舞が、滑るように走った。 狙うはポテトの尾、牙を剥く大蛇と化したそれである。 ポテトの脇を駆け抜けるや転進、下段に構えた一刀を摺り上げるようにして振るう。 それをチラリと見て、ポテトは煩わしげに翼をはためかせた。 湧き起こる烈風に、舞の剣筋が鈍る。 大蛇は僅かに身を引いて易々と刀を掻い潜ると、逆に舞へと襲い掛かろうとする。 だらだらと毒液を垂れ流し迫り来る大蛇の牙を、舞は刀の峰の上を滑らせるようにしていなす。 大人の腕ほどもある大蛇の胴が、半透明の鱗を撒き散らしながら舞の顔面に程近いところを流れていく。 「愚かだぴこ、人間。そんな力では傷一つ……ぴこっ!?」 ポテトは言葉を切ると、慌てて飛び退いた。数メートルを羽ばたいて着地。 その尾には、一本の朱線が走っていた。刀傷である。 皮一枚を切り裂いただけの小さな傷は瞬く間に塞がっていくが、ポテトは驚いたように舞を凝視していた。 「ぴ、ぴこ……!? そんな馬鹿な……」 「―――ほう、結構な業物を持ってるじゃねえか」 感心したように声を上げたのは、ボタンである。 光り輝く猪の視線は、舞が手にした一刀に吸い寄せられていた。 白銀の刃が、雨に煙る朝の空気を裂くように煌いている。 「抜けば玉散る氷の刃、ってな。……そいつは、俺らみたいなのを斬る為に打たれた代物だ。 しかも狗野郎の尻尾がだらしなく伸びきった瞬間を狙って刃を返しやがった。 持ち物だけじゃねえ、やっとうの方もそこそこ使えるみてえだな、嬢ちゃん」 言われた舞はといえば、しかし口を硬く引き結んだまま、言葉を返そうとはしなかった。 視線は、ゆらゆらと身をくねらせるポテトの尾へと真っ直ぐに向けられて動かない。 無視されたポテトが、苦笑するように牙を振る。 「ったく、無口な嬢ちゃんだな……、っと!」 予備動作なしに宙に舞うポテト。 ほんの一瞬の後、鬼の巨体が降ってきた。 エルクゥの全体重を乗せた一撃に、雨に濡れた地面が陥没する。 「よそ見すんなよ……俺はこっちだぜ……?」 ずるり、と地面から腕を引き抜いて、耕一が笑みを浮かべたままボタンを見る。 爛々と輝くその赤銅の眼は、紛れもなく血に飢えた悪鬼のそれだった。 「見ねえ顔だが、この国の固有種……か? いや、それにしちゃ……」 「がぁぁっ!!」 巨体に見合わぬ身軽さで、鬼が跳んだ。 横薙ぎに振り抜かれるその丸太のような腕が、空を切る。 ボタンが更なる高さへと舞い上がったのである。 「……こっちの兄ちゃんは随分と頭に血が上りやすいみてえだな。力に呑まれてやがるのか……? ま、いい。売られた喧嘩なら、買ってやるさ……!」 ボタンが、その輝きを増した。 全身の毛が、針のように尖っていく。そのまま身体を丸め、逆落としに突っ込んだ。 それを空中で見上げるかたちになった耕一が、咄嗟に腕を十字に組んでガードを固める。 激突。 「ぐ……ぅおッ!?」 かろうじてボタンを弾き飛ばした耕一だったが、その衝撃までは殺しきれない。 受身も取れずに地面へと叩きつけられる。泥が、盛大に跳ね上がった。 すぐさま起き上がる耕一。しかしその腕からはぶすぶすと煙が上がっている。 「ほぉ……今のでその程度とは、頑丈な兄ちゃんだ。 しかも何だ、その傷……もう治りかけてんじゃねえか?」 ボタンの言葉通りであった。 耕一の腕はいまだ煙を上げていたものの、出血は止まっていた。 傷んだ表皮の下からは、既に新たな外皮が顔を覗かせている。 「頑丈なのは先祖譲りでね……おかげで、まだまだ戦える。感謝しなくちゃな」 言って、にんまりと笑ったその口は、耳まで裂けていた。 そんな鬼の笑みを見ながら、ボタンは牙をしゃくる。 「……兄ちゃん。そっちこそ、よそ見してていいのかい」 「―――!?」 がちり、と。 金属がぶつかり合うような高音が、響いた。 耕一は、背中に衝撃を感じて振り返る。 視界の端に映ったのは少女、舞の影であった。 後ろで一つにまとめた黒髪をなびかせながら、舞は耕一の背を蹴って刀ごと跳ぶ。 耕一は裏拳気味に腕を振るうが、届かない。 空中でくるりとトンボを切った舞が、静かに着地する。 「……鬼、硬い」 どうやら耕一の背に斬りつけたはいいが、分厚い外皮に阻まれたものらしい。 「おいおい、ひどいことするな……そういうモノを人に向けちゃあいけませんって、 お母さんに習わなかったのかい?」 「……」 母、という単語に幾分表情を固くする舞。 しかしすぐに口を開いた。 「……鬼は、人じゃない」 「はは、違ぇねえや!」 笑ったのはボタンである。 いつの間にか耕一からは距離を取り、今度はポテトと対峙している。 空中から繰り出されるポテトの爪を紙一重でかわしながら、呵呵大笑するボタン。 「喋る猪に笑われる筋合いはないね……」 言いながら、傍らに立つ大樹に向けて、太い腕を無造作に叩きつける耕一。 一抱えほどもある巨大な立ち木が、まるで枯れ枝のように折り砕かれる。 ゆっくりと倒れていくその幹を両手で掴み、耕一は周囲を薙ぎ払うように大樹を打ち振るいだした。 自身を中心軸とし、遠心力を利用して回転する。膨大な膂力によってのみ可能となる、力技である。 風を切る葉ずれの音が、森に響く。 木枝に溜められた雨粒が、横殴りの嵐のように撒き散らされていく。 周辺の若木が、突然生じた暴力の渦に巻き込まれ、砕け散る。 バックステップして回転半径から逃れ、距離を取ろうとする舞。 それを一瞥して、耕一は回転の勢いをそのままに、しかし舞とはまったく別の方へと向けて大樹を手放した。 ハンマー投げの要領で放り出された大樹が一直線に飛ぶ先にいたのは、翼を生やした魔犬と輝く猪。 ポテトとボタンである。 「何、勝手にやりあってんのさ……!」 鬼の一投が、飛ぶ。 巨大な質量に充分な速度を得て投じられた大樹だったが、しかしついに二頭の獣を捉えることはなかった。 一本の大槌と化して迫り来る大樹を見るや、ポテトとボタンはそれぞれの方法でこれを迎え撃ったのである。 まず一歩を下がったポテトの口から、猛烈な吹雪が吐き出された。 無数の葉が、枝が、瞬く間に凍りついていく。 一瞬の間を置いて、前に出たボタンがその輝く毛を鋭い針と化して飛ばした。 凍結した木枝が、片端から割り砕かれていく。 質量を失った破片は、正面から吹き荒ぶ吹雪の風圧に耐え切れず、次々に失速し、吹き散らされる。 残ったのは、すっかり丸裸となった幹だけであった。太い幹の槌は、しかし風圧にも負けず飛ぶ。 毛針でもこれを砕ききれぬとみて、二頭の獣は瞬時に体勢を入れ替えた。 即ち、ポテトが一歩を踏み出し、ボタンがその後ろへと下がったのである。 直撃するかと見えた刹那、身を低くしたポテトの大蛇の尾が、螺旋を描いて伸びた。 ほんの僅か、軌道を上に逸らされる大樹。 それによって生じた、小さな隙間を埋めるように占位していたのが、ボタンである。 瞬間、丸められたボタンの身体が、弾けるように跳ねた。回転しながらの、突進。 真下からカウンター気味に放たれたそれは、大槌と化した大樹を、粉砕した。 瞬きするよりも早く行われた、それは見事な連携であった。 鬼の目論見は、完全に失敗したかにみえた。 しかし、砕かれた大樹の破片を、更に断ち割って飛び出す影が、あった。 川澄舞である。 ポテトに向けて飛ばされた大樹の、その陰に隠れるように、疾走していたのだった。 完全に不意を打たれた格好のポテトは、舞の突撃に対処しきれない。 舞が、刀の間合いに、入った。 低い姿勢から、右の脇に構えられた銀の刃が、突き出される。 「―――っ!」 「ぴ……っこぉぉぉぉっ!!」 刃は、ポテトの左眼窩、その僅か数センチ横を抉り、突き抜けていた。 血が、飛沫く。 文字通りの間一髪で身を反らしたポテトが、必死の形相でその頭部を跳ね上げた。 銜えられた巨杖が、舞の身をしたたかに打ち、弾き飛ばす。 「―――ッ……!」 猛烈な勢いで流れる視界の中、舞は身を捻り、手にした刀を地面へと突き立てた。 慣性のまま飛ぼうとする己が身体を、腕力だけで引き戻す。肩が外れそうに痛んだが、無視。 地面と水平に一回転して、ようやく舞の身体が泥濘へと落ちる。 むき出しの膝が、泥に擦れて傷を作る。 すぐに立ち上がろうとして、舞は思わず膝をつく。脇腹、杖に打たれた辺りに刺すような痛みがあった。 肋骨に何らかの損傷がある、と判断。無視しようとするが、呼吸が乱れた。 膝立ちのまま、刀に縋るようにして視線を上げる舞。 致命的な追撃を覚悟したその視界を覆っていたのは、しかし毒を満たした蛇の牙ではなく、 あるいは一撃で首を刎ねんとする爪でも、逃れようのない吹雪の白い煌きでもなかった。 灼熱の太陽を思わせる、黄金の輝きが、そこにあった。 「―――何のつもりだぴこ」 今にも吐き出さんとしていた吹雪を咥内に収めながら、ポテトが静かに尋ねた。 全身の毛を逆立たせながら、ボタンがそれに答える。 「……常命のただびとが、剣一本で妖と魔獣を狩ろうってんだ。 はは、こりゃテメエ、ちょっとした神話だぜ?」 心底から楽しげに、ボタンが言葉を続ける。 「で、神代生まれの大先輩としちゃ、そういうの放っとけねえだろ、なあ?」 「……お前のような田舎ブタに英雄の知り合いがいたとは、初耳だぴこ」 ポテトの挑発にも、ボタンは動じない。 「ま、さっきから見てりゃあ、嬢ちゃんはテメエとあっちの兄ちゃんにだけ用があるみてえだしな。 現に、こうして背中見せてたってバッサリいく気はねえみてえだし」 「人間如きと手を組む、ということぴこ?」 「テメエだって妙な兄ちゃん、乗せてたろうが。どっか行っちまったみてえだがな」 「……まぁ構わないぴこ、始末する順番が変わるだけぴこ」 ポテトが、低く喉を鳴らす。蛇の尾が牙を剥いていた。 そんなポテトから視線を外さないようにしながら、ボタンは背後の舞に語りかける。 「とまぁ、そういうわけだ、嬢ちゃん。狗っころ始末するんなら手ェ貸すぜ」 「……イノシシさん、邪魔」 ぽつりと、それだけを口にする舞。 それを聞いて、ボタンが爆笑した。 「くっ……くははは、ははははは! 面白ぇ、面白ぇな、やっぱり! そうだ、俺ぁ邪魔なイノシシさんだよ、嬢ちゃん!」 逆立った毛が、ふるふると揺れている。 「で、こっちの狗野郎はひとまずイノシシさんが引き受けてやらぁ! まずはそいつを片付けてこい、嬢ちゃん!」 黄金の聖猪が、飛んだ。 【時間:2日目午前6時すぎ】 【場所:H−4】 ボタン 【状態:聖猪】 ポテト 【所持品:なんかでかい杖】 【状態:魔犬モード】 川澄舞 【所持品:村雨・支給品一式】 【状態:爪、尻尾、斬る(肋骨損傷)】 柏木耕一 【所持品:不明】 【状態:鬼】 一方その頃、国崎往人。 「さすがにつきあいきれんぞ……」 頭を抱えながら、戦場から遠ざかっていた。 賢明な判断である。 国崎往人 【所持品:人形、トカレフTT30の弾倉×2、ラーメンセット(レトルト)、化粧品ポーチ、支給品一式×2】 【状態:逃亡】 - BACK