いざ目の当たりにしてみれば、それは人とは明らかに異なる姿だった。 にこりともしない無表情に、そよとも靡かないプラチナブロンドの長髪。 一見華奢に見えるものの、所々浮き出ている骨格のようなものは、明らかに女性のものではない。 今までに見てきたメイドロボとは、何もかもが違う。 あくまでも人間に近づけ、人間のためにを設計思想として開発されたそれと違い、 目の前のロボットはあくまでも人を殺すように開発されている。 本当に進化したロボットは、人と見分けがつかなくなるという。 その意味では、これは退化している。誰の目にも分かる禍々しさを漂わせているロボットが、人間に近しいはずがない。 メイドロボにだって劣る。そう結論した朝霧麻亜子は、いつもの調子で黒いコートを纏う修道女に話しかけた。 「ちょい待ちなよ。このままあたしらを銃撃してもいいのかな」 P−90の銃口は全くブレず、現在は芳野祐介にポイントされている。 逃げ場のないエレベータだ。このまま乱戦になれば、少なからぬ犠牲が出ることは目に見えている。 エレベータが降りきるまで時間を稼げればよし。銃撃戦にならなければさらによし。 口八丁手八丁は麻亜子の得意技だった。自分が、役に立てるのはここしかない。 「あちきら爆弾持ってるのよねえ。下手に撃てば……ドッカーン! なんだけど、さ」 嘘ではない。流れ弾が台車の爆弾に命中でもすれば、アハトノインも自分達も粉微塵に吹き飛ぶ。 加えて、建物自体に甚大な被害が及ぶことであろう。 仮にもロボットならばそれくらい考える頭はあるはずだと期待しての言葉だった。 ロボットの――アハトノインの目が麻亜子の方に向いた。 単に音声と認識したのか、それとも内容の不味さを聞き取ったのかはまるで判断がつかない。 「ご心配には及びません」 赤子をあやすかのような声で、アハトノインが言った。 無表情と相反するような清らかな声質に、麻亜子はいっそ笑い出したくなった。ここまでちぐはぐだと笑うしかない。 「我が高天原は、どのような悪魔の業火にも耐え得る、唯一の安住の地なのです。 恐れることはありません。怖がることはありません。ここは、母なる大地の御加護によって守られているのですから」 何の根拠もない、神がここにいるから大丈夫なのだという、愚直なまでの敬虔さで語る修道女に、全員が声を失った。 これはそもそもロボットですらないのか。考え、認識するという機能さえ持ち合わせていない、ただの機械。 馬鹿野郎、と麻亜子は叫びたくなった。目の前の盲目な修道女に対してではなく、これを作り上げた人物に、だ。 「ですから」 アハトノインが唇の端を吊り上げた。初めて笑う彼女の顔は、不出来な人形のようだった。 「あなたを、赦しましょう」 麻亜子は既に走っていた。言葉に耳を傾ける暇も、意味もないと悟ったからだった。 先ほどまでいた場所に銃弾の雨が叩き付けられ、火花が散る。 さらにこちらに伸びてこようとする火線を、他の三人が遮りにかかる。 「囲めっ! 対角線にならないように囲んで撃て!」 「む、難しいこと言わないでくださいよ!」 「ユウスケさんはいつもそうです!」 芳野がウージーを、藤林杏が89式小銃SMGUを、伊吹風子がSMGUを抱えて走る。 中央にいたアハトノインは敏感に状況を察知したのか、一旦銃撃を停止し、取り囲むこちらの状況を窺った。 「おっと、あたしも頭数に入ってること忘れないでくれよっと!」 チャンスと判断し、麻亜子が反撃のイングラムを撃つ。 だが動きながらの射撃は精度が低すぎるらしく、軽くステップして避けられる。 ならばと陣取りを終えた三人がそれぞれ射撃を開始する。 咄嗟に顔を覆うようにガードしたアハトノインに無数の銃弾が突き刺さる。 普通の人間ならば既に致命傷だが、この人ならざる修道女に常識は通用しないことを知っている。 漆黒色のコートは防弾コートであり、自分達の持つサブマシンガン程度では貫通すら不可能だ。 現にアハトノインは少したたらを踏んだだけで、まるでダメージなど受けていないようであった。 「くっそ、やっぱこんな武器じゃダメか……」 杏が弱気の音を吐くのを「そうでもない」と冷静な芳野の声が遮る。 「藤林の小銃は、通っているようだぞ」 ガードを解いた修道女の太腿に、赤い線が垂れる。血液かと思ったが、そうではない。 人を殺したことのある麻亜子はすぐに分かった。血と同じ赤色ではあるが、どろりとしていない。 つまりはほぼ粘着性がないということだ。自分の知っている血というものは、もっと汚いものだ。 そう思っている自分に気付き、やだな、と麻亜子は思った。汚いという発想に至っている自分が嫌になった。 人間はそんなものじゃないってわかっているのに―― 「まーりゃんっ!」 誰かの叫び声で意識を沈思させていることに気付いたときには、既にアハトノインが眼前に迫っていた。 全身に力を総動員させ、しゃがんで刃物を回避する。 振り下ろしてくるとは考えなかった、いやその考えは捨てていた。 曲がりくねった刀身を見た直後、首を狩ってくるという発想に至ったからだ。 結果として勘は当たったものの、肝が冷える思いを味わった。 こんなときに物思いになんか耽ってるんじゃないよ、あたし! まーりゃんだろ! 自身に活を入れ、反撃に移る。 ボウガンの矢を取り出し、渾身の気合と共にアハトノインの足に突き刺す。 それは奇しくも以前篠塚弥生が行った、鬼となった柏木耕一を足止めするときに行ったものと同一の手法だった。 そのまま前転してアハトノインから離れる。反転して追撃しようとした修道女は、 しかしバランスが悪いと感じたのか一旦矢を引き抜く作業に入った。 それを他の三人が見逃すはずがない。 一斉射。エレベータの端に追い詰められていたために、そのまま直撃すれば落下も考えられた位置ではあった。 ところがアハトノインは軽い調子で、だが人間には考えられないほどの跳躍力で飛んで避け、 壁際にあった梯子を掴むという離れ業をやってのけた。 「なんなのよ、あいつ!」 マガジンを交換しながら杏が苛立たしげに叫ぶ。 気持ちは分かる。麻亜子ですらこれで決まりだと思っていたからだ。 源義経よろしく八双飛びされるとは考えてもみなかった。 「まあまあ。あんまり怒ると傷に響くぞ?」 熱くなってはいけないと思い、親切心からそう言ってみたのだが、返ってきたのはギロリと睨む視線だった。 「あんたね、さっき死にそうになっといて何言ってんのよ」 「や、あれは敵に隙を作るための孔明の罠」 「嘘です。風子には分かります。ぼーっとしてました。ダメダメです。ぷーです」 横槍を入れられ、なにを、とすまし顔の風子に言い返そうとしたが、事実であるだけに言葉が出てこなかった。 「ったく、一瞬寿命が縮んだわ。何考えてたか知らないけど、しっかりしてよ」 「そうですそうです。そんなんだからチビなんです」 「おい関係ないだろそれー!」 「来るぞ!」 大体チビはお前もじゃないか、と言うのを遮ってくれたのは芳野だった。 空気読めてないと文句の一つでも垂れたくなったが、敵もまた空気は読めていないらしい。 梯子から落下するようにしてアハトノインが舞い戻ってくる。 最初の襲撃のときより高度があったためか、今度の着地では麻亜子達にも振動が伝わってくるほどの揺れが生じた。 あの重量でなんであんなに飛べるんだ。以前戦った鬼にも勝るとも劣らない無茶苦茶ぶりに舌打ちをしたところで、 場違いな警報とアナウンスが流れる。 『安全のためにエレベータを一時停止します。繰り返します、安全のためにエレベータを一時停止します』 「……さっきのどすこい! のお陰で止まっちゃったみたい」 「最悪です」 「おいこっち見んな」 「ってことはなに? 足止め……ってこと!?」 「そのようだな」 「最悪……」 「最悪だな」 「だー! 皆してこっち見んなー!」 本心から麻亜子のせいにしているわけではないのは分かるが、ついついノリで返してしまう。 とはいえ、本当に状況は悪い。 少し戦っただけでも分かるが、アハトノインの戦闘力は尋常ではない。 このまま缶詰にされていては無事では済まない。 冗談抜きに、さっき麻亜子も死に掛けたのだから。 一応倒す手段もないではない。 エレベータから突き落とすなどすればこの局面は切り抜けられる。 けれどもそれが難しいのはあの回避力を見れば明らかである。 接近戦など持っての他。偶然回避できたから良かったようなものの、あの剣戟は見切れるものではない。 つまるところ、遠距離でも近距離でも不利。そして今は逃げる手段さえない。 どうすればいい、と内心に冷や汗を垂らしながら思う。 切欠は自分だ。なら自分がどうにかしなければならない。 せっかく生き長らえた命だ。ここで使ってみるのも悪くはないかもしれない、と麻亜子は思った。 捨てるための命ではなく、使うことに意義を見い出せる命。 一度は失ってしまった、命を賭けてでも守りたいと思えるなにか。 捨て鉢のつもりはない。自分で選んで、それに納得のできる選択なら、大丈夫。 「あのさ」 「却下」 「却下です」 「……何も言ってないんだけど」 言わなくても分かる、というように、却下と言い放った杏と風子が大袈裟に溜息をついた。 「別にそんなの、求めてないですし」 「そうそう。そんなの見せ付けられてもねえ」 「いや、何をするか言ってもない……」 その先は二人に睨まれて続けることが出来なかった。みなまで言わせるなと言いたいらしい。 どうやら提案することさえ許されていないらしい己が身を自覚して、麻亜子は「じゃあどうすんだよ」と半ば喧嘩腰で言い返した。 「やれやれです。目まで節穴になりましたか」 「あー!? ……っと!」 風子に言い返そうとしたあたりで、アハトノインが地面を蹴って突っ込んでくる。 戦術は以前と変わらず。懐に飛び込む利を覚え、金髪を靡かせながら接近してくる。 固まっていては斬撃の餌食になるだけだ。素早く散開して銃撃を展開する。 だがやはりサブマシンガン程度では効き目がない。唯一効力のあるライフル弾も決定的なダメージにならず、 そもそもライフル弾だけは避けてくるので実質無傷だ。 誰かが動きを止めなければならないのだ。倒すならば。 「で、目が節穴って何だよ! 事と次第によっちゃチビ太郎に格下げすっぞ!」 逃げ回りながら、麻亜子は風子に問いかけた。 目の前に迫ってくる絶望から目を逸らしたかったからなのか、それとも恐怖を感じていたくなかったからなのか。 ……或いは、いつもの自分でいたかったのか。 それってなんだろうね、と自身に問いかけて、よく分からないという返事だけがあった。 「ふーっ! 風子男の子じゃないですっ! そんなことはどうでもいいから上見なさい上をっ!」 「うえー!?」 くいくいと指差す風子に応じて顎を上げる。 エレベーターに動きはない。まさか梯子を伝って逃げろという馬鹿な発想ではなかろうかとも思ったが、 すぐにそれが思い違いであることを知らされる。 「あるでしょ、穴が!」 杏の呼びかけに、麻亜子は少し遅れて頷いた。存在に気付かず、一瞬呆然としていたからだ。 そう、人一人がどうにか通れそうなくらいの穴が壁に空いていたのだ。 通風孔かなにかだろうか。或いは非常用の通路なのか。 とにかく、さあ使ってくれと言わんばかりにあった穴を見過ごしていたことに麻亜子は呆れ、腹を立てた。 なるほど節穴か。言い得て妙な例え方に今度は可笑しくなり、それ以上己の迂闊さを責め立てるのは一時やめにすることにした。 「ああ、あるねっ!」 「そっから逃げればいい!」 「足止めはどうすんのさっ! こいつ、ただで逃がしてくれるほど気前がいいと思えないぞっ!」 アハトノインは風子を狙い撃ちしていたが、斬撃するタイミングで杏が頭部を射撃しようと試みてくるために手が出せないでいた。 ならばと目標を変更しようとすれば、今度は芳野と麻亜子で足を狙う。 距離が離れていればそこにポイントできる程度の隙はあった。 足はむき出しであるため、直接ダメージを与えられる数少ない部位であり、 さらにアハトノインが人間型のロボットであるために衝撃でバランスも崩しやすいという理由もあった。 結果として四方八方から射撃される羽目になったアハトノインは回避に専念せざるを得ず、今のところは五分五分の状況だ。 ただし、それは常に距離を取っていればの話であり、一旦追い詰められれば不利なのは火を見るより明らか。 五分五分と言っても、限りなく危うい五分なのだ。 「足止めなら俺がやる! 後藤林、お前も援護しろ!」 「了解っ!」 「待て待て待ちなよ! 足止めって簡単に言うけどさ!」 「お前ら両方チビだからあそこも通りやすいだろ!? そういうことだ!」 「がーっ! なんじゃそりゃー!」 「ユウスケさん……いいんですか」 風子もチビというワードに反応するかと思えば、案外冷静な反応だった。 そういえば、と麻亜子は思い出す。言葉こそ少ないが、あの二人は互いを気遣っているような見えない何かがあった。 いや、特別な関係であるからこそ言葉がなくとも通じ合っていたのかもしれない。 国崎往人と川澄舞がそうであるように。とはいっても、彼らのような男女の関係とはとても思えなかったが。 「構わんさ」 簡潔に過ぎる一言。麻亜子などではその真意など推し量れようもない短い言葉だったが、風子は全てを汲んだらしい。 分かりました、といういつもの硬い言葉を残して、風子は芳野とすれ違うように走る。 逃がすまい、とアハトノインも追う。 金属の床を叩く、ハンマーに似た音が猛獣のように迫る。 その真正面から芳野がウージーを乱射する。顔面を狙ったものだったが、器用に首を逸らされて当たらない。 ひゅっ、と風を切ってグルカ刀が構えられる。そこで芳野の弾も尽きた。 まずい――! 走っていた麻亜子は援護に駆け寄ろうとしたが、狙いの安定しないイングラムでは巻き込む可能性があった。 「まーりゃんは……今は逃げるだけ考えてればいいのよ!」 だが芳野の真後ろから続け様に射撃が行われる。 半ば芳野を盾にしたような形だったが、アハトノインには想定外だったらしい。 腰のあたりを撃ち抜かれ、ガクンと体勢が崩れる。 その隙を見逃す芳野ではなかった。いや、最初からそもそもこれを想定していたのかもしれない。 手早くデザートイーグル44マグナムを取り出すと、一つの無駄もない動作で引き金を絞った。 拳銃弾とは比べ物にもならない重低音と共にアハトノインの上半身が揺れ、続けて放たれた第二射が右腕を砕いた。 関節部の脆い箇所にでも当たったのだろう。 空気の詰まった袋が弾けたように、金属片が飛び散った。 腕が床に落ちたのと、風子が穴に入ったのは同時だった。 アハトノインは肩の付け根から血飛沫を、いや正確には血とよく似た色の液体をスプリンクラーのように撒き散らしていて、 当の彼女もそれを不思議そうに眺めていた。このような場面に突き当たったことはないらしい。 それにしても悲鳴のひとつも上げず、首を捻りながらなくなった腕を見つめていることには不気味さすら覚える。 映画に出てきた殺戮ロボットもこんな感じだった。そんなことを思っていると、急に工学樹脂の瞳がこちらへと向けられた。 「主よ、どうか愚かなるわたくしどもをお赦し下さい」 手に持っていたグルカ刀を放り捨て、腰からP−90を抜き放つ。 射撃してくるのかと身構えたが、銃口はあらぬ方向へと向けられていた。 先ほどの言葉と合わせ、電子頭脳でも狂ったかと考えたが、すぐにその意図に気付いた。 「あいつっ、自爆する気だ!」 P−90の先にあるのは置き去りにしたままの爆弾。 死なば諸共。右腕がなくなった不利から計算して自爆するのが最も有効な戦術だと踏んだのだ。 信心深いにも程がある。なにをどうしたら自爆なんて選択肢を選ばせることになるのか。 麻亜子はイングラムを構え、引き金を絞ったが弾が出て来ない。弾切れ――! なんでこんなときにっ! この状況すらアハトノインの計算に入っているのではとさえ思い、ふざけるなという感想だけが残った。 誰でもいい、なんとかしてくれっ! 偶然でもご都合でもいい。ここまで散々苦しめておいてまた見捨てるなんて許せない。 自分がこの状況を招いたというのなら、もっと不幸にしてくれても構わない。 だからあのロボットを、誰か……! 「うおりゃあああぁぁああぁぁああぁっ!」 二度とするまいと思っていた神頼みに応えてくれたのは偶然でも何でもない、杏の裂帛の気合だった。 3キログラム超はある89式小銃が、ぶおんと音を立てて飛んでゆく。 凄まじいスピードと回転だった。女の膂力ではとても考えられないものだったが、火事場の馬鹿力がそうさせたのだろうか。 唸りを上げて迫ってきた89式小銃の投擲は、 アハトノインの常識では考えられないものだったらしく、避ける動作さえさせずに激突した。 P−90が零れ落ち、更に走っていた杏が飛び蹴りで転ばせる。 怪我が完治していない杏は衝撃から来る苦痛に顔を歪ませたが、すぐに熱の籠もった顔に戻った。 「今の内に! 昇れまーりゃんっ! ってか早くしろ!」 杏の動きに見惚れ、棒立ちになっていた麻亜子は「わ、分かってるよ!」と返して穴に潜り込んだ。 風子は既に向こう側へと移動したのか、姿は見えない。 そんなに長い穴でもなさそうだと判断して先に進もうとしたところで、忘れていた一つの疑問が浮かび上がる。 「爆弾どーすんの!?」 狭い穴の中で何とか身を捩って、麻亜子は背後にあるエレベータに向きながら問いかける。 そう、ここから逃げるのであれば必然、爆弾は置き去りにすることになる。 「後で取りに来ればいい」 「でもさっき自爆しようと……」 いいかけて、自爆が目的ではないということに麻亜子は思い至る。 あくまでも自分達を倒すことがアハトノインにとっての優先事項で、爆弾自体は問題ではない。 全員がここから逃げれば、爆弾の存在は放置して追跡にかかることは十分に考えられる。 無論自爆しない可能性はないが、メリットが特にない以上、ロジックにがんじがらめの連中には考えにくい。 「命あっての物種だからな」 普段なら三流であるはずのその台詞も、今の自分達にとってお似合いだと麻亜子は思った。 生きてさえいれば。どんなに僅かでも可能性はある。 分かったと頷いてまた身を捩らせようとしたところで、再び警告音が鳴り響いた。 『エレベータ再起動。運転を開始します』 「げっ!?」 なんてタイミングだ、と思った。早くしなければエレベータが下降してしまい、この穴に入れなくなる。 電気系統が動き出す低音が聞こえ始め、早くしないとという麻亜子の焦りを強くする。 「と、取り合えずこっちに昇って! エレベータが下がればあいつだって追えないんだからさ!」 身を捻るタイミングはないと結論した麻亜子はずりずりと後ろに下がりながら芳野と杏を手招きする。 とにかくこちら側まで来させることが優先事項だった。 既にアハトノインは立ち上がっているものの、銃も刀も手放して空手の彼女に追撃する手段はない。 片腕も失ってバランスも悪くなっている以上、走ったって追いつけない。 それは二人も先刻承知のようで、距離があることを一瞥して確認し、一緒に走り出す。 間に合うはずだ……そう確信し、ほっと安堵の溜息をつく。 爆弾を置いてくるのは痛手だが、とにもかくにも全員が無事であって良かった。 移動した後はまず爆弾の回収を優先するか、それとも脱出に向けて何かを探すか―― そんな麻亜子の思考は、視界に写ったアハトノインによって中断された。 え? と思わず声に出してしまっていた。何もなかったはずの、空手だったはずの彼女の左手には、 小型のナイフが、握られていた。 やめろ――! そう叫ぶ前にはもう、アハトノインがナイフを投擲していた。 狙いは当然、距離的に近かった杏だった。 全く想像外の一撃に、杏は驚愕と苦悶をない交ぜにした表情を浮かばせて崩れ落ちる。 同時、エレベータが動き出した。じりじりと下がってゆく足場に、麻亜子は間に合わないと直感した。 それは目を合わせた芳野も同じだったようで、杏と麻亜子を交互に見返す。 何を言えばいい、と飽和する頭で思った。 杏か、自分達か。そんな冷酷すぎる選択肢を突きつけられるはずがない。 なんでだよ、と麻亜子はありったけの怒りを含ませて呟いた。 ふざけるな。このまま杏を見殺しにしてたまるか。 エレベータに降りようとした麻亜子に「来るなっ!」と叫んだのは芳野だった。 鬼の形相で睨まれ、びくりと身を竦ませた麻亜子に、今度は打って変わって微笑を浮かばせた芳野が言う。 「先に行ってろ。俺はもう少しこいつと遊んでから行くさ」 じりじりと杏に迫るアハトノインを指差す芳野に、麻亜子は呆れとも怒りともつかぬ感情を抱いた。 「カッコつけんな! あたしに、何もするなって言うのかよ!」 感情の矛先は自分だった。まだ何もやっていない。こういう損をする役回りは本来自分の役目ではなかったのか。 何のためにここまで、泥を啜ってまで生き延びてきたのか。分からないじゃないか。 自分にはやるなと言った癖に? 無茶苦茶だ。そんなものがまかり通るものか。 「ガキが出しゃばるんじゃない」 身を乗り出し、援護に行こうとした麻亜子の意志を打ち砕いたのは芳野の冷徹な声だった。 既に芳野はウージーの弾倉を交換し、杏の盾になるように移動していた。 エレベータは止まらない。徐々に小さくなってゆく芳野の姿とは対照的に、声はどこまでも大きく響いた。 「今出てきても狙い撃ちだ。感情に任せて自分のやるべきことを見失うんじゃない。来るな。これは大人としての命令だ」 やるべきこと? なんだよ、それ。 それをあんたがやろうとしているんじゃないかと言い返そうとした麻亜子に、一際大きな声で芳野が言った。 「妹を守れるのはお前だけだ。妹を……風子を、頼む」 声を大きくしたのは、麻亜子の後ろにいる風子に対して言ったものなのかもしれなかった。 その意図を、その言葉を聞いてしまえば、これ以上我を押し通すことなど出来ようはずもなかった。 狡い。一番大切な人を任されて、言い返せるはずがない。 かつて河野貴明に対して、ささらを頼むと言ったときのことを思い出し、 自分はこんなにも過酷なことを押し付けていたのかと麻亜子は後悔した。 握る拳が震え、折れそうなほど歯を食い縛る。 言葉を失った麻亜子を置いて、エレベータは下がってゆく。 ――なら、だったら。 貴明はささらを守りきれなかった。それでも、最後の最後まで守ろうとした。 それで舞の命は救われ、舞が自分の命も救った。 ――自分は……誰かを救えるのだろうか? * * * ここにきて、無理が祟ってきたらしい。 ナイフが突き刺さった場所から、波が伝播してゆくように全身に熱が走り、感覚を灼く。 意識が朦朧とする。力が入らない。頭がちりちりする。吐きそうだ。 全身がぷつぷつと切れてゆくような、自分をつなぎ止めているものが切れそうな感じは、きっと気のせいではないのだろう。 傷が開きかけていることを半ば確信しながら、杏は背中に突き刺さったナイフを乱暴に引き抜いた。 ぬるりとした感触が嫌で、即座にナイフは投げ捨てた。 刃の半分以上が血で汚れていたことから考えると、 きっと大怪我なのだろうなと他人事のように思いながら、杏はニューナンブを引き抜いた。 倒れたままの姿勢で二発、三発と引き金を絞る。 いつの間に拾い直したのか、P−90を構えていたアハトノインが下がる。 いきなり下がったアハトノインに、ぎょっとした芳野が杏の方を向きかけたが、「よそ見しない!」と一喝すると、 すぐに追撃を開始した。 だが右腕がないにも関わらず、アハトノインは必要最低限の回避動作をするだけで応える様子もなかった。 全く忌々しい。ナイフを隠し持っていたことといい、底意地の悪さが見て取れようというものだ。 舌打ちしながら、改めて状況を確認する。 エレベータは既に動き始めており、ここには杏と芳野、そしてアハトノインしかいない。 残りの二人は無事逃げおおせたということだ。 安心する一方で、こちらは絶体絶命の状況に追い込まれたことも理解して、杏は乾いた笑いを上げた。 「置いてかれちゃいましたね」 「そうだな」 淡々とした返事。だが弱さもなく、黙って盾になってくれた芳野に対して杏が思ったのは、頼りになるなという感想だった。 言葉にしなければ伝わらないこともあるが、言葉にしなくても伝わることもある。 男だけにしか分からないものなのかと思っていたそれが、今ようやく理解出来たような気がして杏は少し嬉しくなった。 「で、どうします? もう逃げられませんけど」 「一応……考えてはいる」 少し間を置いたのは、逡巡しているということなのだろう。 つまり、それは―― 「いいですよ、やっちゃってください」 考える前に、杏は言い切った。 考えてしまえば腹を括れるはずもないと思ったのがひとつ。 それと時間がないと思ったのがひとつだった。 「でも一つだけ聞きますよ」 「なんだ」 「最初からこのつもりじゃなかったんですよね」 「当たり前だ」 間をおかず、芳野は即答してくれた。 期待通りの返事にホッとする。けれども、だからこそ、あの一瞬の逡巡がどれだけの苦悩に満ちていたのか想像するのも難く、 ヘマやっちゃったなぁという後悔が浮かんできた。 この過失が誰のせいでもないということは分かっている。この負債を誰が背負うのかということも答えられるはずがない。 そういうとき……いつも黙って請け負ってくれるのが大人だった。 結局最後の最後まで借りを返すことは出来なかったと思いを結んで、だったらと杏は自身の弱気の虫に言い返した。 ガキんちょは我侭言ってやろうじゃないの、と。 「何かできることあります?」 「好きにしろ。ただ、自爆はしてくれるなよ」 ああ、そういう作戦かと杏は納得した。あくまで勝つため、か。 どうやらしぶとく生き残るつもりであるらしい芳野に応えるように、杏はなにくそと体に鞭打って足を立たせる。 ほら、立てた。まだ生きれるじゃないの、あたし。 口内にへばりついていた血を床に吐き捨て、杏は不敵な目で眼前の敵を見据えた。 こうして見てみれば、状況は決して不利なばかりではない。 アハトノインは片手を失い、かつ空手。 先程のようにナイフを隠し持っていることも考えられるが、いつまでも続くわけがない。 どだい、逃げようとしていた以前とは違い、こちらは背水の陣で覚悟を決めている。 本当に持っていたとしても不覚は取らない自信があった。 芳野がウージーを構えながら突進する。 その選択は正しい。敵に行動させる暇は与えない。活路は前にある。 地を蹴って芳野から離れようとするところに、杏が日本刀を持って迫る。 狙うは首一つ。ロボットと言えど、頭部を破壊されては無事ではいられないはず。 渾身の力を込めて白刃を横に薙ぐ。人間の皮膚程度なら紙でも裂くように斬る刃は、しかし咄嗟のガードによって阻まれる。 空いた左腕で受け止めたのだ。怪我など考える必要のないアハトノインならではの防御だった。 だが、これは布石。 近接武器の役割は力で抑え込むこと。即ち、動けなくさせること。 芳野は銃を撃ちに行ったのではない。 拾いに行ったのだ。 「退けっ!」 バックステップした瞬間、凄まじい銃弾の雨がアハトノインを撃ち貫き、ビクンと体を跳ねさせる。 P−90の5.56mm弾が防弾コートごと貫通し、皮膚の内面で回転して衝撃を伝えた結果だった。 よろめき、赤い液体を吹き散らす修道女。更にP−90の銃口を引き絞った芳野だったが、 今度は垂直に飛んで避けられる。 もはや反撃など考えない、必死の回避。 ――しかし、これも布石。 どんなに人離れした運動が可能とはいっても、それは地に足が着いていればの話だ。 空中にいるアハトノインに、もういかなる攻撃も回避する術はない。 そう、最初から狙いは一つ。 杏は床に落ちたグルカ刀を拾い―― 目的は頭部の破壊。それだけだ。 ――思い切り投擲した。 ぐるぐると、さながらブーメランのように回転するグルカ刀は、反応を遅らせたアハトノインの眉間に刺さり、 カクンと頭を傾けさせた。杏の投擲能力があればこその芸当。 芳野はどう考えていたかは知らない。本当にP−90でトドメを刺すつもりだったのかもしれない。 杏は杏で、自分でも確実にトドメを刺せる方法を考え、可能な限り実行しようと思っただけだ。 別に意志の疎通をしていたわけではない。 それでもこうして見事に連携させられたのだから、人の適応力は恐ろしいものだと杏は思った。 これでひとまず安心ですね。 そう言おうとした杏の肩に、重たい感触が走った。 だが重たさを感じたのはほんの一瞬だけで、そこから先は灼けた鉄の棒を無理矢理体に押し込められた感覚だった。 喉になにかが込み上げ、耐えられずにゴホッと吐き出す。口から飛び出たモノの色は赤かった。 何だろうこれはと思う間もなく、激痛に支配された体が倒れ伏す。 辛うじて動かせたのは目だけだった。動かした視線の先では芳野が何事かを叫んでいる。 激痛は耳をバカにしてしまうらしい。耳鳴りが激しい。なんだ。一体、これは? 疑問に答えたのは自身の上を通り過ぎた影だった。 ゆらり、ゆらりと。 墓から這い出たゾンビのように、覚束ない足取りで芳野に迫る影は…… 間違いなく、先程眉間に刃を突き刺したアハトノインだった。 は、と杏は夢でも見ているかのような気分になった。 頭を狙っても死なない? 冗談でしょ? 何度倒しても蘇る、死の世界の住人。 この島の怨念を取り込み、動力としていると言われても納得してしまいそうなほど、 目の前のアハトノインは現実離れした存在だった。 勝てるわけがない。人間風情がこんな化物を倒そうと思ったのがそもそもの間違いだった。 自分自身の命も、もう残り僅かしかないのが分かる。 そんな状況で何ができる? たかが一回の女子高生でしかない自分が、あんな化物相手にどうにもできるはずがない。 もういい。痛いのも辛い。早く、誰か、あたしを楽にしてよ……! じりじりと追い詰められてゆく芳野を見るのを苦痛に思われ、杏は目を閉じる。 一度遮ってしまえば、そこはもう何も無い世界だった。 嫌なことも、辛いことも感じずに済む、虚無の世界。 最後に辿り着いたのがここかと感想を結ぼうとした杏の脳裏に、せせら笑う声が聞こえた。 ――僕よりヘタレじゃんかよ? 聞き間違えるはずもない。それは春原陽平の声だった。 結局この島では再会することすら叶わず、放送でしか死を確認できなかった腐れ縁の友人。 ――らしくねぇよ。お前、エキストラか何かじゃないのか? 春原と一緒に、挑発するように笑うのは岡崎朋也だった。 好きだった人。会うことも、思いを伝えることすらできずに彼岸へ旅立ってしまった人。 ――根性ないなおい。俺の苦労返してくれよ? 茶々を入れるような軽い声は折原浩平のものだった。 身勝手に、自分を置いたままやりたいことだけやって死んだ、馬鹿な男の子だった。 ――お姉ちゃん。その、格好悪いよ…… 普段絶対言わないようなことを言ってきたのは妹の藤林椋だった。 死んで欲しくなかった。どんな形でもいいから、生きていて欲しかった。 ――あはは。しょうがないよ。だってこの人。案外ヘタレなんだ。 屈託のない笑顔でとんでもないことを言ったのは柊勝平だった。 人殺しをしようとして、自分が殺してしまった人。 好き勝手なことを言う周りの面々に対して、杏が抱いたのは逃避したい気持ちではなく、 お前らが言うなという怒りにも似た気持ちだった。 大体、どいつもこいつも勝手なことばかりして死んでいった連中ばかりじゃないか。 陽平は惚れた女の子を残して死んじゃうし! 朋也は風子ちゃん残して死んじゃうし! 折原は何も言わずに行っちゃったし! 椋も勝平さんもたくさんの人に迷惑をかけたし! ……でも、それでも。 例えたくさんの人を殺し、間違いを犯してきたのだとしても…… 守るためには仕方のなかったことなのだとしても…… 生きていて欲しかったのに。 死ぬのは、誰かを置いて行ってしまうのは、とても寂しい。 そうさせたくないし、したくない。 ――死にたくない。 どんなに情けなくて、みじめでも。 ――あたしは、皆と、生きていたい! 目は、もう閉じていなかった。 * * * そこから先は十秒にも満たない時間の中での出来事だった。 芳野はP−90を構えようとしたが、それより先に懐に飛び込んだアハトノインに銃を弾き飛ばされた。 腕が浮き上がったところをグルカ刀で腕ごと叩き切られ、芳野が絶叫する。 更に返す刀で腹部を斬られ、芳野は戦闘能力の殆どを奪われた。 しかし、それでも戦いを諦めたわけではなかった。 絶叫したのは痛みを忘れるため。銃を握り続けるため。 残った方の手は、しっかりとデザートイーグル・44マグナムを握り締めていた。 生きているのなら、まだ戦えるしどんなことだってできる。 芳野がこの島で唯一得た、価値のある宝物だった。 生きてさえいれば。 時間をかけて罪滅ぼしの方法を考えることだってできる。 自分の生きる意味を考える時間だってできる。 だから絶対に諦めない。自分が、人としていられるために。 残った腕に、戦うための力を全てつぎ込んで、芳野は発砲を続けた。 P−90でボロボロになり、防弾コートが半ば役立たずになっていたアハトノインは衝撃をモロに受け、 一発受けるたびに一歩ずつ後ろに下がってゆく。 このままエレベータから突き落としてやる。芳野の頭に残っていたのはもはやそれだけだった。 右足。左足。一歩ずつ後ろに下がっていったアハトノインに、もう後はなかった。 更にもう一発。下がれる場所のないアハトノインの体がぐらりと傾き、バランスを崩す。 残り一発。その体に撃ち込めば、エレベータから落ちる。 「喰らえ……化物……!」 言葉に力を込め、弾丸に乗せようとした芳野の執念は――しかし、カチリという弾切れの音に遮られた。 「たま……切れ……くそ……!」 手から力がすっぽ抜け、甲高い音を立ててデザートイーグルが床に落ちた。 それと同時、全身を支える力もなくなり、ずるずると芳野の体も崩れ落ちる。 辛うじてエレベータの柵を掴んで押し留めたものの、片腕のない芳野にできることはもうなかった。 視線の先では、ゆっくりとのけぞりから元の姿勢に戻ったアハトノインがコキリと首を傾げる。 頭部を攻撃されて多少なりともコンピュータが狂ったのか。 それとも、肝心なところで一歩届かせることもできない自分を嘲笑ったのか。 何も映さず、虚無のみをたたえた工学樹脂の瞳を睨みつけながら、芳野は「機械風情が余裕面するな」と唸った。 アハトノインは何も言わなかった。いや正確には、彼女自身は喋っているつもりだったようだ。 口が開いているところを見ると喋ってはいるらしいのだが、発声機能がおかしくなっているらしい。 芳野は笑った。こんなときですらありがたい教えの時間か。 自らを絶対の優位者と恥じない傲慢ぶりには恐れ入る。 だから、と芳野は柵を握ったままの手から指を一本、天へと向けた。 「――人間を」 「舐めるなぁぁああぁぁああぁっ!」 それは宣戦布告などではなく、合図だった。 やれ。やってしまえという芳野の合図。 サインを受けて、倒れて戦闘不能になっていたはずの…… 血の海に倒れていたはずの杏が、駆けた。 アハトノインは一瞬、それを認識できないようだった。 日本刀を持った杏の姿をぽかんと見つめていた。まるで幽霊でも見るかのような目で。 傑作だな、と芳野は破顔した。ゾンビが幽霊に殺される、か。 杏は真っ直ぐに日本刀を突き出し、アハトノインの腹部を刺し貫いた。 か、と口を開いて、修道女の体がくの字に折れる。 そこを見逃さず、杏は前蹴りで体を突き飛ばす。 後ろには何もない。頭から真っ逆さまに、アハトノインは奈落の底へと落ちていった。 今度こそ終わった。その実感が芳野の中を巡り、緊張の糸が切れた。 もう握る力さえなくなった手が柵から離れ、そのままずるずるともたれかかるようにして座り込む。 煙草を無性に吸いたい気分だった。それだけ心地良かった。 ポケットの中に入っていたらいいのにと思い、まさぐろうとしてみたが、片腕ではもう一方のポケットを探れない。 やれやれだと嘆息していると、同じように疲れきった表情の杏が隣にやってきて、倒れこむようにして座った。 袈裟に斬られた体は半分以上が真っ赤で、生きているのが不思議なくらいだった。 いやそれは自分も同じようなものかと思い直して、「お疲れさん」と一言労う。 「どーも」 気だるげにしながらもニッと笑った杏に、芳野は素直に可愛いなと思った。 普通に生活を送っていたなら、きっと彼氏の一人はいただろう。 「……あー、疲れましたね、なんか」 「ああ……」 エレベータはまだ降りきらない。どれだけ長いのかと思ったが、実際には戦っていた時間が短かっただけなのかもしれない。 「ねえ、暇ですよね」 「暇だな」 これからやらなければならないことは山ほどあったが、今現在が暇であることは否定しない。 ただ待つだけの時間になってみるとやたら長く感じられるのだからおかしなものだった。 「あたしね、保母さんになりたいんですよ」 「ほう」 「なんというか、結構人の世話焼くのが好きなんですよ。……芳野さん、どんな職でしたっけ?」 「電気工だが」 「どうして電気工に?」 「色々あったから……と言いたいところだが、特別サービスだ。教えてやる」 どうせまだ時間はある。つっけんどんに終わらせてしまうのは勿体無いと思って芳野は話すことにした。 隠し続けるようなものでもない、と吹っ切れたのかもしれない。 わくわくしているのを隠しきれていない杏の顔を見れば理由付けなどどうでも良くなったというのもあった。 「まあ、そうだな。俺は元々歌手だった。夢のロックスターとやらだったんだ」 「へぇ……実はあたし、あんま音楽聴かないんですよね」 「割と国民的に人気だったんだがな。知らなかったか」 はい、と素直に頷く杏にまた可笑しくなり、くくっと笑いながら話を続ける。 「全盛期はすごいもんだった。毎日ファンからレターが届くような感じさ。それこそ老若男女問わずにな。 そう、どんな奴も俺を応援してくれていた。俺の歌に希望を持ってくれていた。 次の曲にも期待しています、頑張ってください。そんなコメントと一緒にな。 中には俺の歌のお陰で生きる希望を取り戻したなんて奴もいた」 「凄いですね……」 「それだけ聞けばな。だが、当時の俺は気が気でなかった。 なにせ誰かを救うだなんて考えたこともない。好き勝手に曲を作って、好き勝手に歌ってただけなんだからな。 次の曲も希望を与えなきゃいけないって脅迫されているような気分になった。 元々考えるのが苦手な俺だった。すぐに曲作りに行き詰った。 フレーズが浮かばなくて、メロディが浮かばなくて、それなのにファンの期待は止まらない。 俺の歌は迷走を始めた。末期には今までの俺そのものを否定するような歌を作ってたくらいさ。 その挙句に、俺はヤクに手を出した」 「麻薬……ですか?」 「そうだ。それで拘置所行き。出所したときには、もう何も残っちゃいなかった。 ファンも、金も、名声も、歌も、何もかも。 俺は虚ろな目をしたまま元いた町に帰った。なんのことはない、そこしか行く場所がなかったからだ。 もう世界に、俺の居場所なんてなかったんだ」 芳野はそこで一旦言葉を区切った。 改めて口にしていると、なんとまあ波乱万丈な人生だったと呆れる。 やりたいことをやって頂点まで上り、そのまま転げ落ちていった哀れな男。 だが、今も底辺をさまよっているとは思わなかった。 「だけどな、そんな俺を待っててくれた人がいるんだ。 伊吹公子さん……今となっちゃ元婚約者だが、笑って俺を出迎えてくれたんだ。 おかえりなさい、ってな」 故郷には、待っていてくれる人がいた。 世界から見放されても、決して居場所を失ってしまったわけではなかった。 この島で公子を失ってしまったが、それでも自分を支えてくれる人はたくさんいた。 居場所は誰にでもある。その気になりさえすれば、またやり直すことが出来るのだと知った。 「……そっか、それで妹さん、か」 「隠すつもりはなかったが……悪いな」 「ま、そんな経緯があるんじゃしょうがないですよ」 重たすぎる昔話を、杏は笑って受け流してくれた。 案外こういうものなのかもしれないと思い、芳野は昔を嫌悪していたことが可笑しくなった。 心のどこかではまだやさぐれていて、同情されるだけだと思い込んでいたのだろう。 「歌手だったんですよね」 「ああ」 「じゃ、一曲歌ってくださいよ。どうせ、暇なんですから」 エレベータはまだ降りきらない。 ならそれも悪くないかもしれないと思い、芳野は「特別だぞ」と言った。 「何がいい。あまり最近の歌は知らないんだが……」 「大丈夫です。あたし、超メジャーな曲しか知らないんですよね」 元歌手と、その知り合いのする会話ではないと思い、二人で笑う。 こんな時間を過ごせるのだから、あんな過去でも捨てたものでもない。 いつかこうして笑える機会が来る。こうして、生きてさえいれば。 「あー、そうですね……じゃあ、あの歌で」 「なんだ」 「あれですよ……ちょっと昔に流行った、そう……メグメルって歌」 ああ、と芳野は頷いた。 他人の曲だが、芳野も知っている。 よろこびのしま、という意味の、やさしい旋律の歌。 一度思い出すとするすると歌詞が思い出されてくる。 全て思い出してみればここで歌うにしては中々にいい曲だなと思った。 ふ、と一瞬口元を緩ませてから、芳野は歌を口ずさみ始めた。 その顔は全てを赦し、また赦された人間の顔だった。 歌声が、静かに、ただ静かに、響いていた。 【芳野祐介 死亡】 【藤林杏 死亡】 芳野、杏周辺 装備:デザートイーグル44マグナム、ニューナンブ、ウージー、89式、ボウガン、注射器×3(黄)、グルカ刀、P−90 【銃器は全て残弾0】 【エレベータ内に爆弾があります】 麻亜子、風子 装備:デザートイーグル50AE、イングラム、SMGU、サブマシンガンカートリッジ×3、S&W M29 5/6、SIG(P232)残弾数(2/7)、二連式デリンジャー(残弾1発)、ボウガン、宝石、三角帽子 朝霧麻亜子 【状態:あたしに誰かを救えるの?】 【その他:体操服(上下のジャージ)を着ている】 伊吹風子 【状態:泣かない。みんなで帰りたい】 - BACK