深淵に遭う




―――AM 10:00、鎌石小学校内。

静まりかえる校舎内に、衣擦れの音が響く部屋があった。
保健室である。
艶めかしげな吐息が、室内を満たしていた。
そこに時折、きし、とパイプベッドの軋む音が混じる。

「ん……っ!」

ぴくり、と反応。紅潮する頬。
酸素を求めて、喘ぐように唇が開く。

「はぁ……、あっ……!」

甘やかな吐息に、男の忍耐が限界に達する。

「くそっ……もう、我慢できねえ……っ」

切羽詰った男の声が狭い室内に響いた、その直後。


ガラリ、と扉を開ける音がした。

「……待ってろよ、彰」

扉口で立ち止まり、吐息に満ちる室内を振り返ったのは高槻である。
その目は、簡素なベッドの上で高熱に喘ぐ七瀬彰を、心配そうに見つめていた。

「ここに無いとなると、村まで出なきゃ、ならんからな……。
 しばらくの間、寂しい思いをさせちまうが……我慢してくれよ」

そう呟くと、そっと扉を閉める。

高槻が探していたのは、解熱剤、化膿止めの類であった。
発熱したまま長い時間を雨に打たれていた彰の体調は最悪と言えた。
休憩できる場所を求めて学校の校舎に辿りつき、保健室に寝かせてはみたが、前もって撤去されていたように、
薬の類は見当たらない。
せめてもの介抱と右腕の布を真新しい包帯に替え、濡れタオルを額に当ててみたりはしたものの、
繋いだ手から伝わってくる熱は、下がるどころか高くなる一方だった。
一向に良くなる気配を見せない病状に苛立った高槻が、近くの村まで薬を探しに出る決意をしたのが一時間前。
未練がましい目でようやく汗ばむ手を放したのが三十分前であった。
それから立ち上がり、扉までほんの数歩を歩くのに、やはり三十分を要した。
一歩を歩くごとに振り返って、離れたくない、だが許してくれと語彙の限りを尽くして繰り返していたからである。

後ろ手に扉を閉めた高槻が、涙を拭うと顔を上げる。

「……こうしちゃいられねえ。彰が苦しがってるんだ、急がなくちゃな」

言って、一歩を踏み出し、立ち止まりかけて、また走り出した。



七瀬彰が目を開けたのは、その直後である。
ぼんやりとした視界に映ったのは、白い天井だった。

「……ここは……?」

呟いた瞬間、悪寒と頭痛が意識の大部分を支配した。
艶めかしい喘ぎが、熱で荒れた唇から漏れる。
自分がどうやらどこかの屋内、おそらく学校の保健室らしき場所に寝かされているらしいと理解したのは、
それからしばらく経ってのことだった。

「あいつは……?」

目線だけを動かして、室内を見渡す。人影はどこにもなかった。

「いなくなって、くれたのか……」

言ってはみたものの、その可能性が高くないことは熱に浮かされた頭でも分かっていた。
自分はあの男、高槻に抱きかかえられたまま意識を失っていたのだ。
その後に高槻と遭遇し、自分を奪還してここに寝かせてくれた誰かがいるなどとは、
あまりにも楽観的に過ぎる想像だった。
あの男が何らかの用事でこの場を離れているにせよ、それは一時的なものである可能性が高いと、彰は考える。

「逃げ……なくちゃ……」

身体を起こそうとして、愕然とした。全身にまったく力が入らない。
負傷している右腕に至っては、まるで感覚が無い。指を動かすこともできなかった。
巻かれている包帯に、血と膿が滲んでいる。
ひどく腫れ上がっているのが、包帯越しにも見て取れた。

「くそ……」

力無く悪態をつくのが精一杯だった。
カーテンの隙間から窓の外を見れば、雨はすっかり止んでいるようだった。
分厚かった雲も切れはじめ、時折青空が顔を覗かせている。

「今しか……ないってのに……」

自分の身体を撫で回す、高槻の手指の感触が蘇る。
目を閉じておぞましさに身を震わせていると、突然、血塗れの顔が脳裏に浮かんだ。
自分が殴り殺した、名も知らぬ少女の顔だった。
もう何も映すことのないはずの、どろりとした瞳が、彰を見つめていた。

「ひ……あぁっ!?」

悲鳴と共に目を開ける。

白を基調とした簡素な内装が、静かに彰を囲んでいた。
左手で必死で口元を押さえ、どうにか吐き気を堪える。

「はぁ……っ、はぁ……!」

全身を覆う疼痛と悪寒、そして頭蓋の中をゆっくりと掻き回すような頭痛。
いっそ気を失ってしまえたら、どんなにかいいだろう。
そんなことを考える。
目を閉じればあの少女の顔が浮かんでくるような気がして、眠ることもできない。
自然と、涙が零れてきた。

「どうして僕がこんな目に……。僕らが……何をしたっていうんだ……!」

望んでもいない殺し合いを強制された。
人を殺した。日常が、永遠に失われた。
澤倉美咲の笑顔が、薄れていくように感じられた。

「美咲さん……そうだ、美咲さんは……?」

慌てて壁にかけられた時計を見る。
十時を少し回っていた。

「放送……聞けなかったな……」

高槻に聞けば、教えてくれるだろうか。
そう考えて、その程度のことですらあの男に頼らねばならない自分の境遇に、また涙が出てきた。
と。

「……?」

涙で滲んだ視界の端で、何かが動いた気がした。
ゆっくりと、目線を動かしていく。淡い光が漏れる、カーテンの隙間。

「―――っ!」

そこから、目が、覗いていた。
びくり、と彰が身体を震わせる。
目が、にまりと弓形に歪んだ。

 ―――こいつは初っ端から、思わぬご褒美があったもんだ。

目の主の、声だった。
彰がその言葉の意味を理解するより早く、窓ガラスが割れる音がした。



一方、その頃。
高槻は、まだ校舎の中にいた。
長い長い廊下を、ふらふらと歩いている。

「俺……俺は……薬、を……」

高槻は戸惑っていた。
どうして自分はまだこんなところを歩いているのか。
一刻も早く、近くの村へと向かって薬を探さなければならないというのに。

気がつけば、真っ直ぐ続いていたはずの廊下が、ぐにゃりとカーブを描いている。
このまま歩いていけば昇降口にたどり着くはずだった。
そのはずだったが、奇怪に歪んだ廊下がひどく嫌な臭いを発している気がした。
とてもその先に進む気にはならず、だから高槻は足を止めて辺りを見回す。

「……あっちなら……大丈夫、だろ……」

ぼんやりとした瞳で呟くと、高槻は再び歩き出した。
その先には、階段があった。

登っても出入り口などあるはずもない、その階段を高槻はゆらゆらと登っていく。

「どこまで……続くんだ……?」

一段一段が、ひどく遠い。
踊り場を、いくつも過ぎたような気がしていた。
ぐらぐらと不安定な足場を踏みしめながら、高槻は階段を登り続ける。

「あ……?」

唐突に、階段が終わっていた。
狭い踊り場の先に、重々しい鉄の扉があった。
ぎい、と音がした。
高槻の手が、我知らず扉を押し開けた音だった。

正面から吹きつけた風が、高槻の髪を揺らした。
眩しさに、高槻が目を細める。

青と灰色の、斑模様の空。
その空を背景に、一人の少女が微笑んでいた。

「―――電波、届いた?」

少女の声が、高槻を満たしていた。




【時間:2日目午前10時過ぎ】
【場所:D−6 鎌石小中学校】

高槻
 【所持品:支給品一式】
 【状態:彰の騎士】

七瀬彰
 【所持品:アイスピック】
 【状態:右腕化膿・高熱】

御堂
 【所持品:なし】
 【状態:異常なし】

月島瑠璃子
 【所持品:鍵、支給品一式】
 【状態:電波使い】
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