終演憧憬(4)







 
窓の外には雨が降り出していた。
灰色の空が、薄暗い診療室内に奇妙な陰影を作り出している。

「じ、冗談……だよね?」
「いいえ」

にべもなく答えた古河早苗の、その瞳には一片の戯れも混じっていない。
ひどく困惑したような表情を浮かべる春原陽平が、口の端を苦笑のかたちに吊り上げる。

「ま……またまた早苗さんは、そ、そうやって人をからかって……」
「春原さん」

静かな診療室の白い寝台の上に横たわりながら、額にじっとりと滲んだ汗を拭った春原に、
噛んで含めるように、早苗が繰り返す。

「あなたは、妊娠しています」
「い、意味わかんねえよ!」

途端、春原が表情を硬くする。

「何言ってんだあんた!? 僕は男だよ!?」
「理屈は、分かりません。ですが、そのお腹には、新しい命が宿っています」
「頭おかしいんじゃねえの!?」

耳を塞いだ春原が、激しく首を振る。

「先程から感じていらっしゃる痛みは陣痛でしょう」
「あり得るわけないじゃん、そんなの!」
「赤ちゃんは、もうすぐ生まれてきます。お産はもう始まっているんです」
「聞けよ、人の話を! ……ぐ、あ、痛ぅ……」

激昂し、起き上がりかけた春原が、呻き声とともに再び寝台へと身を横たえる。
苦しげな表情のまま大きく張り出した腹部を抱えるように、くの字に身を曲げた春原を見下ろしながら、
早苗が淡々と言葉を接ぐ。

「陣痛の間隔が短くなってきています。もう動かない方がいいかもしれません」
「ざっけ……な……」

だらだらと、珠になるような脂汗を垂らしながら、春原が早苗を睨みつける。

「僕ぁ帰る……! 船は六時に出るんだろ……!」
「説明した通りです……あちらに向かっても、もう」
「いいから、どけよっ!」

僅かに目を伏せた早苗の言葉を振り切るように、春原が無理矢理に身を起こす。
寝台から降りようとして、

「あ、くぅ……!」

突然沸き上がってくる、締め付けるような痛みに、バランスを崩した。

「春原さん!?」
「ちょ、あんた!」

慌てて支えたのは、それまで早苗の背後で口を閉ざし、二人の会話を見守っていた
古河渚と長岡志保である。

「は、離せよっ!」
「きゃあっ!」

両脇を抱えられるような姿勢の春原が、乱暴に二人の手を払おうとする。
狭い診療室の中、よろけた渚の背が薬棚の硝子戸に当たってがしゃりと音を立てた。

「あんた、いい加減に……!」
「……ベッドに戻りましょう、春原さん」

思わず怒鳴り声を上げようとした志保を制するように手を翳し、静かな口調で語りかけたのは早苗だった。

「確かに、信じられないのも無理はありません。私たちだって、こんなことは初めてです。
 だけど……春原さん、あなたが一番よく分かっているはずなんです」

翳した手を、そっと下ろしていく。
触れるのは、薄い貫頭衣のような寝間着に包まれた、春原の大きな腹部。

「……この中に息づく、新しい命の温かさを」

どくり、と。
早苗の言葉に応えるように、震えるものがあった。
胎動。それは何よりも雄弁に、感覚として春原に訴えかける、命の証左である。

「……、そん……な……」

呆然と呟いた春原が、力なく寝台に腰を下ろす。
小刻みに痙攣する瞼と、落ち着きなく左右を見回す視線とが、内心の動揺を如実に示していた。

「春原さん……」
「気持ちは分かるけど……」

心配げに見つめる渚や志保の言葉にも、春原は答えようとしない。

「はは……ないよ……ない、ない」

親指の爪を噛みながら、ぶつぶつと呟いていた春原が、ふと何かに気づいたように顔を上げる。

「……そうだ」
「どうか、しましたか」

訊いた早苗の方を、春原は向かない。

「トイレ、行ってこよう」
「……」

表情は、笑みを形作っている。
しかしゆらゆらと不規則に揺れるその瞳は、何の感情も浮かべてはいなかった。
空虚の二文字をもって表される、仮面のような笑みを貼り付けたまま、春原が呟く。

「そうだよ僕、考えてみたらずっとトイレ、行ってなかったんだ。
 だからお腹がこんなに張ってるんだ。痛いのも当たり前だ。うん、そうだった」
「はぁ……!?」

足元が見えないほどに大きく膨らんだ自らの腹を見下ろして、春原がゆっくりと拳を握る。

「いやあ、我ながら頑固なお腹で困っちゃうね。少し、ほぐさないと……」
「ちょっと、あんた何言って……!」
「だから、こんなの、ちょっとこうしてやれば……」

すう、と拳が、振り上げられる。

「……! いけません、春原さん!」

弾かれたように叫んだ、早苗の制止も間に合わない。
ぼぐ、と。
奇妙な音が、診療室内に響いた。
人の、否、生物の持つ遺伝子が、その存在を根絶せよと命じるような、音だった。

「ぐ、ぅ……! あ。ぁああ……!」

おぞましい悲鳴を漏らしながら寝台に倒れ込んだのは、自らの腹を殴りつけた、春原自身である。
その悲鳴に、凍りついたように足を止めていた三人が、ようやく動き出した。

「春原さん……!?」
「この、バカ……!」
「……」

渚と志保が、慌てて寝台へと身を乗り出す。
早苗はといえばそんな二人の背と、そして呻く春原をほんの僅か間、じっと見据えると、
無言のまま振り返っている。
その視線の先には、薬品や備品を仕舞った戸棚があった。

「春原さん、大丈夫ですか春原さん!」
「ぃた、痛い……けど、これで……いいんだよ……」
「あんた……!」
「だ、大丈夫……もっと叩けば、すぐに……ぜんぶ、出てくる……は、はは……」

だらだらと脂汗を撒き散らしながら引き攣った笑みを浮かべる春原の腕が、
寝台に横たわったまま、もう一度振り上げられる。

「ダメです春原さん、春原さん!」
「い、いい加減にしなさいよこのバカ……!」

伸ばされた腕を二人がかりで抑えた、その背後から、声がした。

「―――渚、長岡さん」

冷静な、声だった。
ぞっとするほどに揺らがない、それは古河早苗の声。
十数年を同じ屋根の下で暮らした、渚でさえ聞いたことのないような、声。

「そのまま、抑えていてください」
「え……?」

思わず振り返った渚の目に、早苗の持っている物が映る。
まるでフィルムケースのような、小さな白い円筒形は、

「包帯……?」

渚が呟くのと、ほぼ同時。
無言で歩を進めた早苗が、その手にした包帯の留め金を、指先だけで取り去る。
はらりと、白く長い布地が寝台に零れた。

「な、何だよ……」

異様な雰囲気に、春原が身を捩ろうとした瞬間には、もう遅い。
伸ばされたその腕に、包帯がくるりと巻き付いている。

「おい、何してんだよ……!?」
「……」

悲鳴のような春原の声には、答えない。
無言のまま、早苗は春原の腕に包帯を二度、三度と巻き付けていく。

「そちらもお願いします」
「え……?」
「そちらの腕です」

戸惑う渚と志保に、淡々と指示を出す早苗。

「離せ! 離せよ! おい! 僕は、僕は……!」

瞬く間に、春原の両腕が幾重にも巻かれた包帯で拘束されていく。
ぐるぐると白い布地に巻かれた腕を、最後に寝台の枠に固定する。

「く、くそ……っ! こんなもの……っ!」
「二人でそちらの足を。体重をかけて」
「は、はい……」

暴れようとする春原の機先を制するように、早苗が二人を動かす。
両腕を頭の上で縛られた格好の春原は、張り出した己の腹にも邪魔されてうまく力を込められない。
数分の後には、両腕に加えてそれぞれの足も、すっかり寝台に縛り付けられていた。

「ちくしょう……! 何だよ! 何なんだよ!」
「……これ以上暴れると、お腹の子に障ります」

ぎしぎしと寝台を軋ませて身を捩ろうとする春原を見下ろして、早苗が口を開く。
その悲しげな表情は、既に常の早苗のそれに戻っていた。

「だから! だからそんなの、」
「もう、この子は外に出たがっているんです」

強制的に両足を開かされた格好の、春原の大きく膨らんだ腹部を、早苗の手がそっと撫でる。

「春原さん」

笑みはない。
ただ悲しげに眉根を寄せて、

「この子は―――生まれたがっているんですよ」

それだけを、口にした。




***




僕だって、本当は気付いてる。
気付いてるから、言えるんだ。

たとえばこれは、愛から生まれるものじゃない。




***




【時間:2日目 午後4時すぎ】
【場所:I-7 沖木島診療所】

春原陽平
【状態:分娩移行期】

古河早苗
【状態:健康】

長岡志保
【状態:健康】

古河渚
【状態:健康】
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