羅刹血華




黄金の聖猪と白銀の魔犬が激しい戦闘を再開した、そのすぐ傍で、舞と耕一は向かい合っていた。
雨は、降り続いている。舞の長い黒髪を伝って、幾つもの水滴が零れ落ちていく。
濡れた革靴の、嫌な感触を足裏に感じながら、舞は摺り足のまま間合いを計っている。
対する耕一は涎と共に荒い息を吐きながら、腕をだらりと垂らして真紅の眼で舞を睨んでいた。
呼吸に合わせて、小山のように盛り上がった肩がゆっくりと上下している。

鬼の呼吸のタイミングを正確にカウントしながら、舞はじりじりと動き続ける。
魔犬の杖による打撃は、おそらく肋骨に達していた。
今のところ内臓に損傷はないようだが、戦闘が長引けば長引くほど不利になる。
痛みは無視すれば済むが、不随意筋の緊張による呼吸の乱れは時に生死を分けると、舞は理解していた。

彼我の打撃力、そして防御力の差の大きさは、先刻の一合で思い知らされていた。
完全な不意打ち、それも背中側からの胴薙ぎが、通らなかった。
それはつまり、敵は全身に鎧を着込んでいるようなものと考えなければならないということだ。
生半可な斬撃では、皮一枚も貫けない。
そしてまた、大木を苦もなく折り砕き、振り回した挙句に投擲してみせたあの膂力。
武器の類は手にしていないようだが、しかし硬い外皮、巨大な体重と合わせて考えれば、
まさしく全身が凶器といえた。まともに受けることすらも、ままならない。

一撃が致命傷となる緊張感を、舞はしかし黙って飲み下す。
元より魔物と呼ばれるモノたちと戦うために身につけた、剣だった。
相手が鬼と変わった、それだけのことと己を鼓舞しながら、舞は刀を握りなおす。
正眼に構えた剣先が、雨に濡れて煌いている。

魔犬の吐いた吹雪の名残が、舞と耕一の間を吹き抜けていく。
視界が白く煙る一瞬、両者は同時に動いていた。

耕一が、舞を抱きすくめるように黒い腕を伸ばす。
真上に跳んだ舞が、耕一の腕を踏み台にしてその頭上を飛び越えた。
予想外の動きに慌てて振り向く耕一の、その無防備に空いた胸を目掛けて、銀の刃が走る。
狙い澄ました突きは、しかし高い音を立てて鬼の皮膚に弾かれた。
一瞬動きを止めた舞に、耕一の拳が唸りを上げて迫る。

「―――っ!」

しかし舞は至近に迫るそれを、無理に回避しようとはしなかった。
咄嗟に刀を立て、峰に自らの腕を押し付けると、そのまま鬼の拳に身を預けるようにして後方へと跳んだのである。
細身の少女を粉砕する悦楽に顔を歪めた耕一が、そのあまりにも軽い手応えに疑念を抱く。
果たして、数メートルを吹き飛ばされたかに見えた舞が、空中で華麗に後転、しなやかに着地を決めた。
力に逆らうことなく自ら跳んでみせることで、その威を後ろに逃がしたのだった。
鬼の剛拳をかわしきれぬとみた、舞の妙技である。

「こ……のッ!」

なおも迫り来る耕一に対し、舞は逆にその懐へと身を飛び込ませた。
振り回される腕を掻い潜り、一刀を叩き込む。弾かれた。追撃が来るよりも早く、脇から駆け抜ける。
ぬかるむ足場を利用して体重移動だけで反転。そのまま遠心力を利用して、耕一の足を薙ぐような軌跡で刀を振るう。
高い音。膝関節を外から叩いても、鬼の巨体は微動だにしなかった。足を止めずに、走る。

一連のやり取りで、舞には幾つかの確信が生まれていた。
ひとつは、鬼の理不尽なまでの堅牢さである。
継ぎ目のない鎧を着ているようなその外皮は、打ち払いの類をいとも容易く退ける。
突きならばあるいは、と思ったが、分厚い胸には通じなかった。
自らの体重の軽さを、舞は呪う。
圧倒的な体重差があっては峰打ちによる昏倒、あるいは内部関節の破壊も狙えそうになかった。

だが、その軽い体重が利点となることもあった。
それが二つめの確信、彼我の速度の差である。
鈍重とは言わぬ。巨体からは考えられない敏捷性を、鬼は秘めていた。
しかし、それは同程度の体型、同程度の体重をもつ野生動物などと比較しての話である。
先程の打ち合いの際には、舞の剣捌きに対応するどころか、疾走の速度にすらついてこられていない。
斬りつけること、そしてまた回避すること自体は、難しくなかった。

そして、三つめの確信。
相手は文字通り化け物じみた膂力の持ち主だが、しかしその筋力を活かしきれていないと、舞は推し量っていた。
素性の知れぬ相手との戦闘の定石として、鬼と切り結んでいる間中、舞はつぶさにその肉体を観察していた。
身体の使い方を見れば、自然とその手筋は知れる。結果、舞は内心で驚嘆することになる。
大枠としては人間のそれと大差ない構造をしているようだったが、しかしそのコンセプトが決定的に異なると、舞は見た。
鬼の身体を褒めるのもおかしな話だったが、その筋肉はまさに近接戦、特に打撃における一種の理想型だった。
殴り、掴み、押し潰すことに、完全に特化している。
素手で獲物を狩る、という行為を最大限効率的に行うための、それは肉体だった。
おそらく本来は、牙と爪も重要な攻撃要素となるのだろう。
引き裂き、噛み破るために研ぎ澄まされたそれらが獲物の血に染まる様を、舞は容易に想像できた。
もしも鬼がその能力を余すところなく発揮していたなら、自分など数合打ち合うことすらかなうまいと、思う。
それほどに、その体躯は圧倒的だった。

だが、と舞は考える。
だが今、自分が向かい合っている鬼は、それらの力のどれ一つとして、有効に使いこなせていない。
殴るという動き一つをとっても、明らかに無駄が多すぎた。
体重移動、下半身の使い方、そして拳の軌道。どれもまるでなっていない。
足捌き、息の整え方、目配りの仕方、呼吸のテンポを隠すことの重要性。
理解がない。把握がない。認識がない。
そして何よりこの鬼には、相手の行動を先読みして動く戦闘経験というものが、完全に欠落していた。

野生を知ることなく育てられた、檻の犬。
舞は、己が敵をそう断じていた。

付け入る隙は、充分にある。
問題は、堅牢に過ぎる防護をどう貫くか、だった。
疾走しながら、舞は考えをめぐらせる。

「この、ちょこまかと……っ!」

焦りがそうさせるのか。
鬼が腕を振り回す。大振りで、単調な攻撃。
それを、拭いきれぬ経験の浅さと舞は判断する。
視界の外では魔犬と聖猪が激しい戦いを繰り広げていた。
ボタンの放つ炎熱の揺らめきを背に、舞は一気に踏み込む。
上から落とされる拳を、急加速して回避。そのまま胴を打ち払って駆け抜ける。
何らの痛痒も感じぬというように、鬼の蹴撃が追ってきた。
予測通りの展開に、舞は余裕を持ってそれをかわす。
同時に軸足の膝裏に、一撃。ウエイト差に弾かれかけるも、強引に振りぬく。

「ぬ……ぉっ!?」

バランスを崩しかけた鬼の、無防備な首を狙った一刀が、走る。

だが鬼は後方から襲い来るそれを、死角からの一撃を、耐えた。
かわすでも、受けるでもなく、ただ己が外皮の硬さに任せたのである。
食い込んだ刃を引き抜こうとする舞。
しかしそれよりも早く、鬼が左右に大きく身体をうち振るった。
体重の軽い舞の身体が面白いように振り回される。
遠心力によって食い込んだ刀が鬼の首から離れ、舞と共に飛んだ。
近くの木に叩きつけられる寸前、舞は体を入れ替えた。
飛び蹴りの要領で木を蹴りつけ、衝撃を相殺。接地する舞。

「残念だったなあ……俺たち、見た目より頑丈なんだ」
「……」

首の後ろ、皮に走った傷を撫でながら、おどけるように口を開く耕一。
無言のまま、舞は疾走を再開する。
実際のところ、答える余裕もなかった。
今の強引な衝撃の殺し方で、肋骨の違和感が酷くなっていた。
不規則に横隔膜が痙攣している。呼吸が整えられない。
決着を急ぐ必要があった。



「シカトかよ、冷たいな……っとォ!」

耕一もまた、走り出す。
舞の低い姿勢をどう見たか、耕一が口の端を歪ませる。
交差する一瞬に、舞があからさまに狙っているのは耕一の膝。先程叩かれた部位だった。

「……!」

転瞬、舞の振るう刀の軌道から耕一の足が消えていた。
交差する一歩手前、耕一は踏み出した足を無理矢理に地面へと叩きつけていたのである。
その強靭な骨格と巨大な体重を利用した、あまりにも強引なステップ。
フェイントにたたらを踏む舞の、その背中に鬼の拳が打ち下ろされる。

しかし次の瞬間、舞の刀が跳ね上がっていた。
掬い上げるような切っ先が、耕一の顔面を薙ぐように襲い掛かる。
耕一の仕掛けたフェイントを見透かした舞の、流れるようなカウンター。
覆い被さるように拳を落とそうとした耕一が、眼を見開いた。

「ぐ……おおおぉぉ!?」

瞬間、巨体に蓄えられた恐るべき筋力が、その威力を遺憾なく発揮しはじめた。
落としかけた腕を、肩の力だけで引き戻す。
同時に、フェイントで踏み込んだ左足を軸に、上体を重力に逆らって全力でスウェーさせる。
軋みを上げる骨格の悲鳴を、鬼の本能が上回った。
制動をかけた耕一の、その鼻先数寸を銀の刃が駆け抜ける。回避、成功。
しかし。

「―――ッ!?」

耕一の視界に映っていたのは、舞の透徹した瞳であった。
刹那、耕一の脳裏に幾つもの疑問符が浮かんでは消える。
何故、視線が交錯しているのか。
何故、振りぬかれたはずの切っ先が、刃を返してこちらを向いているのか。
何故、その姿勢は、寸刻のブレもなく維持されているのか。
―――まるで、最初から、この一瞬を狙っていたかのように。

煌く刃が、耕一の視界の右半分を、埋め尽くしていた。




ご、とも、あ、ともつかない声を上げて、鬼がのけぞる。
渾身の突き上げ。
狙い澄ました一刀は、正確に鬼の右目を貫いていた。
噴き出す血潮を全身に浴びながら、舞は己の勝利を確信する。

外皮は斬れぬ。関節を叩いてもまるでこたえない。ならば、どうするか。
舞の出した回答の一が、これであった。
継ぎ目がなければ、穴を狙えばいい。
鬼の眼が、果たして弱点となりうるのかは賭けであったが、舞はそれに勝った。

止めを刺すべく、舞が手にした刀の柄を握りこむ。
刃を返し、傷を更に抉り込まんとするその動きを、しかし押さえるものが、あった。

「―――ッ!?」

鬼の、手。
黒く奇怪なそれが、刀を握る舞の手を、その上から覆っていた。
見上げれば、じくじくと血の泡を噴き出しながら、それでもなお爛々と輝く鬼眼が、舞を捉えていた。

鬼が、哂う。

「ざぁぁぁんねん、だったなあ……?」

奇妙に掠れた、甲高い声。
眼から溢れた鮮血が、喉に流れ込んでいるものか。
金属を擦り合わせるような、不快な音を喉の奥から響かせながら、鬼が口を開く。
決して離すまいと柄を握る舞の手が、万力の如き力で締め付けられる。

「く……ぁ……っ!」

ごきり、と。
舞の左手から、不気味な音が響いた。指の骨が砕かれたのである。
思わず刀を手放したその左手が、鬼に掴み上げられる。
そのまま、片手一本で易々と吊るし上げられた。
ずるりと抜け落ちようとする刀を、舞はどうにか右手だけで保持する。

「ぉ俺さぁ、み、見た目よりが、頑丈、なんだよなあぁぁ……」

ぐずぐずと篭ったような声のまま、鬼が嬉しそうに哂う。
血の泡を溢し続けるその右目を、生臭い吐息がかかるほどの至近で見ながら、舞は今更ながらに思い知っていた。
鬼というものを、甘く見すぎていた。
眼に刃を突き入れれば、脳に達する。脳を傷つけられれば、生物は生きていられない。
そんな常識が、鬼に通用すると、思い違いをしていた。

深刻な打撃にはなっているようだが、それだけでは、鬼は討てない。
もっと決定的な、もっと根本的な致命傷が、必要だったのだ。
そして今、その機会は急速に失われつつあった。

「こぉぉなっちまったら、も、もう、何にもできないよ、なあぁぁ……?」

ひゅうひゅうと、鉄の臭いのする息を吐き出しながら、鬼が舞を揺する。
だらりと片手で吊るされる舞は、されるがまま。完全に脱力しているようだった。

「んんん……? なんだぁ、あ、諦めたのかぁぁ……?」

気味の悪い嗄れ声でくつくつと笑う鬼。肩が震えている。
その背後で、魔犬の吹雪が唸りをあげて吹き荒ぶ。
ボタンとポテトの戦いはいまだ続いているようだった。

「……」

無論、舞は諦めてなどいなかった。一念、逆転を狙っていたのである。
ただ状況は絶望的で、しかしそれを受け容れずにいようとするならば、無駄な抵抗によって
消耗できる体力など存在するはずもないという、それだけのことであった。

現在、枷になっている左手は、完全に潰されていた。
指先を動かそうとするだけで激痛が走る。
骨も、腱も使い物にならない。

反面、他の部位に目立った損傷はない。
相変わらず肋骨には過度な負担をかけられないが、内臓を傷つけるような骨折には至っていない。
逆転の一刀に全力を出すことはまだ可能と判断する。

最大の僥倖は、武器を手放さずに済んでいることだった。
垂れ下がった右手には、いまだ刀が握られていた。
脅威にならないと考えているのか、鬼はそれを奪おうとはしなかった。
確かに、ただでさえ外皮には一切通用しなかった斬撃である。
こうして吊るされた状態では踏み込むこともできず、体重も乗せられない。
速さも重さもない一刀を、鬼が恐れるはずもなかった。

視界の端を、聖猪が放つ灼熱の息吹が奔っていく。
ぐつぐつと哂い続ける鬼をその眼に映しながら、状況は絶望的、と舞は内心で繰り返す。
このままでは吊るされたまま、嬲り殺される。
反抗は無益。手にした一刀に有効な攻撃力は存在しない。
逆転の目は、ない。

―――吊るされたままならば、だった。

その瞬間、舞に迷いはなかった。
真っ直ぐな視線に、光が宿った。
手にした一刀が奔り、引き斬られる。
柔らかい皮を裂き、震える肉を断ち、腱を貫いて骨を砕き、川澄舞は、己が左手を、斬り落としたのである。

一瞬の出来事であった。
あまりにも躊躇なく行われたその暴挙に、鬼は反応すらできなかった。
鮮血が、真っ赤な霧となって視界を覆う。

真紅の霧を断ち割って、舞が、飛び出した。
大地を震撼させるが如き踏み込み。
その爆発的な速度のすべてを、脚から膝へ、膝から腰へ、腰から腹、胸、肩へと繋いでいく。
柄頭を腰溜めに、舞はその全身を一個の弾頭として、叩きつけた。

鬼の鳩尾、その一点が、歪む。
神速をもって生み出された突進力が、鬼の巨体をして、浮き上がらせる。
一瞬の間を置いて、鬼が、吹き飛んだ。

「ぐ……ぅぉぉぉぉ……ッ!?」

鬼の巨躯が、風を巻いて飛ぶその先に、二つの力があった。
炎熱と、烈寒。
聖猪と魔犬の撒き散らす、吹雪と灼熱。
ぶつかり合う力のその中心に、過たず鬼が、叩き込まれる。

「がぁぁぁぁ――――ッ!!」

神話の時代の力の中で、鬼が吼えた。
その恐るべき生命力のすべてをもって、鬼は己を保ち続ける。
灼熱に溶ける外皮が、瞬く間に再生されていく。
寒威凛烈の風の中、凍りついた外皮が剥がれ落ち、新たなる皮膚が現れる。

刹那の内に、幾度の再生を繰り返しただろうか。
ついに鬼は、神話の炎熱を、寒波を、耐え凌いでみせた。
再生の限界を超えた皮膚の欠片をぼろぼろと溢しながら、真っ黒な外皮に無数の皹を入れながら、
それでも鬼は立っていた。
圧倒的な死を乗り越えた鬼の雄叫びが、しかし、止まる。

「――――――」

一陣の風が、吹き抜けていた。
鬼が、肩口から二つに裂けた。

一刀、迅雷の如く。
雨中、川澄舞の隻手が、静かに血糊を払った。




 【時間:2日目午前6時すぎ】
 【場所:H−4】

川澄舞
 【所持品:村雨・支給品一式】
 【状態:肋骨損傷・左手喪失(出血多量)】

柏木耕一
 【所持品:不明】
 【状態:両断】


ボタン
 【状態:聖猪】

ポテト
 【所持品:なんかでかい杖】
 【状態:魔犬モード】
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