終演憧憬(3)







 
「―――なんで! なんでよ!」

叫んだ長岡志保が、思い切り木製の机を叩く。
じんじんと痺れる手を握って、もう一度。
それでも飽き足らずに額を打ちつけて、その痛みがどこか頭と胸との中で暴れ回る棘の塊を
抑えつけてくれるような気がして、もう一度額を勢いよく振り上げて、

「長岡さん」

ひどく静かな声に、止められた。
苛立ちのままに振り返る、志保の顔はところどころが撥ねた泥に汚れている。

「……でも、早苗さん!」
「お気持ちは分かります」

沈痛な面持ちで頷く古河早苗の傍らに、古河渚の姿はない。
隣の診療室で寝台に寝かされている春原陽平の様子を見守っているはずだった。
早苗が、常になく真剣な眼差しで志保を見つめる。

「ですが、今できることを、しましょう」
「そんなこと言ったって! あたしたちだけじゃ……!」

乱暴に首を振った志保が、窓の外を見る。
次第に朱く染まりつつある空には、しかしいつの間にか薄い灰色の雲が湧き出して、
既に天球の半分を覆い隠していた。

「嵐が近づいてる、船を出すのは待てないって……! お医者さんも来てくれないって……!」

絞り出すように呟いた、それが長岡志保が疾走の末に得た結果だった。
指定の集合場所まで走り、軍の担当官と押し問答を続けて、そして何も得られなかった。
帰還便の出航は二時間後の午後六時。
南からの熱帯性低気圧の接近に伴い二時間以内の降水確率は九十%。
風と波は次第に高くなると予想され出航の延期は認められない。
そもそも帰還便には出産行為に対応する医療設備は存在せず、回収人員の拠出自体は可能だが
出航時刻までの帰還は絶対条件であり、現地での長時間にわたる滞在は認可できない。
最大限の譲歩、と語頭に付された、それが最終的な回答だった。

「春原さんはもう、ここから動かせる状態ではありませんし……仕方ありません」
「なんでよ! なんで聖さんもいないのよ!」

早苗の言葉をかき消すように、志保が叫ぶ。
やつ当たりでしかないと、分かっていた。
分かっていて、止まらない。
つい今し方にもそれで取り返しのつかない事態を招いておきながら、
それを悔やんでおきながら、しかし、変われない。
省みるにも、学ぶにも、変わっていくにも、時間が必要だった。
今の長岡志保に与えられない沢山のものの、それは一つだった。

「どうすればいいのよ……」

滲む涙は、逃避でしかない。
それで救えるものは、何もない。
理解していた。理解で止まるなら、苦労はなかった。
胸を割り裂いて掻き毟りたくなるような焦燥が、目には見えない傷に沁みていた。
傷の名を、甘えという。
それは、自己憐憫という種を言い訳という衣で包んだ砂糖菓子だ。
甘えていた。
長岡志保は、己に甘え、己以外の何もかもに、甘えようとしていた。
春原陽平のために走ったつもりだった。
少年を救うためにと。
それが自分にできる唯一のことだと。
言い訳に、過ぎなかった。
志保は単に、恐れていただけだった。
己が手に、何かを壊した罪の臭いが染みつくのが、怖かった。
拭い去る機会がほしくて、手近な行為に縋りついた。
血に飢えた殺人鬼も、狂気に駆られた参加者もいなくなった夕暮れの森を
せいぜい数キロ走った程度で、無様に転んで生傷を幾つか作ったくらいで、
何かが赦されると、思っていた。
愚かしい、勘違いだった。

必要とされていたのは行動ではなく、結果だった。
そしてそれは贖罪などではなく、義務だった。
己が衝動のままに悪化させた事態への応急処置でしかなかった。
それすら、満足にこなせなかった。
目尻に溜まった涙の滴が志保の頬を伝って一筋、零れ落ちた。
無力で、無価値で、醜い涙だった。

「―――お湯を沸かしてください」

涙が机の天板を叩く音に浸ろうとしていた志保が、驚いたように顔を上げる。
静かな、しかし有無を言わさぬ強さを持った古河早苗の、それは声だった。
戸惑い辺りを見回す志保を、早苗はじっと見据えている。

「長岡さん」

響いた声は、叱咤ではない。
怒声でも、なかった。
ただ淀みなく指示を出すだけの、感情の篭らない声。
それが優しさなのか、厳しさなのか、それとも他の何かであったのか、志保には分からない。
それでも、縋りつくより他に、なかった。
後悔と自己憐憫の泥濘が、自らの足首までを捉えているのは、理解していた。
いずれ抜け出すこともできなくなると分かっていて、動けずにいた。
それでもいいと囁く、諦め混じりの声があった。
何もできない。何も為せない。何も掴めない。
そういう無力を、何もかもが長岡志保に強いるなら、抗うのはやめてしまおうと。
仕方がないのだと、時期が悪い、相手が悪い、状況が悪い、運が悪い、それは仕方がないことなのだと。
何が悪かったのか、誰が悪かったのか、後でゆっくりと、ゆっくりと噛み締めよう。
噛み締めて、悔やんで、涙して、諦めて、諦めきれずに、また涙して、そうして眠ってしまおう。
眼を閉じよう。歩みを止めよう。力を抜こう。横たわろう。
そうしてそのまま、朽ちていこう。
そんな風に囁く、穏やかな声があった。
温かく、やわらかく、安らかな声であるように、思えた。
何かが違うと、そういうものに成り果てたくはないという感じ方を容易く捻じ伏せるほどに、
その声は長岡志保の傷に染み渡ろうとしていた。

「あなたに言っています、長岡さん」

だからそれは、細い糸だった。
粘りつく泥に足を取られた志保の眼前に垂らされた、細く儚い、蜘蛛の糸。
こわごわと、手を伸ばす。
触れて、掴んで、握り締める。
これが、最後の機会だと、思った。
この手を放せば、何かが永遠に失われると、そうしてそれは二度と取り返せないのだと、
それだけを、感じた。

「……」

こく、こく、と何度か小刻みに首を縦に振ってみせた志保に、早苗がひとつ頷き返す。

「はい。ではまず、キッチンと診療室から器になりそうなものをなるべく沢山集めてください」
「……」

返事をすれば涙声が漏れそうで、しゃくり上げそうになるのを堪えながら、言われるままに
のろのろと志保が立ち上がった、そのとき。

「―――ッっっ!」

ひぃ、という悲鳴と、ぐぅ、という呻きの入り混じった奇妙な声が、室内を満たした。
開け放った診療室との境の扉の向こうから、それは聞こえていた。
ほんの僅かな小康状態で眠っていた春原陽平の、目を覚ました合図の呻き声だった。
それが、幕開けだった。

「お母さん!」
「―――渚はタオルとガーゼ。長岡さんはお湯を。できるだけ早く」

矢継ぎ早に指示を出した早苗が、扉から顔を出した渚を追って診療室に駆け込んでいく。
その背を見送った志保が、一秒、二秒の間を置いて、弾かれたようにキッチンに走る。

ぽつり、と。
雨垂れの最初の一粒が窓を叩く微かな音には、誰も気がつかなかった。


 
 
【時間:2日目 午後4時ごろ】
【場所:I-7 沖木島診療所】

長岡志保
【状態:健康】

古河早苗
【状態:健康】

古河渚
【状態:健康】

春原陽平
【状態:分娩移行期】
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