終焉憧憬(5)







 
目の前には、一面の銀世界が広がっている。

「……寒いね」
「まあ、息も白くなりますし」
「つーか、吹雪いてるよね」

呟いた天沢郁未の、開いた口に飛び込む雪の結晶の感触が、舌の上で融けていく。

 ―――こっちだよ。

風に舞う雪に阻まれて、視程はほんの数メートルもない。

「さっきまでは南の海で、今度は雪国? ……ったく、はあ、もういいけどさ」

肩に降り積もる雪を払う郁未が、一陣の風の吹き抜ける間に再び白く染め上げられる。

 ―――こっちだよ。

そんな郁未の徒労に軽く肩をすくめて、鹿沼葉子が静かに口を開く。

「別段、凍えることはないでしょうが……鬱陶しくは、ありますね」
「不可視の力ってのは便利だね、こういうとき。……で、」

睫毛に積もる雪を指先で弾いて、郁未がつまらなそうに葉子を見やる。

 ―――こっちだよ。

視線を受けた葉子が、ほんの少し、首を傾げた。

「何でしょう」
「この声に従えばいいわけ?」
「さあ」

すげない答えに、郁未が責めるように目を細める。
素知らぬ顔で視線を逸らす葉子へ不満げに唇を突き出してみせた郁未の耳に、

 ―――こっちだってば。

もう何度目になるかもわからない声が、響いた。
ぼうぼうと轟く吹雪の中、その声はひどく遠く、しかし風の音に紛れることもなく、
常には決してあり得ぬ確かさをもって郁未たちの耳朶に直接響いてくるようであった。

「ただ、こういった場所も三度目ですし」

とん、と。
足先を地面に突いて靴に積もった雪を落としながら、葉子が言う。

「今まで通りであれば、此処にもいるのでしょう。主とでもいうべき、誰かが」

そうして声の聞こえてくる方へと向き直る葉子。
そんな相方を横目でちらりと見て、郁未が小さく溜息をつく。

「……ま、他にアテがあるわけでもないしね」

呟いて踏み出した足の下、さくりと踏みしだく感触は、新雪のそれだった。


***

 
「ねえ、これ……」
「でしょうね、おそらく」

戸惑ったような声を漏らす間に睫毛に積もった雪の重みで、ジリジリと瞼が下がっていく。
吹雪はますます酷くなっていた。
猛烈に吹き荒ぶ風と、叩きつけるように落ちる豪雪と、更には既に積もった雪が風に舞い上げられて
地表面近くを白い津波のように流れていくブリザードとで、数歩先も見えない。
そんな中、郁未が相方と共に立ち止まっていたのはひとえに、その眼前に存在する奇妙な物体故である。

猛烈な風の音と白一色の単調な世界は、容易に五感を狂わせる。
数分、数十分、或いは数時間か数日か、とうに麻痺した時間感覚の中、声に導かれるままに歩き続けた
郁未の耳に響いた、

 ―――とうちゃーく!

という声。
その声と同時に、一面の白を割って視界に飛び込んできたものが、あった。
それほどに大きなものではない。
高さにして、郁未の背丈より少し低い程度。
横幅は二メートルもないだろう。
奥行きにしても、似たようなものだった。
しかし、郁未を戸惑わせていたのは、その拍子抜けするような小ささではない。
材質である。
薄茶色をベースに、カラフルなラインや様々なマーク、幾つかの文字。
そんなカラーリングを施された正方形や長方形の板が、鱗のように貼り合わされ繋ぎ合わされている、
それは郁未たちにも見慣れた、

「……段ボールハウス、って」

およそ建築と呼ぶにもおこがましい、子供じみた安普請である。
果物や、野菜や、缶詰や、他愛もない菓子や、調味料や生活雑貨や、そういうものが詰め込まれていたと思しき
大量の段ボールが、そこには積み重ねられ、貼り合わされ、一個の塊となって存在していた。

「いや、これはちょっと……ここまで来て……ねえ?」
「まあ、雪山に浮浪者でもないでしょうが……。とはいえ」

戸惑う郁未の視線を受けて、しかし葉子は厳しい表情を崩さない。

「普通の段ボールハウス……というわけでは、流石にないようですね」
「え?」

驚いたように見やる郁未に小さく溜息をつくと、葉子はおもむろに、肩に積もった雪を払い落とす。
その手がそのまま、眼前の素朴な建築物を指さした。

「……このペースで降り続いたら、こんなものは一時間も経たずに潰れます」
「あ」

言われて気づいた郁未が、改めて段ボールの山を見直す。

「積もってないね、確かに」
「側面にも、雪の付着がありません」
「温州みかん……って読めるしね。ってことは……」

奇妙な立地条件に、更に倍して。
この猛烈な吹雪の中、雪に埋もれることも、覆い隠されることも、その重みに潰れることもなく。
ただの厚紙の塊が平然と存在することそのものが、正しく異常と呼べる事象であった。

「……虎穴に入らずんば、って感じ? やだなあ、そういうの」

うるさいくらいに繰り返し響いていた声は、到着の言葉を最後にやんでいる。
自らの視線よりも少し低いところに位置する、数枚の段ボールを組み合わせて扉を模したらしき
長方形の板を見つめて、郁未が眉根を寄せる。
書かれた文字は『キャベツ 御殿場』。
小さく首を振れば、頭上に積もった雪がばらりとまとめて地面に落ちた。

「何を今更。ここはもう、とうの昔に虎の巣の中ですよ」
「この先が胃袋の中でなけりゃいいけどね」

軽く鼻を鳴らして言い放った葉子が、無造作に扉らしき一枚に手を伸ばす。
半ば無意識に近く歩調を合わせて踏み出しながら、郁未がもう一枚、『特選しょうゆ 1.5l』の扉を掴んだ。
次の瞬間、目配せを交わすこともなく、まったくの同時に、二枚の扉を、引き開ける。


***

 
「―――なにしてたの、そんなところで。かぎとか、かけてない」

扉の隙間から漏れ出す薄い光に向かって飛び込んだ二人を迎えたのは、そんな言葉だった。
声は、ここまでの道のりを導いたそれに、違いない。

「……」
「……」
「さむいからちゃんとしめてね」
「……」
「……はい」

言われるがまま、後ろ手に扉代わりの一枚を元通りに下ろす。
内部は、僅かに橙色じみた薄明かりに照らされている。
身を屈めなければ頭がつかえてしまうほどの低い天井から、小さなカンテラがぶら下がっていた。

「ここ、すわって」
「……」
「……どうも」

ぱんぱん、と小さな手が、やはり段ボール敷の床を叩く。

「……狭いな」
「もう少し、詰めてもらえますか」
「ん」

二人が座ればすっかり埋まってしまうような、狭い空間。
身じろぎすれば肩が触れるほどの間隔で腰を下ろした郁未と葉子を前に、

「さて、あらためて」

こほん、と。
小さく咳払い。
すう、と息を大きく吸って、

「―――ようこそ、ひみつきちへ!」

満面の笑みで告げたのは、まだ幼い少女であった。


***

 
「……」
「……また、ちびっ子か」

溜息混じりに呟いた郁未が、文字通りの意味で膝を突き合わせている幼女を、改めて見据える。
外見上は、明らかに就学年齢にも達していない。
四、五歳といったところだろうか。

「みずかおねえちゃんたちに、あってるね」

しかし、眼前の少女がその外見通りの存在であるはずもない。
異界とすら呼べる、この吹雪の山中に居を構え、声ならぬ声を響かせるもの。
麦畑の主や、羊の海の少女と同質の、異形。

「みんな子どもなのは、『あの子』がそうだから。
 ちかいものだけが、のこった」
「―――『あの子』?」

郁未の表情が変わる。
それを見て、葉子が静かに目を閉じた。
口元を引き結ぶその顔は、何かを堪えているようにも見えた。

「今、なんて……」
「わたし? わたしはうしお。ほんとうはまだ、なまえをつけてもらってないんだけど。
 いつもうしおだから、うしおでいい」
「聞いてない!」

苛立ちを隠そうともせずに言い放つ郁未。
しかしうしおと名乗った幼女は、にこにこと浮かべた笑みを崩さない。

「あなたたちのこと、しってる。ここでずっとみてたから」
「おい……!」
「ほら、テレビと、ふぁみこん」
「ッ……、―――」

嬉しそうに狭い室内のあちこちを指差すうしおを睨む郁未が、細く細く、長い息を吐く。
同時にその顔から、すう、と感情の色が消えた。

「テレビ、なんでもうつるんだよ」

と小さな手がぺちぺちと叩いた、四角い面を縁取るようにクレヨンで枠線の引かれたベニヤ板のモニタも。

「ふぁみこんで、つうしんもできるし」

奇怪な落書きとしか見えない色とりどりの紋様が描かれた、スケッチブックの端切れで構成される
無数の計器類やコンソールも。
空になった菓子袋の食料庫も、透明なガラス玉の宝石も。
雑多なそれらを、ひとつづつ説明するうしおの顔も。
郁未は何も、見ていない。
一切の興味を失ったかのように、段ボールでできた壁の一点をじっと見つめて押し黙っている。

「でも、すごいね」

ひどく狭苦しい部屋の中、そんな郁未の様子に気づかぬはずもない。
それでも曇りのない笑みを崩すことなく、うしおは言葉を続ける。

「もうずっと、ここまでくる人なんていなかったのに」
「……」
「むかしはね、まおうとか、まほうつかいとか、いたんだ。かっこよかったんだよ。
 だけど、いなくなっちゃった。もう、うまれてくるのは、いやだって。
 それで、うまれない子たちだけが、のこったの」
「……」
「……わたしは、ちがうけど」

言葉が、途切れた。
橙色の灯火に伸びた影が、ゆらりと揺れる。

「……きょうみ、ないよね」
「……まあ」

その答えに、喜色を満面に湛えるようだったうしおの笑顔が、崩れる。
口の端は上げたまま、涙を浮かべることもなく、しかし眉だけが、微かに下がっていた。
ほんの少しだけ遠くを見つめるような、淋しげな微笑。
それは到底、幼い少女の浮かべる笑みでは、なかった。

「……」
「……」

吐息をすら感じる距離にいながら、視線も会話も噛み合わない。
二人を見つめる鹿沼葉子も、一言も口を挟まない。

「……じゃあ、いっこだけ」

僅かな間をおいて、うしおがそっと口を開く。

「いっこだけ、しつもん」
「……」

郁未は視線を動かさない。
許容も拒絶も意味しない沈黙だけが、返っていた。

「あの子は、ずっと」

乾いた笑みが、

「ここでずっと、わらったり、ないたり、してきたんだ。それは……」

疲れたような、笑みの形の貌が、
静かに、息を殺して謳われる、祈りのように。

「それは、うまれて、いきてるのとは、ちがうのかな」

言葉を、紡ぐ。



***


 
「―――」

張り詰めた沈黙の、それは無視ではなく。看過でも、なく。
天沢郁未が、ゆっくりと視線を、視線だけを、動かす。

「―――ふうん」

細めた瞳が、射貫くように、幼い少女を捉えていた。

「まあ。―――うん、」

ひどく、素っ気なく。

「続けてよ」

肯定でも、否定でもなく。
ただ一言、促す。

「……うん」

その返答を、どう受け取ったのか。
淋しげな笑みは、そのままに。
うしおが、小さく頷く。

「わたしはね」

歌をうたうように。
触れれば割れる、泡沫のような声が、独白を始める。

「わたしは、うまれるんだ。せかいでさいごに。いっつも、さいご。
 せかいでさいご。うまれてさいご。しぬのもさいご。なまえはうしお。
 そういう、きまり」

独白の他に、音はない。

「わたしのおわりが、せかいのおわり。おわって、もどって、やりなおし。
 やりなおしてまたおわり。ずっとおんなじ、やりなおし」

ただ、風が、あった。

「やりなおせるのは、神さまがいたから。神さまのちからが、あったから。
 だけど、神さまはもういない。さっき、しんじゃったから、もういない」

狭い、狭い屋内に。

「だからせかいは、もうおわり。こんどおわれば、もうおしまい。
 それでもいいって、あの子がいった。おわっていいって、あの子はいった」

橙色の薄明かりを、揺らして。

「あの子はずっと、まってたの。うまれてもいいせかい。うまれたいとおもうせかいを。
 だけど、いつも、だめだった」

音もなく、色もなく。

「せかいのびょうきは、なおらない。がんばっても、がんばっても。
 やりなおして、かんがえて、なんども、なんどもがんばって、それでも」

風が、吹き抜ける。

「わたしが、うまれるの。それで、だれも、のこらない。
 あの子は、だから、うまれない」

名も知れぬ、彼方から。

「たたかいは、そのあいず。もうだめだって、あの子がおもったら、はじまる。
 せかいでいちばんの、かのうせいをあつめて」

此処ではない、何処かへと。

「はじまりのせかいは、むげんのかのうせい。だけどかのうせいは、きえていく。
 じかんがながれて、せかいはどんどんかたまって、かのうせいは、しんでいく」

頬を、唇を、掠めながら。

「かのうせいがぜんぶきえて、だから、せかいはおわるの。だから、わたしはうまれるの。
 だめだって、たすからないってきまったせかいのおわりを、ずっとまつのは、つらいから」

詠うように紡がれる、言葉を運ぶように。

「だから、おわらせるの。あのしまの、あのたたかいで。
 せかいのかのうせいの、ぜんぶをころして」

何かを、伝えるように。

「だけど、もう、たたかいはおわって。かのうせいのぜんぶは、しなないで。
 だから、わたしはうまれない。まだ、ほんのすこし、うまれない」

誰かに、伝えるように。

「もう、やりなおしはなくて。まだ、せかいはおわらなくて。
 だけど、あの子は、うまれない。うまれようと、しない」

祈りに近い、何かを。

「こわいの。うまれるのが。うまれて、しあわせになれないのが。
 こわいの。うまれて、おわるのが。あの子は、だけど―――」

そうして、

「だけど、わたしは、わたしたちはずっと、ねがってる。
 あの子が、いつかだれかと、てをつないであるけますように、って」

風が、やむ。



***

 
 
長い独白が、終わった。
降りたのは、沈黙。
静かな、しかし虚ろならざる、濃密な静謐。
天沢郁未の瞳は、今や真っ直ぐにうしおを見据え、微動だにしない。
その言葉の、真偽ではなく。真意でもなく。
ただその色彩を見極めんとするが如く、じっとうしおを見詰めている。
時が、過ぎ。

「―――ふうん」

郁未が、ゆっくりとひとつ、頷く。
小さな、小さな笑みをその貌に浮かべて。
冷笑ではなく。苦笑でもなく。失笑でもなく。嘲笑でもなく。哄笑でもなく。
幽かな、幽かな微笑が、雪の下、人知れず花を咲かせるように。
そっと、言葉を、紡ぐ。

「それが、どうした―――?」

その表情には、一片の悪意もなく。
ただ一欠片の、邪念もなく。
それは、どこまでも混じりけのない、透き通った問いだった。

「―――」

どうした、と問う。
それがどうした、と。
世界の成り立ちも、真実も、何もかもを貫いて。
疑うではなく。撥ねつけるでもなく。信じるでも、受け容れるでもなく。
理解も、共感も、認識も断絶も透徹して。
ただ一筋の揺らぎもなく問う、天沢郁未に射貫かれたうしおが、ほんの一瞬、
毒気を抜かれたように大きくその瞳を見開いて、

「……、……は、っ」

相好を、崩した。

「あは、あはは……あはははは!」

笑みは、すぐに大笑へと変わる。

「そうだね、そうだよね!」

目の端から涙を零すほどに、笑う。
笑って、笑って、切れ切れに息を継ぎながら、うしおが郁未へと、手を伸ばす。

「私が言いたいのは、たったひとつだけ!」

伸ばされた手には、小指だけが立てられている。
小さく丸い、幼子の指。

「あの子を、うまれさせてね? ―――やくそく!」

その指を見やって、郁未が自らの手を差し出しながら、言う。

「あいつだけじゃない」
「……え?」

小指同士が、触れ合う。
触れて、絡んだ。

「あんたも。もう一遍くらい、やってみな。生まれて、生きるってやつ」
「でも、わたしがうまれたら……」

絡んだ小指が、振られる。
打ち立てられた旗印の、風を孕んではためくように。
力強く、高らかに。

「世界の決まりなんて、知らないよ。私は」
「私たち、は」

それまでじっと黙っていた鹿沼葉子の一言に、僅かに苦笑を返しながら、
郁未が言葉を続ける。

「いつか、誰かじゃなくて。あんたが手を繋いで、それで一緒に歩くんだ。
 ……長い付き合いなんでしょ?」

答えはない。
絡んだ小指から、力が抜ける。
抜けていく。

「―――」

否、薄れていくのは、天沢郁未の指である。
導かれるのか、送り出されるのか。
いずれ、往くべき時が近いことだけが、分かった。

天沢郁未が、雪に覆われた小さな秘密基地で最後に見たのは、笑みだった。
晴れやかに、朗らかに、雲ひとつない青空のように笑う、幼子の笑みだ。


「ねえ、わたしたちは、きっと、ずっと、もっと、もっと―――しあわせに、なれるよね」


それは、笑みと共に紡がれる、新しい風だ。
悠久から生まれ、時の果てを越えて吹き続く、澄み渡る風だ。

音はなく。
色もなく。
それでも風は、吹いている。





【五層 開放】
【終層 解錠】



  
【時間:すでに終わっている】
【場所:???】

天沢郁未
 【所持品:薙刀】
 【状態:不可視の力】

鹿沼葉子
 【所持品:鉈】
 【状態:光学戰試挑躰・不可視の力】

汐
 【状態:???】
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