Climacus -Messiah's identity-




「どこへ行くんだ?」

少年が静かに問いかけた。
彼がいつもそうするように、優しく。

「誰もいないところ」

少女が、小さく呟いた。
常ならば絶対に浮かべない、硬く強張った表情のまま。

ざあ、と風が鳴る。
梢に溜まった水滴が、流れて落ちた。
雨は既にやんでいたが、垂れ込める雲は未だ陽光を遮っている。
雲間から日輪が覗くには、いま少しの時を要するようだった。

「いつまで歩くんだ?」

光射さぬ島の上、重ねて少年が訊ねる。
泥濘を歩きながら、その足元には染みひとつない。
まるで汚れの方が少年を避けて通っているかのようだった。

「お前がいなくなるまで」

目線を動かすことなく、少女が答えた。
スニーカーの足元のみならず、その顔にまで泥が撥ねていた。

「俺なら、お前を救ってやれる」

再び、風が鳴いた。
灰色の世界の中、少年がそっと、少女へと手を伸ばす。

「―――いらない」

即答した少女が、荒々しく少年の手を振り払う。
少年はなおも追いすがり、続けた。

「お前が望むなら、運命だって変えてみせ―――」
「やめろ。」

強い言葉が、響いた。
少女が足を止め、振り向いていた。沈黙が降りる。

ざ、と音がした。
梢から落ちた雫が下の葉を揺らし、そうして集まった水滴が樹を揺らす音だった。

少女は少年を真っ直ぐに睨んでいた。
その表情には、侮蔑と拒絶が、ありありと浮かんでいた。

「やめろ。そういうことを口にするな。できそこないの唯一者」

一言一言を区切るように、少女ははっきりと口にした。

「美凪がいなくなるなら、みちるもここから消える。
 それは、今度も同じ。ずっと同じだったように、今度も同じなんだ」

哀切がそのまま形になったような、それは言葉だった。
その眼に涙を浮かべたまま、少女は、少年を断罪する。

「お前なんか、いらない」

瞬間、少年が凍りついたように動きを止めた。
指先一本に至るまでの全身の身動きは勿論、瞬きも、呼吸や鼓動すらも、止まっているように見えた。
時に置き忘れられた彫像のような、それは正しく異様だった。

少年の異様を、しかし少女は気にも留めない。
一切の興味をなくしたように、視線を逸らす。

「今度の美凪は、みちるにも国崎往人にも会えずにいなくなった。
 ……だけど、それでいいんだ」

独り言めいた呟きが、風に巻かれて消えていく。

「国崎往人が死ぬのも、みちるが消えるのも見なくてすんだ。
 悲しくて、悲しくてつぶれてしまうよりも、ずっとずっといい終わり方だった」

ひどく悲しそうに、ひどく嬉しそうに、少女は灰色の空を見上げた。

「悲しいことは、つづくけど」

歳不相応の大人びた眼差しに曇天を映したまま、少女は呟く。

「今度の美凪くらいにしあわせであってくれれば、みちるはそれでいい。
 ……だから、」

視線を下ろした少女は、少年を疎ましげに一瞥すると、言い放った。

「―――お前なんかに、救われたくない」

少女の言葉と共に、少年の彫像から色彩が失われていく。
目映いばかりに煌いていた鎧が、その豪奢な装飾が、曇天の色に侵される。
麗しく風に靡いていた銀色の髪も、透き通る紫水晶の瞳も、瞬く間に色褪せていく。

「どっかいけ、役立たずの救世主」

少年の背に生えた六枚の翼が、砕け散った。
きらきらと輝いていた銀翼の破片は、薄汚く燃え残った煤のように、風に吹かれていった。

「消えろ。―――もうお前なんか、いらない」

少女の言葉が、少年の彫像を打つ雷鳴となったかのように。
灰色の少年が、音もなく、弾けた。


ざあ、と。
三度、風が鳴いた。

みすぼらしい灰色の欠片が、同じ色をした空に溶けるように、消えていく。
少女はそれを、じっと見つめていた。

「……甘ったれ」

誰にともなく呟いた少女が、その足元から輪郭を薄れさせていく。
それきり少女は、真一文字に口を結び、一言も漏らすことはなかった。

木々と、空と、雨滴と泥に囲まれて、少女が殺戮の島から完全にその姿を消したのは、
それから程なくしてのことだった。




【時間:2日目午前10時すぎ】
【場所:E−2】

みちる
 【状態:消滅】

相沢祐一
 【状態:消滅】
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