Black horizon




 僕の印象の話だ。澤倉美咲は、静かに感情を溢す人だと、そう思っていた。嬉しいとき
も悲しいときも密やかに。と言っても、泣いている姿を見たことはないが。何か良いこと
があったとき、美咲さんは穏やかに微笑み、喜びを噛み締めるように嚥下する。「どうし
て全身で喜びを表さないのか」と思ったことがないわけではない。口にしたことはなかっ
たけれど、もっと嬉しそうな顔をすればいいのに、叫び出したっていいのに、と、そう思
うことが何度もあった。この疑問に対する答えをくれたのは友人の河島はるかで、曰く
「美咲さんが嬉しいときに、悲しい人がいるわけ」。なるほど、含蓄のある言葉だ。幸せ
の裏側には悲しみがある。例えば大学受験に成功したAさんがいた。Aさんは嬉しいな、
両手を挙げて万々歳。しかし、受験とは椅子取りゲームであるから、Aさんが受かってい
る裏で、どこぞの誰かは受験に失敗している。あらゆる喜びというのは、悲しみの礎の元
に出来ている。美咲さんが嬉しいときに手放しで喜ばないのは、自分の成功が誰かの失敗
を影として引き連れている、と自覚しているからなのだ。美咲さんらしいと言えば美咲さ
んらしい感情の機微だ。いや、本当に美咲さんがこういうことを考えているのかどうかは
知らないし、ただ単に大きな声を出すのが苦手なだけなのかもしれない。しかし、何とな
くこの考えは正しいのではないかと思う。美咲さんらしいし、何より他でもない河島はる
かが、世にも珍しく真面目に言ったことだ。普段は茶化したことしか口にしない(という
のもひどい話だが)はるかがおよそ遊びを入れずに発言したことは、経験上正鵠を得てい
るものが多かった。ともかくにして、僕はそんな風に静かに笑う美咲さんのことが好きで、
ついでに少し加虐的ではあるけれど、美咲さんが泣くときはどんな風に泣くのだろうか、
と思っていたものだ。きっと、春雨のような涙を流すのだろうと思った。降っていること
にさえ気付きにくい、静かな雨を降らせるのだろうと思っていた。

 森川由綺が死んだのだという放送が流れたとき、美咲さんは泣いた。僕は美咲さんの泣
く姿をはじめて見た。それはひどいひどい泣き方だった。静かな雨なんて思った僕が浅は
かだった。「わああ、わああ」と子供のような声で美咲さんは泣いた。涙と鼻水と涎が構
いなく垂れ流されるその顔はそれはひどいものだった。「由綺ちゃん、由綺ちゃん」と、
ぐしゃぐしゃの顔のまま、もたつく足取りのまま家を飛び出して行こうとまでした。僕と
折原浩平が二人がかりで押さえ付けても「離してェ!」と髪を振り乱しながら美咲さんは
喚き続けた。「大丈夫だから、何かの間違いだから」と羽交い絞めにしながら僕は囁いた
けれど、「どうして間違いなんて分かるの!」と美咲さんは口角泡を飛ばして叫ぶ。「落
ち着いて、美咲さん落ち着いて」。もつれ合いながら床に転げ、美咲さんを押さえ付け続
ける。こんなときに美咲さんの髪の、ほんのりと酸っぱい匂いが気になって仕方ない自分
が、どうしようもなく救えないと思う。「わあああ」。しばらくしてやっと動かなくなっ
たけれど、美咲さんはまだ泣き続けていた。もう大丈夫だろうと僕は羽交い絞めを解くと、
美咲さんの首に腕を回して「大丈夫だから。大丈夫」と出来るだけ穏やかな声を作って言
い聞かせる。美咲さんが小さく首を縦に振り、やがてその身体から力が抜けていった。け
れど一体何が大丈夫なのだろうか、と僕は思う。少なくとも僕は、ゲームに乗ろうと一瞬
でも思った僕は、とても由綺が生きているなんて思っていないから、この場合「由綺は生
きてるよ」という意味で使ったのではない。「由綺は死んだけど美咲さんは大丈夫だよ」
という意味だろうか。それはまたなんとも、僕はひどいことを言うものだ。そもそもにし
て驚くべきは僕が由綺の死を知っても一滴の涙さえこぼしていないことである。僕はもし
かしたらとっくに駄目なのかもしれない。

 美咲さんが泣き疲れて眠りに落ちた後のことである。「言い出しにくかったんだけどさ」
と前置きしてから「さっきの放送が本当なら、オレの知り合いも死んだみたいだ」と、浩
平は今にも泣き出しそうな顔で言った。美咲さんが狂乱するのを止めながら、浩平自身気
が気でなかったのだ。「そうか」とだけやっと返した僕に、浩平は意図の分からない笑顔
を見せる。目尻には涙があるが、笑っていると言っていい。「彰ってさ、いい人のことを
好きになったな」。どういうことだろうと思って首を傾げると「友達が死んで、あんな風
に真っ直ぐに悲しめる人なんて、そうはいないと思うんだよ」と、浩平はそう加えた。
「人の不幸を悲しむことって難しいんだよ。オレだって今さっき、繭が死んだことを聞い
てるわけだけど、何だか泣くに泣けないんだ。なんだか現実の出来事じゃないように思え
てくるんだ。昔家族を亡くしてるんだけど、そのときと比べても、全然だ」。どう相槌を
返したものか迷っているうちに浩平は再び口を開き、「オレも自分が何言いたいのかよく
わかんないんだけどさ、オレとか、繭の死を聞いても、今こうして冷静に話せるくらいの
余裕はあるわけでさ、ああ、うん、なんていうのかな、」小さく溜息を吐いた後、「悲し
いことを、真っ直ぐに悲しいと思って、形に出来るっていうのは、すごいことだと思うん
だよ」と、浩平はそう言い終わって口を閉じる。何だか暗に、平然としている自分のこと
が責められているような気がしてきて若干不快になる。「僕は泣けてないけどな」と自嘲
気味に言うと、「何言ってんだよ彰。お前だって悲しいだろ? ただ涙が流れてないだけ
だ。だって彰、そのユキさんが死んで悲しかっただろ?」という問いは考えるまでもなく、
「悲しかった」「だろ」「けど、泣けなかった」「泣くことってそんなに重要なのか?」
「――君さ、ちょっと前に自分が言ったこと忘れたの? 美咲さんは素直に感情を顕すか
らいい人だって。泣けない僕は、いい人じゃないんじゃないか?」「それはそれ、これは
これだ」。何て奴だ。浩平のあまりに適当な物言いに絶句する。

「まあ感情を素直に表せるのに越したこたないけどさ。一番大事なのは悲しいか、悲しく
ないかじゃないか? それだったらオレだって涙流せてないし」。
 何だか僕をフォローするための取って付けた言い草にしか思えないが、――なるほど、
正しく聞こえなくはない。

 やがて静かになった。さっきまで笑みまで浮かべていた浩平の顔から表情が抜けてゆく。
僕はすくと立ち上がると、隣の部屋に寝かせた美咲さんのところへ向かった。「美咲さん
の様子を見ていたい」という浩平に言った理由は建前だ。本当の理由は、きっと浩平が一
人になりたいだろうと思ったからだ。そして、ついでに言えば、――これは、まあいい。
美咲さんの、取り敢えず今は穏やかな寝顔を見ながら、隣の部屋で泣いているに決まって
いる浩平に思いを馳せる。きっと耳を澄ませば、浩平が心から漏らす泣き声が聞こえてく
るだろう。けれど今、僕の耳には美咲さんの寝息しか聞こえない。




【折原浩平】
 【所持品:包丁、パン、支給品一式、だんごは放置】
 【状態:健康】

【七瀬彰】
 【所持品:武器以外の支給品一式】
 【状態:右腕、背中に負傷】

【澤倉美咲】
 【所持品:無し】
 【状態:薬物からは脱却、手と首に深い傷、体中に打撲傷】
 【状態:就寝中】

 【時間:1日目9:30】
 【場所:C-03】
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