終焉憧憬(3)/Light colors







 
「あるとき、一人の女性が勝ち残った」

「強かったね、彼女は。……ああ、そういう意味じゃない。
 いや、そういう意味でも強かったけどね」
「世界で最後の一人になってからも、随分と耐えてたんだよ。
 耐えて耐えて、考えて考えて、狂気に身を委ねることもなく」

「そうして彼女は、今も考え続けてる」
「その内、色んなことに気がついて、色んなことを滅茶苦茶にするんじゃないかな」

「いいんだ、それは」
「それで壊れるなら、だって、僕らにも諦めがつくじゃない」


「ああ、やっぱり、生まれなくていいんだ……って」




******

 
 
それは、きらきらと輝いている。
永遠にくすむことのない、黄金。

さわ、と。
吹き渡る風に揺れる麦穂が、涼やかな音を立てる。
まるで本当の水面のように波打つ、黄金の海原。
青い空の下、どこまでも広がる麦畑の中に、私は立っていた。

「―――」

黄金の海原。
それは、私の起こした奇跡。
蒼穹と麦畑。
それは、私のなくした過去。
約束の場所。
それは、私の思い描いた嘘。

今はもうない、私の護るべきすべて。
なくしたくないと駄々をこねる子供の、泣き疲れて眠る夢の中の楽園。
目の前にある煌きはそういうもので、そこにいるのは、だから―――私自身だった。
黄金色の波間に佇む、小さな影。

「みつけた」

私の望んだ嘘の中、私の願った夢の中。
それは、幼い頃の私の姿をしている。
語りかければそれは、こちらを見て、小さく微笑んだ。
微笑んで、しかしそれだけで、互いの距離は縮まらない。
一歩を踏み出して、麦穂を掻き分けて二歩、三歩を歩んで、しかし少女は、近づかない。
さわさわと揺れる黄金の海の中、少女の微笑は遠くにあって、いくら歩を進めても辿り着けない。
逃げ水のように、蜃気楼のように、それは手の届かぬ向こうから、ただ微笑んでいる。

そうだろう、と思う。
幼い少女は、私のついた嘘のかたちだ。
何も護れなかった私の、最後に縋りついた夢の残滓だ。
必要だから、それを切り捨て。
必要だから、それを忘れた。
必要だから、夢を見続けるために必要だから、私はそれを、棄てたのだ。
汚れた襤褸を、火にくべるように。

ほんの少しだけ勢いを増した火は私を温めて、私は温もりの中で微睡んでいた。
他愛のない、幸福な夢を貪っていた。
灰となり、塵となった嘘を、代償に。

だからそれは、私の手を取ろうとは、しない。
駆け寄らず、近寄らせることもせず、ただ微笑んでいる。
交わらぬ道を歩むように、やわらかく私を拒絶する。

足を止めず、思う。
私の棄てたものが、何であったのかと。
それは力。それは嘘。それは奇跡。
私の中に並ぶ答えは、どれもが近くて、どれもが違う。
それは夢。それはきざはし。それは飢え渇く者に施される、一杯の清水。
私の中に浮かぶ答えは、次第にぼやけて、ずれていく。

私は何を棄てたのか。
私は何を失って、それは私を、どう変えた。
考えて、答えはなく。
だから幼い影は、近づかない。
少女の浮かべるその微笑が、綺麗だと。
そんなことを、ぼんやりと思った。

綺麗。
そうだ。
それは、とても綺麗なものだ。
とても、とても綺麗で、眩しくて。

だから私は、それが嫌いだった。

ああ、そうだ。
記憶の淵の泥沼の、汚れた岸辺に打ち上げられた古い糸を手繰り寄せれば、
ずるずると引き揚げられるそれは、嫌悪の情だ。

きらきらと輝くそれは、がたがたと隙間風に揺れる罅の入った窓から見える景色と違いすぎて。
瞼を閉じてなお目映いそれは、言葉もなく貼りついたように薄い笑みだけを浮かべる、
私の護れなかったものの白く濁った眼差しからは、あまりにも遠すぎて。
手を伸ばせば温かいそれは、私を余計に苦しめて。

だから私は、それが嫌いだった。
許せなかったのだ。
そういうものが存在しているということ、そのものが。
許せないままにそれを棄てて、綺麗で眩しくて温かいものを棄てた私は、だから醜く澱んでいて。
弱く、弱く、在り続けた。

私の心臓を取り出して、薄い刃で傷をつければ滲み出してくるのは血だ。
黒く粘つく、溜まり澱んで腐った血だ。
たいせつなものと綺麗なものと、そういうものが欠け落ちた、それが私の心臓だ。

それを赦し、そんなものでいることを赦し、私は在った。
喪失を許容し、ただ事実や過去や、その程度に膝を屈して。
抗うことを、戦うことを、肯んじぬことを、忘れていた。

口を開けて待っていた。
救済を。奇跡を。誰かを。何かを。
怠惰に安眠を享受していた。
だから、私には、何も与えられなかった。
縋りついたはずの救いの糸は、幻想でしかなく。
幻想であることをすら、認めようとしなかった。
そんな私に齎されるものなど、何一つとしてありはしない。
腐敗。
それが、川澄舞への、抗うことを忘れた者への、罰だった。

 
 (―――君は、生きたいか?)


だから、死は贖いで。
そしてまた、川澄舞が川澄舞に戻れる、ただ一度の機会でもあった。
この薄汚れた心臓を切り裂いて、澱み濁った血を流しきって。
そうして私はようやく、弱く在ることを、やめた。
やめることが、できた。
たいせつなものと。
綺麗なものと。
醜いものと。
弱いものとを、棄て去って。
ただ、始まりの私に、戻れた。

空っぽの川澄舞は、だからひとつづつ、取り戻す。
取り戻すために、ここにいる。
死や、流れゆく時や、取るに足らぬ何もかもを組み伏せ。
棄て去ったすべてを、奪い返し。
あるべき姿にないありとあらゆるものを赦さず。
久遠を、抗おう。

そうして私は、護れなかったものを、護りたかったものを、喪ったものを、喪いたくなかったものを、
この胸に、抱き締めるのだ。


***

 
見渡す。
黄金の海原は静かに揺れている。
嘘と断じる。
こんなものは、存在しない。

麦穂が、消えた。
風が途絶え、空が割れ、地面が音もなく失われた。
色が薄れ、灰色の世界が塵になってさらさらと崩れていく。


瞳を閉じる。
在る、と断じた。
川澄舞は喪失を赦さない。
ならば、喪われたものが、喪われたという程度のことで、喪われることなど、あり得ない。

眼を開ければ、そこには風が吹いている。
きらきらと輝く黄金色の麦穂は、風に揺れて波打っている。
金の海原はどこまでも続いて地平線で空の青と融けあい、そのすべてが一点の曇りもなく煌いて、
朗々と久遠を謳い上げていた。


これは嘘だ。
偽りで、幻で、どこにも存在しない、だが、それだけだ。
幻想で、夢想で、だが私が、ここに在ると決めた。
妄想で、空想で、だが私は、それを認め、蹂躙する。

川澄舞は、事実の如きを踏み躙る。
踏み躙って君臨し、この手のすべてを、離さない。

この手に掴む、この手を掴む、すべてを。


***

 
差し伸べた手の先に、少女がいた。
辿り着けなかったはずの距離は、既に零に等しかった。
川澄舞の取り戻すと決めたその前に、交わらぬ道など、交わらぬというだけでしか、ない。

「―――あたしは」

少女が、静かに口を開く。
その瞳は真っ直ぐに私を見上げ、揺らがない。

「あたしは、明日が今日よりもいい日だ、って思う心。
 そうじゃなきゃ許さないって願う力。そういうもの」

答えず、見据える。
それは少女の、かつて川澄舞の棄てたものからの、川澄舞に告げる断罪であり、
同時に真摯な祈りであり、そしてまた、切実な願いでもあるように、聞こえた。

「だから名付けて。あなたに還る前に」

それは、ひとつの戦いの終わりだ。
栄光を手に高揚を胸に凱旋する、足音も高らかな行軍だ。

「あたしの本当の名前を呼んで。そうしたら―――」

同時にそれは、長い戦いの始まりだ。
無限の勝利を前提に築かれる楽園の、嚆矢を引き絞る弓の軋みだ。
ならばそれは、その希求するのは贖罪などではなく。
釈明でも、償いでも、ありはせず。

「そうしたら、あたしは―――」

ただ一言、すべてを手にする歩みの、その最初の一歩であるならば、
それは。



 ―――希望、と。







【三層 開放】



 
【時間:すでに終わっている】
【場所:???】

川澄舞
 【所持品:村雨】
 【状態:生還】

希望
 【状態:帰還】
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