御許に安らけく 憩わしめたまえ




己がこれまで存えてきた理由を、ボタンは考えている。
天を翔けていた。誉れ高き神の乗騎と信じ、輝く日々を生きていた。
単なる愛玩道具に過ぎなかったのだと思い知らされたのは、黄昏を越えた最後の神族が、
とうの昔に唯一者に狩られていたと聞いたときだった。



魔犬は、己の血を鍵として大地に呪をかけた。
見限ったのだと、ボタンは思う。
神なき世を、主なき身を、終わりなき時を。
続き続ける苦痛を、存え続ける恥辱を、望み続ける絶望を、あれは手放したのだ。
血は流れ続け、魔犬は生き終わろうとしている。
待つものとてない黄泉路の道連れに、つまらぬ塵芥を供として。

それがいたたまれず、聖猪はその場を後にしようとしていた。
泥に塗れ、己が血に塗れた魔犬の姿は、明日の己だった。
薄汚く死を待っている、それを認めるのが煩わしくて、ボタンは目を逸らす。

放っておいても、呑まれるのは雨と泥と、血と狗だ。
無意味な死。空虚な呪詛。理解できない、結末。
狗の選んだ、それが葬列だというのならば、最早この場は何ももたらさない。

視線を上げたそこに、鬼斬りの少女が立っていた。



右手には、抜き身の刀。
大蛇の尾が刺さった刀身を引きずっていた。
幽鬼と見紛わんまで生気を失った少女が、ゆらりと歩を進める。
制止しようとする聖猪の声にも、何ら反応を返さない。

ひび割れ、血を滲ませたそこだけが赤い、青紫色の唇が、小さく動く。
爪、呑まれる、そう繰り返しているようだった。
半ば虚ろなその瞳は、ただ一点を見つめている。
歩みの先にあるのは、黒く盛り上がった土塊の如き躯。
両断された、鬼の遺骸だった。

ずるり、と足を引きずりながら、少女が鬼へと取りつく。
抱きしめるように、あるいは口づけをするように身体を預けると、少女は赤黒い血のこびりついた右手を、
ゆっくりと持ち上げた。退魔の刃が、雨に濡れて煌く。
無造作に振り下ろされた刃が、細かく皹の入った鬼の手首へと差し入れられる。
最早流れ出る血もないものか、小さな皮膚の欠片だけがぱらぱらと散らばった。

差し入れ、引き戻し、鋸を引くように、少女は徐々に鬼の手を切り裂いていった。
その間にも、鬼の躯は周囲の泥濘ごと呪詛の渦へと引きずられていく。
その様を、ボタンはじっと見つめていた。

それは、生に倦んだ死を、踏み拉くかのような、命のあり方だった。


一刺しごとに、鬼の手首が裂けていく。
皹は傷となり。
傷は輪となって。
ついには、鬼の手が、千切れた。

己の顔を覆うほどの大きな手を、少女が大事そうに抱きしめる。
その身体が、ぐらりと揺れた。
少女が身体を預けていた鬼の躯が、渦の中心に達していた。

地に空いた、薄暗い、小さな穴。
そこから、魔犬の顔だけが、覗いていた。
牙が、鬼の躯を噛み砕く。
ひと噛みで、両断された顔の上半分が失われていた。

うまそうに、狗が喉を鳴らす。
ただ一声、怨、と哭いた。

鬼の腕が、噛み裂かれた。
肩が、飲み込まれた。

揺れる足場に、少女が倒れた。
もとより、立ち上がる力とて残ってはいなかった。
狗の顎が大きく開き、涎が糸を引いた。

少女の瞳が、並んだ牙を映した。
頤が閉じる。

刹那、小さな光が奔った。同時に、じ、と布の焦げる臭い。
そして、肉の焼ける匂いがした。
狗が、吼える。




地面に転がったのは、少女、川澄舞だった。
受身も取れず、顔からぬかるみに落ちる。
それでも手は、蛇の尾の刺さった刀と鬼の手を抱きしめて放さない。

眼に入った泥を拭おうとして、泥に塗れた袖ではそれも叶わず、空を見上げて入る雨粒で眼を洗う。
ぼんやりと下ろしたその霞む視界に、奇妙な光景が映っていた。

地面に空いた、小さな暗い穴から、大きな犬の頭だけが突き出ている。
その頭だけの犬が、黄金に輝く猪の首筋に、しっかりと噛み付いていた。
傷口からぶすぶすと煙が上がっているが、犬はその牙を緩めない。
溢れ出る血潮が、白銀の犬の毛、泥に塗れたその毛皮を洗い流していく。

小さな声が、した。
とめどなく血を流す、猪の声のようだった。

殺してくれ、と。
震える声で、猪は言った。

死にてえのよ、と。
震える、それでも確かに笑みを含んだ声で。
苦しそうに、楽しそうに、猪は輝いていた。

舞が、大蛇の刺さったままの刀を、時折痙攣する手で持ち上げる。
跪くように、上体を起こした。
切っ先を下に向け、猪の腹へと静かに押し当てる。

ありがとうよ、と。
小さな声が、聞こえた。

柄頭を肩に当てる。
そのまま大地に身を任せるように、体重を刀に預けた。
身を焦がす炎熱を放つはずの毛皮は、何の抵抗もなく刃を受け容れていた。

ずるり、と。
猪を貫いた刃が、そのまま犬の首を、一刀の下に断った。

それが限界だった。
断末魔の声を聞くこともなく、川澄舞はその場に崩れ折れていた。




命の終わりを感じながら、ボタンはひどく満たされている自分に気づいていた。
長い時間の中で記憶の彼方に置き忘れてきた、それは高揚だった。

 ―――ああ。我らは、ただ戦の中で、死にたかったのだ。

それは、ひどくちっぽけな、自尊心だった。
生まれ、生きることに意味を見出し損ねた自分達は、ならば死をもって主に殉じたかった。
ただ、それだけのことだった。

狗も死に際に笑うはずだと、内心で苦笑する。
互いに、こんな簡単なことにも、気づかなかったのだから。
その狗はといえば、退魔の刃に頭蓋を断たれ、一足先に旅立ったようだった。
怨嗟の渦も、既にその力を失っている。

傍らに倒れ伏す少女、雨に打たれるその小さな身体を、聖猪は見やる。
生き延びることは難しかろうと、そう思う。
何を望んだのかは知れぬ。
しかし少女は生の限り、人の身の限りを超えて、何かを追い求めていた。
その姿が、この生き終り方を思い出させてくれたのだとしたら、己は少女に報いねばならぬと、聖猪は思う。
しかし、残された力はあまりにも小さく、何程のこともできそうにはなかった。

ならばせめて、その身体を蝕む寒さから解き放ってやろう、と。
聖猪は最後の力を振り絞り、小さな焔を作り出す。
風に揺らめくその焔は、しかし雨に打たれても消えることはなかった。
蒼くも、朱くも見える小さな灯火は、ゆっくりと少女の身体へと吸い込まれていった。
ほんの微かに身じろぎする少女。
それを見届けて、聖猪は目を閉じる。

少女が、その生の最期に良い夢に恵まれることを祈りながら。
ボタンは、長い生涯を、終えた。




 【時間:2日目午前6時すぎ】
 【場所:H−4】

ボタン
 【状態:死亡】

ポテト
 【状態:死亡】

川澄舞
 【所持品:村雨・支給品一式】
 【状態:瀕死(肋骨損傷・左手喪失・左手断面及び胴体部に広く重度の火傷・重度の貧血・奥歯損傷・意識不明・体温低下は停止)】

柏木耕一
 【状態:死亡】
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