一歩大きく踏み込み、袈裟に刀を振り下ろす。 剣筋が線として捉えられる位の高速の太刀筋は、しかしあっさりと弾き返される。 敵――アハトノインは下から打ち上げるようにして弾く。 刀を上段に持ち上げさせ、バランスを崩す戦法だ。 それが分かっていない川澄舞ではなかった。 無理に踏ん張らず、力を逃すようにして後方に退避。 着地時につま先に思い切り腰を落とし、詰め寄る間を与えずに再度肉薄する。 今度は弾かせる暇はなかった。金属同士がぶつかり合う甲高い音と共に、舞とアハトノインの顔も切迫する。 銃撃により、顔の半分が潰れ、骨格の一部や回線のいくつかがむき出しになっている。 一方で人間の形を残している部分は平時とまるで変わらない。 色艶の良い唇。決して揺らぐことのない、感情を持たぬ瞳。筋肉も血も通ってないのに、見た目だけはふっくらとした頬。 ほしのゆめみとは違う。あまり深い付き合いではないとはいえ、舞は何の抵抗もなくそう思った。 だから遠慮なく戦える。倒すべき敵だと分かるから、守るべきものが分かっているから。 柄を握る手に力を込め、舞は刀を押し込む。 すかさず反発する力が強くなった。一瞬押せるかと考えた舞は読みが浅かったと内心で舌打ちした。 片腕だけとはいえ、単純な膂力で言えば人間を遥かに陵駕するらしい。 それならそれでやりようはある。今度は逆に力を緩めた。 急に相対する力を失い、アハトノインが前傾に体勢を崩す。 刀を下方に逸らし、そのまま弾いて横に回る。受け流し、横を取った形だ。 いけると確信した舞は今度こそと脚部へと目標を定め、一閃。 アハトノインは驚異的な反応速度で回避に移っていたが、舞の一撃を避けきれるものではなかった。 脚部から赤色の冷却液が噴き出し、僅かによろめく。 冷却液はオーバーヒートしないようにするだけではなく、 身体のバランス調整も行っているために僅かながらに動きが止まったのだった。 そこで舞は一歩引く。追撃はしなかった。 そうするまでもない。自分が距離を詰めるよりも早く、攻撃してくれる頼もしいパートナーがいる。 国崎往人だった。P−90の火線が遠慮なくアハトノインへと殺到する。 サブマシンガンの一種でありながら、5.7×28mm弾を用いたP−90は、 威力こそライフル弾には劣るものの貫通力は拳銃弾の比ではない。 アハトノインの着用していた防弾コートはこの弾丸の前には紙切れ同然だった。 ボトルネック構造……つまり、弾頭が尖った形状となっている5.7×28mm弾はあっけなくコートを貫通し、 勢いを保ったまま人工皮膚部を直撃した。 軟体に着弾した弾丸は、内部で乱回転して運動エネルギーを拡散させ、アハトノインに奇妙なダンスを踊らせた。 対テロ用に開発されたP−90は人間に対して有り余るほどの殺傷力を備える。 それは人間とは大きく異なる、戦闘用にチューニングされたロボットに対しても変わらなかった。 多数の銃弾を受け、内部からも衝撃を与えられたことによりアハトノインの運動系統を司るCPUが一時混乱を起こした結果、 無様に仰向けに倒れる羽目になった。 倒れた隙を見逃さず、舞が接近する。 だが既にコントロールを取り戻したアハトノインは倒れていながらも器用に足を振り回し、舞の足を取った。 想像外の一撃に、今度は舞が倒れることになった。咄嗟に受け身は取ったもののアハトノインは立ち上がっており、 形勢は一変。今度は圧倒的有利を取られた。 一つだけとなったカメラアイを動かして、アハトノインがこちらを見下ろし、睥睨してくる。 獲物を見定めた目だった。その口元が微妙に歪んだのを、舞は見逃さなかった。 刀を一文字に構えて受けの体勢を取るが、防ぎきれる確証はなかった。 しかしグルカ刀が一閃することはなかった。寸前、往人が連射したP−90を回避するために距離を取ったのだった。 機を逃さず、素早く立ち上がって往人の元まで撤退する。 「……ごめんなさい」 「気にするな。死ななきゃいい」 そっけなく返して、往人はいつでも発砲できる体勢を取る。 今の舞にはそれがありがたかった。 「とは言うものの、あそこから反撃されるとはな」 助けられた手前、態度にこそ出さなかったが舞も同様の感想を抱いていた。 油断していたわけではない。寧ろ、勝機を掴んだと確信したからこその接近だった。 それを足一本でひっくり返す適応力の高さ。あれだけ戦力を削いだにも関わらず、 有利どころか五分にすら辿り着いていないのだということを思い知らされたような気分だった。 「頭ぶっ壊しても死なない。撃っても止まらん。だったら」 「逃げるか」 「切り刻むしかないな」 そして前者の選択肢はない。コンテナが密集するこの場所では隠れることはできるだろうが、逃げ切ることは難しい。 何よりこのロボットを放置しておくことの危険性が高すぎる。 五分とまではいかなくても、僅かにでも勝機があるのならばやるしかないのが今の状況だった。 それは往人も理解していたらしく、ふっと短く溜息をついた。 「貧乏くじだったかな」 「ここに来た時点で、すごい貧乏くじ引かされてる」 「違いない」 言葉は笑っていたが、顔は笑っていなかった。 ここに至って、まだ自分達はこの島の鎖にがんじがらめにされたままだ。 殺し合いの中で倒れることを強いる鎖を、未だ外せていない。 「そろそろ、ツキをこっちに持ってくるか」 往人の言葉に、舞は力強く頷いた。 一人では外せない、どうしようもないものも、誰かがいれば外せる可能性はある。 たとえそれがどんなに儚い希望だったとしても…… 往人の顔をもう一度見て、決心を胸の中に仕舞いこむ。 絶対に大丈夫と信じて、舞は走った。 * * * 思えば、結局誰一人として知り合いに会うことはできなかった。 一番に探し求めていた神尾親子とは会えず。 みちるは出会う前に殺され。 遠野美凪、霧島姉妹。誰かと一緒にいたと聞いて、その誰かのために死んでいったと聞いた。 詳しく聞くつもりはなかった。 そういう生き方を選んだのだと納得した。 国崎往人にはそれが羨ましかった。 胸を張って命を賭けられるなにか。 彼女達は見つけることが出来、全てを注いできたのだろう。 生死はその結果でしかなく、残された方にも残したものがあった。 痛み、悲しみ、苦しみ。 そういったものはあったのかもしれない。 けれども、乗り越えるだけのものもまた渡した。 それは希望であったり、未来であったり、或いは願いであったりするのかもしれない。 自分にはなかった。自分を託すことが出来るなにかが見つからなかった。 旅をする目的はあった。しかし目的というだけで、元の願いからは離れたものになっていた。 翼を持つ子を喜ばせれば、自分の願いも見つかるかもしれない。 そんな漠然とした思いだった。笑わせたいという思いは確かにあったが、 それが本当の目的、願いかと聞かれれば答えに窮した。 いや違う。笑わせた先、目的を達成した先の自分が想像できないのだ。 終えてしまった先に希望はなく、 終えてしまった先の未来は見えず、 終えてしまった先の願いもない。 だから考えないようにしてきた。今自分の為すべきことだけに目を向け、自らの人生については目を背けてきた。 殺し合いという現実に対処しなければならない。それを言い訳にして。 故に戸惑った。川澄舞に対する気持ちを再確認したとき、湯船の中で背中越しに語り合ったとき。 戸惑いながらも、未来を必死に考えようとする自分が生まれた。 これからの生活のため。そんなしがない理由ではあるのかもしれない。 それでも、大切な人ができたという事実以上に重たいものなどなかった。 格好悪いからと目を背けられるはずなどなかった。 どんなに無様でもいい。一緒にいられるなら、と往人は『生きる』ことを考えるようになった。 人間とはそういうものなのかもしれない。 自分のような男女の関係だけに留まらず、友人のため、家族のため……いや見知らぬ誰かに対してでさえ、 人のことを考えて行動するようになったとき、『希望』や『未来』が生まれ、豊かさが育まれてゆくものなのだろう。 舞を守りたい。一緒にいたい。 ただそれだけの気持ちが、こんなにも自分を奮い立たせる。 恋に狂った馬鹿野郎でも構わない。 それでもいいと感じている自分がいるのだから――! 「頼むぞ……!」 先駆けて走る舞を援護するように、往人はP−90に引き金に思いを乗せ、引き絞る。 フルオートで連射せず、三点バーストで射撃した。 舞に誤射しないためというのがひとつ。弾数が少なく、無駄撃ちを避けたいと思ったのがひとつだった。 アハトノインは律儀に全弾回避し、迫る舞に先制の攻撃を許すことになった。 所詮相手はロボット。人間のような柔軟な思考を持たないことがこちらとの決定的な違いであり、付け入る隙だった。 右手側に回り込むようにして舞が側面から日本刀で斬りつける。 先の頭部を破壊したときの攻防で、アハトノインは右手も失っていたためだった。 必然大振りにならざるを得ない攻撃を舞が回避するのは容易く、空振りしたところに次々と斬撃を加えてゆく。 一体どんな経験をしてきたのかは検討もつかないが、舞はかなりの技量を誇る剣士であることが分かる。 それなりの重量があるはずの日本刀をまるで木の棒でも振るかのように扱い、一閃するたびにアハトノインに傷が増えてゆく。 先の失敗から回避に重点を置いた舞の立ち回りにアハトノインは対応できず、攻撃は空振りを繰り返すだけだった。 往人は万が一のときに備え、いつでも射撃できるようにP−90を構えている。 仮に超人染みた反応で舞が不利になってもこちらから援護すれば攻撃を阻止できる。 一片の隙もない、二段構え。後は自分達の集中力の問題だった。 もはや人間の体を為さず、あちこち切り裂かれて金属骨格むき出しのアハトノインは動くのもやっとの様子だった。 舞は猛攻を止めない。アハトノインが一歩後退したのをきっかけにして詰め寄ってゆく。 必然、アハトノインは後ろへ追いやられ、致命傷となる一撃は回避しながらもじりじりと下がっていった。 剣を振るう舞の顔からも玉のような汗が飛んでいる。息も弾んでいる。いくら凄腕の剣士とはいっても女であることには違いなく、 スタミナを消費しているのが目に見て取れる。 焦るな。お前がトドメを刺す必要はないんだ……! 往人の動く気配に舞も気付いたらしく、長髪が縦に揺れた。 よし。冷静さを失わない舞を頼もしいと思いながら、往人が牽制のP−90を向ける。 剣を腕でガードした直後、隙を窺っていたアハトノインは鋭敏に往人の挙動を察知し、また一歩退いた。 が、下がらせることこそ往人の狙いであり、舞の狙いでもあった。 ガツンという音が空間に響き渡る。アハトノインがコンテナに背をぶつけたのだ。 左手からは舞、右手には往人。囲んだ形。敵に逃げ場はない。回避さえもできない状況で、為す術はない。 気付かなかったとでもいうように首を振り向かせたアハトノインの隙を見逃すほど舞は甘くない。 一瞬の間隙を突き、日本刀を真っ直ぐ、突きの形にして走った。 頭部を破壊しても尚倒れないというのならば、他の動力源……つまり、駆動部を狙うしかない。 腹部か、或いは胸部。防弾コートの厚い壁で守られているそこに弱点はあるに違いなかった。 舞が狙ったのは胸部だった。その選択は理に叶っている。突き刺した後に切り下げれば、腹部も攻撃できるからだ。 連携できるこちらの勝利だ――確信し、P−90を下ろし掛けた往人の思考が吹き散らされたのは次の瞬間だった。 普通は、例え追い詰められようとも避ける素振りはする。それが戦闘に臨む者の思考であり、生き延びるための思考だ。 しかしアハトノインは逃げも隠れも、防御さえしなかった。 コンテナを背にした彼女がやったことはそのいずれでもなく……全力でコンテナ群を殴るという行為だった。 「なんのつもり……」 呟いた往人の頭が真っ白になるまでに、それほどの時間はかからなかった。 コンテナ群の上部が揺れ、ぶるりと生物のように身を震わせたかのようにして――直後、落下した。 冗談だろ!? このような反撃など全く想像の外であっただけに、往人はP−90を構えることも忘れ、舞に叫んでいた。 「逃げろ! 潰されるぞ!」 今まさに突きを繰り出そうとしていた舞の動きがピタリと止まり、弾かれたかのように後ろに跳躍した。 本人も精一杯というような反応は、しかし間に合ったようで、体ひとつ分の距離を置いてコンテナが落下した。 凄まじい量の埃が舞い上がり、往人と舞を覆い尽くす。 煙幕を張られた格好にもなり、ゴホゴホと咳き込みながら、まずいなと舌打ちした。 一瞬とはいえ分断された。ここは一度離れて体勢を立て直すしかない…… もうもうと視界を覆う埃から逃げるように移動しようとした往人に、焼けるような痛みが走ったのはその直後だった。 ぐっ、と苦痛の呻き声を上げた往人の頭に浮かんだのは、撃たれたという理解だった。 バカな。その一語が駆け抜ける。撃ってきたのはアハトノインに違いないが、一体どうやって? 銃器はどこから? どうやってこちらを補足した? それらの疑問は、反撃しようと振り向いたときに解決した。 赤く光るカメラアイと、手に収まった小型拳銃。 なんのことはない。最初からそのような装備があっただけという納得が広がり、往人は苦笑とも怒りともつかぬ表情を浮かべた。 追い詰めてなどいなかった。敵は最初から、分断する腹積もりで戦っていた。それだけのことだった。 クソッタレと吐き捨て、反撃を試みた往人が引き金を絞ることはなかった。 腕を立て続けに撃ち抜かれ、力の抜けた手からP−90がすっぽ抜ける。 さらにもう一発、腹部を撃たれた往人が自らの血に沈んだのは僅か数秒と経たない間だった。 「往人に……手を出すなっ!」 銃声を聞きつけたのか、決死の形相を浮かべて舞が突進してくる。 恐らくは、自分が撃たれた様子も見たのだろうと思った往人は、しかし遅すぎると判断していた。 アハトノインの銃口は、既に舞へと向けられている。 「ダメだ! 逃げ――」 叫びが届くことはなかった。 自分を撃ったときと同じく、ひどく軽い発砲音が誇りまみれの空間に響き、川澄舞の体を崩れさせた。 胸、下腹部……その他諸々を撃たれた彼女は恐らく、即死だった。 * * * ――もういいかい? 元気のいい、幼い女の子の声が聞こえる。 この声を、自分は知っている。 川澄舞はぽつねんとある場所に立ち尽くしていた。 黄金色の稲穂が無限に広がり、夕日が世界の果てまで伸び、どこからともなく現れては過ぎ去る風がある場所。 名前などあるはずがない場所。 しかし、そこは確かに存在していた。 遊んだ記憶があり、始まったところであり、終わらせたところでもある。 風がやってくるたびに稲穂が揺れ、こっちへおいでと手招きしているようであった。 ここは死後の世界なのだろうか、と舞はぼんやりと想像した。 自らの心象が作り上げた、自分だけの黄泉……そこまで考え、死を抵抗なく受け入れようとしていた自分に気付かされた舞は、 自らの諦めの良さに慄然とする思いを味わった。 そうさせてしまうだけの強烈な力がそこにあった。 人から意志の全てを奪い、諦観だけで満たしてしまう力―― 「それは違うよ。諦めてきたのは、あなた」 背後に発した子供の声が舞の思考を遮った。 いつの間に、と思う間もなく、子供が舞の目の前に現れる。 それは紛れもなく……子供の頃の自分そのものだった。 「嘘が本当にならないから、諦めてわたしを捨てたのが、あなた」 忘れたと思っていたのに、一目見るだけでこうも鮮明に思い出せるものなのか。 今よりも少し短い、しかし当時から長かった黒髪。 外で遊ぶときにはいつも着ていた、山吹色の少し丈の短いドレス。 この姿を見るだけで全てが思い出せる。 ここがどんな場所だったか思い出せる。 自分の居場所だったところで、自分の全てだったところ。 風が吹きさらす夕焼け空は夜の気配を伝えながらも、決してそこからは動かない。 時を止めてしまったまま、未来永劫変わることのない閉ざされた記憶の降り積もった世界だ。 「ねえ、聞いてる?」 意識を外されていたのが気に入らなかったのか、少女は頬を膨らませ、不満を滲ませた声で言う。 今と全く変わらない、しかしまだ何も知らなかった頃の瞳を見返した舞は無言で頷いた。 だとするなら、この子も自分の記憶なのだろうか。 置き去りにしてきた自分。忘れてしまっていた自分に仕返しするために、この世界に呼び込んだのか。 想像を働かせる舞に、「それは違うな」とまたも心を読んだかのように少女が言った。 「わたしはわたし。わたしはあなたで、あなたもわたし。仕返しなんて、するはずないよ」 穏やかな微笑を浮かべつつ言う様子は、まるで親しい友達にでも話しかけるようだった。 ああ、そうだったと舞は思った。 この少女と自分は不可分な存在であったことも、忘れていた。 ここも、この少女も単なる思い出ではない。 昔から自分に内在していた『力』。自らの思考を具現化する『力』そのものだった。 「思い出した?」 はしゃぐように問いかける少女に、舞はこくりと頷く。 始まりは母の病気からだった。 一向に良くならない母の体調。どんなに医者が手を尽くしても良くなることのなかった母。 日に日にやつれてゆく母の姿を見ながら、舞はそれでも一生懸命快復を願った。 自分には母しかいなかったから。 父の存在を知らず、親類とも縁遠かった自分はいつだって一人ぼっちだったから。 家もあまり裕福ではなく、母だけが唯一の心の拠り所だと感じていた舞に、 いなくなってしまうかもしれないという恐怖はあまりにも大きすぎた。 願った。願って、願って、願い続けた。 神様。神様。神様。 自分の言葉などちっぽけでしかなく、何の意味も持たないと半ば理解しながらも、それでも舞は祈り続けた。 一人になってしまうのは嫌だから。このぬくもりを失ってしまうことがあまりにも怖かったから。 お願いします。何だってします。絶対に嘘もつきません。いい子になりますから…… ありとあらゆる言葉を並べ立てた。弱々しい力で頭を撫でてくれる母の手を感じながら、 痩せ細ってゆく母の手をぎゅっと握りながら、精一杯の笑顔を向けながら、舞は願った。 奇跡が起こったのは、ある日の朝だった。 それまで悪化の一途を辿っていた母の体調が、突然快復の兆しを見せ始めたのだ。 夜通し手を握り、夢の中でも祈り続けていたあの日からだったと記憶している。 快復の原因は全く分からず、医者でさえも信じられないといった様子だったが、何が原因かなんて舞にはどうでもよかった。 母がいなくならずに済むと分かって、ただそれだけが嬉しかった。 もっと早く良くなればいい。良くなって、また自分と遊んでくれるようになれれば、それで良かった。 母が退院できるまでに良くなったのは、それから一年と経たない時間だった。 尋常ではない快復ぶりだったらしい。人体の奇跡とでも表現するしかなく、 ここまで来れば医者も困惑よりも素直に感心するほかなかったようだ。 苦笑交じりに送り出してくれた医者や看護士の顔を見ながら、舞と母は元の生活に戻っていった。 家は相変わらず裕福ではなかったが、生活に困ることは全くなかった。 困っていれば誰かが助けてくれたし、図ったかのようなタイミングで幸運が舞い降りてくる。 その時はいつだって舞が「そうなればいいのに」と思ったときだった。 『力』を薄ぼんやりとだが自覚し始めたのはこの頃だったかもしれない。 思ったことが、現実になる。自分の思い通りに現実が変わってゆく。 しかし舞自身はそれを積極的に使おうという気は起こらなかった。 興味がなかったというのもある。今のままで十分だという気持ちもあった。 優しく、いつだって自分といてくれる母さえいてくれれば。 だがその『願い』は長続きしなかった。膨大すぎる人の前には『力』も意味を為さなかった。 『力』が知られ始めたのは、恐らくふとしたきっかけ――怪我をした動物に『力』を働かせたときから――だった。 何も道具を持たず、何も行わず、まるで手品か魔法のように現実を塗り替えてしまう『力』に賞賛の言葉はなかった。 人は普通ではないものを忌み嫌う。正体不明のものを恐れる。子供心にも人がその習性を持つことは気付いていた。 だから、自分達親子が排訴されるのも予想はしていた。 小学校の時分でさえ、少し見た目が違うだけでからかわれる題材にされる。まして大人であれば…… 予想はしていたものの、やはり辛いものがあった。 自分がとやかく言われるより、何の関係もない母が心無い言葉を浴びせられるのを見ているのが辛かった。 なぜ。どうして自分だけを責めないのか。 子供でしかなかった舞にこの事態はどうすることもできず、それどころか母に守られるだけの日々が続いた。 陰口を浴び続け、疲れた表情になりながらも、母は決して舞を責めることはしなかった。 母も気付いていた。舞に、特別ななにかがあることに。 それでも庇ってくれるのは、どうして。尋ねたとき、苦笑の皺を刻んだ母の表情は、一方でどんな人よりも毅然としていた。 自分の娘を守らない母親がどこにいるのか。 全く当たり前の言葉で、しかしどんな偉人の言葉よりも重みのあるものだった。 人としての強さ、女としての強さを見せ付けられ、舞は人が肉体や健康の状態だけで強さが決まるのではないと知った。 だからこそ守りたいと思った。父親がいなくとも悲観的になることなく、逃げることもしなかった母を大切にしたいと思った。 そのために耐える日々を選んだ。大きくなるまで。その一語だけを胸に刻んで、各地を転々とする日々を続けた。 『力』は好きにはなれなかった。疎まれることには慣れたとはいえ、 友達のいない生活、孤独な日常は子供だった舞にとっては『力』など不要なものでしかなかった。 精々他人に悟られないよう、人と距離を置くくらいしか対処する術を知らず、 家族と一緒にいるのとは別の寂しさを抱え込む日が続いた。 文句を言うつもりはなかったし、言える立場でもなかった。自分自身理解もしていた。 それでも感情を完全に紛らわせることなどできなかった。 『力』があっても舞は人間でしかなく、ただの少女でしかなかった。 我慢はできたが、内奥で膨らんでゆく思いはどうしようもなかった。 そんなときに現れたのが『彼』だった。 記憶は曖昧で、名前もよく思い出せない。ただ、『彼』は別だった。 偶然の出会いだったように思う。一人で遊んでいたところに、急に声をかけられた。 少し話して、少し遊んで、その次の日にまた出会って、もう少し話して、もう少し遊んだ。 そうしてゆくうちに、話す時間も遊ぶ時間も増えていった。 舞は『彼』のことが嫌いではなかった。 ふとしたはずみで『力』を発現させてしまったときも『彼』は何も言うことはなかった。 取り繕うような態度も、恐れ慄く態度も、忌避の態度も見せなかった。 それが自然だというような振る舞いと、屈託のない笑顔。嘘偽りの感じられない姿に、次第に惹かれていったのかもしれない。 今までは、異物を見るような目。疎外し、排除する目でしか見られていなかったから…… 『力』のことについても少しずつ打ち明けるようになった。 半ば相談、半ば愚痴を漏らすような形ではあったが、『彼』は丁寧に聞いてくれていた。 人々に忌み嫌われ、自分でさえ持て余してしまう力。 生かす手段も見つからず、捨て去る方法も分からないこの力を、自分はどうすればいいのか。 実際はもっと拙く、子供らしい感情に任せた言い方だった。 嫌い、とまでは言わないまでも好きじゃないと言っていたことは覚えている。 母を救ったかもしれない力であるから、嫌いにもなりきれない。 けれども自分を一人にさせてしまっている力だから、好きにもなれない。 己の中で複雑化し、好きと嫌いの根を張っている『力』に対処するにはどうしたらいいのか。 これから先、大きくなって母に支えられることなく生きてゆけるようになっても絶えず向き合わなければならないであろう問題に対して、 『彼』は別に今のままでいいんじゃないかと言った。 最初は所詮他人事、どうでもいいのかと落胆しかけたが、続く『彼』の言葉でその気持ちは吹き飛んだ。 そんなことを気にしなくても、理解してくれる人はきっといる。 オレみたいにさ、と言った『彼』の笑った顔を見たとき、舞は何かしら胸のつかえが取れたような気分だった。 舞も久しぶりに笑った。母の前で見せる、強くなるための笑いではなく、自然と零れ出た笑いだった。 『力』をどうこうする必要なんてない。舞は舞らしくいてくれればいいと言った『彼』の言葉が嬉しかった。 何の根拠もない、儚い希望ではあったのかもしれない。 それでも昨日より良い明日を信じようとする考えは、舞にとって好意的に受け入れられるものだったのだ。 きっと母が良くなると信じ続け、願いが現実になったあの時のように。 舞は『彼』ともっといたいと思うようになった。この人の近くにいれば、きっと理解してくれる人も増えるだろうから。 だが、そう思っていた矢先に『彼』はいなくなってしまった。 正確には帰るのだと言っていた。帰るから、もうここには来れない、と。 初めて言葉を聞かされたときは絶句していた。まだこれから、という時に、なぜ。 帰らないで。やっとの思いで吐き出した舞の言葉に『彼』は首を振った。仕方がないことなんだと言った。 裏切られたとは思わなかった。どこか歯切れの悪い様子は『彼』自身の言葉ではないとすぐに分かった。 そして瞬時に、こう予想した。 理解してくれる人もいれば、そうでない人も大勢いる。自分たちを忌み嫌い、遠ざけてきた連中がいるように。 『彼』は自分と遊んでいることを知られて、引き離されたのだ。 子供でしかない『彼』は従うしかなかった。何もできなかった自分同様に…… 子供であることの小ささ、無力さが絶望となって圧し掛かってきていた。 自分には何も力がないから、やっとできた友達一人だって守れない。 その事実をいつものように納得する自分がいる一方で、諦めたくないと叫ぶ自分がいた。 『彼』から教えられた希望を信じ、明日が良くなると信じて笑った自分。 ここで何もしなければ、今度こそ自分は自分のことを嫌いになってしまうだろうという、確信にも似た気持ちがあった。 けれども、十年一日耐え忍ぶことしかしてこなかった舞にはどうすれば『彼』を引き止められるのかが分からなかった。 どうすれば希望の在り処を取り戻せるのかが分からなかった。 だから舞は嘘をついた。 「魔物が来るの!」 もう少し年を経ていれば、もっと違う言葉を絞り出せたのかもしれない。 だが舞にはこうするしかなかった。 明確な敵を作り、一緒に対処していこうと、そんな言い方しか出来なかった。 『彼』はやってくることはなかった。 嘘だと見抜かれたのだろうか。いや違う、そうではない。『魔物』が邪魔をしたのだ。 舞との仲を引き裂くために、『魔物』が言葉を届けられなくした。 そうと信じるしかなかった。 信じなければ、自分は諦めてしまったということになるのだから。 自分を一人にしようとする『魔物』がいる。 ならば、討たねばならない。 一つの結論を見い出したとき、外から獣のような咆哮が聞こえた。 すぐさまその正体を理解した。間違いない。あれが諸悪の根源……『魔物』なのだと。 舞は棒切れを持って飛び出した。外で暴れ回る『魔物』を一生懸命に追い払った。 倒すことこそ出来なかったが、『魔物』はいずこともなく消えていった。 『魔物』と戦い、疲労した舞の胸中にあったのは、明確な悪の存在を見い出した昂揚だった。 あれさえやっつければ。『彼』だってきっと戻ってきてくれる。 だが、『魔物』は強大だった。あれだけ懸命に戦ったのに、傷一つついていなかった。 自分一人ではどうにもならないくらいの実力差があった。 ――ならば、倒すまで鍛えればいい。 薙ぎ払い、打ち倒し、その存在を抹消できるまでに己を高めればいい。 今はまだ敵わなくとも、いずれ絶対倒してみせる。 守れないのではない。守ろうともしない諦め、無関心こそが悪い結果を引き起こすのだと断じて、舞は戦おうと決めた。 即ち、自分たちをどうしても理解しようとしないモノと。『魔物』と。 「嘘を嘘で塗り固めたのは、あなた」 幼い自分の声が聞こえた。 淡々としていても、明らかに自分を責める調子があった。 「諦められないって言いながら、実際はその場しのぎの嘘をついて、上手く行かなかったからって現実にしようとしたのがあなた」 「そんな自分に疑問も持たず、子供のころの思い付きを頑なに信じて変わることすらしなくなったのがあなた」 「そうして何かあれば自分さえ傷つけばいいと思うようになって、自分を傷つけるのは魔物だからとしか考えなくなったのがあなた」 「結局のところ、あなたはそんなのだから一人なの。いくら経っても、全然成長なんてしてない」 重ねられる言葉に、舞は反論することが出来なかった。 確かに、そうだ。あの日から、些細な嘘を真実だと思い込み、 ありもしない『魔物』を退治しようと躍起になっていた自分は愚か以外の何物でもない。 明日はきっと良くなる。『彼』の語ろうとしていたことの本質も捉えず、 思考を停止させて盲目的に『魔物を倒す』以外の目的を持てなくなってしまった哀れな女。 それが川澄舞という人間の生きてきた、無駄とも言える半生だ。 「今度だってそう」 「逃げて、逃げて、逃げた末に、あなたは国崎往人に居場所を求めた」 「守る人がいなくなったから。自分に罪を与えるための依代として」 そうなのかもしれない、と舞は思った。 好きになったのも、一緒にいたいと思ったのも、結局は自分に罰を与えるため。 嘘をつき、拠り所を失った女が新たに求めた依存先。 川澄舞は、嘘つきの悪い子で、 約束も果たせない悪い子で、 なにひとつ守れない、弱すぎる女だ。 そんな自分が生きていてはいけない。 だから己を傷つけることで罪を清算しようとした。 ただの自己満足なのだと、分かっていたにも関わらず。 「分かった? どこまで行っても、あなたは一人なの。それが『力』の代償なんだから」 目の前の幼い少女は自分であり、かつて嘘をついた結果生まれた魔物だ。 一見何の悪意もなさそうな、屈託のない笑みが舞へと向けられた。 しかし、舞は知っている。 この笑みは、自分を慰めるためだけの笑み。 何かあれば自分を傷つけることで己を満足させてきた、手前勝手な笑みだ。 疑いようもない我が身の姿だ。 だが認める一方で、これは過去でしかないと、胸の奥底で語りかける自分がいた。 「分かったなら、もう一度力を貸してあげる。あなたの望むことを現実にする力。 でも代わりに、またあなたは一人になる。誰からも認められず、理解もされない。 あなたが生きてゆくのは一人ぼっちの世界――」 「――それは、違う」 沸き立つ気持ちに押し出された言葉は、湿った空気を吹き散らして少女へと届けられた。 途中で遮られ、呆気に取られた表情で見てくる少女に、舞は強い確信を含んだ視線を返した。 込み上げてくる熱が抑えられない。冷静でありながら、熱くなってゆく自分を感じる。 今の自分を、過去の己に示すために、舞ははっきりと口に出して伝えた。 「私は、一人じゃない」 口に出す間際、強く吹いた風にもかき消されることはなく、言葉が世界を震わせた。 確かに、様々な間違いを犯してきた。 けれどもやり直してゆこうという意志もまた、今の自分にはある。 今はまだ間違っていても明日という一日で少しは良くなるかもしれないから。 一日で無理なら、さらに時間をかけてでも良くしてゆこうという気持ちが、自分にはある。 理解してくれる人がいるから。一緒に逃げてやってもいいと言ってくれた人がいるから。 同じ湯船に浸かったときの温もり。少しごつごつしていて、けれども確かな暖かさがあった人の温もりが自分にはある。 だから一人じゃない。生身の自分を受け入れてくれた人がいるから、もう諦めない。 「私は、信じてる。 どんなに儚くても、遠い道のりでも、 気持ちの持ちようひとつで明日を変えてゆける可能性があるんだってこと。 今度こそ言い訳はしない。それが大人になるってことで、昔の私への責任の取り方だって思ってるから。 だから――あなたも見守って欲しい。私の、人生を」 最後に語ったのは拒絶ではなく、受け入れる意志だった。 否定などしない。出来るはずがない。間違いを犯してきた自分も、大切な自分の一部だと分かっているからだ。 受け入れてみせると言い切る舞の凛とした視線を受け止めた少女は、やがて仕方がないという風に苦笑を刻んだ。 何の含みもない、もうこうなってはどうする術もないというある種の諦めだった。 「『力』のことも話さなきゃいけない。この時点で、あなたは拒絶される可能性がある」 「その時は、その時。……私、少しは諦めが悪くなったから」 「……強くなったんだね、あなたは」 「好きな人が、できたから」 言ってしまったところで、恥ずかしい台詞なのかもしれないと思ったが、どうせ自分に対してだ。何も憚ることはない。 少女が白い歯を見せた。舞も頬を緩めた。 お互いがお互いを受け入れ、何年と溜まっていたしこりの全てを洗い流した瞬間だった。 「じゃあ、助けなきゃね。その、好きな人」 「うん、助ける。だから……力を貸して」 「分かってる。目を閉じて。わたしの声に、応えて」 舞は目を閉じた。 穏やかに流れる風の声。稲穂のざわめき。 握られる舞の手。てのひらから伝わってくるのは、やさしい温もり。 ――もういいかい? 世界が、終わる。 ――もう、いいよ。 * * * どうしたらいい。 繰り出されるアハトノインの剣戟を頼りないナイフで受け止める往人の頭にあったのはその一語だった。 舞が死んだという絶望でもなく、命の危機に対しての焦りでもない。 ただどうしたらいいという言葉のみが支配し、一切の思考を奪っていた。 たったひとつのカラクリも見抜けなかったばかりに。 しかも全く予測できなかった事項であり、理不尽だという言葉すら浮かび上がる。 最初からこうなる運命だったのだろうか。 ナイフの一本を叩き折られる。元々が投げナイフであり、打ち合うことを想定していない武器なのだから当然だった。 柄だけになったナイフを投げ捨て、次のナイフで斬撃を受け流す。 一体どこにこんな力が残っているのかと我ながらに感心する。 生きるために戦ってきた、この島での習い性がそうさせているのだとしたら全く大したものだと思う。 何も考えられなくても、体は勝手に生きようとする。最後まで諦めまいとする。 厄介なものだと呆れる一方で、ここまで生に執着していただろうかと自らの変化にも驚いている。 当てなんてない人生だった。 曖昧な目的のために年月を過ごし、その日の日銭にも困るような時間の連続。 生き甲斐なんてなかった。命を懸けられるようななにかもなかった。 ふらふらとさまよい続け、自分の代で法術も途絶えてしまうのだろうというぼんやりとした意識だけがあった。 挙句、いつの間にか手にしていた大切なものでさえ気付かないままに過ごしていた。 国崎往人の人生は、無意識のうちに積み上げては崩し、積み上げては崩してきた、無駄の連続だった。 食い潰してきたと言ってもいい。 この島の、殺し合いに参加させられた人間の中でどれだけの生きる価値があったのだろう。 自分などよりももっと有意義に生きてきた人間などたくさんいるはずだった。 なのに自分は生きている。 佳乃を犠牲にし、美凪を犠牲にし、観鈴を犠牲にし、様々な人の死の上に、そして舞の屍の上に、自分は成り立っている。 それだけの価値がある人間なのだろうか。 どうして、自分が先に死なないのだろうか。 ナイフの二本目が叩き折られる。正確には、折られた瞬間ナイフが弾き飛ばされた。 踏み込んできたアハトノインの突きを紙一重で避け、足で蹴り飛ばす。 三本目を取り出しつつ距離を取る。残りはこれを含めて、二本。銃を構えさせてくれる隙があるとは思えなかった。 明らかな劣勢。銃撃された部分の痛みは増し、熱を帯び、体から力を奪ってゆく。 徐々に死へと追い込まれていっている。なのに抵抗しようとする体。 生きることにこんなにも疑問を持っているにも関わらず、だ。 蹴り飛ばされ、転がっていたアハトノインが復帰し、さらに斬りかかってくる。 袈裟の一撃を、往人は死角に回り込むようにして回避する。 曲がりなりにも戦えているのは、顔の半分を破壊され、視界が激減したアハトノインであるからなのかもしれない。 往人から一撃を叩き込もうと試みたが、所詮は投げナイフだった。 刺す以前に繰り出された後ろ回し蹴りのカウンターを貰い、無様に地面に転がる。 ナイフはどこかに飛び、転がった拍子にいくつかの武器が零れ落ちた。 確認する。手持ちはナイフ一本と、最も役に立たない拳銃であろう、フェイファーツェリスカだった。 反動の大きすぎるこの銃は片手では撃ちようがない。鈍器としての用法しか見い出せないくらい役立たずの代物だ。 最悪の状況だった。出血は大して酷くはない。血が足りず、目が眩んでいることもない。 それどころか、まだまだ戦えると言っているように、臓腑の全てが脈動し、全身の隅々にまで力を行き渡らせている。 単純な一対一では絶対アハトノインには敵わないというのに。 分かりきっている理性に反発するように、右手が素早く動いてナイフを取り出す。左手で反吐を拭う。 足に力が入り、すっくと立ち上がる。ただの本能で行っているにしては、随分と整然とした行動だった。 生きろと体が命じているのではなく、自らがそうしたいと言っているかのような挙動だった。 俺は、生きたいのか? この期に及んで? 全く自分勝手だと思ったが、間違いなく自らの内に潜む意志はそうしたいと告げている。 寧ろ、自らの人生に疑問を抱いていることこそが偽物のようにさえ思える。 今まではロクなことをしてこなかった人生。時間を食い潰すだけの人生を送っていたはずの自分が、なぜ…… 「……ああ、そういうことか」 ふと一つの考えを発見した往人は、素直にその考えに納得していた。 今までは、今まででしかない。 現在を生きる自分は違う。 生き甲斐を考え、命を懸けられるものを見つけ出すことが出来るようになった、人並みの人間だ。 だから生きていられる。生きようとする。 価値のない人間なんかじゃない。 自分自身が認め、認めてくれる誰かがいたからこそ、往人は自身の考えを肯定することができた。 もっとも、一番理解してくれていたひとは既にここにはいないのだが…… それでも確かにいたのだという事実を、知っているから。 「諦められないよな」 ナイフを構え、来いというように眼前のアハトノインを睨みつける。 元来目つきの悪い自分のことだ、さぞ怖い顔になっているだろうと往人は内心で苦笑した。 とはいっても目の前のロボットに、こんなものは通用しないだろうが。 往人はコンテナを背にするようにじりじりと下がる。 普通の攻撃が通じない以上、直接頭の中にナイフを突き刺すくらいしか対処法が思い浮かばない。 だが回避するだけの立ち回りではとてもではないがそんな隙など見当たらない。 そこで考え付いたのが、刀をコンテナに引っ掛けるという方法だった。 突きを繰り出させ、コンテナで弾いたところに必殺の一撃を叩き込む。 子供でも引っかかりそうにない単純すぎる方法であるうえ、そもそもそれだけの隙があるのかとも思ったが、 さして頭の良くない往人にはこんな策しか思いつかないのが現状だった。 それでも、やらないよりはやる方がいい。 どんなに少ない可能性でも追っていけるのが自分達、人間なのだから。 「来いよ」 挑発するように投げかけた言葉。それに応じるようにアハトノインが突進してくる。 グルカ刀を真っ直ぐに構えた、突きの体勢だ。 いける。そう判断した往人はギリギリまで引き付けるべく腰を落とす。 距離は瞬く間に詰められる。残り三歩、二歩、一歩。 刀の射程距離に入ったと判断した往人は、全身の力を総動員して真横に飛んだ。 振ったにしろ、このまま突いたにしろ、運が良ければコンテナに刀が当たってバランスが崩れるはず…… しかし思惑通りにはいかない。真横に振られたグルカ刀はコンテナにも当たらない。 「やっぱ思い通りにはいかないな」 着地したと同時、既にアハトノインはこちらへと接近している。 まだ諦めてたまるか。 今度は回避できないと判断して、振り下ろされる刀をナイフで受け止めようとする。 だが、所詮強度では雲泥の差がある。今までがそうだったように、当たり前のようにナイフは折られた。 けれども刀自体は逸らすことができた。この僅かな隙を往人は見逃さない。 「まだだっ!」 往人の視界の隅で、ふわりとナイフが浮き上がる。 それは蹴飛ばされたときに落とした三本目のナイフだった。 浮き上がったナイフの刃がアハトノインを向き、頭部目掛けて射出されるように動いた。 法術の力。手を触れずとも動き出す、往人にだけ備わった力。 人形に複雑な動きをさせることの出来る往人に、真っ直ぐ飛ばすことなど造作もないことだった。 完全に不意をついた一撃。半ばアドリブのような戦術だったが、避けられるはずがないと確信していた。 理不尽なのはお互い様だ。くいと指を動かしたナイフは僅かに動きを変え、 アハトノインの頭部を刺し貫き、刃は首筋にまで達していた。 何が起こったのか理解できるはずもないアハトノインはビクリと体を硬直させる。 が、完全に動きが止まることはなかった。 止まったのは一瞬だけで、何事もなかったかのようにナイフを引き抜かれる。 「……マジかよ」 ナイフを投げ捨て、無駄だというように唇の端を歪めたアハトノインに、往人は慄然とする思いだった。 乾坤一擲の策。当たるだろうと思っていたし、実際見事な形で命中したのに、倒れない。 分かったのは頭部付近は弱点ではないという事実だけだった。 頭を破壊され、右手をもぎ取られ、ボロボロになった防弾コートは殆ど用を為さず、それでも死なずに立ち塞がる。 大した忠誠心だと思う一方、ここまで傷ついても馬鹿正直に殺そうとする姿は哀れなようにも思える。 何も考えず、思考を停止させてひたすらに任務をこなそうとする機械。 だがな、そんなものに負けるわけにはいかない……! 往人も不敵な笑いを返した。 積み重ねてきたものを心無い機械に壊されることほど、往人にとって屈辱的なことはなかった。 だからまだ戦う。それだけだ。 頭付近が無理ならば、別の箇所を狙えばいい。 間に合わないことを半ば理解しながらも、往人はツェリスカを取り出そうとする。 しかし、アハトノインは既にグルカ刀を持ち上げていた。 後は振り下ろされるだけ。天高く掲げられた刃は、裁きを下すギロチン。 完全なる死刑宣告だったが、素直に受け入れるほど往人は諦めが良くなかった。 そうだろ、舞? 今はいない、最愛の人の名を呼ぼうとして、だがそれが果たされることはなかった。 突如現れた『何か』にアハトノインが吹き飛ばされる光景を目にしたからだった。 ゆらりと、陽炎のように蠢く『何か』は、吹き飛ばされ、どうなったのかも理解していないアハトノインに向かって突進する。 正体不明のものに殴られ、混乱の極地にあったアハトノインは防御すらしなかった。 『何か』の突進をモロに受け、今度はコンテナへと吹き飛ばされる。 打撃ゆえに致命傷にはなっていないようだったが、理解不能な状況にアハトノインは対処する術を持てない。 それはそうだろう。何せ彼女はロボットでしかないのだから。 けれども殴られ続ける不利は不味いと判断したらしく、撤退の道を選ぼうと身を翻したアハトノインを、 往人がそのままにしておくはずはなかった。 「……チェックメイトだ」 今度は法術の力をツェリスカのトリガーに込める。同時に反動を抑えるための力も法術で補う。 片手で撃てないのなら、こうすればいい。 ほぼ無反動のまま、ツェリスカから銃弾が吐き出される。 象をも一撃で殺害する威力のあるツェリスカの弾丸を、人間型であるアハトノインが受け止められる道理はなく、 腹部に命中した結果、凄まじい力が胴体を引き千切り、防弾コートごと破壊した。 バラバラと零れ落ちる機械の破片を眺めながら、往人は終わったという感想を抱いた。 それで安堵してしまったのか、体からは力が抜け、ぺたんと情けなく地面に座り込んでしまう。 傷口が今更のように痛み出し、往人はやれやれと顔をしかめつつも笑った。 「お疲れ様、往人」 「……生きてたんだな」 笑ったのには他にも理由があった。 舞は生きていた。いつの間にやってきたのか、座ったままの往人を穏やかな表情で見下ろしている。 「いけない?」 「いや全然。……嬉しいさ」 普段なら口に出さないようなことまで言ってしまうのは、やはり彼女が大切な人であるから、なのだろう。 生きていて良かった。その思いが体の芯から込み上げ、無性に彼女が愛おしくなった。 「怪我は平気か?」 「大丈夫。そういう力が、私にはあるから」 「力?」 「明確には言えないけど……」 舞は銃撃された部分を指でなぞった。 傷口があったであろうその場所からは、一滴の血も流れ出ていない。 力、と舞は言った。その正体は分からないが、自分と同じようなものなのだろうと往人は納得した。 「ってことは、さっきのアレも舞か」 「……驚いた?」 「少しは」 「怖くない?」 「全然」 だって俺はこんな力があるんだぞ。そう言って、いつもの法術で壊れたナイフの柄を動かしてみせると、 そうだったと舞は微笑んだ。傷を治す力かなにかは知らないが、別にあったとしても驚かない。 今まで出ることがなかったのは、恐らく今の舞の清々とした表情にも関係あるのだろうと当たりをつける。 きっと、何かがあった。それだけ分かれば十分だと往人は結論した。 今までのことは、後々にでも聞けばいい。 この瞬間は、二人とも生きていたことを喜びたかった。 「舞」 「ん?」 「キスしてもいいか」 「……え?」 何を言われたのか分かっていないような顔に、可笑しさ半分愛おしさ半分の気持ちだった。 首を少し傾げる姿が、可愛い。 理由というほどのものはない。強いて言うなら、その存在を生身で確かめたいという思いがあったからだった。 湯船で感じた、柔らかな背中の感触を思い出したかったからというのもあった。 「……別に、構わない」 尻すぼみになってゆく声と、不自然に逸らされる目線。 頬に少し赤みがかかっているのは、恐らくは照れている証拠だろう。 自分はどうなのだろうとも思ったが、舞に聞くのも野暮でしかなく、往人は舞いにしゃがむよう促した。 ん、と素直に応じて、互いに見詰め合うような格好になる。 そういえばキスはどのようにやるのだったか、と今更のように往人は思ったが、尋ねる無神経さは流石にない。 舞も舞で、戸惑いと期待を含めた目で往人を見ている。 このままでは動きそうもないと判断して、こうなれば下手でも構うものかと、舞を抱き寄せる形で唇を重ねた。 何の変哲もない、唇を合わせただけの、初々しすぎるキス。 それでもお互いの体から、重ね合わせた部分から、暖かさが伝わってくる。 この暖かさがあるから、自分達はより良くなることを目指してゆけるのだろう。 そう結論して、往人は今しばらく、この時間に身を預けることを決めた。 舞、往人 装備:P−90、SPAS12、ガバメントカスタム、ツェリスカ、ツェリスカ弾×4、ショットシェル弾×10、38口径ホローポイント弾×11、38口径弾×10、日本刀 川澄舞 【状態:往人に付き従って行動。『力』がある程度制御できるように】 【その他:往人に対して強い親近感を抱いている。剣道着を着ている】 国崎往人 【所持品:スペツナズナイフの柄】 【状況:舞と一緒に、どこまでも】 【その他:左腕に文字を刻んだ。舞に対して親近感を抱いている】 - BACK