「俺は悪い夢でもみてるのか……」 そう呟いた国崎往人の眼前には、およそこの世のものとも思えない光景が広がっていた。 ***** 発端は、一筋の光であった。 雨の中、国崎が翼の少女を探すべく魔犬ポテトの背に乗って空を飛んでいたときのことである。 「ん? ……ありゃ何だ?」 夜明け前の冷え込みにぶるりと身体を震わせた国崎は、眼下に広がる森の中に、小さな光を見た気がして身を乗り出した。 その途端、ポテトが翼を振るい、大きく身を傾ける。 「う、うぉぉっ!?」 慌ててポテトの毛にしがみつく国崎。 その鼻先を、黄金の光が掠めた。じ、と焦げ臭い匂いが立ち込める。 国崎が己の前髪が焦げていると認識するより早く、ポテトが今度は急降下を始めた。 「おい! 何だってんだ、一体!?」 「……どうやら、面倒なヤツがいるみたいだぴこ」 ポテトの返事は短い。状況は掴めなかった。 振り落とされぬように、必死でポテトへとしがみつく国崎。 小さく見えていた森の木々が、どんどんそのスケールを増していく。 「おい、突っ込む気か!?」 「せいぜい頭を低くするぴこ」 木の枝を盛大にへし折りながら、梢の中に飛び込むポテト。 鋭い破片や枝から顔面を庇っていた国崎が、ふと背中に熱気を感じて振り返る。 「お、おい! 何だあれは!?」 視界に映ったものの異様さに、国崎は思わず声を上げてしまう。 それは、見たままを言うならば、黄金に輝く猪であった。 「猪は間違っても金色に光らんし、まして空は飛ばないだろっ!」 「あれは、神代の生き物ぴこ」 あまりの理不尽に憤る国崎に、ポテトが冷静な声を返す。 「神代だと!? ……くそ、夢ならさっさと覚めてくれ……」 「残念ながら現実だぴこ。ちなみにヤツに触ると火傷するから気をつけるぴこ」 「ああ、見ればわかる……」 黄金の猪が駆け抜けた後ろでは、森の木々が盛大に焼け焦げている。 降り続く雨のおかげで燃え広がることはなさそうだったが、その火力は明白だった。 「お前を乗せたままでは戦えないぴこ。降りるぴこ」 「無茶言うなっ!」 猛スピードで視界から消えていく木々を横目に見ながら、国崎が叫ぶ。 しかし魔犬の答えは無常だった。 「このまま焼け死ぬよりは助かる確率が高いぴこ」 「って、おい、やめろ! うぉぉっ!?」 ぐるり、と空中で一回転するポテト。 その勢いに、国崎は思わず手を放してしまう。 「ぐわあぁっ!?」 背中から梢に突っ込んだ国崎は、そのまま空中へと放り出された。 落ちる、と思う間もなく、次の衝撃が来る。地面へと叩きつけられたのである。 一瞬、意識が飛んだ。 「く……無茶しやがって……!」 悪態をつきながら、どうにか起き上がる国崎。 口の中に入った泥を、血の混じった唾と一緒に吐き出す。 全身に細かい傷と打撲はあるが、骨に異常はないようだった。 梢に茂る濡れた葉がうまい具合に速度を殺し、落ちた先が泥濘であったことが幸いしたらしい。 してみると、あれでもポテトはその辺りのことを考えていたのかもしれなかった。 「そうだ、あいつは!?」 慌てて見上げた国崎の視線の先。 そぼ降る雨を背景に、空中で二体の異形が対峙していた。 ***** 「まだ生きてやがったとはな……しぶとい狗っころだ」 神々しく輝く全身の毛を逆立たせて、ボタン。 対するポテトも、大蛇の尾を揺らめかせながら言葉を返す。 「そっちこそ元気そうで何よりだぴこ。けどそのまま焼けてポークソテーにでもなってた方が世の為だぴこ」 「ぴこぴこウルセえ狗だな……ッ!」 瞬間、ボタンの黄金の毛が、鋭い針となってポテトを襲った。 だがポテトの姿は既にそこにはない。 お返しとばかりに、上空から大蛇の牙がボタンへと迫る。 それを見るや、ボタンは身体を器用に丸め、全身の毛を外側へと向けた。 光り輝くイガ栗の如きその体勢のまま、逆に大蛇へと突進する。 鋭い棘と化したボタンの毛が突き刺さると見えた刹那、大蛇はその軌道を逸らし、ポテトの方へと引き戻されていく。 ぶるり、と身を震わせたボタンが、元の姿へと戻った。 「……何だぴこ、新しいご主人様に物真似でも仕込まれたぴこ? さすがにブタは媚を売るのが上手いぴこ」 「狗畜生に言われたかねえな。……それと、覚えとけ」 ボタンの毛が、またも逆立っていく。 輝きを増したその周囲に、陽炎が揺らめいている。雨粒が蒸発しているのだった。 陽炎に包まれながら、ボタンが後ろ足を一つ蹴り上げた。 「―――俺は、猪だ……ッ!」 転瞬、ボタンの姿が、消えた。 戸惑ったように辺りを見回すポテトの身体が、次の瞬間、真上に吹き飛ばされる。 直撃。ボタンの突進が、ポテトの腹を抉っていた。 ギ、とくぐもった音を喉から漏らして、くの字に跳ね上げられたポテトの無防備な胴を、更なる衝撃が襲う。 一個の光弾と化したボタンの、文字通りの猪突猛進である。 二度、三度と跳ね上げられ、ポテトの喉から漏れる呼気に、血が混じり始める。 それでもボタンの突進は止まらない。骨も砕けよとばかりの、猛烈な攻撃。 四度目の突進を敢行すべく、ボタンが迫る。 が、息も絶え絶えであったはずのポテトは、それを見て、口の端を上げた。 吐き出す血が、凍っていた。 異変に気づいたボタンが慌てて足を止めようとするが、その猛烈な勢いを殺しきることはできない。 ポテトの口が、大きく割り開かれる。 ずらりと並んだ禍々しい牙と、長い杖の向こうに、光が灯った。 ボタンのそれとは対極に位置する、身を切るような白く冷たい光は、瞬く間にその大きさを増し、 周囲を包み込んでいく。雨粒が凍りつき、一瞬の内に猛烈な吹雪へと変わった。 吹雪が、ボタンを呑み込んだ。 温度差によって発生する凄まじい水蒸気を更に凍てつかせながら、吹雪はその勢いを強めていった。 灼熱していたボタンの毛を、見る間に氷の粒が覆い尽くしていく。 粒は塊となり、ボタンの全身を冒す。間を置かず、ボタンは一個の氷塊と成り果てていた。 ぐらりと傾き、ゆっくりと地に落ちていこうとする氷塊に、ポテトは大蛇の尾を巻きつかせる。 そのまま勢いをつけて地面へと叩きつけようという算段である。 しかし、振り上げられたその尾は、唐突に動きを止めた。 「ぴこ……?」 氷が、汗をかいている。 ポテトがその違和感の正体に気づいたときには、遅かった。 眩い光が湧き上がった。氷が一瞬にして融解する。同時に、ポテトの尾が白く変色した。 激烈な痛みにポテトが悲鳴を上げるよりも早く、ボタンの牙がポテトの腰辺りへと突き立てられていた。 反射的に後ろ足を蹴り上げるポテト。 大きく翼を羽ばかたせ、ボタンの頭部を踏み台として、互いの身を引き剥がそうとする。 ずるり、とボタンの牙が抜ける。鮮血が飛沫いた。 そのままもつれ合うようにして、二体の獣は大地へと落下していく。 地響きを立て、盛大に泥を跳ね上げながら地面へと降り立つや、巨獣は即座に距離を取りあう。 「狗の血ってな、えらく不味いな……こんなもんを煮て食うたぁ、人間は相当に飢えてると見えるぜ」 流れる返り血をべろりと舐め上げながら、ボタン。 「喰われる為に飼われてるブタらしい発想だぴこ。せいぜい贅肉を切り売りしてご奉仕するといいぴこ」 ぼたぼたと鮮血を流しながら、ポテトが言い返す。 その大蛇の尾は、煙を上げながら再生しつつあった。白く変色した鱗が、一枚、また一枚と剥がれ落ちていく。 「餌ァもらって尻尾振るだけが能の飼い狗風情が、さすがによく吠えやがるぜ」 「田舎の神はブタに餌もやれないぴこ? その貧しさには同情してやるぴこ」 「……テメエ如きが神の名を語るなよ、痩せ狗」 ボタンの全身が、一瞬にしてその輝きを増す。 蒸発する雨が、まるで怒気を形にしたかのように陽炎となってボタンを包んでいた。 「まだ過去に縋るぴこ? 豊饒の神の乗騎とうたわれていた頃がそんなに懐かしいぴこ?」 「……テメエッ!!」 飛来するボタンの毛を、ポテトは軽く後ろに飛んで避ける。 「神族なんてもうこの世のどこにもいないぴこ。とうの昔に滅びたものにいつまでも執着するのは見苦しいぴこ」 「言うわりにゃあ命冥加に存えてんじゃねえか、狗畜生が! テメエが後生大事に銜えてやがる杖にも、もう神なんざ欠片も宿ってねえってのによ……!?」 ボタンの言葉に、今度はポテトの視線が凍りつくように温度を下げた。 動きを止めた大蛇の尾が鋭い牙をむき出し、毒液を垂らしながら大きく口を開けて威嚇している。 激怒しているのが一目瞭然だった。 そんなポテトの様子に怖気づくこともなく、ボタンは言葉を続ける。 「―――なぁおい、俺達は似たもの同士なんだよ。つくづくムカつくことにな」 「不愉快だというところだけは認めるぴこ」 「もう戻らねえ時代の、その残りッ滓みてえなもんにしがみついて、生き恥を晒し続けてる」 「……」 ぴしり、とポテトの尾が泥濘と化した地面を打つ。 それはまるで、続きを促しているかのようだった。 「挙句、こんなバカみてえな人間同士の殺し合いに巻き込まれてよ。 本当、俺らを何だと思ってやがるんだろうな、連中」 「……」 「実際、笑えるぜ? なんせあの相沢祐一の名前まであるってんだからな」 「唯一者……あの哀れな道化も、ぴこ……」 「そうだ、神族の首吊り縄の成れの果て、可哀想なあの坊やだよ。くく、傑作だろ?」 ふるふると、ボタンの毛が揺れる。 心底から嘲るような笑い方だった。 「残酷なもんだよなあ……とっくにお役目なんか終わってるのによ。 死んで死んで死んで死んで、あんな姿に成り果てても、まだ滅びることができねえ。 そりゃあ壊れちまうわなあ、何度テメエの首を掻っ捌いたって、次の瞬間にはまた生まれ直させられるんだぜ? いと猛き神々もご照覧あれ、だ」 「……何が言いたいぴこ」 「後始末くらいしていってやれ、って話だよ」 ボタンの声が、途端に陰を帯びる。 「そりゃアレにはもう、テメエってもんの欠片も残っちゃいねえさ。 そこら辺に在るだけの影法師、ただ在り続けるだけの写し鏡、そんなもんでしかねえ」 「……」 「けどな、アレだって最初からそうだったわけじゃねえ。ハナッから壊れたまんま作られたわけじゃねえんだよ。 希望と、目標と、夢と挫折とささやかな幸せとちっぽけな不幸と、そんなもんを詰め込んだ、」 ボタンの毛が、揺れる。 「つまらねえ、人間の似姿だったはずなんだよ」 「……」 「それが、どうしてこうなった」 「……」 ポテトは沈黙を守っている。 それが気に入らないのか、ボタンが声を荒げた。 「どうしてアレは、神を殺し、テメエを殺し、殺して殺して殺しまくった挙句、壊れなきゃならなかった? えぇおい解ってんだろ、言ってみろよ狗っころ?」 「……それが」 若干の間を置いて、ポテトが口を開く。 「それが、お役目だったからぴこ」 「そうだよ。お役目だ。神様から与えられた、貴い貴いお役目だ。俺や、テメエと同じように、な」 「……同じなどでは、ないぴこ」 「同じだよ」 ボタンが断じる。 「同じだ。俺らもアレも、神族がとっ散らかしてったこの世界に放られっぱなしのゴミ屑だ。 連中、テメエら自身の始末はしても、ゴミのことまで頭が回んなかったと見えらぁ」 「……つまらない感傷だぴこ」 自嘲的なボタンの言葉を、今度はポテトが切り捨てた。 「そんなに死にたければ、さっさと神々の後を追えばよかったぴこ。 人に飼われて、屈辱に塗れながらずっとそんなことばかり考えていたぴこ? ブタらしいといえばブタらしい生き方ぴこ」 「……ケッ」 「誇りを捨て、志を忘れ、ただその日を生きながらえる―――。 つまらない、本当につまらない、下らない、吐き気のするような生き方ぴこ」 「……」 「どうして―――、死んでしまわなかったぴこ。 そうすればお前は、永遠に気高い神の乗騎であり続けられたぴこ」 露骨な侮蔑にも、ボタンは激昂しようとはしなかった。 ポテトの言葉には、永きに過ぎた生への疲れが、隠しようもなく滲み出していた。 それは正しく、己自身へと向けた言葉に他ならなかった。 死を選ぶこともできず、ただ地べたを這いずるように生き続けた、それは膿であった。 癒えることのない傷口から涌きだし続ける、醜悪な膿。 人の垢に塗れた餌を食い、埃と煤を被りながらただ生きてきた、病の痕。 見なければ気づかずに済むと、目を逸らし続けたその傷を直視してしまったという、 そういう言葉だった。 だからボタンは、そうかもしれねえなと、それだけを、口にした。 「……お喋りは終わりぴこ」 ポテトもまた、短く答える。 「ああ。―――お客さんも、来たみてえだしな」 同時に飛び退く、二匹の獣。 一瞬遅く、それぞれのいた場所を駆け抜ける影があった。 ポテトのいた空間を斬り裂いていたのは、銀色の閃光であった。 音もなく、ただ静かに抜き身の刀を提げて立つのは、黒髪の少女。 「……魔犬、見つけた」 川澄舞は、雨に溶けるような声で、それだけを告げた。 一方、ボタンを襲ったのは、異形の物の怪であった。 長く伸びた鋭い爪を舐め上げる、真っ赤な舌。 漆黒の肌は岩石の如く、濁った眼光は狩猟の予感に昂ぶっている。 その頭部には角を生やしたそれは、正に地獄から這い出た悪鬼。 「なんだか派手にやってるじゃないか……俺も混ぜてくれよ……!」 柏木耕一は、鬼の血に酔っている。 ***** 「俺は悪い夢でもみてるのか……」 国崎往人は、頭を抱えている。 魔獣同士の戦い、理解できない会話の応酬。 その果てに、さらなる異形どもの乱入である。 折りしも流れ出した第二回放送を、この場の誰も気に留めていない。 国崎の悪夢は、まだまだ終わりそうになかった。 【時間:2日目午前6時】 【場所:H−4】 ボタン 【状態:聖猪(飛行能力あり)】 ポテト 【所持品:なんかでかい杖】 【状態:魔犬モード(毛の色は白銀。目の色はコバルトブルー。物凄く毛並みがいい。背中に巨大な翼。尻尾は大蛇)】 国崎往人 【所持品:人形、トカレフTT30の弾倉×2、ラーメンセット(レトルト)、化粧品ポーチ、支給品一式×2】 【状態:呆然としている】 川澄舞 【所持品:日本刀・支給品一式】 【状態:爪、玉、皮、尻尾……】 柏木耕一 【所持品:不明】 【状態:鬼】 - BACK