Fear




天野美汐の心は空虚だった。
他人の事などどうでも良かった。自分の事も、己の命すらも別段興味が無かった。
橘敬介を陥れた事も、雄二という少年に疑心暗鬼の種を植えつけた事も、興味本位で行なったに過ぎない。
生きるという事は自分にとって、楽しみよりも悲しみの方が大きかったから。死んで無に帰せば、楽になれる。
ただ一つ、「あの子」と一緒に過ごした日々だけは、幸せだった。もしもう一度あの日々を取り戻せるのなら、生き延びたい。
勿論自分は主催者の褒美など信じてはいないし、優勝出来るとも思っていない。
それはあまりにも小さく脆い、息を吹きかければ消し飛んでしまうような希望なのだ。

だから―――窓が割れ、誰かが家の中に侵入してくる音が聞こえても、それ程動揺しなかった。
音の出所は居間の方だった。そして侵入者は堂々と大きな足音を立て始めた。
連続する足音、それが止まった直後に聞こえる、乱暴にドアを開く音。
恐らく家の中をくまなく探すつもりなのだろう、足音は不規則に動き回っていた。
それは徐々にだけれど、確実に美汐のいる部屋へと近付いてきていた。
美汐としては、訪問者がゲームに乗っていない事を望みたいが、その線は薄いだろう。
居間には自分が食事をした形跡がある、それでこの家に先住者が居る事は悟られる。
にも拘らず足音の主は一切呼び掛けては来ない――つまり、話し合う気など一切無いという事だ。
まだ姿の見えぬ襲撃者、歩み寄る理不尽な暴力。このままでは死ぬ。
ここでようやく、美汐に明確な変化が訪れていた。
死を受け入れているつもりだった美汐だったが、気付けば額を冷たい汗が伝っていた。
恐怖や苦しみなど、とうに乗り越えた境地に達している筈だった心が揺らぐ。
それもこれも、些細ながらも希望を抱いてしまったせいだ。
微小に、しかし確かに存在する生への執着が、自身の死を畏れされる。
死を覚悟してはいるが、素直にそれを受け入れる事など、もう無理な相談だった。

美汐は音を立てないように、慎重に布団から這い出た。
部屋の中は暗かったが、日が昇っているこの時間帯ならば視界が封じられる程では無い。
脱出口はたった一つ、窓から外へと逃げ出すしかない。逃げ切れるかは分からないが、今ここでじっとしていても殺されるだけだ。
足音を忍ばせながら移動し、カーテンに手を伸ばす。物音は発していないが――心臓の音だけは御しようも無く、大きくなっていく。
震える手で、静かにカーテンと窓を開け放つ。差し込む太陽の光が、美汐には希望そのものに見えた。
希望の光の射す方へ向かうべく、窓に手をかけ身を乗り出そうとし、
「待てよ天野、折角人が来たってのにそりゃ無いだろ?」
手に入れかけた希望は、あっけなく零れ落ちた。


恐る恐る振り向くと、自分が興味半分に手を出した少年――向坂雄二が、へらへらと笑いながら立っていた。
美汐は極度の緊張感で体が硬直していくのを感じながらも、雄二を観察した。
前に会った時とは何かが違う目、そしてしっかりと右手に握り締められた金属バット。
「お前には、世話になったよなぁ。お前のお陰で俺は、この島で何が正しいか学ぶ事が出来たよ」
ひどく濁った、不快な気分にさせる声だった。美汐は後ずさろうとしたが、すぐ背に壁が触れてしまった。
「正しい事……?それは何ですか?」
尋ねると、よくぞ聞いてくれたと言わんばかりに、雄二の目がパッと輝いた。
「この島ではな、信じるとか信じないだとか、無意味なんだよ。どいつもこいつも、何寝惚けてるんだろうな?」
雄二が話しながら一歩、近付いてくる。美汐は思わず悲鳴をあげそうになった。
「ウダウダ考える前に、とっとと殺しちまえばいいんだよ。島のルールに従って、殺して、殺して、殺しまくって、生き延びるべきなんだよ」
更に一歩分、間合いが詰まる。美汐の心音が早鐘を打ち、呼吸が乱れてゆく。
雄二の顔を見ると、笑みは消え、代わりに目が丸く強張って、充血していた。それはとてもグロテスクなものに感じられ、嘔吐感が急激に押し寄せてきた。
「その覚悟を持てねえ、弱い奴から死んでいくんだ。けど俺は違う。俺は人を殺す覚悟がある。俺は強い、強いんだ!
もう休憩も取ったし、今度はあのクソ姉貴にだって負けねえ。強くて正しい俺が、夢を見てやがる連中とクソ姉貴に、現実を教えてやるんだッ!!」

――もうこれ以上、この場に居る事に耐えられなかった。死ぬ事よりも何よりも、目の前の狂人が恐ろしかった。
美汐はぱっと身を翻し窓を昇ろうとしたが、手が汗でびっしょりと濡れていたせいで、上手く窓の縁を掴めずに転げ落ちてしまう。
「ああああああああ」
しりもちをついた態勢から、美汐は壁を這うようにばたばたと手を動かし、もう一度窓の枠を掴もうとする。
だが、もう遅過ぎた。大きく鈍い音が聞こえ、左脚に衝撃が跳ねた。金属バットで殴りつけられたのだ。
声にならない悲鳴をあげながら頭上を見ると、雄二が悠々とこちらを見下ろしていた。
「馬鹿か、逃がす訳ねえだろ?」
雄二は足を大きく振りかぶり、美汐を蹴り飛ばした。その衝撃で、美汐は背中から地面に倒れこんだ。
間髪置かずに雄二が美汐の上にのしかかる。全体重を掛けられて、美汐は身動きが取れなくなった。
間近に見える、血走った目。引き攣った顔。そのこめかみのあたりに、青筋が走っていた。
美汐は全てを諦め、ただ恐怖から逃れる為だけに目を閉じた。
どうせすぐに死が訪れると。完全なる無へと還り、少なくともこの恐怖からは逃れられると。そう信じて。
けれど、いくら待ってもその時は来なかった。もう一度目を開けると、雄二の視線は美汐の顔を捉えてはいなかった。
美汐はその視線の先を追い――先に倍する恐怖と共に、目を見開いた。
雄二の目は美汐の胸の膨らみを凝視していたのだ。雄二の口元が笑みの形に歪み、そこから低い笑い声が漏れた。
「どうせ殺すのなら――その前に何したっていいよな?お前だって、死ぬ前に一回くらいしときたいよな?なあ、いいだろっ!?」
美汐は涙目になり、懇願するように首を振ったが、無慈悲にも制服に手がかけられて――
「拒むんじゃねえよ、腕と足を全部潰してやっても良いんだぜ?この俺とヤレるんだから有り難く受け入れやがれ!」
「いや……いやいやいや、いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」
美汐は、絶叫した。








一時間後。美汐は背中から壁に寄りかかった状態で、床に座り込んでいた。
その瞳は輝きを失い、無機質な人形のソレになっている。制服の至る所に白濁液が付着しており、下着は無残に引き裂かれていた。
対する雄二は、立ち上がってズボンを履き、下卑た笑いと共に口を開いた。
「はぁー、気持ち良かったぜ。優勝した時の願いで全員生き返らせてやろうってんだから、これくらいの役得は当然だよな?」
話しかけても美汐はもう、何の反応も返さなかった。それどころか雄二の姿を見ようとさえ、していなかった。
「おいおい、これくらいの事で壊れちまったのかよ?……ま、良いか。後で生き返らせてやるから、今は大人しく死んどけ」
横に落ちていたバットを拾って振り上げ、用済みになった玩具を壊すかの如く、あっさりと振り下ろす。
バットの先が美汐の顔面を捉え、月島瑠璃子を絶命させた時と同じ感触が雄二の手に伝わった。
美汐は顔から床に崩れ落ちた。その後頭部に向けてまたバットを振り落とすと、美汐の頭蓋骨が陥没し、彼女の生命は完全に終わりを遂げた。
「これでいっちょあがりっと。さーて、そんじゃクソ姉貴にどっちが強いか、教えてやりにいくとしますかね」
雄二はそれだけ言って、もう美汐の死体には興味を示さず、満ち足りた表情で部屋を後にした。
窓から漏れる光の先で、美汐の潰れかけた眼球から、涙のように血が流れ出ていた。




【時間:2日目・14:00】
【場所:I−7民家寝室】

向坂雄二
【所持品:金属バット・支給品一式】
【状態:マーダー、精神異常。目的はゲームの優勝と環への報復。マルチの捜索は考えていない】

天野美汐
【状態:死亡】

【備考】
・美汐の支給品一式(様々なボードゲーム)は寝室に放置
・敬介の支給品の入ったデイバックはPCの置かれた部屋の片隅にある
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