名雪の戦争




――静かな朝だった。いつも彼女が寝ている、よく知っている彼女の家で、穏やかな日常に相応しく、柔らかな日光が窓から降り注ぐ。
そして、起き上がった水瀬名雪はなんて酷い夢を見ていたのだろう、と思った。
たくさんの人が殺し合う夢だった。
いきなり訳も判らず武器を持たされ、見も知らぬ孤島へと放り出された。武器の内容は――よく覚えていない。きっと混乱していたせいだろう。
『夢の中の』島で襲われたことは鮮明に覚えていた。まず目つきの悪いいかにも凶悪殺人犯、というようないでたちの男に襲われ、次にナイフを持った歪んだ笑い方をする女に切りつけられ――
そして恐怖が限界に達して、意識を失おうかというときに母、秋子が助けてくれて――そこで夢が醒めたのだった。
随分と悪趣味な夢だった。いつもはまだ眠気が残っているはずの頭から、きれいさっぱりとお掃除したかのように眠気が吹き飛んでいた――最近、ホラームービーを見たわけでもないのに。
けれども、これが夢なのだと分かって、名雪は心からの安堵を覚える。いや、夢に決まっていたのだ。友達や家族で殺し合うなんて――そんなこと、現実に有り得るはずがなかったのだから。
「…あっ」
時計を見る。短針が八の数字、彫心は十一の数字を指しかけている――遅刻だ。ま、いつものことだけれど。
どうせなら、一回くらい思いきり遅刻してもいいかもしれない、と名雪は思った。こんな悪夢から覚めた朝なのだ。一日くらい戻ってきた日常の味を噛み締めても、バチは当たらないだろう。
「――けど、祐一を待たせるわけにはいかないよね」
いつものように名雪への文句を垂れている、その家族の姿を思い浮かべる。言葉が今にも聞こえてきそうで、名雪はふふ、と笑った。
そうだ、今日は祐一やあゆちゃん、真琴を誘ってみんなでイチゴサンデーでも食べに行こうかな。
理由は何でもいい。とにかく、みんなで楽しく騒いで、あの夢をワンシーンでも多く消し去りたかった。
「そうだ、それがいいよね」
ぽん、と手を叩いて自らの案に満足する。――そして、一刻も早くこのことを伝えようと、名雪は思った。
祐一も、あゆちゃんも真琴も、きっと頷いてくれるよね。

いつもより数段早いスピードで着替え、自分の部屋を後にし、きっと美味しい匂いが広がっているであろうリビングへ向かった。
「おはようございま…」
朝の挨拶をしかけて、名雪は異変に気付いた。
皆が皆、机に突っ伏して寝ているのである。まるでいつもの名雪のように。
「もう…みんな、どうしちゃったの? もう八時前だよ?」
そんな時刻に起きてくる名雪が言えた台詞ではなかったが、文句を言っておく。――しかし当然のように、皆返事をしない。よく見れば、食事もまだ作られていなかった。
「仕方ないなぁ…ほら、真琴、起きて」
手近にいた真琴を揺さぶって――すると、ぶしゅ、と真琴の背中から何かが吹き出し、名雪にまともに降りかかる。
「わ…っ!?」
一瞬、どうなったのか分からなかった。『それ』は何だか生暖かくて、そして赤い色をしていた。
「え? え…?」
目の前の異様な事態に対応できず、困惑した声を出しながら名雪は一歩、後ずさる。真琴は、いつのまにか床に赤い水溜りを作って――その中央に佇んでいた。
「ま、まこと? あ…あ、ど、どうしよう、どうなったの? お母さん…そうだ、お母さん、大変、真琴が、真琴が!」
同様に寝ている秋子に駆け寄りこちらも揺さぶろうとして――少し揺らした時、ゴト、と何かが外れる音がした。
「――え?」
信じられない光景。名雪の目の前で、我が母親の頭と胴がきれいに切り分けられていたのだ。
当然、秋子が生きているはずがない。
きれいなピンク色をしている首の切り口を見た瞬間、名雪の脳にあの恐ろしい悪夢がフラッシュバックする。
――嘘だ! あれは夢、ただの出来の悪い夢だったのに!
必死で否定するが、たちまち体に震えが広がっていく。何が何だか分からない。どうして、皆死んでいるのか。いや、でも、誰かがいない――
「あ、そ、そうだ、祐一が、祐一がいな、いないよ? ゆういち、どこ、どこ…?」

真っ白な頭で、それでもまだ僅かながらに残っていた祐一に助けを求める。
早く来て。一体何がどうなっているの――
恐怖に耐えかねて、しりもちをついたときに、ガタン、と玄関が開く音がした。
「ゆ…祐一?」
――そうだ! きっとそうだ! 祐一が私を助けに来てくれたんだ! ああ、それにお母さんや真琴を助けてもらわないと――
希望と絶望が入り混じり、泣き笑いの表情を浮かべながら玄関へと走る名雪。
「祐一っ! お母さんが、真琴が!」
顔についた『それ』を拭いもせず、ひたすら助けを求めて叫ぶ。
――だが、玄関にいたのは全身血まみれになり、傷だらけになっている祐一の姿であった。
「――う、な…なゆ…き、か」
「――ゆ、ゆう…祐一っ!」
言うが早いか駆け寄り、血がつくのも気にせず祐一の体を支える名雪。
「祐一っ、どうしたの、ねえ、一体何がどうなってるの、教えてよ祐一!」
「く、くそっ…痛てぇっ…に、逃げろ名雪、さつ、さつ、じん、き、が――」
力を振り絞るように祐一は言うと、そのままがっくりと項垂れ、動かなくなった。
「祐一っ!? 祐一ぃっ!」
一心不乱に体を揺すってみてもどうにもなりはしないのだが、それでもそうしないわけにはいかなかった。
だって、あれは夢、夢なのに――
きぃ、ともう一度扉が開く音がした。
「なんだ、まだ生き残りがいたのか」
夢の中で聞いた、凶悪な殺人鬼の声。そんな、まさか、という思いで顔を上げる。
間違い無い。確かにそれは、あの『夢の』中で見た、最初に出くわした――
「じゃあ、死んでもらうか」
――黒服の、目つきの悪い男だった。
そして、ゆっくりと手に握っていた拳銃を持ち上げ、名雪の額に押し当てる。
「じゃあな」
やけにリアルな音がして、名雪の意識が暗転した。
     *     *     *
目を覚ましたとき、そこにはあの黒服の男はいなかった。
何秒か経って、名雪はあれも夢だったのか、と認識するに至る。――とすれば。
寝汗で張りつく前髪を払いながら、恐る恐るカーテンの隙間から外を確認してみる。
――そこは紛れも無い、あの『夢の中』の世界だった。
「わたし、わたし…まだ、ここにいるんだ」

自分がまだ生きていることに、名雪は不思議な感慨を持った。先程見ていた本当の悪夢で、殺されていたからかもしれない。
「――そうだ、祐一」
思って、すぐに名雪の中であの光景が蘇った。
全身に傷を受け、ぼろぼろになって死んでいった祐一。
まだ無事な名雪を見て、逃げろと言って死んでいった祐一。
そして、同時に助けを求めていたようにも見えた祐一。
今、祐一はどうしているだろう? これが夢でないとするならば――
これは続いている、まぎれもなく続いている。
そして、この瞬間にも、祐一はあの黒服のような人間に襲われ、命を落としかけているかもしれない――そう思うと、名雪の体に震えが走る。
「嫌…そんなの、絶対に嫌だよ…」
七年前のあの雪の日から、ずっと祐一の事を想い続けてきた。それはこんな狂った状況でも変わりなく。
会いたい。抱きしめたい。言葉を交わしたい。一緒にいたい――
祐一に対する欲望と失う絶望が入り混じり、さらに悪夢の影響で、名雪の精神はかなり擦り切れていた。さらにこの部屋の暗闇が、恐怖を増長する。
――それが、名雪に錯覚を起こさせた。
『わたし、わたしはどうしたいの?』
「…えっ?」
部屋のどこからか聞こえてくる、妙に懐かしい声。それが、昔の自分の声だと気付くまでに、数秒を要した。
『正直に答えて。ね、わたしが一番したいことって、なあに?』
どうしてこんな声が、と考える余裕はすでに名雪にはなかった。心のままに、名雪は答える。
「…祐一と、一緒にいて、いつまでも、一緒にいたい」
『そう、だったら、そうできるようにしようよ』
「そうできるようにって…わたし、どうすればいいの?」
『簡単だよ。わたしと、祐一以外の、みーんなを殺しちゃえばいいんだよ。そうしたら、何に怯える事もなくなって、いつまでも大好きな祐一といられるよ』
「みんなを…殺す…」
それは、今まで思いつきもしなかった魅力的な提案だった。

――この時、名雪は見つづけた悪夢のせいで既に正気を失っていたのかもしれないが、それでも、まだいる同居人の存在を思い出して、ぎりぎりのところで踏みとどまった。
「で、でも…まだ、お母さんや、真琴もいるし…」
『そんなの後にしちゃえばいいじゃない。――それに、もう、真琴だって殺されてるかもしれないよ? お母さんだって、分からないよ?』
確かに、そうだった。名雪が殺さなくても、祐一を殺そうとする殺人鬼が真琴や秋子を襲わない保証などどこにもない。
『ね、やろうよ。祐一を守るために』
よりいっそう、耳元で囁いたように大きな声になる。ほとんど、名雪の良心が消えかけていたところに――
「――みなさん聞こえているでしょうか。これから第2回放送を始めます。辛いでしょうがどうか落ち着いてよく聞いてください。今までに死んだ人の名前を発表します」
男の声が、いきなり聞こえてきた。死者の発表。それにはじかれるように、全神経を集中してその放送に聞き入った。
次々と、読み上げられていく死者の名前。そして、その中に――
「――52番、沢渡真琴」
その名前で、名雪の中にある何かが切れた。
そこに追い撃ちをかけるように、声が呟いた。
『――ね、言った通りだよ。もう真琴も殺されちゃった。だから、みんな、殺そ?』
その囁きに、名雪はゆっくりと頷いた。
「うん、そうだね、それしかないよね。わたしが頑張らなきゃ…わたしが頑張って、ゆう、いちを、守らなきゃ」
今までとは打って変わったような力強い足取り。妙に落ち着き払っている呼吸。――そして、取り憑かれたかのような、濁った、狂気を孕んだ瞳。
殺す、殺す、みんな、殺す――
水瀬名雪の思考は、人を殺す、ただその一点に絞られていた。
     *     *     *
名雪が狂気に彩られる少し前。放送の直前になって、るーこと澪の二人が起きだしてきた。
「…うーへい、どうして起こしてくれなかった」

開口一番、るーこが言ったのは交代で見張りをすると言っておきながら朝まで替わらなかった春原に対する不満の声だった。
「嘘つきだぞ、うーへい。嘘は『るー』ではとても思い刑罰だ。首ちょんぱになる」
冗談じゃなさそうなるーこの語気に、春原は冷や汗を浮かべて弁解する。
「い、いや、起こそうとはしたんだけどさっ、あまりに気持ち良さそうに寝てたから起こすに忍びないと思ったというか、無我の境地で見回りしてるうちにいつのまにか夜明けを迎えたというか…」
必死に身振り手振りを交えてるーこの機嫌を取ろうとする。ああ、こういうのを何と言ったか。そうだ、蛇に睨まれたカエルか? いや、違うような…
「まあまあ、陽平さんは好意でやってくださっていたんですからここは大目に見てあげましょう? これから朝食を作りますから気を取りなおして下さいね」
夜明けまで主に外の見回りをしていた秋子が戻ってきて、るーこを諭す。年長者の言葉だからか、渋々ながらもるーこは素直に聞き入れ、分かった、と言った。
「けど、次からは必ず見張りは交代だぞ。うーへいにだけ重荷を背負わせるわけにはいかない」
見ると、るーこの目には本気で春原の事を心配している、そんな感じがしていた。
「るーこ…」
朝日が差し込む民家に流れる、ほんのりとした甘い空気。ビタースウィートなカップルの惚気、今なら特売、お安くしていますよ――そんな空気に耐えかねたのか、澪がこっそりとスケブで愚痴る。
「『バカップルなの』」
一方の秋子は、まるで気にした様子もなく、見張りをしていたときの武器をテーブルに置き、いそいそと朝食作りに励んでいた。
「…そうだ、一つ重大な情報があるぞ」
しばらく春原と見つめ合っていたるーこが、思い出したかのように言葉を発し、ため息をついていた澪の肩に手をかける。
「うーみおもこれから一緒に行動することになった。よろしくしてやれ、うーへい」
「え? 澪ちゃんも一緒に?」
昨日は外に出るのを躊躇っていたのに。気付かない間にるーこが説得していたのだろうか。
「『足手まといにはならないように努力するの』」
別にそんなことは気にしていなかったが、けれども、とにかく一歩踏み出してくれる勇気を持ってくれてよかった、と春原は思った。
「いいよ、大歓迎さっ。秋子さん、いいですよね?」

「了承」
一秒だった。決断の早い人だなあ、と春原は感心する。が、「ただし」と秋子が付け加える。
「くれぐれも無茶はしないでね。いい?」
うんっ、と澪が大きく頷く。それに満足したように微笑みを浮かべると、秋子はまた朝食を作り始めた。
「そうだ、これを返しとくよ」
話が一段落したのを見計らって、春原がウージーをるーこに手渡す。
「いいのか?」
「いいも何も、元々るーこの支給品じゃないか。僕はこっちで十分さ」
リビングの隅にまとめてあるデイパックから、本来の支給品であるスタンガンを取り出す。最大で100万ボルトもの電圧を生み出すそれは、人を殺すまでにはいかなくとも一発で気絶させられるだけの威力を備えている。
正直なところ、銃は向いていないと春原は思っていた。撃ち損じて致命傷になってしまったら取り返しがつかない。
その点はるーこも同じだが、まあ、彼女なら間違いはないだろう。勘だけれど。
スタンガンを取り出した時に、聞くのは二回目となる、あのくぐもったスピーカー音が響き渡った。
「――みなさん聞こえているでしょうか。これから第2回放送を始めます。辛いでしょうがどうか落ち着いてよく聞いてください。今までに死んだ人の名前を発表します」
一気に、その場にいた全員が氷漬けになったように、動きを止めていた。秋子すらも、包丁を止めて放送に耳を傾けていた。
少し間を置いた後、よく聞いておけと言わんばかりのゆっくりとした声で名前が読み上げられていく。
春原は心中で妹の無事を願う。頼むぞ、頼むから生きていてくれよ。
妹が、芽衣が自分より先に死ぬはずがない。何たってあいつは要領がいいし、それに性格からして危害を与えるような奴じゃない。大丈夫、大丈夫――しかし、どこかで、もしかしたらという危惧はあった。
そして、それは現実のものとなる。

――春原芽衣

あ…と、春原の口から声にならない声が出た。嘘だろ?あの出来のいい妹が、自分より先に逝ってしまうなんて――しかし、これは現実、まぎれもない現実である。否定できなかった。
だって、春原達は既に巳間良祐という人間に襲われて命からがら逃げてきたのだから。
「…うーへい」
春原、という名字で全てを察したのか顔を、どこかのしがない画家が描いた絵画のようにしている春原に何か声をかけて慰めようとする。


――深山雪見

「なっ…」
今度はるーこが、そして澪が絶句する。澪はスケッチブックをごとん、と取り落としていた。
せんぱい、とこちらは口だけをぱくつかせ(実際澪は声が出せないのだが)、血の気の引いた顔で壁に体をつけて、へたり込んだ。
一方の秋子も、内心動揺は隠せなかった。沢渡真琴が死亡していた。あのこは、とても大切な家族、そう、何が何でも守りたい内の一人であったのに。
それでも、秋子は平然としているように振舞わなければいけなかった。自分は年長者だ。皆の模範となって、落ちつかせなくてはならない。
「陽平さん、澪ちゃん…どうか、気を落とさないで下さい」
何と陳腐で、心のこもっていない言葉なのだろうと秋子は思ったが、それでも気を取り直してもらうにはとにかく言葉をかけなければならない。
「――ねえ、秋子さん、僕の行動って…やっぱり間違っていたんですかね?」
先に反応したのは、春原だった。
「思うんです。やっぱり、自分一人だけでも先行して、芽衣を探しに行けば…どこかで、見つける事が出来たんじゃないかって」
涙声だった。頬を伝うものを拭おうともせずに、ひたすら懺悔室で罪を告白するように。言葉を並べる。
「そんなの、可能性の一つにしか過ぎないってのは、バカな僕でも分かります。ですけど…やっぱ、こんなにあっさりと名前が読み上げられると…間違っていたんじゃないかって思わずにはいられないんです」
「…それは違う、うーへい」
首を振って、るーこが春原の首に手を回し、息がかかるかかからないかのところまで、顔を近づけていた。
「間違っていない、絶対、うーへいは間違っていないぞ。るーはうーへいが間違ってないと、信じてる」
理由も何もなかった。しかし、そんなに自分を責めないで欲しい、と言っているように春原には聞こえた。自分一人だけで、苦悩を抱え込むな、と。
るーこは、だから、と一旦言葉を切ってから顔を少し離し、目と目をつき合わせる。
「信じろ、うーへい」

何を? と以前の彼なら言っていただろうが、今はるーこの言わんとしていることが分かる。
行動を、思いを、仲間を、そして、生きて帰れる事を。
「――ああ、そうだね…芽衣もこんな僕の姿なんて望んじゃいないはずだ。それに…まだこの放送では藤田や川名はまだ呼ばれてない…あいつらだって、きっと頑張ってるはずだ。澪ちゃん、まだ川名は探せる。まだ川名は死んでないんだ。行こう、探しに」
それまで、ずっと口を閉ざしていた澪に声をかける。まだ雪見の死のショックから立ち直れていないのか(それも普通は当たり前であるが)、ぼろぼろ涙をこぼしていた澪だが健気にそれを拭って、うんっ、と頷いた。
秋子はそんな彼らを見ていて、きっとこの子達なら、わたしがいなくても大丈夫ね――と、心中で思っていた。想像以上に彼らの精神は強い。引き止める理由など、ない。
「…でも、その前に腹ごしらえしたいね。さっき泣きまくってたせいで腹減ったな…はは、カッコ悪い」
心持ちなさげに腹部を押さえる春原。それで少し緊張がほぐれたのか、澪も少しだけ笑みを見せた。
秋子が、「あらあら、それじゃあすぐに作りますね」と言い、再び料理を始めようとしたときだった。
澪の背後から、人影が現れた。
「…おっ? 秋子さんの娘さんの…なゆ」
現れた名雪に声をかけようとした春原が、彼女の異変に気付いた。いや、それは予感に近いものであった――雰囲気が、何かまともじゃない!
「澪ちゃん! 逃げろっ!」
えっ、と澪が背後の名雪を振り向いたときには、既に名雪が、秋子のデイパックから持ち出していたスペツナズナイフが、澪の胸部に深々と突き刺さっていた。
そのまま、名雪はぐりっ、と無理矢理ナイフを上に押し上げて澪の生命を完膚なきまでに削り取った。
最後まで何が起こったのか理解できないまま――上月澪は、目を見開いて、死んだ。
「う…うーみおっ! …貴様っ! よくもっ!」
ウージーを構え、今すぐにでも発砲しようとするるーこを上からウージーを押さえつけて動きを制する春原。

「何をする! こいつに、うーみおが、うーみおがっ!」
「やめるんだ! 今ここで撃ったら、秋子さんまで敵に回すことになるぞ!」
ハッ、として背後の秋子を見やるるーこ。――そこでは、秋子が呆然とした顔で、それでも本能的にとった戦闘体勢は崩さぬまま、春原達の方向を向いていた。
空間的には、水瀬親子に囲まれていることになる。状況は、春原側の方に不利だった。
「くそっ」
るーこが毒づき、秋子の方へウージーを向ける。発砲はしないが、牽制は怠らない。
ピクリ、と秋子の体が動きかけて、それを何とか押し留めるようにして、震えた声で名雪に話しかける。
「――名雪? 今、いま、一体…何をしたの?」
その声はただ震えていた。名雪が、まさかこんな蛮行に走るとは思いも寄らなかったからである。
さてその水瀬名雪と言えば、いたって冷静な――むしろ感情を殺したような、冷たい目線を秋子に向けて、
「何してるの、お母さん? 早くその人たちを殺してよ。敵だよ? この人たち」
何をボサッとしているのか、というような口ぶりだ。秋子はその一言で、名雪がもう二度と取り返しのつかない世界へ入ってしまったのだ、と知る。
「やめて…名雪。ね、いい子だから…お願い、お母さんの言う事、聞いて?」
それでも、秋子は説得を試みる。我が子が、殺人鬼になってしまうなど耐えられない事だったからだ。
しかし当の名雪は、半ば懇願している秋子を見捨てるように「もういいよ」と吐き捨てた。
「じゃあ、わたし一人でやるよ。結局…祐一を守れるのはわたしだけなんだから!」
血に染まったスペツナズナイフで春原に突進する名雪。陸上部の部長という肩書きは伊達ではなく、一瞬にして距離を詰める。
ロケットだ、と春原は思った。400馬力のハイパワー。お買い得だと思いますけど、お客さん?
「冗談キツイっての!」
ヘッドスライディングの要領でナイフを回避して澪の死体が転がっているところまで逃げた。
そこで、解剖されかけたカエルのような澪の死体が、春原の目に入る。ちくしょう、ホラームービーだ、まるで。ついさっきまで、言葉を交わしてたっていうのに!
「うーへい!」
るーこは動けなかった。春原を援護すれば秋子が動く。秋子が動かないのは、まだ春原やるーこに対する保護者としてのストッパーが働いているからだ。だが、それはいつ外れるか分からない。
わずかな動きで、いともたやすく外れてしまう。
攻撃を外した名雪はと言えば、るーこを狙う事なくすぐに反転して春原に斬りかかる。動けないるーこよりも動ける春原の方が脅威と判断したからだ。

「くそっ! るーこ、こらえてくれっ! 僕が必ずなんとかするっ」
必死で名雪の斬撃を回避しつつ、スタンガンのスイッチを入れた。後は、当てられさえすれば!
腕を伸ばし、スタンガンを押し当てようとするが、しゃがまれて下から斬りつけられた。今までに経験した事のない、ホンモノの痛みが春原の腕から神経を伝わり、脳へ届いた。
「〜〜〜〜〜〜っ!」
スタンガンを取り落としかけるほどの激痛。だが、手放しはしない。これは名雪を傷つけずに倒せる、唯一の武器なのだから。
「好き勝手にされてたまるか!」
攻撃直後の隙を狙いスタンガンを振り下ろそうとして――名雪が、スペツナズナイフを奇妙な持ち方をしているのに気付く。柄の部分を、まるでスイッチを押すような持ち方だ。刃の先は、当然春原の方を向いている。
朝で薄暗い部屋の中だというのに、それはやけに輝いて、春原の目に写っていた。
タン、と軽い、まるでばねのおもちゃのような音がして、ずぶりと肺の部分に何かが突き刺さる。
――ナイフの、スペツナズナイフの刃だった。
「そんな…仕込みナイフかよっ…ついてねえや」
ひゅー、ひゅー、と呼吸が荒くなる。口にも何かが込み上げ、舌が鉄の味を感じ取る。やがて、足が感覚を失って、春原は床板にどさりと倒れこんだ。
「そ…そんな、うーへいっ! 冗談はやめろっ!」
今すぐにでも駆け寄りたかったるーこだが、それはできない。何故なら、水瀬名雪が春原との間に立ち塞がっているからだ。また、秋子の存在もあった。
その名雪は、柄だけになったスペツナズナイフを投げ捨てて、今度は机の上に置いてあった――料理を始める前、秋子が置いていた――ジェリコ941をおもむろに手に取り、るーこに標準を合わせた。
「くそっ…!」
ウージーの標準を合わせようとするも、既に構えている名雪より先に発砲出来るはずもなかった。
ここまでか、とるーこは思った。
しかし名雪の発砲は、バチッという甲高い音と共に中断された。名雪の体が硬直し、でく人形のようになる。そして、その音の原因は。
「――言ったろ、好き、勝手に、させるか…って」
肺の部分から盛大に血を流し、口から血を吐きながらもここまで這いずって来た、春原陽平だった。手には、スタンガンを持って。
言い終えた直後、肺から突き上げてくる痛みに耐えきれず、口から大量に血が吐き出され、春原はまるで他人事のように、あ、こりゃ死んだな、と思った。
「うーへいっ! 大丈夫か、しっかりしろっ、るーが助けてやるぞ!」
ぼんやりしていて、るーこの顔がよく見えなかった。――ああ、いや、焦点が合ってないのか。頼むよ、僕の目。ボロのカメラじゃないんだから。
「安心しろ、るーの力で…そんな傷なんて…だから死ぬなっ、うーへいっ、うーへい…」

るーの力というのが何のことだか分からなかったが――もうどうでもいいや。それより、女の子がそんな顔してちゃだめだろ? 台無しじゃないか。
…いや、これって僕のせいだよね、ちくしょう、最後に女の子泣かせるなんて、なんてカッコ悪いんだよ。ああ、くそっ、そんなバカなことを考えてる場合じゃないんだ、逃げないと、出来るだけ遠くに。
「も、もう…僕の事は…いいから、武器と、にも、つを持って、ここ、から、逃げろ」
「そんな事が出来るか! 約束しただろう、生きて帰るって、また、うーさきや、うーひろと…合流して…」
死に際になって、初めて春原はるーこの、ものすごく女の子らしい側面を見たと思い、それから、るーこが好きだったことに今更気付いた。グレイト、なんて要領の悪い。
「はっ、は…肺を…やられてる。こ、こればっかりは…ブラックジャックでもどうしようもないさ…だ、だだだ、だからら、たのた、頼むよ、僕ののの、かわりに――」
唇が震えて、まるでビビったチキン野郎のような声だった(あ、そりゃ正しいのか)。けれども、最後の言葉だけは、はっきりと伝えなくちゃいけない。これはとても、大事なことだ。
「――最後まで、戦ってくれよっ」
言えた。僕にしてはいい出来だったんじゃないか? そう思って、春原は笑みの形を浮かべた。
それをどう受け取ったのかは分からないが、ともかく、るーこは、「…分かった…」と感情を押し殺すように呟いて、部屋の隅に置いてあった春原とるーこの荷物を引っ掴み、澪の死体を乗り越えて屋外へと逃走した。
残ったのは、春原と、気絶した名雪を抱きかかえている秋子だった。るーこが逃亡したのを見計らったように、秋子が何事かを呟いたが――既に春原の耳はそれを捉えることが出来なくなっていた。
だんだん、心臓の音も鼓動の感覚が広くなってきた。もう、一分と経たない内に、死ぬだろう。
――思った。クソ、芽衣、もうお前のところまで行きそうだよ。ついさっき生き残るって決意したってのに。
――思った。るーこ、お前には死ぬよりつらいことを背負わせてしまったかもな、ごめん。
――思った。岡崎、杏、ざまあねえや。
――思った。ああ、美味いメシが、食いてえっ…せめて、僕は――
そこまで思ったときには、彼の心臓は、活動を停止していた。まだ思い残すことがあったのか、決して満足な顔ではなかった。



こうして、春原陽平は、ここで息絶えたのだった。




【時間:2日目6時30分】
【場所:F−02】

水瀬秋子
【所持品:木彫りのヒトデ、包丁、殺虫剤、支給品一式×2】
【状態・状況:健康。主催者を倒す。ゲームに参加させられている子供たちを1人でも多く助けて守る。ゲームに乗った者を苦痛を味あわせた上で殺す】
春原陽平
【所持品:スタンガン・支給品一式】
【状態:死亡】
ルーシー・マリア・ミソラ
【所持品:IMI マイクロUZI 残弾数(30/30)・予備カートリッジ(30発入×5)、支給品一式×2】
【状態:民家の外へ逃亡。服の着替え完了】
上月澪
【所持品:フライパン、スケッチブック、ほか支給品一式】
【状態・状況:死亡】
水瀬名雪
【持ち物:IMI ジェリコ941(残弾14/14)、GPSレーダー、MP3再生機能付携帯電話(時限爆弾入り)、赤いルージュ型拳銃 弾1発入り、青酸カリ入り青いマニキュア】
【状態:肩に刺し傷(治療済み)、気絶。マーダー化】

【その他:スペツナズナイフは刃が抜け、床に放置されています】
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