終演憧憬(5)/聖誕祭







 
生まれた!

生まれた、生まれた、生まれた!

生まれた! 生まれた! 生まれた! 生まれた! 生まれた!





 
涸れた喉で、何度も何度も、僕は叫んでいた。
苦しみの時間は、いつの間にか終わっていた。
全身を支配していた激痛が、指先の方から溶けてなくなっていくのを感じる。
代わりに僕を満たしていくのはこれまでに感じたことのないような充実感と底抜けの安堵で、
そして僕の外側を包むのは、本当にどこまでもやわらかくて、あたたかい空気だった。

涙と笑顔とが三つ、僕に向けられていた。
どれもこれもくしゃくしゃの泣き顔は、だけど口々に祝福をしてくれていて、
まるでそれが伝染したみたいに僕もほんの少しだけ、涙を滲ませる。ほんの少しだけ。

白いおくるみを抱えた早苗さんが、ぽろぽろと涙を零しながら、僕の前に立っていた。
そうして、ほら、抱いてあげてください、可愛い男の子ですよ、と。
そんな風に言われて差し出された、真っ白な布に包まれた、その桃色の泣き顔を
初めて見た瞬間のことを、僕は忘れない。たぶん、この先の生涯も、ずっと。

感動とか、感激とか、そういうものでは、なかった。
そういう風に言い表せるものじゃあ、なかったんだ。
それは、うん、とても大袈裟で恥ずかしいのだけれど。
だけど、他に言いようがないから、言ってしまう。

それはたぶん、生きる意味を見つけた瞬間だった。
僕の、生きる意味。
生きてきた意味。
生きていく意味。
何ひとつとしてやり遂げてこなかった僕が、ただ流されながら時間を潰していただけの僕の人生が、
何のためにここまであり続けていたのか、何のためにこの先あり続けるのか。
その答えが、目の前で真っ赤な顔をして、泣いていたんだ。




それがもう、何年も前の話になる。




あいつは今日も幼稚園から帰るなり、外へ飛び出していった。
元気なのは何よりだけど、元気すぎて心配になってしまう。
鉄砲玉みたいなやつだから、今日はどこで怪我をこさえてくるか、気が気じゃない。
もっともこれまで大きな病気をするわけでもなく育ってくれているんだから、
それ以上を望むのは贅沢というものかも知れない。

そういえば、最近は渚ちゃんのところの女の子が気になっているらしい。
あの子は二つも年下だっていうのに、ませたやつだ。
まったく、誰に似たんだろう。


あいつと出会えたあの島のことは、もうよく覚えていない。
渚ちゃんや早苗さんとは家も近いからよく顔を合わせるけど、あのときの話は殆どしない。
結局、新聞やテレビでは何も報道されなかった。
あの後は国全体が色々大変だったから、それどころではなかったのかも知れない。
長岡のやつは随分と腹を立てていたみたいだったけど、僕は子育てで忙しくて、
やっぱりそれどころではなかった。
気がつけばあっという間に時間は経っていて、記憶はもう、毎日の生活に摩り下ろされて
ひどく曖昧だった。

夢みたいな、だけど夢じゃない、ぼんやりとした記憶。
確かなのはたったひとつ、あいつが、僕の子供が、あの島で生まれたってこと。
それだけだった。

分かってるのはそれだけで、だけど、それだけで充分。
他に必要なことなんて、なかった。

あの子は今、ここにいる。
色々あったけど、僕は今、幸せで。
きっとあいつにも、幸せでいてもらえていると、思う。
だから、それでいい。

僕たちは、幸せに暮らしていく。
いつまでも、いつまでも。

それはだから、たとえば僕の、春原陽平の物語があるとしたら。
その最後は、こんな風に締めくくられるということだ。

即ち―――めでたし、めでたし。

なんて、ね。




.
******












そんなはず、なかった。












******

 
 
聞こえるのは声だ。

幾つもの声。
その全部が、僕を苦しめる声。

「暴れないで! 力を抜いて!」
「そっち! 解けてる! もう一回縛って! きつく!」
「それじゃ舌を噛みます! 大丈夫ですから! 息を深く吸って!」

分からない。
何を言っているのか、分からない。
痛くて。辛くて。苦しくて。
引き攣けを起こすみたいに息を吸わされて。
だから、吐くのは叫びと、喉から出る血だ。

「あ、アア、ああああアアアアアアあああああ……!!」

叫んで、吐いて、少しだけ楽になって。

「口の中、血だらけ……! 水、飲める……? きゃぁっ!」
「長岡さん!? 春原さん、大丈夫、大丈夫ですから! 落ち着いて!」
「もう少し、あと、ほんの少しですから! 頑張ってください!」

痛みの波が引いた後の、砂浜に打ち上げられるのは、恨みと、怒りだ。

「い、つ……だよ……!」
「……!? 何ですか、春原さん!? 今、何て!?」
「……いつ、だよ……! もう少しって……! 離せ、離せ、もう嫌だ……!」

ああ、だけど。
胸いっぱいに溜まったものを、思いきり吐き出したつもりなのに。
僕の声は、まるで他人事みたいに遠くで響いている。

「さっきも! さっきも、同じこと……!」
「もう、だいぶ下がってきてるんです! あとちょっと頑張れば、頭が見えてくるはずです!」
「嫌だ、嫌だ、嫌だ! もう痛いのは嫌だ! ああああ、アアアアアあああああ!!」
「落ち着いて! 深く息をしてください!」
「助けて! 助けて!」
「そんなに力を入れたら、赤ちゃんも春原さんも辛くなるだけです! 大丈夫ですから!
 力を抜いて! 痛みを逃がしてください!」
「ああああ、アアアア! 僕は……こんなの、あああ、産みたい、わけじゃない……ッ!」

また、痛いのが。
僕を、襲う。
張り裂けそうに痛いのに。
それを押さえる腕は、頭の上で縛られて。
身体を丸めて、蹲りたいのに。
両足は堅くベッドに結ばれて。
傷口は、開いていく。

「そんな……!」

音が、遠くなる。

「……生まれちゃいけないなんて、生まれなかったほうが良かったなんて、
 そんなことは絶対にないんです! そうさせちゃ、いけないんです……!」

遠い音。

「誰だってみんな、幸せになるために生まれてきてるんです!
 それは、それだけは、本当に……!」

他人事の、音。



***



音の消えた世界で、思う。

たとえば、生まれてきたとして。
僕は、この命を、愛せない。



***

 


【時間:2日目 午後5時すぎ】
【場所:I-7 沖木島診療所】

春原陽平
【状態:児頭娩出期】

古河早苗
【状態:健康】

長岡志保
【状態:健康】

古河渚
【状態:健康】
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