黒白




母は歪んでいる。
そして、母をそんな風にしてしまったのは、紛れもなくこのわたしだ。
わたしを救えなかったという絶望、そしてまた、わたしがこの仮の身体を得て存えているという一縷の希望。
悔恨と、無力感と、自己陶酔と、そしてほんの少しだけの愛情めいたもの。
そんなものたちが、母を突き動かしている。

もう少しだけ踏み込んでものを言うならば、母はこの現実から逃避したがっているのだ。
わたしと暮らしていた頃、母はわたしという現実から目を逸らすために、仕事とアルコールに逃げ込んでいた。
神尾晴子というのは、そういう弱さを持ったひとだった。
そして母はいま、殺し合いを強制させられるという常軌を逸した環境に放り込まれていた。
要するに母は、より脅威的な現実を目の前にして新しい逃避の対象を探しており、そこにわたしという
格好の偶像がいたと、つまりはそういうことだった。
わたしを行動原理とし、わたしという存在に依存することで、その他のことには盲目的でいられる。
それが母の、脆い精神を支える柱となるのだ。
これまでずっと母を見てきたわたしには、母の言葉の意味、涙の意味が、手に取るようにわかっていた。

わたしは、だけどそのことに、この上もない幸せを感じている。
母はいま、どうであれわたしを中心として動いてくれているのだ。
かつてわたしという厄介者に怯え、逃げ回っていた母が、わたしだけを見てくれている。
それだけで、わたしはこの胸から溢れだした幸せに、溺れてしまいそうな錯覚を得るのだ。
いったいこの世界に、大好きな人が自分を見てくれているという、それ以上の幸せがあるだろうか。
少なくともわたしは、それをこそ幸福と、定義していた。

わたしの記憶にある母は、表情に乏しい。
怒っているか、困っているか、酔って笑っているか。いつだって、そのどれかだった。
それが今は、どうだろう。
母はわたしのために涙し、殺人すら躊躇うことなく肯定してみせた。
それが無償の愛ゆえでなかったからといって、そのことの価値は些かも揺るがない。

だから、わたしは母の、わたしに対する自己中心的な依存に感謝こそすれ、そのことで
母を責める気など、毛頭なかった。
むしろようやく親孝行ができると、そんなことをすら考えていた。
ひとを潰す、―――いや、殺すのも、その延長線上でしかなかった。

そう、ひと一人の生命を絶つというのは、わたしにとって真実、それだけのことでしかなかったのだ。
満足に生きてこなかったわたしは、死ぬということに対して希薄なのだ。
誰かのそれも、わたし自身にとってのそれもひと括りにして、わたしには理解が難しい。
死ぬということは、単に生き終わるということで、それは解放と同義だ。
勿論それが世間一般の理解とかけ離れた認識だと、わたしは痛いほど思い知っていた。

わたしとて、それを肯んじ得ていたわけではない。
生きるということが苦痛以外の意味を持つなら、それが知りたかった。
だが、わたしにそれ以外の答えを教えてくれる誰かなど、現われはしなかったのだ。
これまでの人生で、一度として。
だからわたしは今でも、死というものがよくわからない。
生も死も、その重みがわからないわたしは、だからこうして、変わり果てた姿になって
何の恨みもないひとを殺してしまっても、ひどく気持ちが悪いと、ただそれだけをしか思えない。

愛している。
わたしは、母を愛している。
そして母は、その根底はどうであれ、わたしのために歪むことを選んだのだった。
ならば、わたしの愛もまた、母の歪みのままに、歪んだものであるべきなのかもしれない。

―――してみると。
目の前に立つ黒い翼の神像は、わたしの歪みを形にしたものであったのだろうか。

「く、黒い……ロボ、やと!?」

母が、戸惑ったような声をあげる。
一方的な狩り、虐殺の陶酔に、冷水を浴びせかけられたのだ。
母が脳裏に思い描く夢には、こんなものは出てこなかったのだろう。

もっとも、わたしは母ほど驚いてはいなかった。
都合の悪いものを意図的に排除した夢の陰には、いつだってこんなものが潜んでいる。
こういうものに出くわすのは、だからわたしにとっては日常茶飯事だった。
わたしはいつだって、夢ばかりみるように生きてきた。
こういう時、わたしは決まって同じことをする。
破れた夢を繕って、新しく自分の周りに張り巡らすように、力なく笑うのだ。

『にはは……でっかいカラス』

そんなわたしの言葉を張り飛ばすように、母が声を上げる。

「あ、アホ! どこの世界に手足のついたカラスがおんねん! ってツッコむんはそこかい!」

これでいい。
母に調子が戻ってきた。

「これは敵や、気ぃつけえ観鈴!」

折りしも降り出した雨で、地面はすっかり泥だらけだった。
翼を広げたまま佇むその黒い神像から視線を離さないようにしながら、わたしは静かに立ち上がる。
後ろ手についた掌の下で、倒木がひしゃげる音がした。
いつまでも血がこびり付いたままの左手を、泥と木の葉に擦りつけて拭う。
黒い神像の後ろで、先程まで動けずにいた少女がもう一人の少女に抱えられて逃げていくのが見えていたが、
母は何も言わない。それどころではないと、わたしも母も理解していた。

眼前に影のように立つこの神像は、まさしく脅威だった。
わたしが立ち上がるまで、黒い神像は不動の姿勢を保っていた。
その背丈はわたしのこの身体とほとんど同じくらい。
女性的なフォルムに翼の生えた人型という、同系統の造形。黒と銀の色彩だけが、対象的だった。
わたしが身体を預かっているこの神像と関連があることは、ほぼ間違いなかった。

『―――お姉、様』

だから、突然そんな声がしても、わたしはさして驚かなかった。
むしろ、ひどく納得のいく感じがしたものだ。
おそらく、わたしを受け容れたウルトリィという白い神像のことを姉と呼んでいるのだろう。

「な、何や!? どっから声がしとる!?」

母が再び取り乱している。
わたしを姉と呼んだ声は、わたしの中にも響いていた。

『黒いのが喋ってる……んだと、思う』

ほぼ確信に近いものがあったが、あえて語尾は濁しておく。
母は、わたしが何かを断言することを好まなかった。

「何やて……!?」
『その声……お姉様も誰かを乗せてるのね?』

高い、澄んだ声。その声は、いくつかの事を示唆していた。

まず、一つめ。
通常、この神像はウルトリィやあの黒い神像のように、独自の人格を持ったまま行動するらしい。
だが、契約は紡がれた、と告げたあの時以来ウルトリィは眠り続けており、こうして呼びかけられていても
一向に目覚める気配はなかった。わたしのこの身体はイレギュラーというわけだ。

そしてもうひとつの事実。
「お姉様も」と口にしたということは、向こうの神像にも誰かが、母のように乗り込んでいるのだ。
そして、わたしたちの場合と照らし合わせるならば、それは、この殺し合いの参加者である可能性が極めて高い。

『聞いて、お姉様!』

だが声は、続けてこんなことを言った。

『おば様……カミュの契約者は、殺し合いなんてしたくないって言ってるの!』

黒い神像はカミュというのだろうか。
しかしそれよりも、その声が告げた内容に、母は目を丸くしていた。

『お姉様が選んだなら、そっちにいる人もきっと、こんな殺し合いなんて嫌だって思ってるよね?
 お願い、おば様のお話を……』

黒い神像、カミュの声は、そこで途切れた。
母が、お腹を抱えて笑い出したからだ。心底おかしそうな、爆笑。
その笑い声に、カミュが腹を立てたような声を上げる。

『な、なにがおかしいの!?』
「……嬢ちゃん、あんま笑かしたらあかんで」

不意に笑いを収め、母が奇妙に低い声で言った。

「姉ちゃんってな、このロボのことかいな」
『……え?』
「……観鈴にこの身体くれた、お人良しでアホな、このけったくそ悪い白ン坊のことかって聞いてんねや」

こういうとき、母の言葉はひどく判りづらい。
頭に血が登ると、自分の視点からしか物を言えなくなる人だった。
だからわたしは、一応のフォローを入れておく。

『が、がお……ウルトリィさんのこと、悪く言ったらダメだよ……』
『……ウルトリィさん、って……。それに、その声……?』

戸惑ったようなカミュの声。
どうやらカミュには、わたし自身が発する声と、乗っている人間のそれとの違いが判るらしい。
そんなことを考えた時、新たな声がした。

「―――その白い機体が、少なくとも今はあなたのお姉さんではないということよ、カミュ」

女性の声だった。
若々しい張りはあったが、中年と言っていい頃合だろう。おそらくは、母と同年代。
言葉からして、察しは良さそうだった。

『おば様……』
「観鈴、というのは……この名簿によれば、神尾観鈴さんのことかしら。
 なら、そちらに乗っているのは神尾晴子さん……違いますか?」

少し驚いた。
母の言葉を手がかりに組み立てれば、その結論にたどり着くのはそう難しいことではなかったが、
それにしても答えを出すのが速い。
母にしても、それは意外だったらしい。ひとつ舌打ちをして、忌々しげに口を開く。

「……どうも、よろしゅうに。そちらさんは?」
「はじめまして。柚原春夏と申します」

素直に答えが返ってくる。
カミュという力に護られている安心感なのか、それとも単に育ちがいいのかは分からない。
勿論、偽名ということも考えられるが、先程のカミュの言葉を聞く限りではその可能性は薄いかもしれない。

「……で、その柚原さんが、うちに何ぞ用かいな」

警戒心をむき出しにして母が訊ねる。

「お嬢さんと合流されたのですね。おめでとうございます」
「……そら、どうも」
「ただ、どういったいきさつかは存じませんが、お嬢さんは少し……。
 その、変わった状況にあるようにお見受けしますが」
「……で?」

何かを堪えているような、低い声。よくない兆候だ。
母は、こうした形式ばった物言いが何よりも嫌いだった。
眉間に皺を寄せた母が爆発するより前に、わたしは緩衝材となるべく口を挟んだ。

『にはは……ご丁寧に、どうも』
「……観鈴、大人同士の話や。黙っとき」

苛立ちの矛先が、上手くわたしの方へと向いた。
同時にわたしを子供扱いすることで、母は自尊心と体面を思い出すことができる。
落ち着きを取り戻した母の声を聞いて、わたしは胸を撫で下ろす。これでいい。

「これは家庭の問題や。口、挟まんとってくれるか」
「……」

母の無茶な言い様に、さすがに二の句が継げなかったらしく、一瞬の沈黙が訪れる。
しかし、春夏と名乗った女性はどうにか言葉を続けた。

「……申し訳ありません。ただ、私で何かお力になれることがあれば……」
「結構や」

ぴしゃりとはねつけるような、母の厳しい言葉。

「言いたいことがそれだけなら―――」
「分かりました。では、単刀直入に言います」

春夏さんの声音が変わる。これまでよりも、少し強い調子。
思ったよりも、気の強いひとなのかもしれない。

「私も……娘を、捜しています。
 娘を捜し、そして護るために、こうしてこの子……カミュにも協力してもらっています」

そこで一旦言葉を切る。
軽く息を吸い込むような気配の後、春夏さんは一気に言葉を吐き出した。

「身勝手を承知で、お願いがあります。
 そちらの……観鈴さんとあなたの力を、娘……このみを捜すために、貸してはいただけないでしょうか」
「……」

母はそれを、腕組みをしながら黙って聞いている。

「初めは、あなたに戦いをやめてもらおうと思いました。
 ……その、事情はわかりませんが、あなたや私の持つこの力……この子たちの力は、人に向けられるべきではないと、
 そう思いました。ですから、戦いを止めようと割って入りました」

理由はどうあれ水を射されることが大嫌いな母だったが、しかし春夏さんの言葉を聞いても表情は変わらない。
ただじっと正面に立つカミュと、おそらくはその中にいる春夏さんを見つめている。

「けれど、お話を伺って……あなたが、娘さんのいらっしゃる方だと、この島で娘さんを見つけられた方だと知って……、
 無理を承知で、お願いしようと思いました」

そこで少し言いよどんだ春夏さんだったが、意を決したように続ける。

「卑怯な物言いですが……同じ、母親として」

その言葉に、能面のようだった母の表情に、初めて変化が現れた。
ぴくりと、眉を上げたのだった。

「あなたが、娘さんを護るためにその力を使われる気持ち、よくわかります。
 ですが……」
「―――もうええわ」

吐き棄てるような母の声が、春夏さんの言葉を遮っていた。

「もうええ。もう充分や」
「で、でしたら……」
「……ざけんなや」

縋るような春夏さんの声を、一刀の元に斬り捨てる。

「よくわかるぅ……? ハ、あんた、なぁんもわかってへんわ。
 ちぃっとでもわかっとったら、そないなアホなこと、よう言われへん」
「な……」
「一緒に娘を捜してくれ、やって……? 笑えん冗談も大概にせぇや」

心底から嘲るような、母の声音。

「捜してどないせぇっちゅうんじゃ。諸共ぶっ殺したろか? ……それも悪ぅないなぁ」
「……ッ!」
「オマケに何や、同じ母親としてぇ? ……死なすぞボケ」

ドスの聞いた声に、春夏さんが絶句する。

「おのれに母親語られたないわ。うちの観鈴と、おのれんとこの、なんや、このみちゃんか?
 仲良しこよしで嬉しいなあ、ってか。ドタマ沸いとんちゃうか?
 それからどないすんねや。くじ引きでもして誰が死ぬか決めるんか。
 誰ぞ死なんと終わらんで、この腐れたゲームのド畜生は」
「それは……」
「ええ加減にせえよ。なら今、ここでぶっ殺したる方が、ナンボか後腐れないっちゅうもんやろ」
「……」
「安心せえ。可愛いこのみちゃんもすぐにそっち送ったるわ。
 観音様の前で親子水入らずや、好きなだけしたったらええがな」

おかしそうに笑う母の表情には、紛れもない悪意と侮蔑が浮かんでいた。
声音に滲み出す、その負の感情を感じ取ったものか、春夏さんはしばらく黙り込む。

『おば様……この人、もう……』
「―――春夏さん、でしょ。カミュ? ……分かってる」

その、何かを飲み込んだような春夏さんの声に、母が敏感に反応する。

「お喋りは終いやな。……お互い、可愛い娘のために気張って殺し合おうや」
「そうね。……私は、あなたを止めるわ」
「……観鈴」
「カミュ」

同時に、声が響く。

「―――飛んだり」

翼を広げ、大地を蹴り、大空に舞い上がったのにも、ほとんど差はない。
見上げる空から降りしきる雨が、顔に当たって痛いくらいだった。
瞬間といっていい速さで、わたしたちは何らの遮蔽物もない空間に占位する。

「ブチかましたれ、観鈴!」

母の声を合図に、わたしは急加速してカミュへと突進する。
こんな身体を得たとはいえ、わたしが格闘技の達人になったわけじゃない。
ただこの速度と重量を活かした体当たりだけが、有効な攻撃手段だった。
だが、その突進はあっさりと回避される。

「カミュ」
『うん、春夏さん』

カミュの広げられた片翼が、小さく畳まれる。
空中でバランスを崩し、斜めに傾ぐカミュ。
たったそれだけで、わたしは目標を見失っていた。

「な……もう一度や、観鈴!」

言われ、急制動から反転し、再度加速する。
しかし第二波もまた、最小限の動きでかわされる。

「く……何でや、なんで当たらん!」

苛立ちを隠せない母の声。
しかし、わたしには最初の突進を回避された段階で理解できていた。
これは、勝てない。動きが違いすぎる。

おそらくは、春夏さんというひとが細かい動きを担当しているのだろう。
わたしはこの身体を、文字通り手足のように動かせるが、しかし元の身体と大きく異なっている
その重量や慣性のバランスは、如何ともしがたい。
感覚的に飛ぶことや加速することはできても、振るった腕に逆に振り回されることまでは避けられないのだ。
カミュの場合は、春夏さんが操縦することでその辺りをカバーしているのだと、そう思う。
まさかこういった神像の操縦に熟練していたわけでもないだろうが、ともあれ春夏さんは
それを見事にこなしているようだった。

そして勿論、母にそんな技能はない。
操縦桿を握ることすらしていなかった。
結果、わたしの突進は何度も空しく宙を裂き、対して無傷のカミュはまるで雨に打たれることを
楽しんでいるかのように、悠然と夜空に漂っているのだった。
と、春夏さんの声が、隔てられた距離を感じさせないほどクリアに響いてきた。

「……カミュ」
『うん……お姉様の身体だけど、あれはやっぱりお姉様じゃない。
 ……これ以上、あの身体を使わせておくわけには、いかないよ』
「……いいのね」
『うん。……術法で、決める。その間、お願い』
「わかった」

やり取りを終えると、カミュの声が消えた。
代わりに響いてきたのは、低く重々しい、何かの呪文のような声。

「こ、今度は何や!?」

母が憔悴したような声を上げる。
必殺の突進を幾度も回避され、力の差を見せつけられた格好の母は、明らかに疲弊していた。
その声を聞いて、わたしは決意を固める。

―――ああ。
今の母が、このひとに勝てる道理がない。

術法、というのはこの呪文めいた声によってもたらされるのだろう。
やり取りから判断するならば、おそらくは、必殺技のような何か。
ならば、時間はそう残されてはいなかった。

わたしはこの身体をカミュの方へと向け、しかしこれまでのような急加速ではなく、ゆっくりとした速度で移動させはじめる。
予測していない動きに戸惑ったのは、むしろ母の方だった。

「何や、観鈴……!? どないしてん、突っ込んだらんかい……!」

母には答えず、わたしは空中でカミュに正対すると、静止した。
春夏さんとカミュ、そして母の視線を感じながら、全身で雨を受け止めるように、両手を広げていく。
見えない十字架に磔刑に処されているかのような格好で、わたしは声を出す。

『助けて、ください』

それは、赦しを乞う言葉だった。
一番最初に反応したのは、母だった。
驚いたような、怒っているような、奇妙に裏返った声で叫ぶ。

「な……何を言うてんねん、観鈴!? どないしてん!?」

それにはやはり答えず、わたしはカミュと、その中にいる春夏さんをじっと見つめる。
いつの間にか、カミュの呪文めいた声は止まっていた。
身体の表面を雨粒が叩く音だけが、静かに辺りを包んでいる。
しばらくの沈黙の後、春夏さんの落ち着いた声が響いた。

「……どういう、ことかしら」

その声に警戒するような色はない。
むしろ、何か既知の契約事項を確認するような、そんな声音だった。
だからわたしは、その察しの良さに感謝しながら、言葉を続ける。

『お願いします。わたしはどうなっても構いません。
 ……だから、お母さんだけは、助けてあげてください』

淡々と、わたしは告げる。

「な……!」
「……」

驚愕する母と、沈黙する春夏さん。
予想に違わぬ反応だった。

『お母さんは、わたしのために悪いことをしようとしてるんです。
 ……だから、わたしがいなくなれば、お母さんはもう悪いことをしません』

春夏さんの言葉を借りるなら、卑怯な物言いだった。
これは茶番劇だ。これまでに感じた春夏さんの善良さを利用し、そして母とわたしの関係を理解した彼女が
決してこの申し出を無視できないとわかった上での、ひどく打算的な命乞いだった。
だが、春夏さんはこんな茶番劇にもきっと律儀につきあってくれるだろう。
短いやり取りの中でも、彼女がそういう人間であろうことは、伝わってきていた。

『おば……春夏さん、どう……するの?』
「……」

カミュの問いかけにも、春夏さんは答えない。
リスクと心情、これまでの言動。色々なことが頭をよぎっているに違いなかった。

「ちょ、待たんかい! 何を勝手にほざいとんじゃ! 観鈴! どういうこっちゃ、答ぇえ!」

置き去りにされた母の怒声を、わたしは内心で耳を塞いでやり過ごす。
これは、わたしと春夏さんの間で取り交わされようとしている商談だった。商材は、母の命。

しばらくの間、春夏さんは沈黙を守っていた。
母の悪態だけが、際限なく続いていた。

「―――私たちが、約束を守ってお母さんを助けるという保証はないわ」

ようやくにして春夏さんの口から出たのは、そんな言葉だった。
間髪をいれず、わたしは答える。

『にはは……きっと大丈夫です』
「……では、私たちの危険に対する保障は、どうなるのかしら」

痛いところを、突かれた。
上手く切り返したつもりが、考えが甘かったらしい。

「あなたのお母さんは、随分とやる気みたいだけど。お母さんを解放したら、私の娘の安全はどうなるのかしら。
 ずっと連れて歩くにしても、四六時中監視しておかなければ何をしでかすか分からないわ。
 私の席に入れるわけにはいかないし、かと言ってカミュが手に持って飛んだら、お母さんは潰れてしまうかもしれない。
 そういうことを、きちんと考えて言っている?」
『……』

がお、と口に出しそうなところを、ぐっと堪えた。
あれは、相手に甘える言葉だ。甘やかしてくれる相手にだけ、通用する言葉だった。
言葉に詰まったわたしを、春夏さんは無言で責めている。
なにか言葉を返さなければいけない。それはわかっていたが、肝心の言葉が見つからない。
何しろ、わたしたちがこうして話をしている間、或いは沈黙を続けている間にも、母の聞くに堪えない
悪口雑言は続いていたのだ。何を言い出すにせよ、片端から説得力が失われていく。
手詰まりだった。

「……どうしたの? 言いたいことは、それで終わりかしら」
『…………』

つくづく甘かった。
温情に訴えかけるだけでは、母親として物を言うこのひとには届かない。
自分の浅知恵を悔やみ、思考の迷宮に踏み込もうとしていた、そんなわたしを救ったのは、

『―――そこから先は、私がお話しましょう』

聞き覚えのある、透明な声だった。
突然響いた新しい声に、もっとも敏感に反応を示したのはカミュだった。

『お……お姉様!? その声、ウルトリィお姉様なの……?』

そう。その声は、ずっと眠っていたはずの、わたしのこの身体の真の持ち主。
白い神像、ウルトリィのものだった。

「ウルトリィ……? カミュ、この声があなたの言ってたお姉さん……なの?」
『そうよ、春夏さん!』
『―――久しぶりですね、カミュ』
『お姉様……! ……でも、どうして……』

カミュの、不安げな声。
目の前で声を出しているのが本当に姉なのかどうか、はかりかねているのだろう。
そしてそれは、わたしにとっても同様だった。

(う、ウルト……さん?)

思わず声を出そうとして、それが叶わないことを知る。
声のみならず、身体もまたわたしの意思から離れたかのようにピクリとも動かない。

(……契約者、神尾観鈴。この場は私にお任せなさい)

ウルトリィの優しげな声が、焦るわたしを落ち着かせるように響いた。
どうやらわたしに語りかける声は、カミュや母たちには伝わっていないようだった。

(が、がお……お母さん、助けてくれる?)

思わず口をついて出る、口癖。
ウルトリィの答えは短かった。

(それが調停者の務めです)

それだけを告げて、ウルトリィは今度はカミュや春夏さんへと声を発する。

『……カミュ、そしてその契約者の方。失礼ながら、お話は伺っていました。
 あなた方の不安も、もっともなことだと思います』

どこまでも理性的なその声に、春夏さんもこれがわたしや母ではないと考えたらしい。
慎重に、探るような声音で尋ねる。

「……ウルトリィさん、と仰ったかしら。率直に伺いたいのですが」
『何でしょう、カミュの契約者の方』
「柚原春夏。春夏、と呼んでくださって結構です。……話を戻します」
『はい』
「……あなたは、私達と戦うために出てこられたのですか」

ズバリと切り込んだ。
わたしとしても、それは気になるところだった。
ずっと眠っていたはずのウルトリィが、どうしてこの窮地で目覚め、こうして場の主導権を握っているのか。
それがカミュを撃破し、自らの身の安全を確保するためかもしれないと春夏さんが考えたとしても、不思議はなかった。
だが、ウルトリィはそれを言下に否定する。

『いいえ、そのようなつもりはありません』
『そうよ春夏さん、お姉様はそんな人じゃないもん!』

カミュもまた、怒ったように声を上げる。

「ごめんなさい、カミュ。……失礼しました。なら、改めて伺います。
 あなたは、そこの……神尾晴子さんを、どうなさるおつもりですか」

またしても直球だった。
わたしへの詰問が中断していた、正確にそこまで話が戻される。
ウルトリィがどんな答えを返すのか、わたしもまた傾注する。

『……今、この身は契約者の手を離れ、私自身の意思によって動いています。
 私たちには自由にそういうことができる。そうですね、カミュ』
「そうなの、カミュ?」

突然に話を振られたカミュが、戸惑ったように答える。

『え? ……ええと、うん、一応はできるよ……?
 あ、も、もちろんカミュがそういうことをするときは、ちゃんと春夏さんに言ってからだからね!?』
「分かってるわ、ありがとうカミュ」

宥めるように言う春夏さんに、ウルトリィの言葉が続けられる。

『それは即ち、この身に取りこんだ者を解き放つかどうかも、私の意思次第ということです。
 言っている意味が、分かりますか?』

ウルトリィの問いかけに、春夏さんが探るように口を開く。

「……つまりあなたはそのまま、牢屋の役目を果たすことができるって、そういうわけですか……?」
『その通りです』
「何やて!? ちょ、待ったらんかい!」

そのやり取りに、無視され続けて不貞腐れたように黙り込んでいた母が噛みついた。

「冗談やないで! 開けえ! 今すぐここ開けえや!」

母の半ば悲鳴に近い声に、わたしの胸が締め付けられる。
しかし今のわたしには、指一本を動かす自由すらありはしなかった。
そんな母の声を無視して、春夏さんはカミュへと問いかける。

「……どう思う、カミュ」
『うん……お姉様の仰ってることはわかるよ。難しいことじゃないと思うけど……』
「そう……」

言って、しばらく何事かを考えるように黙り込んでいた春夏さんが、やがて口を開いた。

「ウルトリィさん。もう一つだけ、伺います」
『何でしょう』
「あなた自身は、これからどうされるおつもりですか」

もっともな疑問だった。
ウルトリィが自身の意思で動くというのならば、場合によっては母とわたしよりもよほど危険な存在となり得る。
だが、ウルトリィはそんな疑問を一蹴した。

『何もするつもりはありません』
「……と、いうと」
『こうして、ただここに漂い、あなた方を見守るつもりだということです』
「……」

さすがに、その答えは予測していなかった。
確かにこの高空に留まるならば、母が逃走を企てることも難しいし、他の参加者にかち合うこともあるまい。
不審な動きをするにしても、カミュたちから見上げればすぐにそれと知れる。
春夏さんにしても、それは意外な答えだったらしい。再び沈黙が降りる。

「……わかりました」

しばらくの間を置いて、春夏さんの絞り出すような声。
ウルトリィの声がそれに答える。

『ご理解に感謝します』

それが、結審の槌音だった。



「では、神尾晴子さん……そして観鈴さんのこと、お任せします」
『……じゃあまたね、お姉様!』

その言葉だけを残して、カミュと春夏さんは夜の島へと降りていった。
黒いその影が、瞬く間に夜陰に紛れて見えなくなる。

「何で……なんでや……!」

母の涙交じりの声だけが、高空に取り残されていた。

「ここ開けぇや、観鈴! うちの言うことが聞けんのかい、観鈴……!」

わたしはそれを、じっと聞いている。




【時間:2日目午前3時頃】
【場所:G−6】

 神尾晴子
【持ち物:M16】
【状況:軟禁】
 アヴ・ウルトリィ=ミスズ 
【状況:自律操縦モード/それでも、お母さんと一緒】

 柚原春夏
 アヴ・カミュ
【所持品:おたま】
【状態:健康】

 天沢郁未
【所持品:薙刀】
【状態:逃亡】
 鹿沼葉子
【所持品:鉈】
【状態:逃亡】
-


BACK