頭を走る鈍痛、体の重み。 これらは氷上シュンにとって、慣れ親しんだ気怠さであった。 自分の思うように動かない体に対する苛立ちも、恨みも、シュンは既に忘れてしまっている。 それくらい、彼にとってこの負荷は身近なものになっていた。 重い瞼の向こうの世界。 シュンにとっては、生きづらい環境でしかない世界。 日々弱っていく体に妥協し、命が削られていく様を実感する世界。 その上でシュンが、選んだ世界。 このままシュンが目を覚まさなければ、どれだけの人が悲しむだろう。 片手で事足りるぐらいの、人数かもしれない。 それでもシュンは、確実に涙を流してくれる存在がいることを自覚していた。 (太田さん……) その名前を唇だけで呟いたと同時、シュンは自身を包んでいる暖かみに気づく。 きっとそれは、瞼の向こうでシュンを待っている存在だ。 優しい温もりは、慈しむようにシュンの頬を何度も何度も撫でている。 シュンは知っていた。 シュンは今朝も、この優しさの中で目を覚ましているからだ。 「太田、さん?」 びくりと、大きく震える指先。 シュンの頬にもしっかりと、その動揺は伝わってくる。 寝起きだからかシュンの声は掠れていてひどく聞き取りづらいものになっていたが、どうやら正確に届いているようだった。 ゆっくりと開けたシュンの瞳に映った少女、太田香奈子。 あぁ、やっぱり彼女だったのだと。シュンは口元を緩ませた。 「あったかいね、君は。凄く。それにいい匂いだ。もう覚えてしまったよ」 「な、何言ってるの、もう! 氷上君また倒れてて、こっちは本当にびっくりしたんだから……」 「うん、ごめん」 呆けたシュンの暢気な様子に、香奈子も安心したように一つ息を吐く。 「見た感じは大丈夫だと思ったんだけど、何処か怪我は?」 「大丈夫、心配かけちゃったね。……目、赤くなってる」 「当たり前よ」 少し腫れぼったくなっていた香奈子の目元に手を伸ばすと、シュンはその縁にそっと触れた。 傷つけないようゆっくりさするシュンの動作に、香奈子はくすぐったいのか微笑みながらも瞬きを繰り返す。 「湿ってる。泣かせちゃったかな」 「ばか」 「……ごめん、さすがにデリカシー無いね」 香奈子にぷいっと顔を背けられてしまったため、シュンの手は行き場を無くしてしまった。 そのまま中途半端に浮かせている訳にも行かないので、気まずさをごまかすようにシュンは自分の頬をぽりぽりとかく。 「……のに」 「ん?」 「もう、あなたの前では泣かないって決めてたのに。早速破っちゃったわ」 「それはどうして?」 「あなたに貰った、最高の五分間。……あれを無駄に、したくなかったのよ……」 拗ねたように口を尖らせる香奈子の動作は、いつもの彼女に比べ何処か幼い。 可愛らしい表情だった。 時に気丈で時に脆い、不安定だけれどそれでも前に進むことを決めた少女。 冷えた心に差し込む陽だまりは、シュンの疲れを癒していく。 シュンは一人きりじゃなかった。彼の傍には、いつも香奈子がいた。 それを一人で先走り気を動転させ、こうして香奈子に迷惑をかけているということで、シュンは改めて彼女の存在の大きさを自覚する。 「はは、太田さんはあったかいね」 「氷上君?」 頭を動かし、シュンはしがみつくように香奈子の腹部に抱きついた。 膝に乗っていたシュンの頭の位置が変わったので、香奈子の姿勢も自然と崩れる。 小さな声を上げながら体をぐらつかせる香奈子だが、それでもシュンの拘束は離れなかった。 「すごく、あったかいよ」 くぐもるシュンの声。 顔が隠れてしまっているので、香奈子が彼の表情を読み取ることはできない。 縋るような響きに、香奈子は言葉で返さずそっとシュンの体を摩るのだった。 シュンが更衣室を経ってから暫くした後、香奈子も彼を急いで追った。 無茶をしないと言うシュンの言葉を、香奈子も信じていない訳ではない。 それでも拭えぬ不安として、シュンが何か事に巻き込まれてしまう可能性というものは充分にあったのだ。 結果、香奈子の不安は的中した。 身動きを取ることなく地に伏せたままの人間が数人、シュンもその中の一人だった。 まるで砂漠の上に放られた魚が干からびきってしまっているような光景に、香奈子は絶句する。 争いに巻き込まれたか。 はたまた、彼が侵されてしまっている病の影響なのか。 震える手で脈を確かめ、シュンの生命が途絶えていないことがきちんと分かるまで香奈子は気が気でなかった。 「あなたが無事で、よかった」 その時の不安を思い出し、香奈子は改めて安心の言葉を零す。 摩る背中から伝わる熱は、シュンが生きている証だった。 「太田さん……」 「氷上くん……」 同調するように、二人は静かに名前を呼び合う。 「太田さん……」 「氷上くん……」 「あわわわわ、私は何も見ていません何も見ていません……」 時が止まる。 固まった二人が視線だけを泳がせると、いつからいたのかすぐ隣では耳まで真っ赤に染めた少女が一人、慌てふためいていた。 手で顔を覆いながら突っ立っているものの、少女は指の隙間からチラチラと二人を覗き見ている。 「由依あなた、一体いつから……っ」 「そ、その言い方はあんまりです! 私、香奈子さんと一緒に来たんですよぉ」 「……」 「あう、睨まないでくださいよ〜」 羞恥に震えながらも鋭く睨みつけてくる香奈子に、少女がたじろぐ。 頭を抱え身を守るように縮こまった少女は、ただでさえ身長が低いからかハムスターか何かの小動物のようにも見えただろう。 いきなり現れたこの少女が誰なのか、シュンはすぐに気づくことができなかった。 しかしここにいる人物で、香奈子と行動を共にしていたとしたら一人しか当てはまらない。 この明るい少女が、負の残骸に塗れていたあの少女と本当に同一人物だというのか。 体を清め、着替えた少女の雰囲気から、あの暗さは感じられない。 「あ、氷上シュンさん……ですよね? 改めまして、えっと、名倉由依です。助けてくださって、ありがとうございました」 シュンの視線気づいた少女が、ぺこりと丁寧にお辞儀をする。 まじまじと見つめてしまい気まずく思うものも、由依を無視する訳にも行かないと、シュンも徐に口を開いた。 「よろしく、名倉さん。でも君を見つけたのは、太田さんなんだ。お礼は彼女に言うといい」 「そうなんですか? でも香奈子さんが……」 「い、いいから!」 由依の言葉を打ち消すように、香奈子が声を荒げる。 彼女なりの照れ隠しは、傍から見れば微笑ましい強がりだ。 「太田さん、随分彼女と仲良くなったんだね」 「……別に」 「香奈子さん優しかったですよ〜。私、凄くテンパってしまったんですけど、香奈子さんのおかげで持ち直せました!」 「そうなんだ」 「……っ」 頑張ったんだね、とでも言いたいのか、隣にあった香奈子の頭をシュンが優しく撫でる。 余計なことばかり口にする由依をさらにきつく睨みつけようとしていた香奈子にとって、それは不意打ちだった。 意地と羞恥が折り合いになり、口をパクパクさせ……そのまま勢いを失った香奈子は、静かに俯くしかない。 微笑ましい香奈子の様子に顔を見合わせ、シュンと由依は口元を緩めるのだった。 ただでさえ年代物の雰囲気を醸し出していた校舎の崩壊は、目に見えてた。 燃え盛る炎は、じわじわとその範囲を拡大していっている。 滞在し続けるのも危険だろう、周囲の荷物をかき集め三人は学校を脱出した。 それはシュンが倒れた際にばらまいてしまった物だったり、亡くなった参加者の持ち物だったり。 三人の持ち物は、それぞれ中々に充実したものとなる。 特に、食料に関しての収穫はかなり大きいものであった。 「わぁ、これならまともなご飯が食べれそうですね!」 喜ぶ由依の声色とは逆に、その表情には苦さが詰まっている。 死者からの奪略行為で、気分が良くなること等ある訳ない。 簡単な弔いはしたものの、それが免罪符になると割り切れる程由依もタフにはなりきれなかった。 シュンも、護身用の武器として役に立つかもしれなかったが、例の消防斧を持ち出す気にはなれなかった。 あれは少女達の戦った証だ。 頭を撃ち抜かれ絶命したボブカットの少女の手、まだ柔らかいそれを胸の前で組ませ、シュンはその隣に彼女達の思いが詰まった斧を立てかける。 「そういえば、氷上君。見覚えなかったんだけど、あのUSBメモリってどうしたの?」 「中庭で見つけたんだ。……多分これも、誰かのだったんだと思う」 「そう……」 シュン自身もすっかり忘れ、鞄の奥底に眠っていたフラッシュメモリ。 随分と派手に散らしてしまったらしく、それまでもが校庭に飛び出してしまっていた。 中身を調べるにしても、本当にこの島にパソコンが有るかというのは疑い深い。 「とりあえず、少し腰を落ち着けたいかな。名倉さんとも、話をしておきたいしね」 「それだったら、すぐそこに観音堂っていうのがあるみたい。行ってみる?」 地図を片手に、香奈子が指を差す。 確かにそこは、地図で見る限りは目と鼻の先である。 到着するのに一時間もかからないだろう。 「名倉さんもそれでいいかな」 「はい、いいですよー」 「ちょっと由依、気をつけないとまた怪我するわよ」 「大丈夫ですよー……って、わっ!」 元気に手を挙げ返事をした由依の袖口に、伸びていた木の枝が引っかかる。 派手に動いたら、そのまま衣服が裂けてしまうだろう。 由依に静かにするよう指示し、香奈子はゆっくりと絡まりを解いた。 「よし、これで大丈夫」 「すみません、ありがとうございます」 「これ以上ボロボロになったら、目も当てられないわ。気をつけなさいよ」 「はい〜」 そういえば、と。 注視するのも失礼だと、これまでシュンは由依の服装に関してはあまり視野に入れないようにしていた。 だから気づかなかったというのもあるが、今由依が身に着けているものはシュンが彼女と出会った時とは全く違う制服である。 「名倉さん、その服は……」 「あ、はい。元々私の制服って、これだったんです。色々あってボロボロにしちゃったんですけど、あんなのよりは全然マシだったので」 汚されたものに再び袖を通すのは、精神的にもきついものがある。 そういう意味では、別の着替えがあったのは運の良いことだろう。 しかし改めて見れば、今の由依の格好も、傍目では充分悲惨な状態になっていた。 いたる所が裂けているため、それこそ襲われた後にも見える。 前の制服と違い汚されている訳ではないというのだけが、救いだろう。 「大変だったんだね」 「あ、いえ。これ、さっきみたいに自分で引っ掛けちゃっただけなんです」 「随分と派手に、やっちゃったんだね……」 切り刻まれたかのようにボロボロになってしまっているスカートの端をつまみながら、由依が苦笑いを浮かべる。 少し歩けば、その中身も丸見えになってしまうだろう。 引っ掻き傷やうっ血の跡が絶えない肌を隠せないのも、由依にはつらいはずである。 しかし。それでも由依は、決して弱音を吐こうとはしない。 「えへへ」 「……へらへらしてんじゃないわよ」 「だって香奈子さんが言ったんじゃないですか」 「へー、何て?」 「ひ、氷上君は知らなくていいことよ!」 照れ隠しなのか、二人を追い抜き香奈子はさっさと歩いていってしまう。 由依もそれに続き、小走りで香奈子の後ろを追っていった。 (……何だ、いいコンビみたいだね) 微笑ましい様子の二人に、シュンの頬も思わず緩む。 思わず緩んだ所で、飛び込んできた。シュンの視界に。それは。 丸い湾曲を包む紺の布が、陽射しを反射する。 切り替えしの奥の股地まで、今それは陽の下に晒されていた。 由依本人は気づいていないだろう。 走ったことで翻った、ただでさえ短くなってしまっている由依の裂かれたスカートの中身は、丸見えになってしまったのだ。 「ちょ、ちょっと由依! あなた後ろ、後ろ!!」 「へ?」 固まるシュンの様子で気づいた香奈子が、慌てて由依の背後に回る。 しかし、もう遅い。 シュンの瞳は由依のお尻を、しっかり捉えてしまっていた。 「ご、ごめん」 回り込んだ香奈子が揺れる由依のスカートの襞を押さえつけ、やっとそれは隠される。 シュンも慌てて謝罪を口にするが、当の本人である由依はいまだけろっとしたままだった。 「え? あぁ……大丈夫ですよ。どうせ水着ですもん」 「そういう問題じゃないでしょ」 「えぇ〜。どうせパンツじゃないんですし、そこまで恥ずかしくもありませんって」 呆れる香奈子に対し、けたけたと笑いながら由依は再びスカートのはしをつまみ上げた。 由依にとっては軽い冗談なのかもしれないけれど、捲り上がったスカートからは腰から太ももにかけてが大胆に露出されてしまっている。 最早下着云々の問題ではないのだが、由依の様子はあくまでも軽い。 うっ血の跡も大小の傷も、全て洗い流すかのように由依は笑い飛ばす。 「ば、馬鹿! 何やってるの!」 「あはは、全然平気です。香奈子さんともお揃いですしね」 そのノリで、ばっと。さらに由依はスカートを捲る。 しかし、今度は由依自身のものではない。 由依のスカートを押さえつけていた、香奈子のものだ。 これにより、今度は香奈子が下半身丸出し状態になった。 「ゆ、由依! 馬鹿!! 離しなさい!!!」 「あははは、恥ずかしくなーい恥ずかしくなーい」 少女らしい細身な由依とは違う、女性的な体つきの香奈子の丸みをシュンは先ほども一度目にしていた。 不意打ちで見てしまった彼女の下着姿が、シュンの中でフラッシュバックされる。 あの時のレースの縁取りとは程遠い、てかる紺地の布。 何故か香奈子も、制服の下にスクール水着を着用していた。 「あ、あなたが暴れたから私までこんなのを着るはめになったのよ! 分かってるの?!」 「替えがあって良かったですよね、濡れた下着のままじゃ気持ち悪いですし」 「そういう問題じゃないでしょ!!」 「ま、まぁまぁ、上に制服着てる限り一見分からないし……」 「氷上君は黙ってて!」 シュンのフォローも空しく、香奈子はひたすら捲くし立てる。 尻丸出しのまま。 彼女が自分の状態を思い出し、さらにヒートアップしたのはそれからすぐのことだった。 ※ ※ ※ ぱちぱちと爆ぜる炎の中に、ぽつんと小さな生き物が佇んでいた。 可愛らしい瓜坊は、主の横で丸まっている。 ぼたんは、環と共にこの学校に訪れた。 と言っても、環はぼたんを連れている自覚を持っていなかっただろう。 ぼたんもだ。 ただ大好きな主人を求め、ぼたんはここまで来た。 学校に着き、ひたすら杏の姿を求め彷徨うぼたん。 外を一周し、校内に入り。 右と左、別れた道で……ぼたんは、何かを感じた。 足場の良くない廊下をちょこちょこと歩きながら、ぼたんは鳴く。 返事は無い。 それでも少しして、ぼたんは探していた人物と再会することができた。 「……」 見つけた人影、ぼたんの本能が告げる。 ぷひっと、いつものようにぼたんは主に声をかけた。 返事は無い。 「……」 ぷひっ、ぷひっ。 投げ出された藤林杏の手に、ぼたんは自分の鼻を押し付けた。 反応は勿論皆無である。 絶命を表す杏の体温の低さ、それでもぼたんはいくども鼻で杏をつつく行為を繰り返した。 「……」 周りが騒がしくなっても。 少しずつではあるが、校舎が火に飲み込まれていっても。 ぼたんは杏の横から、動かなかった。 周囲を埋めていく煙も、ぼたんの目線である下方までは届ききっていない。 そっと、杏に寄り添うようにぼたんは腰を落ち着かせた。 ぷひっ。 すりすりと杏に体を摺り寄せながら、ぼたんはゆっくり目を閉じる。 『ぼたん! ぼーたんっ!!』 大好きな主人に名前を呼んで貰える事だけを、ぼたんは最期まで望んでいた。 それは夢の中で叶う。 【時間:2日目午前9時過ぎ】 【場所:D−6】 氷上シュン 【所持品:ドラグノフ(残弾10/10)、救急箱、ロープ、他支給品一式】 【所持品2:フラッシュメモリ、他支給品一式】 【状態 :観音堂に向かう・祐一、秋子、貴明の探し人を探す】 【状態2:左手の甲に青い宝石が埋め込まれている】 太田香奈子 【所持品:H&K SMG U(残弾30/30)、予備カートリッジ(30発入り)×5、懐中電灯、他支給品一式】 【所持品2:治療用の道具一式、乾パン、カロリーメイト数個、濡れた下着、他支給品一式】 【状態:観音堂に向かう・スク水着用】 名倉由依 【所持品:カメラ付き携帯電話(バッテリー十分)、他支給品一式】 【所持品2:スリッパ、水・食料、支給品一式、携帯電話、お米券×2 和の食材セット4/10】 【状態:観音堂に向かう・スク水着用・全身切り傷と陵辱の跡がある】 【備考:携帯には島の各施設の電話番号が登録されている】 【備考2:ボロボロになった鎌石中学校制服(リトルバスターズの西園美魚風)は破棄済み】 ぼたん 【状態:死亡】 BACK