/死







 
******




血。
血だ。
生温くて、どろどろとして、ひどくいやな臭いのする、それは血だ。

止め処なく溢れ出すそれを見て、思う。
これは、僕の身体の中に、流れていたものじゃない。
だってそれはきっと、もっと綺麗なものであるはずだった。
それは命を支えてくれるものだ。
それは僕を満たしているものだ。
それがこんなに、いやなものであるはずが、なかった。

だから、それはきっと、汚れてしまったのだと思う。
僕の中に何かとても厭らしい、不潔なものが入り込んで、僕を濁らせている。

いま流れているのは、だからそういうものだ。
僕の中の汚いものが、だくだくと、だくだくと流れ出している。
痛みはない。うるさい声も、もう聞こえない。

ぼんやりとした眠気の中で、汚れてしまって、濁ってしまって、いやな臭いのするようになった
気持ちの悪い血がだくだくと、だくだくと広がっていくのを、僕は、ただじっと見つめている。




******

 
 
 
「……ああ、天沢郁未か」

それは呟くような声だ。
目の前に立つ人影に向けているようで、しかしその実はどこにも向けていないような、
独り言じみた呟きが、少年の口からは漏れている。

「突然で、それからとても残念な話なんだけど」

掠れた声は、星のない夜空に吸い込まれるように消えていく。
暗く、重く垂れ込める空は波立つこともなく、ただ乾いて剥がれる薄皮のような声を受け止めている。

「キミが捜してるのは、僕じゃないよ」

笑みの形に歪んだ口元に、表情はない。
感情も、情念も、そこにはない。
色と温度のすべてをどこかに置き忘れてきたような顔で、少年がぼそぼそと続ける。

「彼はもう、どこにもいない」

漏れ出す言葉はだから、真実の色にも、虚構の色にも染まってはいない。
淡々と、録音された音声を繰り返す壊れた機械のような声には、ただそれだけの意味しかない。

「知ってるだろう、あの夜に死んだんだ」

あらゆる装飾を廃して意味だけを固めたような、それは言葉だった。
路傍の石の如く無価値で、牢獄の鉄格子ほどに無遠慮で、死に至る老人のように無彩色な、言葉。

「……ああ、そうだ。何なら代わりを造ってあげようか」

触れれば砕けて粉になる、木乃伊の浮かべるのと同じ形の笑みを口元に貼りつけて、
少年が小さく頷く。

「そうだ、それがいい。キミがずっと捜していた、彼だよ」

いい考えだと呟いて、答えのないまま頷いて、不毛の大地に目を落とす。
どこまでも拡がる赤茶けた土の上には、枯れ果てた草の細い茎が無数に横たわっている。

「似たようなものなんかじゃない」

ほんの僅かに踏み出した、その足の下で枯れ草が折れて乾いた音をたてる。
かさかさと耳障りな、少年の声音と同じ音。

「寸分違わず同じものを、キミにあげよう」

枯死の音を口から漏らしながら、少年は薄く力ない視線を、眼前の影に向ける。
向けて、すぐに目を逸らした。

「だからもう、帰ってくれ」

視線を合わせぬまま、深々と息をついて、少年はようやくにそれだけを、呟く。

「疲れてるんだ」

呟いて、首を振る。

「僕をひとりにしてくれ」

俯いたまま、何度も、何度も。

「僕はもう、ここでずっと、」
「―――知ってたよ、そんなのは」

どこまでも沈み込んでいきそうな少年の言葉を遮ったのは、真っ直ぐに斬り込むような、声音だった。
天沢郁未が、口を開いていた。

「あいつは死んだ」

微かに射す緋色の月光の中、その姿は乾いた血糊に抱かれて、どこまでも暗い。
傍らに立つ鹿沼葉子もそれは変わらず、しかし共通するのは、その瞳であった。
星もなく、浮かぶ月も細く弱々しい夜空の下、二対の瞳は闇を蹂躙して輝いている。

「死んだんだ。誰が何を言ったって、私だけは疑えない。疑っちゃいけない」

纏った襤褸も、露出した肌も赤黒く染め上げて、しかし凛と背を伸ばし、
郁未は微塵の揺らぎもなく死を口にする。

「それを、私は感じたんだから。感じられたんだから」

言って、笑む。
愉ではなく、悦でもなく。
哀を割り砕いて充足と宿望とで月光に溶いたような、笑み。
何かを求める笑みではない。
何かを味わう笑みでもない。
ただ、終わった時間を、流れ去った何かを懐かしく思い出す、そんな笑みだ。

「だから分かるよ。あんたがあいつじゃないってことくらい」

静かに、風が吹き抜ける。
空に流すように、郁未が笑みを収めた。
収めてしかし、瞳はぎらぎらと輝きながら少年へと向けられている。

「だけど、来たんだ。だから、来たんだ」

左手には長刀を、右の手は拳を握り込んで。
少年を射竦めるように見据えながら、郁未が言い放つ。

「夜をぶっ飛ばしに」

幽かな月光を反射して光った長刀の刃が、ぐるりと回る。
緋色の弧が、大地を向いて止まった。

「私と、あいつと、私たちにとっては、もう終わった夜に」

振り向かず掲げた柄に、かつりと硬い音。
傍ら、金色の髪が靡く。
鹿沼葉子の持つ鉈が、郁未の長刀に小さく打ち合されていた。

「そんなものに、まだしがみついてるヤツがいるんなら、私が、私たちが、
 教えてやらなきゃいけないから―――」

もう一度、小さな音。
郁未からも、得物を打ち合わせて。
視線は少年に向けたまま、しかし呼吸は寸分違わぬ確信をもって、手にした刃を、振り下ろす。

「だから、来たんだ」

一対の刃が、大地を突き穿ち。
風が、声を運ぶ。

「もう一度、ここへ」

突き刺さった長刀から手を離し、郁未が深く息を吐く。
ほんの半歩踏み出して、残りの距離は十歩分。
手を伸ばしても、まだ届かない。
届かなくても、刃を離したその手には、差し伸べるだけの、空きがある。
だから更に一歩を進んで、

「―――!」

しかし踏み込んだのと同じだけ、僅かに一歩を後ずさった少年の、琥珀色の瞳がほんの一瞬、
郁未を見返して、再び弱々しく逸らされるのに、足を止めた。
溜息を一つ。
沈黙は二呼吸分。
それから大きく息を吸って、何かを言おうと見上げた空に、薄ぼんやりと細く赤い月が浮かんでいた。

「……ああ、何だ、そっか」

それを見て、拍子抜けしたように郁未が呟く。
溜めていた言葉は、どこかに置き忘れたようだった。

「あのときの、あれも」

細い、細い、赤い月の欠片。
一つの物語が終わった夜の、その最後に見た、真実。
真実というネームプレートを下げた大根役者が、夜空にぽつりと浮いていた。

「結局、あんただったんだね」
「……それは、そうさ」

呆れたように視線を下げた郁未の眼前、少年が頷きもせずに答えていた。
力なく赤茶けた地面を見下ろしながら、ひどくつまらなそうにぼそぼそと声を漏らす少年の、
銀色の髪の先が風に揺れて薄い月光を掻き毟る。

「ただの人間が、僕をどうにかできると思ったのかい」
「まあ、頑張れば」
「……」

事もなげに言ってのける郁未に、少年が絶句する。

「……そもそも僕は、僕たちじゃない」

降りた沈黙を埋めるように言葉を継いだ少年の声音には、僅かに呆れたような響きがある。
水底に沈む船から漏れた泡沫のように儚く幽かな、それはしかし、少年が郁未たちと向きあってから
初めて見せた、感情と呼ばれるものに近い何かの萌芽でもあった。

「僕は、僕さ。ずっとここにいる僕だけさ。捕まる『種族』なんて、どこにもいやしないんだ。
 いるとしたらそれは、僕が望んで提供した人形だよ」

言葉が、言葉を引きずり出す。
そして心もまた発した言葉に手を引かれるように、琥珀色の瞳に、ほんの少しづつ光が宿っていく。

「世界は人の塊だ。人を動かせば世界は変わる。そういう意味で教団は有用だった。
 君たちという可能性を生み出したんだ。そこにいるだけで世界を変える、大きな物語を」

少年の瞳が、天沢郁未と鹿沼葉子を、映す。
映し、怯んで、しかしついに逸らすことなく、二対の視線を、見返した。

「キミたちの力……不可視の力とキミたちの呼ぶそれは、元々は僕の力だ。
 教団はそれをキミたちに……正確には人間に、広めるために存在したんだよ」
「……だけど、FARGOはもうない」

向けられた少年の瞳をじっと見据えながら教団の名を口にする、郁未の声に揺らぎはない。
憎悪も嫌悪もなく、無感動に無感傷に、それを告げる。

「ええ。教団は私たちが壊滅させました。あなたから頂いた、この不可視の力で。
 存命の関係者は、最早片手で数えられる程度のはずです」

淡々と言葉を継いだ鹿沼葉子の声音にも、押し殺した感情は存在しない。
それが回顧をもってのみ語られる、過去の事実でしかないというように。

「力を寄越して研究させて、力でそれを潰させて。全部があんたの差金なら、与えて、奪って……。
 何がしたかったのさ、一体」

溜息混じりに首を振る郁未に、少年の表情が曇る。
答えを求める問いではなかった。
それでも、少年は口を開く。

「それは……汐から、聞いてるだろう」
「あんたからは聞いてない。それを聞いてるとは、私は言わない」

絞り出されたような少年の言葉を、郁未が言下に否定する。
強い視線と、声だった。

「……」
「……」
「……希望を」

沈黙に押し負けたのは、少年だった。

「希望を、求めていた」

声は、掠れている。
しかしそこに、虚飾はない。
虚栄も虚構も削ぎ落とされた、それは少年という存在の結晶した、言葉であるようだった。

「僕は、生まれたかった。幸せになりたかった」

なりたかったと、口にする。
終わってしまった夢のように。

「それだけさ。それだけなんだよ」

言い放って、郁未の目を見た少年が、表情を変える。
浮かべたのは、嘲笑だった。
郁未たちに向けられたものではない。
ただ自らを蔑み蝕むような、嘲笑。

「……で、そんな僕に何を教えてくれるんだい、天沢郁未、鹿沼葉子」

嘲う少年が、両手を広げる。
その手の先では、空と大地とが、少年を包んでいる。

「生まれることすらできなかった僕に」

少年を囲む大地に、咲く花はない。
散らばった枯れ草と赤茶けた土だけがどこまでも続いている。

「求めて、終に与えられなかった僕に」

少年を見下ろす夜空に、光る星はない。
病に冒されたように痩せ細った赤い三日月だけが、ぼんやりと浮かんでいる。

「キミたちは、何を教えてくれるっていうんだい」

少年の広げた手に、触れる指はない。
そこには誰も、いなかった。
だから、天沢郁未は、一歩を踏み出して、口を開く。

「そんな、御大層なことじゃあないけどね。
 気づかない方がどうかしてるって、その程度のこと」

少年は、下がらない。
下がらない少年に、更に一歩を近づいて、その目を真っ直ぐに見返して、言う。

「―――夜はもう、明けてるんだ」

残りの距離は、八歩分。
遠い、遠い、八歩。
しかし、ただの、八歩だ。

「私は誰だ? 私たちは誰だ? 天沢郁未だ。鹿沼葉子だ」

踏み出せば、七歩。

「それで、あんたは誰なの?」

六歩が、五歩に。

「名前もまだない。私はあんたをなんて呼べばいいのかだって分からない!」

四歩は、三歩になる。

「―――こっち、来なよ」

ほんの三歩の向こう側へ、手を伸ばす。
それが、最後の一歩分。
残りの二歩を、その向こう側に、託して。
天沢郁未が、足を止める。

「……」

差し伸べられた手を、少年はじっと見詰めていた。
ただ一歩を踏み出して、手を伸ばせば、残りの距離は、零になる。
零の向こうに、目を凝らすように、耳を澄ますように。
少年はその手を、じっと、じっと見詰めている。

「―――」

何度目かの風が、吹き抜けた。
風に背を押されるように、少年が顔を上げる。
天沢郁未を見て、その傍らの鹿沼葉子に目をやって、もう一度天沢郁未へと目を戻して、

「―――、」

そうして口を開こうとした、その瞬間。

聲が、響いた。


***



『―――道は一筋にあらず』



***


それは、聲だ。
姿なく、風も震わせず、しかし響き渡る、聲だった。

『青の最果てに佇む者、来し方より行く末を定める者、ただ一人、道を選ぶ者―――』

歳の頃は、少女。
しかし声音は冬の雨のように重く、冷たい。

『あなたは問い、私は答え、それでもなお、迷うなら―――』

あなた、と響いたその聲の指すのが少年であると、その場の誰もが理解していた。
指差すように、睨みつけるように、声音は響いていた。
故に、天沢郁未と鹿沼葉子は動けない。
今このとき、己は傍観者に過ぎぬと、理解していた。

『この世の価値を、命の価値を、分からぬままに惑うなら―――』

忍び寄るように。囁くように。断罪のように。神託のように。
聲が、ぐるぐると少年を取り巻いては、夜に染み入るように消えていく。

『ならば今一度、答えましょう―――』

風に融けた聲が、大気に混じってその密度を濃密にしていく。
聲が、肌にぬるりと感じられるほどに凝集した聲が、風と、夜とを練り固めて。

『示しましょう―――言葉ではなく、かたちを』

そこに、赤い光を灯す。

『―――最後の、道を』

いまや弱々しい、緋色の月光ではない。
そこにあるのは、真紅だ。
赤という言葉の意味を形而上から引きずり出したような、真紅。
そうして浮かぶ、真紅の光の中心に、何かがあった。
震えるように、微かに痙攣する何か。
拳ほどの大きさの、ぬらぬらと蠢く肉のような質感。
それは、心臓である。
あらゆる血管と臓腑とから切り離されてなお脈を打つ、人間の心臓に他ならなかった。

「何さ、道って……。問いって……」

赤い光の中に浮かぶ心臓を見つめながら、少年がようやくに声を絞り出す。
戸惑ったような呟きだった。

「僕は……僕は、そんなこと、知らない」
『いいえ』

否定は、即座。

『いいえ、いいえ。あれはあなた。あなたの声。あなたの問い』
「そんな……」

なおも何かを言い募ろうとする少年の弁明を断ち切るように、朗々と聲が響く。
聲に震えるように、浮かぶ心臓がひくり、ひくりと蠢いた。

『あなたは確かに問うたのです。あの地の底の、神座で。赤と青との、戦の果てに』
「……」

釈明を蹂躙し、降りた沈黙の中に姿なき聲だけが谺する。

『巡り廻る、答えの一つがその手なら―――』

とくり、と。
赤光に浮かぶ心臓が、その鼓動を大きくする。

『この世の在り様の罪咎を、肯んずるのがその手なら。赤は否やを示しましょう』

そしてまた、赤光自体も次第にその輝きを増しているように、見えた。
心臓が脈を打つたび、送り出されるべき血の代わりに、光が満たされていくようでもあった。

『続き、続く世界を、認めないと。不完全に、不手際に、片手落ちに続く世界は、幕を下ろすべきであると。
 ここが世界の最果てならば。否を以て、その選択に介入すると』

心臓が、脈を打つ。鼓動が、次第に早くなる。
光が、その密度を増していく。聲が、その圧力を増していく。

『肯んじ得ぬすべてを、終わらせる道を―――青の最果てに、示しましょう』

謳い上げるような聲と、鼓動を打つ心臓と、輝きを増す赤光と。
赤の響きが、朽ち果てた大地と夜空を、支配していく。

『ここは最果て。世界の極北。これはあなたの物語。あなたが消えれば、世界も消える』

囁くように、叫ぶように、夜空と大気とに練り込まれた聲が、ただ一人へと向けられる。
銀色の髪が、赤光に照り映えて煌めいた。

『これが最後の選択肢』

琥珀色の瞳が、どくりどくりと脈打つ肉塊に捉えられて、離れない。

『選びなさい、物語の行く末を』

時を越えて在る少年に、
すべてを失くした少年に、
何も得られずに終わろうとしていた少年に、

『あなたの描いてきた、世界という物語の結末を』

時を越えて在る少年に、
すべてを失くした少年に、
何かを得たいと望んだ少年に、

『苦界へと続く、その手を取るのか』

聲が、刃を突きつける。
それは、選択という刃だ。
未知という鋼を決断という焔で鍛えた、己が手を裂く、抜き身の刃だ。
どくり、と刃が脈を打つ。

『或いは』

その聲を、合図にしたように。
赤光が、どろりと垂れ落ちた。
濃密な光が、ついには飽和の限界を超えて質量を得たかのように、糸を引きながら流れ出す。
流れる光の中に揺蕩っていた脈打つ肉は、しかし地に落ちることもなく、そこに浮いていた。
赤光がすっかり落ちきって、宙に残るものはもはや輝くこともない、てらてらとした粘膜の塊だった。
寒空の下に露出した、桃色と乳白色と淡黄色との混じり合った塊が、身震いするようにふるふると揺れた、
次の瞬間。
地に垂れ落ちて溜まっていた、赤光であったものが、唐突に爆ぜた。
蕾の弾けて咲くように、朽ちた大地に真紅の大輪が花開く。
月下、大地に咲く真紅と、その真上に浮かぶ桃色の心臓。
やがて実となり種を成す、それは花弁と雌蕊のようにも、見えた。

と。
ぐじゅり、と濡れた音がした。
爆ぜて散った、赤光であったものから、何かが芽を出す音だった。
ぐずぐずと、ずるずると、どろどろと伸びるそれは細い、今にも千切れそうな桃色の、肉じみた気味の悪い芽だ。
ひとつひとつが頼りなげにふるふると蠢く肉の欠片が、そこかしこに散った赤光の欠片から一斉に芽吹いていた。
肉の芽は刹那の間に肉腫となり、赤光であったものを吸い上げながら伸びていく。
ほんの数瞬の後、それは既に芽と呼べるものではなくなっていた。
桃色の茎。否、根もなく葉もなく、ふるふると揺らぎ蠢くそれは、糸である。
数千、数万を超す桃色の肉糸が、ぐずぐずと伸びていく。
無数の肉糸は伸びる内に互いに撚り合わされ、次第に太く変じながら、宙の一点を目指していくようだった。
その先に浮かぶのは、どくり、どくりと、今やはっきりと鼓動を打つ心臓である。
煉獄の亡者の蜘蛛の糸に縋り、争って手を伸ばすように、肉糸が心臓へと迫り、伸びて、
そしてとうとう桃色の糸が、その最初の一片が、心臓に触れる。
触れて、融け合った。
融けた糸が、ずるりと心臓に巻き上げられて、太い動脈に変わっていく。
次の一片は、別の血管に変わった。
変わってできた動脈に、新たな糸が融け合って、その経路を分岐させていく。
幾十の糸が、瞬く間に複雑な血管を形成し。
幾百の糸が、それを包む神経細胞と膜と脂肪とを作り上げ。
幾千、幾万の糸が、骨格を、その中に生み出していく。
筋繊維が、腱が、関節が、無数の糸によって縒り上げられ、一つのかたちを成していく。
皮が張り、指が分かれ、爪が生え、白い歯が、真っ直ぐな鼻梁が、歪んだ耳朶が、腕が、脚が、
人が、造り上げられていく。

『或いは―――』

最後の糸が、ずるりと巻き上げられて、眼窩に収まっていく。
星空を織り込んだような長い黒髪を、白くたおやかな手が、煩わしげにかき上げる。
そこに、黒い瞳があった。
ぎらぎらと輝く、瞳だった。
瞳は、笑んでいる。
牙を剥くように、笑んでいる。

『もう一つの物語に―――呑まれるのか』

美しい、それは女のかたちをしていた。
美しく、猛々しく、そしてどこまでも、どこまでも、昏い。
女の名を、来栖川綾香といった。




******

 
 
 
傷。
傷だ。
閉じているべきものが割れ裂けて、そこから血が流れている。
だからそれは、傷口だ。

傷の中にはきっと、膿と汚れと、もう感じない痛みだけが、ある。
流れ出すのは、濁った血だ。
僕の身体がいやがって、膿と汚れに抗って、押し流そうと垂らす血だ。

早く、早く出てこいと願う。
気持ちの悪いものは、いやな臭いのするものは、この身体の外に出ていってしまえと思う。
その、一方で。

出てくるな、出てくるなと祈る、僕がいた。
おぞましいものが、吐き気をもよおすようなものが顔を覗かせたら、僕は耐えられない。
そんなものがこの身体の中にあったことに、そんなものにこの身体を穢されたことに、きっと耐えられない。
これから先のずっと、そんなものが汚した血が流れ続ける苦痛に、そんなものが身体のどこかに
ぶつぶつとした卵を産み付けているかもしれないという恐怖に、僕はきっと耐えられない。

だから僕は、希う。
傷口も、汚れた血も、膿にまみれたいやなものも、全部、全部なかったことになればいいのに、と。
そんなものは初めからなくって、僕は汚れてなんかいなくって。そんな夢を、希う。
だけど、それは叶わない。

僕にはわかる。
わかってしまう。
この傷口の奥には、それが確かにいるのだと。

それは僕の身体を蝕んで、僕の肉と心とを貪って、ぶくぶくと肥えた、怪物だ。
生まれてくる。
それはもうすぐ、生まれてくる。

どろりと汚れた、黒っぽい血と。
ぐずぐずといやな臭いのする、薄い黄色の粘つく膿と。
そういうものと混じり合って。

こんな、おぞましい傷口の中から生まれてくるものは、きっと、




******

 
 
 
女の笑みに、囚われて。
ぐらり、と少年が揺れる。

「僕は……」

流れる脂汗と、蒼白な顔色。
どくり、どくりと響く音に掻き消されるような呟き。

「僕は―――」

振り返れば、そこには瞳。
手を差し伸べる、真っ直ぐな瞳。

「―――、」

どくり、どくりと世界が揺れる。
脈打つ鼓動の音が。
星のない夜空を圧し潰すように。
どくり、どくりと、響いている。


 
 
【時間:すでに終わっている】
【場所:最果て】

少年
 【状態:最終話へ】

天沢郁未
 【状態:最終話へ】

鹿沼葉子
 【状態:最終話へ】

里村茜
 【状態:―――】

来栖川綾香
 【状態:―――】



【時間:2日目 午後6時すぎ】
【場所:I-7 沖木島診療所】

春原陽平
【状態:最終話へ】
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