ただ一滴の悪意




太田香奈子は驚愕していた。
いてはならない人物が、そこにいた。

「ひ、氷上くん……」

人を殺すもの。
この島で、そういうものになろうとしていた。
この島で、一人の少年と出会った。
それは、その少年は、自分を揺らした。
このままでは人を、殺せなくなると、そう感じた。
だから、別れた。
少年と別れて、最初に出会った人間を殺そうと、思った。
そうして迷いを、揺らぎをなくそうと、思った。

今、目の前に、死があった。
自分は負けたのだ。
負けて、そうして死んでいく。
これが結末。
人を殺そうと思ったものに相応しい、末路。

終われると思った。
これで終われる。
叶わない想いも。
殺意という重圧も。
ほんの少しだけ、自分を揺らした出逢いも。
何もかも、ここで終わる。
終われるのだ。そう思った。

「―――動かないでくれ」

少年は、そこに立っていた。
終わりは、まだ来ない。



氷上シュンは、戸惑っている。
目の前の少年は、明らかに太田香奈子を害しようとしていた。
だからこうして、銃を突きつけている。
しかし、自分に撃てるのか。
人を、殺せるのか。
手のひらに滲んだ汗が、じっとりと冷たい。
引き金は、果てしなく重い。

先に聞こえた銃声は、香奈子のものだった。
状況はわからない。
しかし、香奈子は撃ったのだ。
それは、能動的な殺意。
太田香奈子が告げた、決意の表れ。

それが生きるという決意なのか、殺すという決意なのか。
氷上シュンは、それを確かめるために香奈子の後を追った。
そして今、こうして人に銃口を向けている。
何も判らないまま、誰とも知れぬ人間の命を握っている。

撃てるのか。
本当に、撃ってしまっていいのか。
誰も答えてはくれない。
引き金にかけた指が、震える。



那須宗一は、己の立ち居地を見定めようとしていた。
背後の気配は一人。
目の前の少女とは知己。
関係は。この先に考えられる展開は。打てる手は。
今、宗一に得られる情報は、少女の目線、表情、声音。
五感と頭脳を総動員して、細い糸を手繰るように答えを探す。
状況を打開する一手は、必ずある。

(頼むぜ、NASTY BOY……!)

一つの前提。
背後の少年は、おそらくは殺人鬼の類ではない。
でなければ、自分に声を掛ける必要などない。
面倒なことをせずに、黙って蜂の巣にしてしまえばいい。
もう一つの可能性としては、背後の少年の声がブラフであるとも
考えられた。
こちらに対する有効な阻止手段を持たず、それでも少女を救うための
アクションが必要だったが故の、苦肉の策。
だがこの可能性に賭けるのは、あまりに無謀に過ぎる。
最悪の事態を想定しながら動け。
それが、先刻の油断、そして今の状況が示している教訓だった。

背後の少年の第一目的は、目の前の少女の救出。
しかし、できうる限り自分を殺したくはない。
殺人への忌避。
それが倫理観念ゆえか、それとも合理性ゆえか。
材料がほしい。見定めろ。



天沢郁未は、観察している。
傷だらけの身体を省みることもなく、破れた服を繕うこともなく、
ただ目だけを爛々と輝かせて、この喜劇の顛末を睨んでいる。

武器が、必要だった。
古河秋生を殺し、古河早苗を殺し、古河渚を殺し尽くすための武器が。
生き抜き、勝ち残るための武器を、郁未は求めていた。

生き延びるために走って、走り抜けて辿り着いた先が、この状況だった。
少女は那須宗一に敗北し、殺される寸前だった。
那須宗一は背後の気配に気がつけず、銃を突きつけられている。

だが少年は、少女から目を離さない。
少女もまた、少年だけを見つめている。
那須宗一は動かない。

郁未は最善の動きを、タイミングを見極める。
利用できるすべてを利用して、力を取り戻すために。



「どうして……」

シュンを見つめたまま、香奈子が力なく呟く。

「君が、泣いていると思ったから」

シュンもまた、香奈子を見つめたまま口を開いていた。

「わたしは……」
「話をしたいんだ。君と。もっと、君の話を聞きたい」

間に立つ那須宗一など目に入らないように、会話は続く。

「言ったじゃない……わたしは、あなたとは違う、って……」
「だから、話がしたいんだ」
「……」
「僕にはまだ、君がわからない。
 君が考えてることも、君がやろうとしてることもわからない。
 だから、話がしたいんだ。……君を、わかりたい」
「氷上……くん……。……わたし、は……」

人を殺すことも。
妬みに満ちた自分の中身も。
受け容れてくださいなどと、言える筈がなかった。
だから、逃げてきたのだ。
それを、何だというのか。
話をしたいと、少年はそう口にした。
自分に強いるのか。
受け容れてくださいと、そう言えというのか。
それは、ひどく身勝手な、救済だ。


「わたしは……!」

口を開こうとした香奈子の、その目の端に。
映る影が、あった。
思わず、そちらを向こうとする。


天沢郁未は、太田香奈子が自分に気づいたことを悟った。
瞬間、飛び出す。

(賭けが、続く……!)

そして郁未は、声の限りに叫んだ。
生きるために、勝つために、叫ぶ。


氷上シュンは、太田香奈子の目線を追おうとした。
そこには、自分に向かって駆けてくる、傷だらけの少女の姿。

「だめええええええ!! 那須さん、逃げてぇ……っ!!」

違う、と言おうとした。
少なくとも、理性はそう叫んでいた。
だが緊張に張り詰めた神経は、別の反応を返していた。
手にした銃の、その向く先が、変わっていく。
それは反射的な動作のはずだったが、シュン自身には、ひどく
ゆっくりとした動きに見えていた。
やめろ、と理性が絶叫する。
トリガーにかかる指に、力が込められようとする。


那須宗一は、エージェントだった。
背後から唐突に響いた絶叫と、それがもたらす状況の変化を
脳が思い描く前に、身体が動いていた。
振り向く。
天沢郁未が、駆けてくる。
背後の少年の銃口が、郁未に向けられる。
そして宗一の右手には、Five-SeveNがあった。



太田香奈子は、氷上シュンの背に小さな穴が開くのを見た。


その背がゆっくりと崩れ落ちる、それ以上の光景を目にするのを
拒否するように、香奈子の意識は闇に沈んだ。




 【場所:I−06、07境界付近】
 【時間:午後6時30分頃】
那須宗一
 【所持品:FN Five-SeveN(残弾数18/20)包丁、ロープ(少し太め)、ツールセット、救急箱、ほか水・食料以外の支給品一式、食料(数人分の量。缶詰・レトルト中心)】
 【状態:後悔】
太田香奈子
 【所持品:H&K SMG U(0/30)、予備カートリッジ(30発入り)×5、フライパン、懐中電灯、ロウソク(×4)、イボつき軍手、他支給品一式】
 【状態:気絶】
氷上シュン
 【所持品:ドラグノフ(残弾10/10)、100円ライター、折り畳み傘、他支給品一式】
 【状態:死亡】
天沢郁未
 【所持品:なし】
 【状態:勝利 右腕軽症(手当て済み)、左頬に重度の擦過傷、ほか軽度の擦過傷多数】
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