憤怒に繋ぐ命・修正版




「こうして出会えたのも何かの縁だ。君に大人のキスを教えてやろう」
「大人のキス……ですか?」
 長森瑞佳は思いも寄らぬ告白に、顔を真っ赤にしてうろたえていた。
 断るに断れず戸惑っていると、おとがいに芳野祐介の手が当てられた。
「目を閉じてごらん」
 芳野に抱き締められると瑞佳は静かに眼を閉じた。
 軽いキスの後、芳野の舌が彼女の口内に侵入して来た。
 それだけに止まらず更に彼女の舌を絡め取り、強く吸引する。
 本格的なキスの経験がないだけに瑞佳は目を大きく見開き、抗議の視線を向けた。
 一頻り瑞佳の口腔を蹂躙すると芳野は唾液を流し込んで来た。
(さあ、飲み込んで)
(ええっ、飲むんですか!?)
 暗示がかかったかのように飲み込むと芳野は漸く口を開放した。

「酷いです。こんなことするなんて」
 瑞佳は頬を膨らまかして不満を言う。冗談交じりに。
「悪い。オナ禁のまま果てるのは悔しいからな。ハハハハ」
「オナ禁て何ですか?」
 芳野はそれには答えず、
「短い付き合いだったが……君のことが好きだ。出来れば他の世界で出会いたかったな」
「ありがとうございます。そう言っていただくと慰めになります」
 島に来て折原浩平と再開することなく、短い人生をを終えてしまったのだと思うと目頭が熱くなる。
「僅かばかりだが、俺の最後の気力を託した。体の中が温まるような気がしないか?」
「……なんだかすごく気持ち悪いです」
 瑞佳は体が芯から溶けるような感覚に思わず身を竦めた

「君は聡明な女の子だ。今から言うことを肝に銘じておいてくれ」
「はい……承ります」
「君の持ち前の優しさはこの島ではあまり通用しない気がする。むしろ悪い奴からすれば利用し易いことこの上ない」
「わたしも何となくそう思いますけど、今更──」
「──感性を磨け。理屈抜きで嫌だなと思ったり、納得出来ないことがあったらその対象から離れろ」
「そんなこと言われても、もうわたしにはどうでもいいことです」
 零れる涙を拭おうともせず芳野を見つめる。

 芳野は狂おしいほどに抱き締め瑞佳の匂いを嗅ぐ。
「いい匂いだ。いつまでも浸っていたいような良い匂いがする」
「芳野さん、痛いです」
「さよなら、愛しきひとよっ!」
 ──そして思いっきり彼方へ突き飛ばした。
「いやあぁぁぁっ!」
 後ろに倒れたはずなのに、どこまでも底の無い空間を落ちて行く。
 瑞佳はこれ以上考えることを止め、身を為すがままに任せた。

 突然脇腹に刺すような鋭い痛みが走り、体が何かに引っ掛かったような気がした。
 茂みを踏み歩く音とともに、瞼の向こう側が明るくなる。
 陽が高く昇っているのであろう、薄目でも眩しくてたまらない。
 明るさに慣れて来ると見知らぬ少年の顔が映る。
「やあ、気がついたかい?」
 少年は両腕に抱いていた瑞佳を静かに地に横たえた。
「あぁ……助けて下さったんですね。ありがとう、ございます」
「無理して喋らなくていい。かなりの重傷だから」
「あの、芳野さんは……いっしょに居た男の人はどうなりました?」
「僕が現場に着いた時には既にコト切れていた」
 聞くや否や瑞佳は顔を覆って、嗚咽を漏らした。
 少年はやおらポケットをまさぐっていたが、何を思ったか片方の靴を脱ぎ、そして靴下を脱ぐと瑞佳へ渡した。
 ハンカチ代わりに使えということなのだろう。
 瑞佳は目礼で受け取ると靴下で目頭を拭った。

 ──忌まわしい光景が甦る。
 襲撃者に気を緩めたあの時。そう、自分が芳野を殺してしまったも同然なのだ。
(ごめんなさい。わたしが至らなかったばかりに、取り返しのきかないことをしてしまいました)
 瑞佳はなおも自分を激しく責め続ける。
(悔しい。こんな悔しい思いは未だかつて経験したことがなかった。わたしの性格が仇になろうとは)
 身体の傷とは別に心がズキリと痛む。
(今までわたしは人を憎むどころか嫌うことさへしたことがなかった。そのわたしが人を憎もうとしている)
 目を開けると流れる雲の一つを睨む。
(固まって震えているだけの女にはなりたくない。扶(たす)けられる側に居てはいけない)

「あうっ!」
 傷口が一際大きく痛み、顔をしかめる。
「おい、あんまり自分を責めない方がいいぞ。せっかく生き長らえたんだし」
「すみません。取り乱しちゃいまして」
 半身を起こそうとすると少年が手を貸した。
「名前を聞こうか。僕は月島拓也だ」
「遅れてすみません。わたし、長森瑞佳と申します」
 助けてくれたからにはきっといい人なのだろう。瑞佳は内心胸を撫で下ろした。

 荷物について尋ねてみると、
「お前と相棒のは見当たらなかったな。穴の開いた使えないのが一つあったが置いてきた」
 瑞佳は気が抜けたように呆然とした。
 せっかく身を守る装備品だったのになぜ着用しなかったのか、後の祭りである。
「月島さん、聞いて下さい」
 瑞佳は早朝の惨劇のことを涙交じりに噛み締めながら披露した。
 彼女と芳野を襲った、おそらくあだ名であろう「まーりゃん」という少女の身体的特徴。
 奪われた三つのファミレス風防弾チョッキのうち、実用性があるのは薄い緑色の物ということである。
「そうか。僕も防弾チョッキを着た奴に酷い目に遭ったよ。ジジイだったけどな」
 防弾チョッキの効能に思いを馳せながらファミレス風タイプを想像してみる。
 拓也は笑いを堪えながら水筒を取り出すと瑞佳に勧めた。


 瑞佳は水をと口に含むと瞑目し、ゆっくりと喉を潤した。
 ふと視線に気づき、顔を向けると拓也がじっと見つめていた。
「死相が出てますか?」
「恐ろしいこと言うなよ。お前って可愛いだけでなく不思議な力がありそうだなって、思っただけ」
「あはは、普通の女の子ですよ」
「念じると物を動かせたり、壁の向こう側の物が見えたりする力を持っていないか?」
 手振りを交えて否定すると拓也は大げさに落胆の色を見せた。
「こんな体ですけど、きっとお役に立ちます。もしもの時にはわたしが囮になって時間を稼ぎますから、その間に──」
「──お前なあ、殊勝なこというなって」
 拓也は断りも無く瑞佳をひしと抱き締める。
 決して上辺だけではない、この少女の温かな雰囲気に包まれてもいい気がした。

「あのっ、えっと、ここはどのあたりになりますか?」
 瑞佳は堪りかねて話を逸らしてみた。
「おう、たった今山から街道に出るところだ。東崎トンネルの東側入口付近になる」
「すみません。地図を見せて下さい」
 拓也が地図を広げると瑞佳は食い入るように見る。
「これからどこへ行くのですか?」
「鎌石村へ行くつもりだが診療所の方がいいかな」
「いえ、鎌石村で結構です。たぶん診療所には本来の従事者は居ないでしょうから」
 街道の左右を窺う。なぜか右──トンネルの方から行く方が良さそうな気がした。
(感性を磨け……か)
「どうした? 怪訝な顔をして」
 瑞佳は海岸沿い経由を勧めた。
 小中学校経由は上り坂で山道が曲がりくねっており、時間が掛かりそうなこと。
 海岸沿い経由は一見遠回りに見えるものの、平坦地や直線路が多く見通しがいいことなどである。
 もちろん真意は別にあったが、あくまでも憶測なので言わないことにした。
「いかがでしょう?」
「うーん、なかなかいいぞ」
 拓也の視線は前屈みになった瑞佳の胸元に注がれている。
 服の隙間からは胸の谷間がはっきりと覗いていた。

「おんぶしてやるから荷物を頼む」
 瑞佳はデイパックを背負うと拓也の背に身を預けた。
 街道に出るとすぐ間近にトンネルの入口があった。
「出口が見えないくらい長いんですね」
「ああ、ちょっと曲がってるにしても千メートルはありそうだなあ……って、おい、照明がないぞ」
「わたし達の今の状態にも似てますね」
「やっぱり山の方から行かないか? お化けが出そうだ」
「月島さんといっしょだから平気です。トンネルを行きましょう」
 あまり気の向かない拓也を瑞佳は励ました。

 足元が見えず壁伝いに進むため、進行は思いの外進まない。
「おい、遠くに出口が見えるぞ。しかしまだ半分過ぎたくらいか」
「……そうですね」
 瑞佳は拓也の背に揺られながら朝の放送のことを思い出していた。
(芳野さん、わたし嘘ついてました。放送に友人の名前がありました。その子はわたしを姉のように慕ってくれました)
 椎名繭の名前を聞いたにも関わらず平然としていた自分を瑞佳は呪った。
「こんな所で話すのもなんだが、僕の考えに同意して欲しい」
 暗闇の中、拓也はこれまでの経緯と今後の目標──主催者の殲滅への協力を求めた。
「妹さんを……喪われたお気持ち、お察しします。微力ながら、お伝い……」
 声を掠れさせながら、瑞佳は考え方にズレがあるのを承知で同意した。
 ままならぬ体ではゲームに乗った者を殺そうにも殺せないからである。、
「なんだか苦しそうだぞ。休むか?」
「いえ、このまま行って下さい」
 瞼が重い。気が遠くなりかけている。
(気を失ったらもう目覚めないかもしれない。そうだ、あの人の顔を思い出そう。憎いあの人に一矢報いたい)
 瑞佳の脳裏に惨劇の記憶が何度もフラッシュバックしていた。

「――芳野さんから離れて……どこか行ってください………行かないと……その……撃ちますよ!」
「馬鹿! 俺なんかいいから早く逃げやがれ!!」
「………はあ。やれやれ……しょうがないにゃ〜……」

「トンネルを抜けたぞ。瑞佳、綺麗な海が見えるぞ」
 返事はなかった。すぐに横目で瑞佳の顔を窺う。
 拓也は付近の茂みに駆け込むと彼女を降ろした。
「瑞佳! しっかりしろ」
「すみません……ちょっと寝てました。お水、下さい」
 瑞佳の声は弱々しくなっていた。
 美しい顔立ちは血の気がなく、見ていて痛々しいほどである。
「すぐやるからな、待ってろ」
 蓋を開けたところで戸惑いを覚える。これはもしかして俗にいう末期の水なのではないか。
 拓也はかぶりを振る。死なせてはなるものかと。

 水を口に含むと自身の唇で瑞佳の唇をこじ開け、口移しに注ぎ入れる。
 瑞佳は静かに拓也の厚意を受け入れた。
「ありがとうございます。少し、元気が出ました」
「村に着いたら医者に診せるからな、気をしっかり持つんだぞ」
「お願いがあります。聞いて下さい」
「遺言なら聞かない」
「はしたない女と思って下さって結構です。わたしを、ぎゅってして下さい」
「ぎゅっ? ……してあげるからな。してあげるぞぉ!」
 拓也は優しく抱き締め、そして囁く。
「お前を必要としている、いや、お前を好きな男のためにも死ぬな」
「わたし、月島さんのためにも……もう少し、頑張ります」
「ありがとう。瑞佳、僕は……」
 拓也は何か言いかけたが、鼻をすすると押し黙ってしまった。

 傍に居るのは好きでもない男だが、それでも彼の暖かさを切実に感じていた。
(情が移っちゃったかな。浩平には悪いけど、わたしは月島さんに運命を託そう)
 容態からしてなんとなく今夜が山になりそうだと判断する。
 強運のツキはあるだろうか。
 まーりゃんのニヤケた顔が思い浮かぶと、悪態の一つでも言ってやりたい気に駆られる。
(鏡を見たら恐ろしい顔をしているだろうな。今のわたしを支えているのは憎しみだ。わたしは敢えて、鬼になろう)
 瑞佳は心がどす黒い澱に包まれつつあるのを、従容として受け入れていた。




【時間:2日目12:00】
【場所:E−8、東崎トンネル西側入口、三叉路付近の茂み】

 月島拓也
 【所持品1:8徳ナイフ、トカレフTT30の弾倉】
 【状態:瑞佳の看護、時期を見て救急用品、自身の着替えを求めて瑞佳を連れて鎌石村へ、上着はアンダーシャツ1枚】

 長森瑞佳
 【所持品1:支給品一式(食料及び水は空)は拓也の預かり物】
 【所持品2:支給品一式(水半分)は拓也の預かり物】
 【状態:出血多量(止血済み)、傷口には包帯の変わりに拓也のYシャツが巻いてある。衰弱、まーりゃん(名前知らず)を憎悪する】


【備考】
・拓也は瑞佳から天沢郁未、鹿沼葉子、まーりゃん(名前知らず)の身体的特徴などを聞いている
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