どくり、どくりと。 音が響く。 そのもやもやとした、もう何者でもないものが這いずるように近づいてくるのを、 少年は呆然と眺めている。 それは、恐怖だ。 それは、命であったものだ。 それは、生きていたものが、その最後まで生きた、結末だ。 そうしてそれは、道だった。 暗がりに隠されて見えなかった、細い細い、分かれ道。 生まれると、在り続けると、その二股しかありはしないと思っていた、しかし終わりへと繋がる、それは道。 どこかでそれを望んでいた、はずだった。 幸福を保障されない世界なら、腐り果てゆく苦界なら、生きたくはないと。 さりとて長い長い滅びへの日々を、眺めて過ごしたくもないと。 二つの絶望に挟まれて、第三の選択肢は、魅力に溢れている、はずだった。 しかし。 「……何を迷ってる!」 「呑まれれば、きっと何もかもが終われるでしょう、ですが……!」 「あんなのと一緒になりたいか!?」 天沢郁未の、鹿沼葉子の声が聞こえる。 差し伸べる手は、きっとまだそこにある。 こちらへ来いと、命を選べと誘う手。 その道は、まだそこにある。 迫るのは、終焉だ。 その、色もなく音もなく、ただもやもやとしたものは、何もかもを終わらせながら近づいてくる。 踏み躙られた大地が、侵された大気が、取り込まれた夜が、穢された空が、終わっていく。 終わったすべてがそれの一部となって、それは今や、空を覆うまでに拡がりながら這いずってくる。 どくりどくりと響く鼓動は、だから空に反響して何もかもを圧し潰すように響いていた。 白い花に覆われていた大地は、最早見る影もない。 枯れ果てた草の風に吹かれて転がる、赤茶けた土の半分は既に終わっている。 夜空を統べていたはずの赤い月も、ただ迫る終焉を甘受するように痩せこけた光だけを振りまいて、 どくりどくりと響く音に掻き消されるように力なく明滅を繰り返していた。 そうして少年は、ぼんやりと思う。 ―――ああ。 終焉に、侵されるまでもなく。 楽園は、とうの昔に壊れていた、と。 音が、やまない。 ****** ア、という音では、既にない。 ガ、とグァ、とが混じり合ったような、乾いて潰れた、からからと、がらがらとした音。 それが、春原陽平の喉から漏れる、音だった。 噛まされた布は滲んだ血で赤く染まっている。 暴れた拍子に歯で切った、ズタズタに裂けた舌と口腔からじくじくと滲み出す血が喉を塞いで、 だから定期的に布を外して喉に水を流し込んで血ごと吐かせるそのときに、春原が叫びとも嗚咽ともつかない 奇妙な音を漏らすのだ。 何重にもきつく縛られた手足は擦れて皮が破れ、春原が苦痛に呻いて身をよじる度に、 四肢から新たな激痛を供給していた。 その痛みに暴れればまた手足を寝台に括りつける布がぎちぎちと擦れ、傷を深めていく。 苦痛の螺旋が、春原を取り巻いていた。 存在しないはずの膣口は既に限界まで伸びきって開きながら更なる伸張を皮膚に要求し、 会陰部に小さな裂傷を作って新たに血を流している。 傷は産道が呼吸と共に縮み、拡がるのに合わせて次第に裂け目を広げ、膣内へとその版図を伸ばしていく。 その、流れだす血で人の体の正中に境界線を引くような傷の伸びる先に、ぬるぬると絖る、桃色の肉がある。 児頭だった。 ****** どくりどくりと響く音の中で、少年は立ち尽くしている。 「僕は―――」 呟いて見上げた夜空の半分は、既に終わりに侵されている。 視線を下ろせば、迫るのは生まれて生きて、踏み躙られたもの。 生まれていれば、自分がそうなっていたかもしれないもの。 恐れていた結末の、具現。 それ自体のありようが、これまでの選択を、ただひたすらに幸福に満たされた世界を探し求め、 久遠に等しい時間を待ち続けた自身の道程を肯定しているかのように、少年には思えた。 行き詰まった道なら、その果ての具現に呑まれるのも、悪くはないような気がした。 「目ぇ開けろ! 意気地なし!」 そんな、微睡みのような夢想を真正面から打ち砕いたのは、叩きつけるような声である。 空を包む鼓動にも負けぬ、天沢郁未の、声だった。 「目の前に何がある! そこに何がいる!?」 「……見てるさ。だけど、」 「見えてない!」 小さく首を振った少年の言葉を、天沢郁未は両断する。 「何も見えてない! 見ようとしてない! ちゃんと見据えろ! そいつを! あんたを! 考えろ! 覚悟しろ! それで、選ぶんだよ! 流されずに、あんたの答えを!」 「僕、は……」 響く鼓動の音の中、少年は一歩も動けない。 前から躙り寄るのは、何者でもないもの。 後ろに下がれば、やがて天沢郁未に触れるだろう。 動けばそれは、どちらかを選ぶということに他ならなかった。 前にも進めず下がることも許されず、凍りついたように足を止めたまま、少年が眼前のそれを目に映す。 郁未の言葉に押されるように、道ではなく、選択肢ではなく、ただ迫るものとしての、それを。 それは、姿のないものだ。 さわさわと震える、人と花と獣とを磨り潰して陽炎に溶かしたような、名状しがたい何かだ。 それは、名前のないものだ。 ゆらゆらと揺らめく、何かであることを拒み、何かであることを否定された、そういうものだ。 それはたぶん、憎悪と嫌悪の塊だ。 何かに憤り、何かを嘆き、何かに唾し何かをぶち撒け何かを咀嚼し嘔吐するような、そういうものだった。 醜悪だと、感じた。 じわりと浮かんだ汗に滑ったように、ほんの半歩、更にその半分を、下がる。 待っていたように、背後から声がする。 「これは勝負だ、あんたと、そいつの。もしかしたら、あんたと、私の。 或いは、あんたと、それ以外の全部との、勝負なんだよ」 静かに響くその声は、奇妙なことに、空を圧し潰す鼓動の音よりも大きく、少年に聞こえていた。 「選ぶときだ。あんたは負けて終わるのか、生まれて私らと出会うのか」 とくり、とくりと鼓動の音が。 郁未の声に融けるように、届く。 「あんたの半分は、もうとっくに選んでる。あとは、あんただ。それで、決まりだ」 「半分……?」 郁未の言葉を、少年が反芻する。 「半分て、何さ……僕は、僕だ。僕でしかない。まだ、何も選んでない……」 「いいや」 戸惑ったように首を振る少年に、郁未の声が染み渡る。 「この音が、答えさ」 「音……?」 声と、音。 郁未の声に、融けるように。或いは郁未の声を、溶かすように。 とくり、とくりと音がする。 どくり、どくりと音がする。 鼓動の音だ。 星のない夜空に反響し、花のない大地に跳ね返って世界を覆う、それは音だ。 「これは……この音は、だって……」 うぞうぞと躙り寄る、何者でもないもの。 それが人のかたちをしていた時の、更にその前、この大地にどこからともなく現れた、その時から響いている音だ。 だから、それは既に何者でもないそれの、鼓動であり、咆哮であり、悲鳴であり、絶叫である、はずだった。 「……よく見てください」 第二の声が、聞こえる。 鹿沼葉子の、声だ。 淡々とした声が、ただ事実だけを述べるように、続ける。 「あれはもう、人ではない。姿も、実体もありはしない。……心臓など、存在しません」 「だから、音も聞こえない。聞こえるはずがない」 輪唱するように、郁未が続ける。 振り返らぬまま、しかし激しく首を打ち振るって、少年が叫ぶように言い返す。 「だけど、聞こえてる! 僕にはずっと聞こえてる! なら、何だ? あいつの鼓動じゃないなら、いま聞こえてるこの音は何だっていうんだい!?」 何者でもなくなったものを指さして言い放ち、荒い息をつく少年に、郁未の声が谺する。 「そんなの、決まってる」 夜に響く、鼓動に詠うように。 「あんたの音だよ」 告げる。 「あんたの中の、命の音だ」 ****** 流れだす血は止まらない。 母体も寝台も赤褐色に染め上げられている。 ぬるりと額に浮かんだ汗を拭う古河早苗もまた、その全身を血に濡らしていた。 状態は最悪に近い。 陣痛は明らかに過剰で母体の身体と精神とを限界を超えて痛めつけている。 会陰部の裂傷は広がり続け、既に肛門近くまで達しようとしていた。 母体が暴れるのは収まりつつあったが、多量の出血で昏睡に陥りかけているに過ぎなかった。 この場に医療関係者はいない。 いるのは一人の経産婦と二人の少女。 投薬もできない。切開も縫合もできない。 鉗子も使えない吸引の仕方もわからない。 死に近づいていく母体と胎児とを前にして、それは無力に限りなく近い。 しかし、それでも、まだ無力と等しくは、なかった。 三人は、女性だった。 生まれ出ようとする生命を前に、血に怯えることはなかった。 誕生の無惨に、怖気づくことだけは、なかった。 それだけが、二つの生命を支えていた。 長い分娩の終わりは、ゆっくりと、しかし確実に近づきつつ、あった。 血の河となった産道の奥に児頭の見えたとき、古河早苗が漏らしたのは安堵の息である。 あとは時間との戦いになる、はずだった。 母体が出血に耐えられるかどうかだけが分かれ目だと、そう思った。 一度、二度の陣痛に収縮した子宮が、児頭を押し出そうとする。 見え隠れしていた児頭が、見えたままになり、しかし、早苗の表情が凍りつく。 おかしい。 向きが、おかしい。 母体は、春原陽平は、寝台に仰向けになっている。 ならば、出てこようとする胎児の頭は、下を向いている、はずだった。 見えている児頭は、明らかに、横を向いていた。 びくりと痙攣するように、母体が震える。 陣痛に押されるように子宮が縮み、しかし、児頭は、出てこない。 出て、こられない。 妊婦の頃を、思い出す。 読み耽った本を思い出す。 目の前の状況の、切迫を、理解する。 縦に長い産道を、縦に長い胎児の頭は、だから回転して縦向きに潜り抜けようとする。 もしも胎児が回転をしなければ。 児頭は、産道を通り抜けることができない。 低在横定位。 そんな、異常分娩の一例が。 目の前に、あった。 出てこない。出られない。 強かったはずの陣痛が、次第に間隔を空けていく。 母体も、限界を超えていた。 ほんの数センチの壁の向こうに、命が消えていこうと、していた。 ****** とくり、とくりと命が響く。 もう、その半分以上が終わってしまった空に満ちるように。 どくりどくりと、鼓動が響く。 枯れ果て、眠りについた大地を、揺り起こすように。 凛と光る、それは音だ。 地の底の岩屋に響いた、それは聲だ。 ―――ねえ、世界って――― 鼓動に揺れる少年の、呆然と両手を当てた胸の、その奥から響く、それは問いだった。 それは、記憶ではない。体験でもない。 ただ、確かにそれを発したことがあると、それだけを少年は感じるような、問いだ。 覚えている。 記憶でもなく、経験でもなく、ただ、覚えている。 問いと、応えを覚えている。 ―――んなこと、ねえよ―――たまにかったりいけど、な――― ―――わかんないけど……少なくとも、退屈はしてない……かな――― ―――私には、好きな人がいるんだ。私たちはずっと、何かを愛していくんだ。それが――― ―――いいえ、いいえ。確かにままならず、確かに愚かしく、確かに脆弱で、取るに足らず――― 覚えている。 ―――それでも、素晴らしいものも、ほんの少しだけ、ありました――― 返る応えの、輝きを。 ―――そう――― そうして決めた、その道を。 ―――なら、僕は――― 少年は、 ―――生まれたいと、思う――― 覚えている。 「生ま、れる……」 どくり、どくりと。 響く鼓動が、覚えている。 「僕は、生まれるのか……?」 それは、半分。 答えの半分。 「……ああ」 もう半分を、求めるように。 「あんたは、こんなにも、生まれたがってる」 天沢郁未の、声がする。 今やはっきりと己の内側から響いてくる、鼓動に背中を押されるように、少年がおずおずと口を開く。 「僕は……僕は、生まれさせられるのか……?」 「違う」 否定は、鋭く。 「お前が、選ぶんだ」 続く言葉は、やわらかく。 「そう、か……」 鼓動が、苦しい。 大きく、息を吸う。 吸い込んだ夜の大気にも鼓動が染み付いていて、それはひどく重苦しい。 「そうだ……」 目の前には、ふるふると揺れる、何者でもない終わりの具現。 幸福を保証されない世界の、生の果て。 「僕は……」 見据えて、思う。 これまでの久遠を。 無限の試行と、失敗を。 思って、口を、開く。 「僕は、生まれたかった―――」 答えの全部を、口にして。 少年が、走り出す。 ****** それは、だから、ほんの小さな、奇跡ともいえないような、一瞬だ。 どくり、と。 胎児が、小さく震えたその瞬間。 母体の収縮に、合わせるように。 くるりと、児頭が回っていた。 それはまるで、誕生までの数センチを躊躇っていた命が、微かに頷いたように。 生まれてこようと、するように。 ****** 振り返れば、そこには手。 差し伸べられる、手があった。 「―――来い!」 走り出して、辿り着くまで。 ただの、一歩。 ほんの、一歩だった。 「―――」 天沢郁未と、鹿沼葉子の伸ばした手に、少年がそっと、手を重ねる。 どくりと鼓動が、重なった。 見上げて、尋ねる。 「待ってて、くれる……?」 見つめる瞳は、すぐ近く。 怯えたようなその声に、郁未は眉を顰ませて、 「待つか、馬鹿」 言い放つ。 びくりと強張った少年の手が、しかし次の瞬間、強く握られる。 温もりの先に、悪戯っぽい瞳が、あった。 「走りなよ、頭と身体使ってさ!」 言った郁未が、 「誰だって、そうやって、追いついてくる」 「……、うん」 「ちょっとくらいは、寄り道しててやるかもね」 「……すぐ、追い抜くさ」 「よく言った」 頷いた少年と、傍らに立つ鹿沼葉子に、深く笑む。 重ねたその手に、力が込められた。 「なら、天沢郁未と―――」 背後には終焉。 空は終わり大地は終わり、しかし跳ね除けるように、声は響く。 「鹿沼葉子は―――」 重なる声が、光を生み出す。 それは、力。 不可視と呼ばれた、祈りの力。 かつて少年が人に預けた、可能性。 「その誕生を―――」 ほんの僅か、残された空に。 赤い月が、浮かんでいる。 痩せこけて、しかし輝く、赤い月。 小さな小さな夜を統べる、その星に向かって。 「祝福する―――!」 光の道が、開く。 ****** ****** 海原に、陽が昇る。 ちゃぷちゃぷと、白い羊の波を掻き分ける音だけが響く水平線に、夜明けの緋色が満ちていく。 そうしてそこには、誰も、誰もいない。 夕暮れの街に、夜が来る。 喧騒もなく、ただ色とりどりのネオンサインが煌く街を、夜闇がそっと覆っていく。 そうしてそこには、誰も、誰もいない。 麦畑に、雨が降る。 さわさわと、風に実りを謳う穂に、恵みの雨が染みていく。 そうしてそこには、誰も、誰もいない。 蒼穹に、虹が立つ。 吹く風に、雨上がりの涼しさと空の高さを含ませて、彩りが蒼の一色に滲んでいく。 そうしてそこには、誰も、誰もいない。 雪山に、星が瞬く。 空いっぱいの煌めきが、新雪に残る足跡ひとつを、幻想色のオーロラと共に照らしている。 そうしてそこには、誰も、誰もいない。 最果ての、夜が明ける。 星はなく、月もなく、花もなく、何もなく。 そうしてそこには、もう、誰も、誰もいない。 小さな島の、陽が沈む。 その片隅の、夜に抗う、産声の中。 空に向けて咲く花のような、その小さな手のひらが掴むものを、未来という。 【葉鍵ロワイアル3 ルートD-5 完】 - BACK