咆哮 -Heart of the Maelstrom-




ポテトが、受身も取らず地面に叩きつけられる。

「―――ッ……!!」

毛皮の先についた幾つもの炎が、水に濡れて煙を上げた。
立ち上がることもできず、ただ足先を痙攣させるポテト。
勝利を確信したボタンが、舞へと視線を移す。
蒼白の少女は、刀を杖がわりに突いて震える身体を支えながら、自らの手で切り落とした
魔犬の尾の元へと歩み寄ろうとしていた。

「おい、嬢ちゃ―――」
「……待つ、ぴこ……!」

よろけながら歩く舞の背に声をかけようとしたボタンが、ゆっくりと振り向く。
ポテトは、全身の毛を焦がし、あるいは未だに煙を燻らせながら、必死で起き上がろうとしていた。

「……寝てろよ、駄犬」
「まだ……まだ、戦いは終わってなどいないぴこ……!」

がり、と地面を掻きながら、ポテトが顔を上げる。
口から離そうとしない杖の先が、地面を擦った。
そんな姿を見て、ボタンが冷ややかに告げる。

「……いいや。もう、終わってる」
「なんだと、ぴこ……?」

ボタンの目は、魔犬の銜えた杖を捉えていた。
その先端につけられた、大きな珠を指すように、顎を振る。

「よぉっく、見てみな」
「―――ッ!? な……なんだ、ぴこ……これは……!?」

それは、小さな罅であった。
言われなければ気づかないほどの、小さな小さな傷。
爪で引っ掻いたような痕が、宝珠の表面についていた。
ポテトの声が、これまでにない焦りの色を帯びる。

「あ、あり得ないぴこ……! 我が神のおわす杖に……傷などつくはずがないぴこ……!」

呟きながら、何度も何度も首を振るポテト。
眼前の現実を認めたくないというようなその素振りを、ボタンはどこか悲しげな瞳で見つめていた。
静かに、口を開く。

「―――そろそろ、幕引きといこうや、兄弟」
「な……ッ!?」

眦を逆立てたポテトの眼差しを真っ向から受け止めて、ボタンが続ける。

「……神なんざ、もういねえんだよ。どこにも。
 霜の巨人の壁の向こうにも、テメエの杖の中にも、な」
「そんなことは……ッ!」
「わかってる、ってか? いいや、テメエは分かってねえ。何一つ、分かっちゃいねえ。
 神話の時代は終わった。神々は去った。俺達は取り残された。
 口ではそうやって繰り返しちゃいるが、心の底じゃ、決して認めようとしねえんだ。
 いつか。きっと。……そんな言葉にすがって、生き恥晒してんのは俺だけじゃねえ。
 テメエもだ。テメエもそうなんだよ、兄弟」

兄弟、と聖猪は告げた。

「誰も言わねえなら、俺が言ってやる。
 誰も彼もが行っちまって、俺しか残ってねえなら、俺が引導を渡してやる」

魔犬は、無言。

「神は、死んだ」
「……」
「もう、戻ってこねえ」

どこまでも静かに、神話の獣が。

「俺達は、生き終わり損ねたんだ」

時代の終わりを、口にする。

「……ここらが、潮時だろうぜ」
「……」

梢を叩く雨音が、微かに響いていた。

「―――と、ぴこ」
「……?」

雨音に紛れて、ポテトが何事かを呟いた。
耳をそばだてたボタンに向けて、ポテトは今度こそ、はっきりと口にした。

「生憎と、ブタの言葉は心得ていないぴこ」

言葉と同時。
顔を上げたポテトが、大きく頤を開いた。
ボタンが飛び退いてから一瞬だけ遅れて、吹雪の白が辺りを満たした。

「ぴ……ぃぃぃぃぃぃぃィィィィィィ―――こぉぉぉォォォォォッッ!!」

魔犬の咆哮が、森を包む。

吐き散らされた吹雪に、木々が、雨粒が、凍りつく。
立ち上がることもままならぬその身を泥濘へと投げ出しながら、ポテトは渾身の力を込めて
周囲を極寒の世界へと変えていく。

「んな身体で今更、何をしようってんだ……!」

距離をとったボタンの言葉には応えず、ポテトは大きく開いたままの顎を、そのまま下に向ける。
小さな音がした。
長い、長い間、決して離すことなくポテトに銜えられていた魔杖が、地に落ちた音だった。
泥が撥ね、杖を汚す。

「なッ……! テメエ、何を……!?」

刹那、ポテトが視線を上げた。
その表情は、ボタンの目には、笑っているように、映った。

次の瞬間。
大きく顎を開いたポテトは、その鋭い牙を、自らの前脚に突き立てていた。
骨と骨が当たる硬い音が、そしてすぐ後にはそれを噛み砕く重い音が、雨音に混ざった。

「まさか……! おい、やめろ駄犬!」

驚愕と困惑の入り混じったボタンの声にも耳を貸すことなく、ポテトは己が右足に牙を食い込ませていき、
ついにはそれを喰い千切っていた。間を置かず、左の前脚に喰らいつく。
噴き出す血が、雨に溶けて魔犬の全身を、地に落ちた魔杖を緋色に染め上げていく。

ボタンが黄金の光弾となって飛び出そうとするが、間に合わない。
重く、湿った音と共に、ポテトは己が二本めの脚を、噛み千切った。
迸る鮮血が、泥に覆われた大地に吸い込まれていく。

慟哭にも似た魔犬の咆哮が、ボタンの耳朶を打った。
それは、紛うことなき呪詛。
肯んじ得ぬ世界への、訣別の声だった。

瞬間、空気が変わった。
ずるり、と風が吹く。
大気ばかりではない。雨粒、泥濘、塵芥といったものが、一斉に動き出していた。
渦を巻くように、それらは螺旋の紋様を描き出す。
その中心にあるのは、魔犬の血に染められた大地。
そして、倒れ伏しながら哭く、魔犬自身であった。

渦は瞬く間に勢いを強めていく。
周辺のあらゆるものが、渦に引きずられ始めていた。




 【時間:2日目午前6時すぎ】
 【場所:H−4】

ボタン
 【状態:聖猪】

ポテト
 【所持品:なし】
 【状態:魔犬モード・尾喪失・両前脚喪失】

川澄舞
 【所持品:村雨・支給品一式】
 【状態:肋骨損傷・左手喪失・左手断面に重度の火傷・出血停止も重度の貧血・奥歯損傷】
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