月島瑠璃子殺害事件




幾ばくかの時間が流れていた。
向坂雄二、月島瑠璃子、マルチの三人は、新城沙織の遺体が発見された部屋を出て、
瑠璃子とマルチが最初に休んでいた民家の一室へと戻ってきていた。
沙織の遺品だけは持ち込んでいたが、遺体を運ぶだけの気力は残っていなかった。
三人の座り込む部屋に、言葉は無かった。

重い沈黙の降りた部屋の暗がりで、向坂雄二は膝を抱えて俯いている。
自身の心音が不快だった。
呼吸する音が不快だった。
服の衣擦れが不快だった。
何もかもが、不快だった。
顔を埋めたその衣服にも、濃密な血の匂いに満ちた部屋の残り香がまとわりついているようで、
不快だった。
それでも、顔を上げることなどできなかった。
赤黒く腫れ上がった瑠璃子の顔を、直視できるはずもなかった。
どろりと濁ったその温度のない瞳に映る自身の姿に、耐えられるはずもなかった。

 ―――ぶったよね。

目を閉じていても、瑠璃子の瞳が自分を責めているのがわかった。
耳を塞いでも、その声は雄二の脳髄にこびりついて離れない。
叫んでしまえば、止まらなくなりそうで。
それで、ただ膝を抱えてズボンの裾を握り締めている。

 ―――ぶったよね。向坂君。何度も何度も。
 女の子の顔をぶったよね。ほら、こんなに腫れちゃった。
 痕が残っちゃうかな。痛かったよ。とっても痛かった。

見せないでくれ、そんなものを見せないでくれ。
瞼の下の闇の中、雄二は必死に懇願している。
それでも瑠璃子の声がやむことはない。
腫れ上がったその顔が、雄二を嘲るように嗤っている。

 ぶったよね。私をぶったよね。何度も何度もぶったよね。
 証拠もないのに人のことを犯人扱いして。
 自分が犯人だって言われるのが怖かったから。
 ぶって、ぶって、女の子を犯人にしようとしたよね。
 ね、女の子にとってもとっても優しい向坂雄二君。
 
やめてくれ。やめてくれ、やめてくれ、やめてくれ。
後悔ではなかった。反省ではなかった。悔悛ではなかった。
それはただ、赦しを希う声だった。
悪かったと言えないまま、ただやめてくれとだけ、雄二は叫び続ける。
雄二の懇願は終わらない。瑠璃子の責め苦も終わらない。


 ―――やっぱり沙織さんを、あのままにはしておけません。

そんな声を上げたのは、マルチだった。
その声を聞くや、雄二は立ち上がっていた。
俺が行く、と口にしたつもりだったが、その呟きが言葉になっていたかどうか、
雄二には判然としない。
判然としないまま、マルチを突き飛ばすようにして部屋を飛び出した。



「……雄二さん……」

倒れこんだままのマルチを、月島瑠璃子はぼんやりと眺めている。
頬は腫れ上がっていたし、口の中も切っているようだったが、痛みはさほどでもない。
もとより、痛覚というものにあまり敏感な方ではなかった。

瑠璃子にとって、苦痛は常に自身の中に存在していた。
凡庸で、低俗で、猥雑なこの世界に埋没するように存在する、自分自身が苦痛だった。
月島拓也の些か度を過ぎた愛情には辟易することもあったが、それでも彼が瑠璃子に向ける
圧倒的な感情がなければ、瑠璃子はとうにこの世界に見切りをつけていたかもしれない。
身体を捧げてみせたのも、その返礼に過ぎない。
どの道、傷つけて惜しい身体でもなかった。
助けて、と呼んではみても、結局のところ自身を救い出すことなど誰にもできはしないと、
瑠璃子は正しく理解していた。
この災厄の宴に積極的に加担してみせたことにも、大した理由があるわけではなかった。
こうして愚かな狂乱の宴にうち興じている内は退屈もすまいと、それだけのことだった。
誰が死ぬも、誰が生きるも、それは悲劇であり、喜劇であり、つまりは娯楽だった。
絵物語を眺めるように、瑠璃子は人の生き死にを愉しんでいた。

そんな瑠璃子にしても、新城沙織の死は意外だった。
彼女を庇護してみせたのは、別段殺すためではなかった。
長瀬祐介にしたように、彼女を包んでみただけだった。
そうすれば、見事に兄を悪夢から救い出してくれた祐介のように、彼女も誰かを
救い出してくれるかもしれない。
それが楽しみで、瑠璃子は沙織を庇ってみせた。
だから祐介にしたように、沙織を、沙織の精神の奥を、少しばかり電波で
弄ってみせたのだった。そうしたら。
沙織は、死んでしまった。

何がいけなかったのだろう、と瑠璃子は考えている。
辛いこと、苦しいこと、悲しいこと、そんなものは一つの娯楽でしかないのに。
見て、聞いて、感じて、辛くなったり苦しくなったり悲しくなったりすればいいという、
ただそれだけのことなのに。
そんなものに心の全部を包まれたからといって、どうして新城沙織は死を選んだのだろう。
わからない。わからなくて、面白い。
難解なミステリの謎解きを楽しむように、瑠璃子は沙織の死を弄んでいる。

次はどうしよう。次は何をしよう。
誰を殺そう。誰が死ぬのが面白いだろう。誰かに誰かを殺させるのも面白い。
退屈と、人の命を捏ね回して、月島瑠璃子は微笑んでいる。


「……っ、痛ぁ……」

マルチの声が、思考の淵から瑠璃子を引き戻した。
見れば、向坂雄二に突き飛ばされた姿勢のまま、起き上がれずにいるようだった。

「どうしたの、起き上がれないの……?」

雄二が飛び出していってから、それなりの時間が経っていた。
その間、ずっと倒れたままでいたというのであれば、どこかの機能に異常が発生して
いるのかもしれなかった。

「いえ……大丈夫だと、思います……けど」

仰向けのまま、腕や首周りを振り回して四苦八苦しているが、足腰が動いていない。
やはりどこかに異常をきたしているようだった。
人間で言えば打ち所が悪かった、といったところだろうか。
なおももがいているマルチの姿を見て、瑠璃子は立ち上がる。

「……ほら、手」
「え、……いえ、大丈夫ですから!」

バタバタと腕を振り回すマルチ。
困ったような顔でまくし立てる。

「そんな、人間の方にご迷惑をおかけするようなこと、できません!」

苦笑して、少し強引にマルチの手を取る瑠璃子。

「……ね。引き起こすよ」
「いえ、そんな、ほんとに大丈夫ですから! 結構です……わ!」
「……っと」

瑠璃子に手を取られたまま、マルチが腕を振り回す。
小柄に見えるマルチの、意外な重量とバランスの変化によろける瑠璃子。
マルチを踏みつけそうになって、足を取られる。

「……ひゃ!」
「……あ、ごめん」

ちょうど、馬乗りになるような形でマルチにまたがる瑠璃子。
手をついて立ち上がろうとしたとき、背後でドアが開く音がした。



向坂雄二は走っていた。
どこか湿り気を含んだ夜の風が、ひどくわずらわしかった。
そんな空気を吸い込むのが嫌で、息を止めて走り続ける。
すぐに限界が来た。
肺と心臓と脳が、雄二自身の愚かさを糾弾していた。
脇腹にも、刺すような痛みを感じる。
そんな生理反応が疎ましくて、雄二はさらに足を速める。
叫び出したかった。

おぞましい記憶だけが甦るその部屋に駆け入って、後ろ手に扉を閉める。
閉めた扉に体を預けて、雄二はずるずると座り込む。
暗い部屋は、相変わらず濃密な血の匂いに満ちていた。
大きく息を吸い込む雄二。鼻をつく鉄の臭いが、肺に沁みた。

部屋の中央には、新城沙織が倒れている。
座り込んだまま、雄二はその遺骸に手を伸ばす。
届かない指の先に、沙織の躯が伏していた。
死に貌は、見えない。

「―――なんで、こうなっちまったんだろうな。
 灯台で会った時には、うまくやれそうだったじゃないか。
 貴明と、俺と、マルチと。なんで、なんで、こう、さ―――」

雄二の呟きに、沙織が答えることはない。
静寂が降りる中で、雄二は立ち上がる。静けさが、怖かった。
動いていなければ、瑠璃子の声が聞こえてきそうな気がしていた。
沙織の遺体に歩み寄り、その背に手を差し入れようとする。
貼りつく血糊を剥がしながら、その差し入れた手を、

―――持ち上げることなど、できなかった。
初めて抱えた死体は、柔らかく、ねっとりとしていて。
ひどく、おぞましかった。

忌む、という言葉の意味が、指の先から体中を駆け巡る。
せり上がってくる嘔吐感を堪えきれず、雄二はその場に胃の中のものを吐き出した。
胃液までを全部吐き出して、その苦さに涙を浮かべて、そして雄二は凍りつく。

叫び出したい衝動を必死で堪えた。どさりと、沙織の躯が落ちる。
唾液と胃液のこびりついた口元を、凝固しかけた血の欠片のついた両手で覆う。

見開かれた目に映る、沙織の遺骸。
その顔一面が、雄二の反吐に塗れていた。

異臭が鼻をつく。
雄二の胃で消化されかけていた細かな欠片が、沙織の額といわず頬といわず、
こびりついている。
制服の白い襟にも、点々と染みができていた。
沙織自身の血液によるものなのか、それともたった今吐き散らした反吐のせいなのか。
暗い部屋の中で、それは、同じもののように、見えた。

口元を押さえたまま、雄二は後ずさる。
その背が扉に当たる。震える手で、何度も失敗しながらノブを捻った。
ようやく開いたドアの向こう側の暗闇に向かって、雄二は走り出す。

夜闇の中を、雄二は走る。
何度も転びながら、砂利が掌に食い込んで血が滲むのも構わずに。
とめどなく涙を流しながら、雄二は走っていた。

怖かった。
悲しいでもなく、ただ、自身のしてしまったことが、怖かった。
声が、響いていた。
走って、走って、走って。
逃げ込むために押し開けた、その扉の向こうで。

月島瑠璃子が、マルチを押し倒していた。




恐怖から逃れようと、暴力を振るった自分を。
仲間の遺骸のおぞましさに耐えかねて、新城沙織を汚してしまった自分を。
嗤うように、引き裂くように責めていた、月島瑠璃子が。

最後に残った仲間を、殺そうと、している。

そう、見えた。
向坂雄二の中で、何かが弾けた。
絶叫が、雄二の口から迸っていた。




血の池の中心に、一つの塊。
塊には、手と足のようにも見える何かが、生えていた。

かつて、月島瑠璃子と呼ばれていたそれを、向坂雄二は呆然と見下ろしていた。
ぶっくりと赤黒く膨れ上がった自身の手には、鉄製のフライパン。
新城沙織の、遺品だった。
無残にも形を変えたそれから、ぬらりと粘る何かが、滴り落ちている。
腰にしがみついているのは、マルチだった。
必死の形相で、何かを叫んでいる。

何を叫んでいるのかは、聞こえない。




 【場所:I−6】
 【時間:二日目午前4:30頃】

向坂雄二
 【所持品:フライパン、死神のノート(ただし雄二たちは普通のノートと思いこんでいる)、ほか支給品一式】
 【状態:呆然】

マルチ
 【所持品:支給品一式】
 【状態:絶叫】

月島瑠璃子
 【状態:死亡】

※瑠璃子の所持品:ベレッタ トムキャット(残弾数7/7、355b経由のルートでは
残弾数0/7)、ほか支給品一式は部屋に転がっている。
-


BACK