クルスガワアヤカ







 
 
 
それは、そのあるべき生を踏み躙られた、ただそういうものである。




******

 
 
 
幼い頃、部屋の窓から見える景色が好きだった。
春、遠くの山が桜色に染まるのを、私はとても美しいと感じていた。
私の生は輝いていた。

あるとき、姉が言った。
あの桜は、もうすぐ見られなくなるのだと。
山は崩されて、沢山のお家になるのだと、そんなことを言った。
とても悲しくなったのを、覚えている。
私の生は輝いていた。

一晩、考えた。
考えた末に私は、窓の向こうの景色が、次の春も桜色に染まることを望んだ。
そうして私は来栖川だった。
私の望みは、来栖川の要求は、すぐに叶えられることになった。
私の生は輝いていた。

大勢の人間が困ると聞かされた。
少しだけ寂しい気持ちになって、すぐに忘れた。
その何倍も、嬉しかった。
私は、私の望む景色が窓の向こうに在り続けることを、正しいと、思った。
私の部屋はそうあるべきなのだと。
それをこそして、正しい姿なのだと、そう思った。
私の生は、輝いていた。

窓の向こうの山がなくなったのは、それからすぐのことだった。

これでいいの、と私に言ったのは、姉だった。
これでいいの。人を困らせてはいけません。
これでいいの。桜が切られてしまっては可哀想だから、遠くの山に移すことになったの。
これでいいの。今度、一緒に見に行きましょう。綺麗に咲いた桜の下で、お弁当を頂きましょう。
これでいいの。これで誰も困らないの。誰も悲しくならないの。
これでいいの。これでいいの。これでいいの。

これでいいの。
静かに繰り返される言葉は、私を縛る十字架だった。

これでいいの。
言葉は私の目を貫いて、私の心に穂先を向ける。

これでいいの。
槍は鋭く、磔の私は身を捩ることも許されず。

これでいいの。
姉の刃が私の中に、冷たい痛みを、差し向ける。

これでいいの。
穂先が皮を小さく裂いて。

これでいいの。
垂れ落ちる血は、ひとしずく。

これでいいの。
私を抉る、言葉の槍に、

これでいいの。
じわりと、力が込められて、

これでいいの。
窓の向こうに、山はもう、ない。

これでいいの。
私は、

これでいいの。
私は、

これでいいの。
私は、黙って、頷いた。

頷いたのだ。
僅かに数ミリ、言葉もなく、不貞腐れたように、妥協を、肯んじた。

 
―――よくできました、と。

そう言って微笑んだ、姉の顔を私は忘れない。
その一瞬。その数ミリ。
その微笑が、私を濁らせたのだ。

澄んだ水面に、墨の一滴を垂らすように。
それはすぐに見えなくなって、水面の色は、変わらずに。
しかし、それはもう、元の澄み渡った水では、ない。
純粋の座から引きずり下ろされ犯された、それは穢れの混じった水だ。


私の生が濁って澱む、それは瞬間だった。

 
敗北が人を濁らせる。
膝を屈せば澱んでいく。

醜いと、思った。
濁った目に映る何もかもが、たまらなく醜いと。
澱んだ私を通すとき、窓の向こうの光景は、どこまでも矮小で、猥雑だった。
それは、訣別すべき亡者の苑。断絶すべき、煉獄だ。
私が喪ったのは、つまりそういうものだった。

透き通ったものだけが在り続けたはずの世界は、だからもう、そこにはない。
私は、それが許せなかった。
私には、それが、赦せなかった。

だから、決めた。
だから、定めた。
私の意味を。その価値を。かくあれかしと望む、在りようを。

これでいいのと、強いる世界があるのなら。
私は今度こそ、頷かない。
頷いてはならない。
私はもう、負けない。

よくできましたと、微笑むことを赦さない。
赦して、濁って、終わらない。
終わっては、ならない。
私は二度と、屈しない。

抗うのではない。挑んだのでもない。
たかが現実の如きに屈さぬと決意した、それだけのことだ。
生きて、濁らず。
目を覚ませば瞼を開くように、或いは息を吸えば吐くように。
生きるということの、それは当然。

それは、今なお生きるすべての来栖川綾香が、すべての来栖川綾香に、
或いはすべての松原葵に、坂下好恵に命ずる、ただ一言。
生きよと命ずる、その声の、それが意味だ。

美しく、在れと。
私の生を輝かせる、それが絶対の回答だ。
澄み渡る私の向こう側に広がる景色は、きっとどこまでも、透き通っている。

 
だから、私は赦さない。


私の命の在りようを。
来栖川綾香の闘争を。
よくできましたと、笑むのなら。
これでいいのと、強いるなら。
私はそれを、赦さない。

生きて、果て往くそのときを、姉が、世界が、穢すなら。
私はそこで、終わらない。

来栖川綾香は屈しない。
そう決めた。そう定めた。
ならば、敗北を以てこの生は、終わらない。
死を超えて、私の生は勝利する。

来栖川芹香に。
私を濁らせるすべてに。
それが望むすべてに。
続き続けることが、勝利だと。
姉が、世界が、望むなら。
私はそれを、蹂躙する。
私の生を、輝かせる。

たとえば、拳を振るうこと。
たとえば、力を振るうこと。
たとえば、私が来栖川であること。
たとえば、私が来栖川綾香であること。
私の生は、輝いている。

空を見て、星はなく。
夜明け前の、藍色の空が好きだった。
私の生は、輝いている。


私の生は、輝いている。

 
目の前には、世界の中心。
来栖川芹香の望み。
澱みを齎すもの。

拳を握り、腕を上げ。
顎を引いて、力を込める。
心臓から流れ出し、全身を駆け巡る血の一滴までを感じる。
澄み渡る、来栖川綾香の生の、そのすべてを込めて、走り出す。

走り出し、


走り出そうと、


走り出そうとして、


足が進まないことに、気づく。
目を落とせば、そこに。
私の足に縋りつく、亡者がいた。



***

 
 
来栖川綾香の目に映っていたのは、少女である。
どこか困ったように眉尻を下げて笑う、小柄な少女。
奇妙に張り付いたような表情を浮かべたそれが、綾香を見上げていた。
その少女の名を、綾香は知っている。
小牧愛佳と呼ばれていた、それは死者だ。
この島で命を落とし、強化兵に回収された遺骸と同じ顔が、綾香の左の足首にしがみついている。
ぱっくりと裂けていた首の傷は、見当たらない。
どこから現れたのか。
なぜ死者がここにいるのか。
理由は。原理は。原因は。目的は。
その一切を、綾香は考えなかった。
挽肉同然にされた来栖川芹香が、眼前に現れたのだ。
今更死者が彷徨い出たところで、驚くには値しなかった。
だから綾香は、ただ空いた右の脚を小さく引き、無感情に振り下ろす。
困ったような笑みを浮かべた少女の貌が、困ったような笑みを浮かべたまま、中心から窪んだ。
鼻骨が折れ、鼻梁が粉砕され、しかし血が噴き出すことはなかった。
顔面を砕かれた少女は、笑みを歪めたままゆっくりとその輪郭を薄れさせ、消えていく。
小さく息を吐いて、綾香が正面に向き直る。
下らない抵抗だと、考えていた。
文字通りの、無意味な足止め。
来栖川芹香か、他の誰かか。
いずれ生きて濁り、死して屈した何者かの、精一杯の抵抗であったものか。
疾走の再開までは、ほんの一瞬。
踏み出した足が、しかし、ぐらりと揺れた。

「―――!?」

傾いた視界に、綾香がたたらを踏んで体勢を立て直す。
何が起きたのか、分からなかった。
踏み込んだ左足の、地を踏みしめるはずの足の、感覚がなかった。
ただ底無しの沼に沈み込むように、体全体が左へと傾いていた。
睨むように見やった、綾香の目が大きく見開かれる。
左足。小牧愛佳のしがみついていた、左足の、足首。
その後ろ半分が、ぱっくりと、割れ裂けて傷口を覗かせていた。
否、それは傷ではない。
そこに血は流れていない。
じくじくと痛むこともない。
ただその部分で、皮と肉と骨とが途切れ、中身を曝しているに過ぎない。
裂傷ではなく、創傷でもあり得ず、それは純粋な、喪失であった。

「―――」

小牧愛佳と共に消えてしまったようなそれを、綾香はほんの一瞬だけ凝視し、すぐに向き直る。
手をついて、右に体重を乗せた膝立ちになる。
使い物にならない左足を無視した、疾走の態勢であった。

「 の一本で、止められるか―――」

鼓舞するように声を出して、しかし、綾香は己の言葉に眉根を寄せる。

今、何を言おうとした。
否、何を、言った。
一瞬前の、記憶の空白。
一本、と。
確かにそう言った。
しかし、それは何だ。
何のことだ。
何を、一本。
何が、一本。
何のことを、言っている。
己が内に湧き出した空白に、綾香の心中がざわめいていく。
一本。そうだ。それは、この左足の、喪失だ。
それを、言った。言おうとした。そのはずだった。
喪失とは、何だ。
論理が、破綻している。
左足の喪失。喪失とは、何だ。
左足は、左足だ。何も喪われてなど、いないはずだった。
見やる。そこには、足がある。
右の脚に、目を移す。
そこには腿があり、膝があり、脛があり。
踝があって、踵があって、腱があり、甲があり、指があり、ならば左にも、同じものがあるはずなのに。
同じものとは、何だ。
左の脚にも、腿がある。
膝があり、脛があり、踝があって、甲があって、指があった。
それが、左足の全部で、何一つ、喪われてなど、いないように思えた。
分からない。
ならば、自分は今、何を言おうとしていたのか。
分からない。
それではまるで、左の足には、今はない何かが、あったようでは、ないか。
そんなものは最初から、ありはしないというのに。

じわりと、何かが皮膚に染み込んでくるような感覚を、綾香は覚えていた。
戦慄に似た、恐怖に近い、しかしそれとも違う何か。
打ち払うように首を振り、片足だけで立ち上がる。
力を込めた、その右足に触れるものが、あった。

「―――!」

長い黒髪の、穏やかな笑みを浮かべた少女。
その少女の名を、綾香は知らない。
仁科りえと呼ばれていたことを知らぬまま、綾香は少女に拳を振り下ろす。
手応えがあり、少女が歪み、ゆっくりと消えていく。
そうして綾香が、大地に倒れ伏した。
右足の、甲から先が、消えていた。
地を踏みしめることもできず、膝をついて眼前を睨む綾香は、もう足に目をやりは、しなかった。
そういうものだと、理解していた。
走ることも、歩むことさえもできず、しかし綾香は、前に進もうとする。
両の手を地について四つ足となり、恥辱すら覚えず、ただ屈さざるべき世界の中心、銀髪の少年の元へと
猛然と進もうとするその足を、押さえる腕があった。

「―――」

振り返れば、それが己が手にかけた少女であったと知っただろう。
しかし綾香は目をやらない。
言葉もなく、空いた方の足で後ろを蹴りつける。
沢渡真琴と呼ばれていた少女が、消えていく。
消えながら、少女の最後に触れていた綾香の左の足指のその全部が、一度になくなった。
 
 
 
   ―――たとえ明日死んだって、今日負けるのは、いやだ。



右の足にしがみつく、女の名前を綾香は知らない。
河島はるかという名を知らぬまま、綾香は女を蹴りつける。
女は綾香の右の踵に最後に触れて、そしてそこには、もう何もない。

左の足にすがりつく、少女の名前を綾香は知らない。
藍原瑞穂という名を知らぬまま、綾香は少女に拳を振るう。
少女は綾香の左の足を最後に抱いて、そしてそこには、もう何もない。

右の脚をがしりと押さえた、少年の名を綾香は知らない。
那須宗一という名を知らぬまま、綾香は少年を引き倒す。
少年は綾香の右の脹脛を最後に撫でて、そしてそこには、もう何もない。

左の脚に乗りかかる、少女の名前を知っている。
雛山理緒という少女の名を、しかし思い出さぬまま、綾香は少女を踏みつける。
少女は綾香の左の臑を恨みがましく最後に掻いて、そしてそこには、もう何もない。

右の脚に手をかけた、少女の名前を知っている。
上月澪という少女の名を、やはり思い出さぬまま、綾香は少女を薙ぎ払う。
少女は綾香の右臑を最後に小さく二度叩き、そしてそこには、もう何もない。

左の脚に手を乗せる、老爺の名前を知っている。
幸村俊夫という老爺の名を、しかし考えることもなく、綾香は老爺を蹴り上げた。
老爺は綾香の左の脹脛を微かにさすり、そしてそこには、もう何もない。

右の脚を踏み躙る、女の名前を知っている。
篠塚弥生という女の名を、もはや浮かべることもなく、綾香は女を振り払う。
女は綾香の右膝を冷たいその手で一つ撫で、そしてそこには、もう何もない。

左の膝を捻じ上げる、少女の名前を知っている。
坂上智代と思い出し、しかしそこには感慨もなく、綾香は智代に拳を放つ。
智代は綾香の左の膝を無理やり捻って捩じ切って、そしてそこには、もう何もない。
 
 
 
   ―――あたしの世界、あたしの手が届く場所、あたしの指で触れるもの。



河野貴明がいた。
名を知らぬまま振り払い、綾香の右腿が毟られて、そしてそこには、もう何もない。

篁がいた。
省みぬまま振り払い、綾香の左腿が抉られて、そしてそこには、もう何もない。


 来栖川綾香に、脚はない。
 両の脚の全部が、既に喪われていた。
 倒れ伏し、しかし腕で地を掻いて、綾香は前へと、進んでいる。


醍醐がいた。
名を知らぬまま振り払い、綾香の股関節が撃ち抜かれ、そしてそこには、もう何もない。

草壁優季がいた。
名を知らぬまま振り払い、綾香の女性に口づけられて、そしてそこには、もう何もない。

月宮あゆがいた。
名を知らぬまま振り払い、綾香の尻が剥がされて、そしてそこには、もう何もない。

緒方理奈がいた。
省みぬまま振り払い、綾香の子宮に指が這い、そしてそこには、もう何もない。

伏見ゆかりがいた。
名を知らぬまま振り払い、綾香の尾骨が抜き去られ、そしてそこには、もう何もない。

柚原このみがいた。
名を知らぬまま振り払い、綾香の直腸が掴み取られて、そしてそこには、もう何もない。
 
 
 
   ―――世界って、そんだけだよ。そん中に、お前も入ってる。



霧島佳乃がいた。
振り払われて、綾香の卵巣をそっと撫で、そしてそこには、もう何もない。

姫百合珊瑚がいた。
振り払われて、綾香の寛骨を摘み上げ、そしてそこには、もう何もない。

姫百合瑠璃がいた。
振り払われて、綾香の仙骨を割り砕き、そしてそこには、もう何もない。

向坂雄二がいた。
振り払われて、綾香の大腸を引き摺って、そしてそこには、もう何もない。

新城沙織がいた。
振り払われて、綾香の虫垂を毟り取り、そしてそこには、もう何もない。

朝霧麻亜子がいた。
振り払われて、綾香の小腸を弄び、そしてそこには、もう何もない。

椎名繭がいた。
振り払われて、綾香の下大静脈にじゃれついて、そしてそこには、もう何もない。

梶原夕菜がいた。
振り払われて、綾香の腹大動脈を撫で下ろし、そしてそこには、もう何もない。

春原芽衣がいた。
振り払われて、綾香の右の腎臓に手を伸ばし、そしてそこには、もう何もない。

緒方英二がいた。
振り払われて、綾香の左の腎臓を見下ろして、そしてそこには、もう何もない。
 
 
 
   ―――そんで、なんだ? 勝ちと負けを決めるのはなんだ? あたしらを分けるのはなんだ?



佐藤雅史がいた。
振り払われて、綾香の膵臓を掻き毟り、そしてそこには、もう何もない。

伊吹公子がいた。
振り払われて、綾香の脾臓を抱きしめて、そしてそこには、もう何もない。

柏木梓がいた。
振り払われて、綾香の腰椎を折り取って、そしてそこには、もう何もない。

長森瑞佳がいた。
振り払われて、綾香の胆嚢を捧げ持ち、そしてそこには、もう何もない。

柚木詩子がいた。
振り払われて、綾香の十二指腸を小突き回し、そしてそこには、もう何もない。

宮沢有紀寧がいた。
振り払われて、綾香の胃を突き破り、そしてそこには、もう何もない。

山田ミチルがいた。
振り払われて、綾香の広背筋を細く裂き、そしてそこには、もう何もない。

美坂栞がいた。
振り払われて、綾香の腹直筋をぺたりと叩き、そしてそこには、もう何もない。

柏木初音がいた。
振り払われて、綾香の肝臓を貫いて、そしてそこには、もう何もない。

長瀬祐介がいた。
振り払われて、綾香の副腎を侵食し、そしてそこには、もう何もない。
 
 
 
   ―――テンカウントか? レフェリーのジェスチャーか? それともジャッジの採点か?
      そういうんじゃない。そういうんじゃないだろ。



立田七海がいた。
振り払われて、綾香の横隔膜に爪を立て、そしてそこには、もう何もない。


 来栖川綾香に、腹はない。
 頭と首と、腕と胸だけが残されて、そこから下には何もない。
 それでも手指は地を穿ち、綾香は前に進んでいる。


宮内レミィがいた。
振り払われて、綾香の胸椎を射貫き、そしてそこには、もう何もない。

巳間良祐がいた。
振り払われて、綾香の肋骨の下半分を握り締め、そしてそこには、もう何もない。

北川潤がいた。
振り払われて、綾香の肋骨の残りの全部を手に取って、そしてそこには、もう何もない。

柊勝平がいた。
振り払われて、綾香の肩甲骨を丁寧に外し、そしてそこには、もう何もない。

岡崎直幸がいた。
振り払われて、綾香の食道をぼんやりと眺め、そしてそこには、もう何もない。

吉岡チエがいた。
振り払われて、綾香の気道を取り上げて、そしてそこには、もう何もない。

小牧郁乃がいた。
振り払われて、綾香の肺の右のひとつを手で握り、そしてそこには、もう何もない。

向坂環がいた。
振り払われて、綾香の肺の左のひとつを解きほぐし、そしてそこには、もう何もない。

澤倉美咲がいた。
振り払われて、綾香の左心室を切り分けて、そしてそこには、もう何もない。
 
 
 
   ―――そこで尻尾を巻いたらあたしの負けだ。その時にこそ、あたしは死ぬ。
      人はそこで本当に死ぬんだよ。



名倉由依がいた。
振り払われて、綾香の右心室に縋り寄り、そしてそこには、もう何もない。

リサ=ヴィクセンがいた。
振り払われて、綾香の左心房を刺し穿ち、そしてそこには、もう何もない。

美坂香里がいた。
振り払われて、綾香の右心房を引き剥がし、そしてそこには、もう何もない。

名倉友里がいた。
振り払われて、綾香の肺動脈を引き破り、そしてそこには、もう何もない。

エディがいた。
振り払われて、綾香の肺静脈を解体し、そしてそこには、もう何もない。

藤林杏がいた。
振り払われて、綾香の大動脈を轢き潰し、そしてそこには、もう何もない。


 来栖川綾香に、臓器はない。
 呼吸器と循環器と消化器と、その全部を奪われて酸素も血流もなく、
 しかし綾香は、ただ一点を見据えながら前に進んでいる。


神岸あかりがいた。
振り払われて、綾香の僧帽筋を断ち切って、そしてそこには、もう何もない。

森川由綺がいた。
振り払われて、綾香の乳房の右のひとつに力を込めて、そしてそこには、もう何もない。

ルーシー・マリア・ミソラがいた。
振り払われて、綾香の乳房の残りのひとつを両手で抱え、そしてそこには、もう何もない。

住井護がいた。
振り払われて、綾香の鎖骨を取り外し、そしてそこには、もう何もない。

 
 
   ―――あたしら、笑えないからさ。
      頑張ったとか、精一杯やったとか、そういうので笑えないからさ。



姫川琴音がいた。
振り払われて、綾香の右手の指の全部を押し潰し、そしてそこには、もう何もない。

月島拓也がいた。
振り払われて、綾香の右手を撫でさすり、そしてそこには、もう何もない。

保科智子がいた。
振り払われて、綾香の左の指に溜息をついて、そしてそこには、もう何もない。

柏木耕一がいた。
振り払われて、綾香の白い右腕を千切り取り、そしてそこには、もう何もない。

スフィーがいた。
振り払われて、綾香の右の肘を小突き、そしてそこには、もう何もない。

広瀬真希がいた。
振り払われて、綾香の右の肩を捻じ曲げて、そしてそこには、もう何もない。

遠野美凪がいた。
振り払われて、綾香の左手をぺちりと打って、そしてそこには、もう何もない。

橘敬介がいた。
振り払われて、綾香の左腕を踏みつけて、そしてそこには、もう何もない。

芳野祐介がいた。
振り払われて、綾香の左肩に首を振り、そしてそこには、もう何もない。

岡崎朋也がいた。
振り払われて、綾香の頚椎を放り捨て、そしてそこには、もう何もない。

 
 
   ―――あたしは、ずっと、世界の真ん中に。



伊吹風子がいた。
振り払われて、綾香の咽頭に指を入れ、そしてそこには、もう何もない。


 来栖川綾香に、体はない。
 それは地に転がる、一個の首でしかない。
 大地に歯を立てながら前に進む、一個の首でしか、なかった。


古河秋生がいた。
綾香の下顎を割り取って、そしてそこには、もう何もない。

長瀬源蔵がいた。
綾香の耳を両手で覆い、そしてそこには、もう何もない。

相楽美佐枝がいた。
綾香の鼻をつねり上げ、そしてそこには、もう何もない。

七瀬留美がいた。
綾香の頬を引っ叩き、そしてそこには、もう何もない。

藤井冬弥がいた。
綾香の髪を手で漉いて、そしてそこには、もう何もない。

月島瑠璃子がいた。
綾香の舌を引き抜いて、そしてそこには、もう何もない。

高槻がいた。
綾香の上顎を砕き去り、そしてそこには、もう何もない。

七瀬彰がいた。
綾香の右目を抉り取り、そしてそこには、もう何もない。

久瀬がいた。
綾香の左目を静かに見つめ、そしてそこには、もう何もない。

 
 
   ―――美しく。



湯浅皐月がいた。
綾香の頭蓋を切り割って、そしてそこには、もう何もない。

巳間晴香がいた。
綾香の脊髄を吸い出して、そしてそこには、もう何もない。

霧島聖がいた。
綾香の延髄をぶち撒けて、そしてそこには、もう何もない。

深山雪見がいた。
綾香の小脳を掻き乱し、そしてそこには、もう何もない。

柏木楓がいた。
綾香の間脳を切り裂いて、そしてそこには、もう何もない。

柏木千鶴がいた。
綾香の大脳を見下ろし、爪を差し入れて、そしてそこには、もう何もない。


 来栖川綾香には、何もない。
 もう、何もない。
 それでも、前に進む。進もうと、していた。


松原葵がいた。
ファイティングポーズを取っていた。
口も、頬も、瞳もないまま、綾香が笑う。
拳も腕も、脚も身体もないまま構えを返し、拳の先をこつんと当てて、綾香は前に進む。


セリオがいた。
無表情に立ち尽くすセリオに苦笑して、綾香がその頭をひとつ撫で、それきり振り返らずに進む。
どうか、あなたの行く先が美しくありますように、と。
背後から聞こえた声に、手を振った。


そうして、長い道のりの、その最後に。
静かに笑んだ来栖川芹香が、いた。

そっと手を伸ばし、もう何もない綾香を抱いて、芹香が囁く。
―――これでいいの、と。


これでいいの。
言葉が来栖川綾香の憤激を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の慨嘆を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の憂愁を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の決意を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の栄貴を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の光輝を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の気勢を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の心胆を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の反骨を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の我欲を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の願望を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の妄執を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の拘泥を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の迷妄を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の篤信を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の耽溺を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の過去を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の明日を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の名を融かして、そしてそこには、もう何もない。


そしてそこには、もう何もない。

 
何も、残らなかった。

身体を喪い、心を奪われ、その名をすら既に持たず、

来栖川綾香は、

故に存在することもできず。

来栖川綾香は、

故に存在せぬこともできず。

来栖川綾香は、

来栖川綾香は、

来栖川綾香は、

故に、

もう、どこにもいない。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
意地という、そのただひとつを、除いては。
 
 
 
 
 
 
 
 
 


それは、終焉となるはずの、一瞬だった。
最早何者でもないそれを抱いた来栖川芹香が、微かに笑んだまま、口を開いていた。
声が、発せられようとしていた。
よくできました、というその言葉が響くことは、なかった。

来栖川芹香を覆い尽くしたのは、     である。
かつて来栖川綾香であった何か。
もう何者でも何物でもないそれが、刹那の内に来栖川芹香を包み、覆い、圧し潰して、呑み込んでいた。

血もなく肉もなく、
光もなく音もなく、
声もなく涙もなく、
ただ来栖川芹香を消し去って、それは在った。


在って、在り続け、それは、     は、前へと、進み始める。

 
それは、生きて、生きて、生き果てた、もう何者でもない、何か。
それは、ただ生き、在ることを誹る者だけが悪と呼ぶ、そういうものである。

 
 
 

 
【時間:すでに終わっている】
【場所:最果て】


     
 【状態:―――】
-


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