しのぶの戦い




榊しのぶは薄暗い個室にひとり、座っていた。
安っぽいスツールが、ぎし、と鳴る音が響く。
小さなデスクには私物のモバイルPCだけが置かれている。
扉には外から鍵がかかっており、廊下には歩哨が立っているはずだった。
有り体に言って、軟禁である。

艦内放送で流された、プログラムの定時放送。
たどたどしい栗原透子の声を、しのぶは目を閉じたまま、じっと聞いていた。
握り締められた仕立てのスーツに、皺がよる。
長瀬源五郎の嫌らしい笑い声が聞こえてくるようだった。
意図は明らかだった。

(―――人質のつもり……か)

この人選は、ただしのぶ一人に対する示威行為でしかない。
つまらないことをするなと、そう言いたいのだ。

だが、としのぶは思う。
それは失敗だ。あの男は、致命的な失敗を犯した。
榊しのぶを脅迫する手段に、よりにもよって栗原透子を使ったのだ。
それがどういう結果を招くか、長瀬は理解していない。

殺してやる、と。それだけを、しのぶは思う。




榊しのぶは官僚である。
厚生労働省人口調査調整局、特別人口調査室勤務。
国家T種取得者、いわゆるキャリアであり、来春人事においては同期入省者と共に
課長補佐職への昇進が約束されていた。
十年以内には課長職も確実な身であったが、しかし彼女はそれをよしとせず、
貪欲に出世を目指していた。

榊しのぶを駆り立てていたのは、改正BR法の存在であった。
表向きには国民感情の沈静化を目的として制定されたこの法律の目玉は、
プログラム参加資格における公務員への免責条項、いわゆる『公務員特権』の改定―――、
即ち、地方公務員のプログラム参加免除特権の剥奪である。
柳川祐也などはその第一号にあたる。
また煩雑な業務が増えるなと、当初はそんなことだけを考えていたしのぶであったが、ある日を境に
その認識を一変させることになる。
部課長級の勉強会において、肥大化した行政のスリム化を目的として、とんでもない提案が
なされたというのである。
各省の外局末端、ノンキャリアと称される人間を一定の割合で地方支局への出向扱いとし、
それをもって地方公務員と同格とみなしプログラム参加者の選考対象としてはどうか、
というのがその内容であった。

それを聞いて、榊しのぶは愕然とした。
栗原透子は社会保険庁、即ち厚労省外局勤務である。
無論、国家T種など取得していようはずもない。
お茶くみとコピー取り、書類整理が主な業務の、マンガみたいな使い走りだと本人も笑っていた。
それはつまり、改正法の新運用対象となる可能性を示していた。

栗原透子がプログラムに参加する。
それはしのぶにとって、何ら隔たることなく世界の破滅を意味していた。
入省時に人口調査調整局を志願した自分に、しのぶは心から感謝したものである。
世界を破滅から救う可能性を、その手に掴み取るチャンスが与えられたのだから。

その日から、榊しのぶは一歩でも早く出世の階段を駆け上がるべく、あらゆる手段を行使し始めた。
女であることを武器にすることにも躊躇しなくなった。
才覚だけで出し抜けるほど、同期は甘くなかった。
嫌になるほど高性能な頭脳の持ち主が、周囲に溢れていた。
彼らに勝つよりも先に、負けないための方策が必要だった。
足元をすくうための、或いは将来、正面から叩き潰すための材料を、しのぶは密かに集めていった。
そうして得たもののひとつが、今回のプログラムの進行という仕事だった。

防衛省との橋渡しをし、法改正後初のプログラムを円滑に進め、無事に終了させる。
それはしのぶにとって大きなアドバンテージとなるはずだった。
結果的に裏目に出たが、透子を名指しで出向させたのも、せめてもの実績作りのつもりだった。
司令が久瀬防衛庁長官の息子と聞いたときには、願ってもないコネができたと内心で小躍りしたものである。




そして、今。情勢は一変していた。
久瀬は失脚し、長瀬源五郎は暴走している。
軍という巨大な力を手にして舞い上がっているあの科学者が次に考えるのは、おそらく自らと対立する
自分とその子飼いである透子を適当な理由をつけて抹殺することだろうと、しのぶは推測していた。
そんなことをすれば自身の足場を突き崩すだけだが、交渉もなく自分を軟禁しているようでは、
それすらも分かるまい。長瀬は政治というものを知らなすぎた。


長瀬源五郎は二つの大きなミスを犯したと、PCの電源を入れながらしのぶは思う。

 ――― 一つめは、栗原透子を巻き込んだこと。

OSが立ち上がる。

 ―――そして二つめのミスは、榊しのぶに時間を与えたことだ。

役人の戦い方を見せてあげる、と呟いて、しのぶはおもむろにキーを叩き始めた。




【時間:二日目午前6時】
【場所:ヘリ空母「あきひで」内個室】

榊しのぶ
【状態:官僚モード】
-


BACK