流れ込む夜風が藤田浩之の顔を撫でて、人のいない廊下へと吹き去ってゆく。 広がる空は墨を撒いたように黒に塗り潰されていて、夜明けはまだ遠いのだなという感想を抱かせた。 ここに連れてこられてから丸々二日が過ぎ、昼には三日目になる。 たったそれだけの時間。日常の中では短すぎるはずの時間で、自分はこんなにも変わってしまった。 どう変わったのかと言われると、自分でもはっきりと答えることができない。 感じているものの断片を手繰り寄せて言うならば、『大切なものを手に入れて、大切なものを失った』と表現すべきなのだろう。 「……そういえば、泣いてないな」 自答してみてようやく気付く。乾ききった目元は久しく水気を覚えておらず、今となっては見るための役割しか果たしていない。 理由はすぐに思い当たった。泣かないのではなく、泣けない。 あまりにも辛いことが多すぎたから。大切な人を失ってしまったから。 だから一度は心を閉ざし、やらなければならないことに衝き動かされ、どんなに苦しいことも我慢して歩いてきた。 泣いてしまえば自分が状況に押し潰されていた。乗り越えられないなら、自分の心から目を背けるしかなかった。 そして今も俺は、おれは逃げている。 川名みさきを殺し、姫百合珊瑚を殺し、向坂環を殺し、神尾観鈴も、相沢祐一も死に追いやった藤林椋の姉。 その人の目の前に立つことを恐れている。自身と向き合い、どうなってしまうか分からず恐がっている。 人のために感情を発露させることはできても、こと自分になると手を引いてしまうのは男だからなのだろうか。 守らなければならないという意思が、男の義務だと断じている意思がそうさせているのか。 何であるにしても、昔に戻るには遠すぎる。 そう結論して、深く吸い込んだ息を夜空へと向けて飛ばす。 「幸せが逃げてまうで」 背後からかけられた声に浩之は振り返る。柔らかい表情の姫百合瑠璃が立っていた。 いつの間に話は終わっていたのかと思う一方、今までに見たことのないような可愛げのある瑠璃に呆然とする感覚があった。 一瞬、本当に瑠璃かと思ってしまうくらいに。 「……溜息じゃねーよ」 わけもなく動揺してしまっていた浩之は乱暴な物言いになっていた。すぐさま、何をやってるんだおれは、という感想が浮かび、 しかし取り繕う術も分からず無意味に頭を掻きながら「終わったのか」と型通りの話題しか出せなかった。 「まあね。意外と、すっきりした」 隣に並ぶ瑠璃の言葉は俄かには信じられないもののように思えた。 辛く、苦しいことに対面し、受け止めるのはあまりにも重いはずなのに。 一体どんなことを話したのだろうと気にはなっても、浩之は踏み込む気にはなれなかった。 否、踏み込むことが恐かった。自分の感情と対面して、受け止めきれないのは目に見えていたからだ。 その意味でどこか清々とした瑠璃の横顔に、強いと思うより信じられない、と思ったのだった。 「浩之はずっと空を見てたん?」 「……ああ」 夜明けが遠い空。先も見通せない暗いそこは、現在のために何かはできても、 過去や未来のことになると何も思い浮かばない自分そのもののように思えた。 自分のため。反芻してみると本当に何もしてこなかったのだなという奇妙な感慨が涌いた。 それは同時に、生きて帰れたとしてこれからどうなるのだろうという不安にもなった。 ここで死んでいった人間を忘れることはないだろう。 しかしそうだとしても、その人達に恥じないような生き方ができると断言することができるだろうか? 望んではいないのかもしれない。死者に追い立てられるような生き方なんてここで出会い、 死んでいった人達はそんなことはしなくていいと言ってくれているのかもしれない。 だが決して忘れようのない記憶、川名みさきの記憶がもうひとつの自分――『おれ』となって囁くのだ。 忘れるな。お前は守れなかった。無力だという事実があるということを。 ……だから、俺はもうこれ以上手放さないために、瑠璃を掴んだんだ。 そうだ。お前はそれでいい。それだけを考えていればいいんだ。自分のことさえ考えなければ、おれは優秀だ。 ……でもそれでいいのか? そんなことしなくたって、どうにかなるって教えてくれた人達がいるのに? だがお前は、それを信じられずにいる。何度も裏切られ続けて、自分の手足しか信じないようになった。 ……反論は出来ないな。だけど、俺はそれでも。 『おれ』は『俺』だ。そして『俺』は『おれ』だ。お前がどうしようが、おれには知ったこっちゃない。応援する気はない。 ……だろうな。 お前も思い知ったはずだ。世界のどこにも希望はない。絶望から身を守るだけで精一杯なんだ。 ……そうだな。人は、そうして寄り集まっているに過ぎない。友達を作ったり、恋人になったりするのも、そうなんだろう。 『おれ』が目を細め、今ある事実を首肯して色のない瞳をこちらに寄越した。 本能的に嫌悪感を感じながらも、浩之は『おれ』の論理を打ち崩す言葉を持てずに俯くしかなかった。 分かっていた。奴の言葉もまた、正しさを含んでいる。希望よりも絶望を信じるようになり、 それに対処する術は身につけても豊かさを生み出す原動力とはなり得ていないことが証拠だった。 喋らない『俺』を見ている『おれ』が、また何かを言いかけようと口を開こうとして、唐突に阻まれた。 「浩之?」 肩に手をかけ、心配そうに見ている瑠璃の姿が浩之を現実へと引き戻した。 また来るさ。最後にそんな声が聞こえ、ゆらりとした動作で背を向けて去ってゆく『おれ』に、一種の優越感が窺えた。 辛いことに向き合うのを避けるのも、希望を信じられないのも同じことなのかと浩之は思いを結実させた。 ならどうすればいい。答えを求められないのも、また信じていないということか。 浩之は苦笑した顔を瑠璃に向けるしかなかった。 「なあ、あいつとどんな話をしたんだ」 僅かに目を泳がせ、身を引いた瑠璃を見て、自分の顔はひどいものなのかもしれないと浩之は感じた。 泣き笑いのような顔かもしれない。自分のことなのになにひとつ分からなかった。 「事実を、全部」 「それで?」 「それだけ。……許すも許さないもなかったよ。知っておきたいことを互いに打ち明けただけ」 嘘だろう、と反射的に言いそうになった口をすんでのところでつぐむ。 もう少し何かがあると思っていた。いや期待していたのだろうか? 「……浩之は、今でも藤林椋が……杏さんの妹さんを許せない?」 不意に核心を突いた言葉に、浩之は今度こそ押し込めることが出来ず「当たり前だ」と言ってしまった。 だから瑠璃の近くにはいようとしても、あの場に対峙できる勇気はなかった。 無用な争いを生み、禍根を残すだけかもしれない。この局面にそうしたわだかまりを残しておきたくなかった。 そうした理性と、我慢し続けることを習い性としてしまった自分とが結論し、足を踏み止まらせた。 「ウチも同じや」 また虚を突かれた思いで、浩之は俯けていた顔を瑠璃に向けた。 「許せるわけがない。だってさんちゃんが殺されたんやで? 関係ないって分かってても、あいつの家族だけって部分で許せないところがある。 向こうにしても同じやった。杏さんからしてみれば、ウチが妹さんを殺したんやもん。 唯一無二の家族を。……そら、許せへんよ。ウチがそうやもんな」 珊瑚のことを思い出しているのか、表情を険しくする瑠璃の目尻には涙があった。 許せない。あいつさえいなければ――世界に希望はないと囁いた『おれ』の言葉が重なり、 自分もやはり何もかもを許せなくなっているのではないだろうかという思いを浩之に結ばせた。 他人に自分を許さず、常に警戒して距離を取っているからこそ希望を信じられない。 お笑い種だ、と浩之は思った。 自分自身で希望はある、人の本心を分かろうとすれば見えてくるものがあると言いながら、 自身が全く行っていないばかりか信じてさえいない。 或いは、瑠璃に近づきすぎたからそう思うようになったのだろうか。 大切だと思う気持ちが生まれ、守りたいと思う気持ちが生まれ、失いたくないと思うあまりに警戒心を抱くようになってしまった。 分かってはいても変えられないのは人間の本能であるから。 喪失の痛みを知りすぎた人形の行き着く先は、結局のところ椋と変わらないのではないのか。 ふと息苦しさを覚えた浩之は「でもそれだけやない」と続けられた声に意識を向けた。 「許せないのはお互いに同じ。でもそこで終わりじゃない。 その先の未来で、心を触れ合わせることだって出来るかもしれない。 そうじゃなければ、寂しすぎるからって……」 現在は絶望しかない。でも未来はそうじゃないかもしれない。少なくとも、生み出してゆける可能性が自分達にはある。 そう断言するような瑠璃の表情は、縋ることをやめた者の光があり、自分の足で歩こうとする意志があった。 儚い希望だなと即答した自分がいる一方、寂しすぎるという言葉にそうだなと頷く自分を発見して、 浩之は何かしら胸のつかえが取れたような気がしていた。 同時に、今の瑠璃には敵わないとも思った。これが女の強さか、と納得の行き過ぎる結論を得て、 浩之はようやく、背負い続けていた荷物を下ろす気になったのだった。 「……そういうものなのかな。今すぐ、全部を解決しなくたっていいのか……な?」 「時間なんて、いくらでもあるやん。これから、ウチらには、いくらでも」 子供をあやす母親の口調で言って、浩之の頭をよしよしと撫でながら抱きしめる。 そこでやっと、浩之は自分が泣いていることに気付いた。 ――ああ、『俺』はまだ泣けるんだ。 可能性の一端を掴めたと確信したところで、脳裏にまた『おれ』が現れる。 忘れるな。世界のどこにも希望はない。 ……今はそうかもな。だったら、俺が、俺達が生み出していけばいい。 やれやれだな。そんなこったろうと思ったよ。かったりぃな、お前は。 ……お前は『俺』だよな。 そうだ。お前は『おれ』だ。 ……一つ言っとくぜ。お前は何も間違っちゃいない。でも、それだけだと寂しすぎる。だろ? 分からねえな。儚い希望だぜ。 ……でも、希望の一部はここにある。今はそれでいいんだ。 いいだろう。だが、おれはまた来る。お前が何よりも絶望を信じたときにまた、な。 ……その時は、もう一度勝負してやるよ。 ニヤと笑った『俺』に、『おれ』もまた同じように笑った。 それを境にして『おれ』の輪郭が消えてゆく。 あいつはまた来るだろう、と浩之は思った。 何故なら、あれは自分であるから。決して相容れないものではない、寧ろ不気味なほどにカチリとはまるものであるから。 今度やってきたときに勝負して、勝てるかどうかは分からない。 何もかもがまだ不明瞭で一体どうなってしまうのかも分からない、果てのない道だ。 けれども、もう決めてしまったことだ。自ら望んで進もうと決めた道だ。 一歩、一歩ずつ。 ひだりてとみぎてを繋いで。 まだ見ぬ明日へ。 現在を越えるために。 歩こう。心に従って。 【時間:3日目午前04時00分ごろ】 【場所:D−6 鎌石小中学校】 『自由行動組』何を、誰とするかは自由。小中学校近辺まで移動可 姫百合瑠璃 【状態:死ぬまで生きる。浩之と絶対に離れない。珊瑚の血が服に付着している】 藤田浩之 【状態:歩けるだけ歩いてゆこう。自分を取り戻した】 - BACK