時折草が擦れ合う音のみがする穏やかな空間。 月島拓也の祈りが通じたのか長森瑞佳の容態は小康を保っていた。 「ふぁ……僕自身死にそうだ、眠くてたまらん」 早朝から瑞佳を抱えて歩き通しだっただけに、疲労は相当の物である。 横なって目を閉じると、眠りが訪れるのに時間はかからなかった。 どのくらい時間が経ったのか、目元を拭われる感触があった。 眠っているうちに泣いていたのか、瑞佳に涙を拭われていた。 「瑠璃子さんの名をずっと呼んでましたよ。よほど妹思いのお兄さんなんですね」 「ああ、瑠璃子は僕にとって人生の総てだったんだ。それなのに、瑠璃子、僕の瑠璃子、瑠璃子よぉ……」 瑞佳は日常なら少し引くような愛情表現を、肉親を喪った悲しみによるものと素直に受け止めていた。 一頻り独演を終えると、拓也は水筒を呷りそのまま固まる。 もうあと一口ほどしか残っていなかった。 水のことはおくびにも出さないようにしていたが、瑞佳に心の内を見透かされてしまう。 「わたしのことはもう結構です。これ以上迷惑をかけるわけにはいきません」 瑞佳は最後の一口を丁重に辞退した。 「村へ行けばなんとかなる。もう少しの辛抱だ」 「いえ、月島さんが一刻も早く目的を果たされるためにも、ここで別れましょう」 心の中でもう一人の拓也──黒拓也が囁く。 (せっかく彼女から別れようって言ってるんだ。お荷物なんだから素直に受けようじゃないか) この辺で縁を切るいい機会かもしれなかった。 しかしなぜか去り辛い、否、去る気にはなれなかった。 情が移ってしまったのだろうかと考えてみる。 (そんなことはない。今まで毒電波でもって悪徳非道なことをやって来たではないか) 瑠璃子と比較するとどうしても総ての面で瑞佳が見劣りしてしまうのだが。 (……もう! なんでコイツのことがこんなにも気になるんだぁっ」 雑念を払うかのように瞑目して思いを凝らす。 汗と涙と泥に塗れた瑞佳はスッピンなら更にその美貌を増すだろう。 否、そんなことよりも好感が持てるのは、彼女の性格が醸し出す独特の雰囲気である。 何もしなくても、ただ傍に居るだけで癒されるという不思議な魅力。 だからこそ、瑞佳を拾ってからは穏やかな気分でいられるに違いない。 (僕は彼女に瑠璃子の代わりを求めようとしているのだろうか?) 妹に度の過ぎた溺愛をしただけに、心にぽっかりと空いた穴は大きかった。 冷静に考えてみる。瑠璃子の代わりなんて、あまりにも虫が良すぎるではないか。 ──それでも瑞佳なら支えになってくれそうな気がした。彼女ならきっと。 (電波を応用できれば一時的に救えるかもしれない。あくまでも電波が使えればの話だが……) 精神の操作はほんの僅かでも、身体の弱った瑞佳には十分効果がありそうな気がした。 問題なのは電波は人の精神を操るものであり、怪我や病気を治す類のものではないことである。 しかも今の瑞佳の精神を本気で操作して失敗しようものなら、死んでしまうのは間違いなかった。 熟考の末、拓也は延命の策があることを告知した。 低い成功率や衰弱の具合から一度限りしかできない旨を聞くうちに、瑞佳の表情は翳りを帯びる。 「本来なら治療を受けて安静にしてなきゃいけないが、力尽きるのは時間の問題だ。やってみるか?」 「……わかりました。お願いします」 瑞佳は深々と頭を下げた。 少しリラックスさせた方がいいかもしれない……。 瑞佳の頭に手を伸ばすと髪留めのリボンをほどく。 型崩れして、もはやハーフポニーの縛めをなしていなかった髪がはらりと落ちる。 「リボンは手首に巻きつけておこうな。願い事が適うという話を聞いたことがあるから」 ほどいたリボンを瑞佳の手首にほどよい締め付けで結ぶ。 訝しむ瑞佳を目で制し、八徳ナイフからフォークを引き出すと彼女の長い髪を梳かす。 「気休めにしかならないがオシャレをしてやろう」 丁寧に何度も何度も梳かしていると、瑞佳の目から涙が零れ落ちた。 「ありがとうございます。こんなにも大切にしていただいて……」 十数分後、場は沈鬱な空気に包まれていた。 電波を思うように使えないこともあり、衰弱した瑞佳に浸透するのは想定通り困難だった。 「ごめん……上手くいかなかった」 「そんなことないですよ。幾分身体が楽になりました」 確かに顔色は良くなっていた。 ただし、これは悪魔でもカンフル剤を打ったに等しい一時的なもの。 出来るだけ早く治療を受けさせる必要があった。 鎌石村へ辿り着くのは命懸けだが、着いても治療を受けられそうには思えなかった。 それでも僅かの希望を持って行かなければならない。ここに居てもジリ貧である。 二人はすぐさま出立した。 瑞佳を背負い歩きながら、拓也の脳裏にある考えが浮かんでいた。 心の内に秘めていた方が良いのかもしれないが、彼女を景気付けるかもしれないと思い、口にする。 「真面目な話があるんだ。笑わずに聞いてくれるかい?」 「なんでしょう」 「こうして出会ったのも何かの縁。より絆を固めるべく、義理の妹になってくれないか?」 「えぇっ! 義理の妹、ですか? 瑠璃子さんの代わりなんて、できませんよ」 思いもよらぬことに瑞佳は目を丸くする。 「瑠璃子亡き今、僕がまともで居られるのは君のお陰なんだ。もう電波を使わなくて済みそうなんだ」 「まともって……今まで悪いことをしてきたんですか? その、電波っていったい何ですか?」 瑞佳から見て、身を預ける眉目秀麗なその少年が犯罪に手を染めるようには思えなかった。 長い沈黙の後、拓也は幼少時の家庭の事情を打ち明けたが毒電波については言葉を濁した。 病院の院長だった伯父に妹と引き取られたこと。そこが安住の地ではなかったことは瑞佳の涙を誘った。 「僕は毎晩のように酷い目に遭い、性格が歪んでしまったんだ」 人格形成の時期に受けた殴打と、頭に染み付いて離れない、伯父に組み敷かれる女性の嬌声。 そんなことは露知らず、瑞佳は拓也を救えるのは自分しかいないのではないかと思い始めていた。 「浩平と少し似た境遇だったんですね。これから真人間になると約束するのでしたらいいですよ」 「おお、ありがたい! これからは僕のことをお兄ちゃんと呼ぶがいい」 一気にまくし立てながら拓也は赤面していた。 「お兄ちゃん? あはっ……なんだか恥ずかしい気がします」 「兄妹なんだから喋り方だってもっと砕けた調子でいいぞ」 「じゃあ、お兄ちゃん。ふつつか者だけどよろしくね」 「なんか嫁さんモードになってないか?」 瑞佳があまりにもノリノリなので返って戸惑ってしまう。 「そんなことないもん。こんなのってどう?」 「おい、それ止め……」 耳にフーッと息をかけられ、拓也は脱力し膝をついてしまった。 「あぁーっ、倒れるぅ!」 言葉通りそのままスローモーションで見るかのごとく、拓也は前のめりに倒れてしまった。 「うぅ、大事な部分がいてーや」 「ごめんね、男の子ってこうすると弱かったんだぁ」 折原浩平に試してみようかと考えたことはあったが、機会がなかっただけに瑞佳には意外な発見であった。 「ところでだ、瑞佳は学校でホルスタインとか呼ばれてなかったか?」 「えぇっ、なんで?」 「胸がすごく大きいぞ」 「もーっ! 大きくなんかないもんっ、ないもんっ、お兄ちゃんのバカバカバカッ」 「わかったわかった、貧乳って認めるから叩くなって、ハハハハ……」 瑞佳の陽気さに連られ、拓也は久しぶりに心の底から笑っていた。 「あーあ、汚れちゃった。変なことしてごねんね」 シャツやズボンに付いた汚れを瑞佳は手ではたいてくれる。 「ありがとう。もういいよ」 目と目が合った途端言葉が途切れ、微妙な沈黙が訪れた。 ごく自然に瑞佳の肩に手を置く。彼女は目を逸らし、頬を赤らめ戸惑う。 「あ、あの……」 「義兄妹の盟約として、キスしていいか?」 瑞佳は目を伏せ静かに頷いた。 肩に置いた手をそのまま首へ回し唇を重ねた。 しっかりと抱き締め、瑠璃子とはまた一味違う唇の柔らかさと温かさを堪能しながらキスをする。 微かに牛乳の味がしたのは気のせいか。 「話を聞く限りでは折原君と毎日のように羨ましいことをしてるみたいだなあ」 「そんなことないよぅ。浩平はわたしなんかよりも他の女の子と遊ぶのが好きなんだもん」 瑞佳は不満気に頬を膨らまかせている。彼女の本心を覗いたような気がした。 「顔良し、性格良し、スタイル良しと申し分ないのに不憫だなあ」 「でもね、一度デートに誘ってやろうかって言われたことはあるんだよ」 「ふうん、じゃあ、彼の心を掴むためにも朝は○○○○○で起こしてやれよ」 「○○○○○って、なあに?」 「……悪い、今のは聞かなかったことにしてくれ」 くだらないことを言ってしまったものだと後悔する。 戯れはほどほどにして、再び瑞佳を背負うと鎌石村への道程を急ぐ。 だが気が逸るものの体がついていかない。 拓也は早くも千鳥足になり、休憩を取るために茂みの中へと逃げ込んだ。 「いい加減疲れた。僕はもう寝る。瑞佳もしっかり寝ておけ」 「夜眠れなくなりそうだよ」 「いいから寝ろ……あっ、そうだ。アレを渡しておこう」 何を思ったか、拓也はデイバックから一本の矢を取り出した。 「もしかして……わたしを狙ったものなの?」 「ああ。まーりゃんは余程慌てていたのか、瑞佳に使った矢は回収しなかったようだ」 瑞佳の胸にこみ上げるものがあった。矢を胸に抱き締めながら瞑目する。 (この矢は、いつか必ずあの人に返そう、きっと……) 「夜間行軍する。日が暮れたら消防分署へ行こう。あそこなら水の補給ができる」 「待ち伏せされないかな。気を引き締めなくちゃね」 「無理はするな。現況はカンフル剤を打ってるようなものだ。いつまで持つかわからん」 肉体と精神を騙しながら酷使していることを瑞佳は痛感していた。 不安を覚えながらも拓也に寄り沿うように横になると、早くも眠りに就けそうだった。 目を閉じると程よい心地のはずが、草を掻き分ける音により背筋に戦慄が走る。 「お兄ちゃん、誰か来る」 耳元で囁くと拓也はすぐさま跳ね起きた。 拓也は八徳ナイフから抜き身を引き出し迎撃体勢を取る。 ほどなく、茂みを掻き分けながら一人の髪の長い少女──水瀬名雪がその姿を現した。 藪の中を歩き通しだったのか、上は制服から下はソックスに至るまで綻びが目立っている。 顔も手足も痛々しいほどに擦り傷を負っていた。 「コイツ目つきが危ない、殺そう!」 「待って! なんでいきなり殺すの? この人何も持ってないよ」 瑞佳は勇気を振り絞り、謎の少女と交渉してみることにした。 「ほら、わたし何も持ってないよ。怖いことしないから、ちょっとお話しようよ」 「いやっ! 来ないで」 腹部を血に染める瑞佳に名雪は怯え、後退る。 いつ逆襲されるともわからない瑞佳の勇姿を拓也は固唾を飲んで見守った。 瑞佳は腹部を片手でデイバックでもって隠し、精一杯の笑顔で問いかける。 身振り手振りの必死の説得が功を奏し、名雪はようやく警戒を解いた。 結局聞き出せた情報は拓也と瑞佳を落胆させることになる。 名雪が始めに語ったことは、霧島聖と一ノ瀬ことみの悲惨な最期であった。 「……その白衣の女性はたぶん医療関係者だろうな」 「水瀬さんもわたしと同じように地獄を見たんだね。わたし達がついてるから安心するんだよ」 「長森……さん? あなた、猫さんの臭いがする」 「うん、家で七匹飼ってるんだ。さすがに臭うって言われると困るねえ」 猫談義をするうちに、名雪の表情に明るさが表れ始めた。 和やかな少女達を尻目に拓也は困惑していた。 もう水も食料もない。銃もない。連れは重症の怪我人と精神不安定者。 こんな状態で狂気の世界を生き抜くことができるのだろうか。 場合によっては名雪を斬らねばならない。 「今度こそ寝るぞ。水瀬さんを同行できる状態に『教育』しておいてくれ」 「うん、なんとかするからぐっすり眠ってね」 「今夜中に消防分署へ行く。『教育』が上手くいかなかったら置いて行くかもしくは……」 「それ以上言わないで。精一杯頑張るから。ね、みな……」 名雪は瑞佳の肩にもたれたまま、スヤスヤと眠っていた。 振り返ると拓也は早くも眠りに落ちている。もう寝言は言わず寝顔は安らかだった。 「はぅ〜、あとで平謝りしなきゃいけないよぅ……もう、わたしも寝ちゃおっと」 名雪を起こさないよう、静かに横たえると自らも横になる。 身体を動かす度に脇腹の傷の痛みが微かに疼く。 (わたしに明日はあるのかな……ハッ、もっと前向きに考えなくちゃ) ふと弱気になりかけたが、拓也が全身全霊で助けてくれているのだと叱咤する。 微睡に浸りながら瑞佳は復活への執念を燃やしていた 狂気の世界で結ばれた義兄妹の盟約。 だが命を賭けた盟約には意外な脆さがあった。 参加者を煽る「優勝者はどんな願いもひとつ叶えられる」という謳い文句。 今後の放送が拓也に背信をもたらすなどとは、瑞佳にとって知る由もなかった。 【時間:2日目・14:00】 【場所:D−8、カーブ内側の茂み】 月島拓也 【所持品1:八徳ナイフ、トカレフTT30の弾倉、支給品一式(食料及び水は空)】 【所持品2:支給品一式(食料及び水は空)】 【状態:睡眠中】 長森瑞佳 【所持品1:ボウガンの矢一本】 【状態:睡眠中、出血多量(止血済み)、傷口には包帯の代わりに拓也のYシャツが巻いてある】 水瀬名雪 【所持品1:なし】 【状態:睡眠中、やや精神不安定】 【備考:拓也と瑞佳は名雪から篠塚弥生、藤井冬弥、霧島聖、市ノ瀬ことみ、河野貴明、観月マナ、 久寿川ささら(いずれも名前知らず)、水瀬秋子の身体的特徴などを聞いている。490までに出会った人物のことは聞いていない】 - BACK