CRISIS




ご、と鈍い音がした。
拳が、肉を食む音だ。

松原葵の拳が月島拓也の胴を、肝臓の上から正確に叩く。
崩れ落ちる拓也。しかし、すぐにゆらりと起き上がる。

「……ぅ……ぃほぉぉぉ……」

言葉の体をなさない、不気味な唸り声。
声が出せないのだ。
拓也の顔面は、既に原形を止めていない。
ぶよぶよと膨れ上がった、青黒く、それでいながら赤黒い、気味の悪い塊の中から、
どろりと濁った一対の眼だけが葵を睨みつけていた。

「……ぅぅぅぅ、ぃほぉぉぉ……」

言葉にはなっていなくとも、何を言おうとしているのか、葵にはよく分かっていた。
瑠璃子。拓也の、妹の名だった。
瑠璃子。瑠璃子に手を出すな。瑠璃子には触らせない。瑠璃子、僕が助けてやるからな。
そう、言おうとしているのだろう。
葵の眼前に立つ男は、何度も何度も、その名前を繰り返していた。
殴り、蹴り、折り、潰し、砕き、常人ならば立てるはずもない、痛覚だけで絶命していても
不思議のない損傷を加えられながら、それでも月島拓也は立ち上がり続けていた。

「―――くすくすくす。頑張って、お兄ちゃん」

月島瑠璃子は、嗤っている。
ぶよぶよと動き続ける肉塊と、それを嗤う濁った少女の対比が赦せずに、葵は拳を振るう。
ぐしゃりと、血が飛んだ。
そうして拓也はまた立ち上がり、葵は一歩たりとも進めない。

「どうして……っ!」

その顔面に肘を叩き込みながら、葵は叫ぶ。

「どうして、笑っていられるんですか……!」

鼻骨を砕く感触は、既にない。
ただ、粘性の高い血が、ずるりと葵の肘から糸を引いた。

「どうして……?」

ころころと嗤いながら、瑠璃子は不思議そうに問い返す。
雨の中、濡れながら立つその姿は、さながら亡霊のようだった。

「どうしてって、おかしいから笑っているのだけれど。楽しいから笑っているのだけれど。
 幸せを笑って迎えては、いけない?」

その答えに激昂し、拓也の右膝を正確に蹴り下ろして砕くと、葵は叫び返す。

「何が幸せかっ!」

その顔には、拓也の吐いた反吐がこびり付いている。

「だって、そうでしょう?」

葵の形相を意にも介さず、瑠璃子はくつくつと嗤う。

「お兄ちゃんは、そんなになってまで私を守ろうとしてくれている。
 とうに死んでしまってもおかしくないのに、私を庇って立っている。
 砕けた膝で、立てるはずもない身体で、そうして立っている」

言葉通り、拓也が立ち上がっている。

「私を愛してくれているひとが、私のために死をも厭わず戦ってくれている。
 ほら、こんなに幸せなことってないと、思わない?」

心の底から這い出るように、瑠璃子の言葉は吐き出されていく。

「だから、私は笑っているのだけれど。何か、おかしいかな?」
「―――澱んでいるっ!」

拓也の喉、膨れ上がって顎と区別のつかなくなっているそれを貫手で突く葵。

「澱んでいる、濁っている、腐っている!」
「……そういうことは、もう少し綺麗なひとに言われたいね」

瑠璃子のどろりとした眼光が、葵の全身を這い回る。

「ねえ、ねえあなた、強いあなた。お兄ちゃんを殺そうとしているあなた。
 あなたは本当に、そういうことを言えるようなひとなのかな?」
「何を……っ!」

裏拳で拓也の目の辺りを叩くと、躊躇なく金的を蹴り上げる葵。
空気の抜けるような音を立てながら、拓也が悶絶する。

「ほら、それだよ」

瑠璃子が指差した先で、拓也はもう折れる歯すらない口を噛み締めて、立ち上がる。
ひゅうひゅうという吐息に、時折血が混じっていた。

「まただ。あなたは、またお兄ちゃんを殺さなかった。これで、何度目かな?」
「……ッ!」
「ひどいよねえ。殺せるんだ。いつだって殺せるんだよ、あなたには。
 立てるはずがないのに立っていたって、首をねじ切ってしまえばきっと死ぬのに。
 生きているはずがないのに生きていたって、殺してしまえば死んでしまうのに」

拓也の髪を掴んだ葵が、空いた手で掌底を叩き込む。
ずるりと、血のついた毛根ごと髪が抜ける。

「そうやってずっと、死なない程度にずっと、あなたはお兄ちゃんを虐めている。
 どうしてだろうね? 殺してしまえば、すぐにも私を殺すことができるのに」

何かに気づいたように、芝居がかった仕草で仰々しく手を叩く瑠璃子。

「ああ、ああ、そうだ。きっとそうなんだね。あなたは。
 あなたはそうやってずっとお兄ちゃんを、お兄ちゃんのかたちを削りながら、」

白い貌の真ん中で。
真っ赤な口が、笑みの形をつくる。

「―――楽しんでるんだ」

葵の膝が、拓也の鳩尾に叩き込まれる。
胃液と血と痰の混じった反吐を葵の体操着に擦りつけながら、拓也が崩れた。
葵の視界の中、瑠璃子が嗤っている。

「黙ってください」

倒れた拓也の手を、全体重を乗せた踵で踏み抜きながら、葵が口を開く。

「楽しいよねえ、人を壊すのは。ひとを、ぐずぐずに崩していくのは、楽しいよねえ?」
「黙れ」

のたうつ拓也の腹を蹴って動きを止めると、身体を丸めて激しく咳き込むその背に、何度も脚を落とす。

「ああ、ああ、そんなにしたら死んじゃうよ?
 あなたの大切な玩具が、私のたいせつなお兄ちゃんが、死んでしまってもいいの?
 そうなってしまったらもう、壊して遊べなくなってしまうけれど、それでもいいの?」

瑠璃子が、嗤う。

「―――黙れと言っているんだ……っ!」

激昂に任せて下ろされた葵の脚が、拓也の頚骨を踏み砕いた。
けく、と小さな音が、した。

「……ああ、ああ、死んじゃったね」
「……!?」

思わず視線を下ろす葵。
何度も、何度でも立ち上がってくるはずの拓也は、ぴくりとも動かない。

「―――そうして、こころを乱した」

瑠璃子の声が、響いた。

「駄目だよ、そんな風に揺れては。
 人を壊して遊んでいたひとが、人を殺したくらいでそんな風に驚いちゃいけない」

声は、葵の耳朶を侵す。

「もっと楽しそうにしなきゃ。もっとつまらなそうにしなきゃ。
 楽しく遊べてありがとう。もう終わってしまったのか、さようなら。
 あなたはそういう風に、思わなければ、いけない」

気がつけば、すぐ目の前に、瑠璃子の眼が、あった。

「楽しく。楽しく。楽しく、ひとを壊しましょう。
 ゆっくりと、時間をかけて、たっぷりと、感謝をこめて」

すう、と。
瑠璃子の顔が、近づいてくる。

「―――だからこれは、契約の証」

唇を、奪われた。

「壊しにきて。あなたのたいせつなひとを壊した私を。
 追いかけてきて。私のたいせつなお兄ちゃんを壊したあなた。
 もっと、もっと遊びましょう。楽しく、楽しく、楽しく―――」

頭蓋の内側に響くその言葉を最後に、葵は意識を喪った。


******


眼を開いたとき、葵がまず行ったのは、己の拳を見ることだった。
血に染まっていた。すべて、月島拓也の血だった。

空を見上げた。
雨が、弱まっていた。
雨粒と、涙が入り混じって、流れた。

身を起こし、辺りを見回して、二つの死体を見つけ、葵は思う。

 ―――こんなものも、あったな。

涙を流しながら、葵は立ち上がる。
振り返ることもせず、歩き出した。

野ざらしの骸は、物言わずただ、葵の背を見つめている。




 【時間:2日目午前10時ごろ】
 【場所:E−7】

松原葵
 【持ち物:支給品一式】
 【状態:健康】

月島拓也
 【状態:死亡】

月島瑠璃子
 【持ち物:鍵、支給品一式】
 【状態:電波使い】
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