Air for the future




 見上げた空には異様な力が満ちていた。
 それは雨雲を押しのけ、空白であるはずの空に目に見えぬ渦を形成している。
 その中心たる位置にある少女は宝物殿から姿を現した男に、周囲の瘴気を凝縮させた一撃を放った。
 この際ガッとかグシャッとかいう仰々しい擬態語は無用の長物である。ただ一撃、呆気ないほどの脆さ
でその男は崩れ落ちたのだから。
 神奈の瘴気は物理的な攻撃ではない。悪夢によって精神を狂わせ、攻撃を受けた側の自滅を誘発する類
のものである。とすればただの一撃で沈んだこの男については、精神的に壊されたという表現がより適切
であろうか。
「他愛もないわ、狂うほどの精神も持ち合わせておらぬとは」
 それはとりもなおさず、男が精神的に弱いことを意味する。そして精神の死は肉体的な死を妨げる機関
がこの島にない以上時間の問題だった。
 と、と軽い音を立ててつま先から神社の境内へと着地すると神奈は死体と一片も違わぬ男を一瞥した。
戸口にあるそれは、目をかっと見開き、空を仰ぐ姿勢そのままに崩れ落ちている。
「興ざめも甚だしいの、高野の者よ。いますこし余を楽しませてくれると思っていたが……」
 気持ちの悪いものを見る目つきで、その目を覗き込む。と、その散大した瞳に白い影が横切った。

「八雲、八雲! 」
 具現化も半ばのまま、男の視界に、そして神奈の後方――――翼に走りよったのは白穂であった。
 愛する息子の名を幾度も呼び、神奈の翼に手(もし彼女に肉体があれば、だが)を伸ばす。
 だが、それに気づいた神奈が翼でその手を払った。
「何をするか、下賎の者め。この神奈備命の背羽に触れようなどと……」

 一喝する。しかし弾かれた白穂はきっと神奈を見返した。
「わが子を見間違う母が、どこにおりましょう。どこに、おりましょうか……」
 半狂乱のまま、涙の気配すら孕んで訴えかける。それに呼応してか、神奈の翼の中の一枚の羽が突然明
滅を始めた。
「な、どういうことだ」
「八雲! そこにいるのですね」
 白穂が神奈の羽をもがんばかりににじり寄る。霊体なので実際にもぐことは出来ぬのだが、彼女にもし
生体の手があれば迷わずその明滅する羽を引きちぎっていたことであろう。
 霊体の手が、神奈の翼を透過する。明滅する羽とその手が交じり合う。
 子守唄が、きこえる。

"わたくしは、名を白穂(しらほ)と申します。どうか、わたくしの話をお聞きください……"
 そのような語りから始まったひとつの悲劇は、やさしい子守唄と共に幕を閉じつつあった。

 ……わたしは羽根に願いました。
 ……この子がすこやかに、やさしく育ってくれるようにと。
 ……ほかには願いなど、ありませんでした。
 ……わたしは幸せでした。
 ……夫と子供がそばにいてくれる。
 ……それだけで幸せでした。

 その子守唄が途絶えると同時、もうひとつの声が響いた。
 すでにものを言うことが出来ないはずの死体の男の、それは"声"であった。

 ……この空の向こうには、翼を持った少女がいる。
 ……それは、ずっと昔から。
 ……そして、今、この時も。
 ……同じ大気の中で、翼を広げて風を受け続けている。

 言葉としての体裁を取らず思考がそのまま溢れ出たかのようなその台詞は、敬介が調べつづけていた伝
承の一部と酷似していた。旅を終え留まる地を見つけた旅芸人が、いうなれば国崎往人に至るまでの血を
ひく旅芸人の分家筋にあたる者達が遺した伝承。敬介の足掻きは決して無駄ではなく、正解にごく近い場
所まで彼を導いていたのだった。
 しかしそれは目の前にいる神奈を指した言であり、この場にそぐわぬこと甚だしい。

「戯言を。余はこのとおりこの場に降り立っておるぞ、この痴れ者が―――――」
 そう罵る神奈の目が瞠られた。
 目の前の死体――――正確を期するならほぼ死体、というべきか、その腕がゆっくりと持ち上がり、天
空の一点を差したからである。その手の先、瘴気の影響で雨雲が打ち払われた白い空に、白い翼を広げた
孤影があった。
 ――――アヴ・ウルトリィ。
 純白の神像はその気高い姿をはるか天空に浮かべ、明星の眩さを体現するかのようにそこに在った。
 男の手はその光をいとおしむように広げられ、その指を緩慢に動かす。届かないものへの憧憬、程近い
ものへの慈しみ。そのいずれもが綯い交ぜになった動作と共に、再び声が響く。声帯から発される、いわ
ゆる音声としての声ではないことを、神奈はすでに悟っていた。

 ……あの子を助けてあげて。
 ……あの子は、ずっと一人で、
 ……あの子は、いつも一人で
 ……あの子は、いまも
 ……あの子は

「もうよいッ! もうたくさんだ」
 ――――悟っているからこそ、響く"声"を聴きたくなくて声を上げる。
 音声でない以上、そのような行動で言葉を制することなど出来ないとわかっていながらも、そう叫ばざ
るを得ない。
 似ているのだ。なにもかもが。
 神奈が一人天空に在ることで、幾人もの少女が夢を見、一人きりで死んでいく。
 柳也や裏葉が遺して行った者達も、少女達の肉親も、ある者ははその少女と心を通わしてしまったがた
めに死んでいき、あるいは心を通わすことを拒んで去っていく。
 誰も助からない。誰ものこらない。これは、そんな呪いだった。

「なぜ、皆、余、だけを―――――のこしてッ」
 耳を塞いでうずくまる神奈を差し置いて、声の主は、途切れ途切れに続ける。
 命数を使い果たしてなお何かを伝えようとしていた、それも限界のようだった。

 ……あの子を助けてあげて
 ……そしてできるなら、あの子のともだちになってあげて
 ……僕は、あの子の父親なのに、届かないんだ、あの子に
 ……あなたには、僕にはない、つばさが、あるから

 男の死体から溢れつづけていた思念波の奔流は、そんな言葉を最後に途切れた。

  *

 神奈の背が震えていた。
 声が途切れた空白を耐えがたく感じているのか、激発の予兆を孕んで神奈は震えていた。
「……もうたくさんだ」
 これが空の上の、飽くほど見た夢であるならまた違っただろう。だがここは幾度かの失敗を繰り返した
殺し合いの舞台上であり、神奈は神の視点から任を遂行せねばならぬというのに――――。
「もうたくさんだ、余には神に届く翼などないというに何ゆえ皆して勝手に願いをかけようとするか
何ゆえ余にすべてを押し付けようとするかっ! 余は、余は……」

 吼える。白い天に向かって。虚空の神像に向かって。
 瘴気の渦が消え去ったそこには雨雲が集まり、ふたたび小糠雨を神の社に降らせ始める。 
「――――それが、呪いなのですよ」
 その冷気の中、男の懐から滑り落ちた羽根の柔らかな毛に光が揺れていた。
 それは声となって神奈の顔を上げさせた。
「我が子よ……よくお聞きなさい」
 そこには神奈の母、八百比丘尼があった。

「翼人は夢を、記憶を継いでゆく。忘れることができぬのです」
 比丘尼は淡々と語っていく。
「翼人がひとを殺すということはそのひとの未来を、可能性の選択肢をそのまま負うということ。
願いとは、奪われた未来を誰か別の者にに託すことなのやも知れません……。
戦の道具として借り出されたわらわは、あまたのひとを殺し、その穢れをうけてきました。
それはあまたの願い――――すなわち、あなたの背羽にそのまま移された呪いなのです……しかし」
 ここまで言って、語調が突然変わった。
「それをあなたという娘はなんですかぽんぽんぽんぽんとなりふり構わず人を殺して回ってそれを自分の
せいにするなと悲劇のヒロインぶって見せるとは。母は情けなく思いますよ」
「ははうえ、キャラクターが変わっているのだ」
「折角の長台詞、キャラクターを変えてまで言わずにどうします。いいですか。すでにこの世にないとい
うのに子を思ってこの世界に残ろうとする者や自らの精神を磨耗させてまで子に何かを遺そうと考える者
だっているのですよ。それをあなたは精神的な弱さを抱えているのをいいことにまるでありさんをプチプ
チするかのようにですね」
 堰を切ったかのようにとつとつと続く比丘尼の説教。それを止められる者はないように思われたが。
 これもまた男の懐にあった鏡がひとつ揺らぎ、咳払いの音が聞こえると八百比丘尼は我に返った。


「――――ふぅ、収まったのだ」
「ふぅ、ではありません。わかったのですね」
「人殺しをせねば良いのであろ、わかっておるぞ」
「わらわのいいたいことは違うのですよ。我が子よ……よくお聞きなさい」
 この台詞が入ると突如として背景がホワイトアウトし、母子のシルエットが青く浮かび上がる。
 これを仮にAIRモードというべきだろうか。
「人を殺すことはすなわちその人の選択肢を奪って自らの選択肢を広げること。それがわかった上で
お生きなさい。血塗られた手で広げた道を、奪った選択肢を、奪われた人の分まで。
――――それが母の願いです」
「ははうえ……それでよいのか、本当に? 」
「殺人を肯定する気はありません。ですが自らの翼に呪いを増やしてでも生きる意思があるのなら……
それはあなたの意思。わらわは止めることができぬのです」
 八百比丘尼の語調はあくまでやわらかい。そして輪郭がぼやけるそのとき、彼女が娘の名を呼んだ。
「神奈」
 ただ一言、名前を呼ぶ声には冷たさはない。ただそれは、途方もない深みを湛えている。
「神奈……疲れたら、わらわの元へいらっしゃい。でも、あなたはまだ疲れてはいけません」
 その一言を残し、古びた鏡の上に羽根は落ちていった。


 神奈はしばらく、その鏡を覗き込む気にはなれなかった。
 母は人心と交わり悪鬼となりはてた、という言を旅の途中で柳也にきいたことがある。
 ならば、今の自分の表情は悪鬼そのものなのであろう。
「わかっているのだ、余は、余は……」
 悪鬼である自分を、柳也は好いてくれるだろうか。
 悪鬼である自分を、裏葉は好いてくれるだろうか。
「余は、母上さえ在ってくれればそれでいいのだ……」
 そう口に出してみるも、心はそれ以外の方向に向いている。
 わかっていた。余は―――――淋しいのだ。
 観鈴。
 空を見上げる。そこには雨を降らす雲が張り詰めていて、神像の姿は見えなかった。

  *

 拠る媒体もなく、強靭さももたぬ想いの波がゆっくりと交差している。
(……すまなかったね、君まで巻き込んでしまったみたいだ)
(……あなたらしくていいんじゃないんですか、こんな終焉(おわり)も)
(……そうだね)
(……晴子は、あの子は上手くやっているのかしら)
(……まあ、僕よりかは上手くやってくれるさ)
(……そうね)
 二人には出会いを、二人には花を、二人には季節を
 二人にはゆく日を、二人には闇を、……二人には眠りを。
 囁くような微かな波動は、明けの光に溶けるように消えていった。

 ――――それは破滅に向かう"僕ら"の恋のうた。




【時間:2日目午前6時半過ぎ】
【場所:G−06 たかのじんじゃ】

025' 神奈
【状態:母の言に悄然】
【所持品:ライフル銃】

八百比丘尼
【状態:羽根(媒体)の中、アンネローゼ様モード】
知徳法師
【状態:法師の鏡(媒体)の中、たまーに咳払い】

【武将の兜(景清)、dジキ自動連射装置(さくや)、持ち主不明の日本刀が残されています】
【G−06上空にアヴ・ウルトリィ=ミスズが見えました】

064 橘敬介
【状態:死亡・消滅】
【白穂、八雲、橘郁子 消滅】
【眼鏡、庶民の具足は壊れました】
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