんだよね……」

話し込んでいる男をつまらなそうに見ていた少年だったが、ふと何かの気配を感じたかのように振り向いた。
その視線の先に立っていたのは、はたして少年より一回り小さな影であった。

「……ああ、おかえり」

憮然とした表情で自身を見つめるその影に向かって、少年は微笑んでみせる。
男と軽口を叩き合っていたときとは違う、心からの優しげな笑みだった。

「頑張ったね、みちる」

少女は答えず、ただ静かに少年を見つめていた。




【時間:二日目午前11時ごろ】
【場所:東京某所】

主催者
 【状態:詳細不明・総理】

少年?
 【状態:詳細不明】

みちる
 【状態:詳細不明】
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