終演憧憬(2)







 
「―――ふうん。それじゃ、さっきの白いのがおまえの言ってた子だったんだ」

ずずぅ、と癇に障る音を立ててマグカップの茶を啜りながらしたり顔で頷く春原陽平を
ちらりと横目で見て、長岡志保は頬杖をついたまま口を開く。

「だから、おまえっていうのやめてよね。あたしには志保ちゃんって立派な名前があるんだから」
「……へいへい」

突き放すように言われた春原が、露骨に顔を顰めながら言い直そうとする。

「で、その志保ちゃんは―――」
「あんたに志保ちゃんとか呼ばれたくないんですけど。キモい」
「ムチャクチャ言いますねえっ!?」

口から唾と茶とを飛ばしながら抗議する春原に、心底面倒そうな表情を作って志保は視線を外す。
実際、心底から面倒くさかった。
甲高くて喧しい声は、どんよりと澱んだテンションにざくざくと突き刺さってひどく鬱陶しい。
今はただ、窓の外に広がる景色と静寂だけに身を委ねていたかった。
目をやれば、四角く切り取られた空は、青の一色からだいぶ趣を変えている。
傾きかけた陽射しの黄色みがかった色合いが、森と山と小さなリビングとを、薄いヴェールで覆うように
やわらかく染め上げていた。

「白い子……って、川澄さんのことですか?」

背後でなおも不満そうにぶつぶつと抗議の声を上げ続けている春原を見かねたか、
困ったような顔の渚が会話に入ってくる。
ここで目が覚めてからほんの数時間。
その間に、同じようなことが何度もあった。
場に険悪な空気が流れること自体が嫌なのだろう、と思う。
古河早苗がこの場にいれば、空気が悪くなるより僅かに手前で自然に軌道修正するような一言を放って、
一瞬にして和やかな雰囲気を取り戻していただろう。
それは一種の天賦の才で、しかし早苗は今キッチンに立っている。
だから渚は仕方なく、どこか必死さを滲ませながらぎこちなく、対立に介入しようとしているのだろう。
ともすればそれは優しさではなく、手前勝手な心情の押し付けだった。
しかし穏やかな口調と下がった目尻は、春原のそれと違ってささくれ立った志保の心を刺激しない。
それはどこまでも薄く、軽く、やわらかい身勝手だった。
仕方ないかと内心で苦笑した志保が、窓から視線を離すと渚の方へと向き直る。

「そ。あたしと美佐枝さんが何とかしようとした子」

本人には言えなかったけどね、と苦笑交じりに呟く。
あんた、何で生きてるのよ。
言えるわけがない。
長岡志保を知る誰もが理解しているように、流れに乗れば志保は誰に対しても、何についても口に出す。
出してしまう、或いは出せてしまう。
そうしてまた、これは誰もが誤解していたが、流れに乗ることができなければ、志保は怯えて動けない。
一線を踏み越えることのリスクを過剰に考えすぎてしまうのが、長岡志保という少女の一面である。
酔った勢い、という言葉がある。
流れに乗るというのはそれに近いのかもしれない、と志保は自己を分析していた。
但し酩酊するのはアルコールに対してではない。
長岡志保を酔わせるのは、空気と呼ばれるものだった。
場に流れるテンションの総量が、志保を大胆にする。
言わなくてもいいことや言えなかったはずのことや、しなくてもいいことやすべきでないことをさせる。
踏み出した足が一線を越えた、そのこと自体がテンションを押し上げて、志保自身を加速させていく。
それが好循環であるのか、それとも悪循環であるのかを志保は評価しない。
ただ自分自身がそういうものであると、それだけを理解していた。
温まらない場では動けない。
人見知りをしないくせに、一度でも苦手意識が芽生えた相手の前では口も出さない、笑えない。
それが長岡志保で、そして志保にとっての川澄舞は、明らかに苦手な相手だった。

「何とかしようとして、何ともならなかった子だろ」

ずぅ、と茶を啜りながら春原が言う。
返事をするのも面倒だった。
代わりに、春原が少しづつ啜っているマグカップの底を、思い切り指で押した。

「ぶあつぅーっ!?」
「ひゃ!? だ、大丈夫ですか春原さん! わ、わたしタオルとお水、持ってきます!」

椅子から転げ落ち、大きな腹を抱えたままごろごろと床をのたうつ春原を無視して、
志保は窓の上に据え付けられた壁掛け時計を見上げる。
短針は右真横、九十度。
時刻は間もなく三時になろうとしていた。

「……だから、もう少ししたら出よっかな。船が出るのは六時だっけ」

何が、だから、なのか。
口にした志保自身が、そのことを疑問に思う。
何とかしようとして、何もできなかったから、だからここを出て、船に乗って、本土へ帰るのか。
舞が蘇って、すべきことが何もなくなったから、だから悪夢の一日を生き延びたことに感謝して。
何かをしようと決意して、何ができたのかも分からないまま放り出されて、だから家路に着くのか。
夢と現の狭間で、何かを見出したつもりだった。
誰もが戦っていたあの山頂を見上げていたとき、心の中には確かに何かが存在していたはずだった。
ぐにゃりと歪んだ世界の中で、ずるずると纏わりつく無数の想念に貫かれながら膝を屈さずにいたとき、
志保の中の一番声の大きな何かは、必死で叫んでいたはずだった。
だがこうして、温かいお茶とうららかな陽射しと穏やかな景色とに包まれていると、そのすべてが
夢か幻であったように思えてくる。
掴んだはずのものが、するりと手の中から零れ落ちていくような感覚。
開いてみれば、手のひらの上には何も残っていない。
小さく、無力な手が傾きかけた陽に照らされて黄金色を帯びている。
転んだときの細かな傷の幾つかが血が滲んでかさぶたになっていて、そうして、それだけだった。
船に乗って家路について、日常に戻ればすぐに消えてしまうような、そんな傷。
それだけが志保に残されたもので、傷が消えてしまえば、この島の全部が消えてしまうような、
そんな錯覚が、ぼんやりと志保を包み込んでいく。

「はあ……」

深い溜息と共に、テーブルに突っ伏す。

「あたし、何やってたんだろうなあ……」

頬に当たる飾り板の冷たい感触と篭った溜息の生温さが、ほんの一呼吸、二呼吸の内に混じり合っていく。
腕で覆った瞼の内側は暗く、狭く、簡素で、心地いい。

「何にもできてない」

小さな壁の内側の空虚に甘えながら呟けば、愚痴じみた言葉はひどく自然に耳に馴染んで、
それはきっと本音なのだろうと思えた。

「ずっと誰かに助けられてて、なのに恩返しもできなくて。だけど……」

濁った声が溶けていく。
溶けて乾いて、残らない。
それでも、口にして、思う。
だけど、は優しい言葉だ。
曖昧で、緩やかで、言葉が続かなくても、許してくれる。
だけど、の後に何を言おうとしたのか、もう自分でも分からない。だけど。
だけど、仕方ない。
きっとそれは、仕方ないことだったのだ。
即席の闇の中、だけど、が大きくなっていく。
だから、を侵して、だけど、が言葉を濁らせる。
濁った言葉は吸い込んだ息と一緒に肺の中で血に混ざって、体中を這い回る。
這い回って、いつかの、思い出せないほど遠くの自分が傷だらけになりながら手を伸ばしていた理由や、
手段のない目的や、原因の見つからない衝動や、そういうものを砂糖菓子みたいに包み込んでくれる。
それは疲れきった身体に染み込んで、甘い。
それは弱りきった精神に沁み渡って、軽い。
それは長岡志保を満たし、覆い、溢れて、

「……だけど、なんだよ」

そういうものに包まれた自分は、ひどく言い訳じみていて。
醜く、くすんでいる。

「―――」

春原陽平の声が、冷水のように、或いは無遠慮に響く足音のように、志保を打つ。
打たれて剥がれた砂糖菓子のコーティングの下から、剥き出しの衝動が顔を覗かせていた。
それは疲れきり、弱りきって、しかし、だから何だと、叫んでいた。
ずっと誰かに助けられていて、なのに恩返しもできなくて。
だけど、ではないと。
それは、叫んでいた。
だから、だ。
だから、お前はどうするのだと、真っ直ぐに、心臓の裏側に爪を立てるような眼差しで、問いかけていた。

「……わよ」

ぎり、と噛み締めた歯の隙間から、声が漏れた。

「はあ? 何だって?」
「―――あんたには、分かんないわよ……!」

眼差しから視線を逸らし、傷口から漏れ出した問いを塞ぐように、必死に己を抑え込みながら、
志保が声を絞り出す。
理不尽だと分かっていた。
ただの八つ当たりだと、理解していた。
それでも、言わずにはいられなかった。
顔を上げて睨んだ先に、

「何、それ」

底冷えのするような目が、待っていた。

「……!」
「笑えるね。一人で悲劇のヒロインぶってさ」

いつの間にか立ち上がっていた春原が、すぐ傍に立っていた。
気圧されたように言葉に詰まった志保を見下ろして、春原が口の端を上げる。
にやにやと人を見透かしたような、嫌な笑い方だった。

「だけど、だけど。言ってれば? ずっと、そうやってさ」
「何が……言いたいのよ」
「べっつにぃ」

嘲るように、蔑むように。
笑みを浮かべた春原が、そこだけはぞっとするように冷たく光らせた眼を、すうと細めた。

「たださあ―――」

それが、たまらないほど疎ましく。
怖気が立つほど厭わしくて。

「―――楽だよなあ、って」

思考が、白く染まる。

「あんた……っ!」

どん、という手応えは、意外なほどに軽かった。
あまり肉付きの良くない肩の辺りを突き飛ばした腕に、どれほどの力を込めていただろう。
分からない。
衝動に任せた手は、にやにやと笑う春原の表情を、一瞬だけ驚愕の色に染め上げ。
そして、視界から消した。

ガタ、ゴン、と。
重い音が、後から響く。
よろけた春原が足を絡めて躓いた、木製の椅子が床に当たって立てた音。
そうして、すっかり大きくなった腹を抱えた春原が、受身も取れないまま、正面から床に倒れた音だった。

「え……?」

すぐに立ち上がると、思った。

「ちょ、ちょっと……」

立ち上がって、眼を剥いて、甲高い声で食って掛かってくると、そう思った。
しかし。

「じ、冗談やめなさいよ……」

春原陽平は、起き上がらない。
顔を上げようとも、しなかった。

「……どうしました!? 今、すごい音が……」

キッチンから顔を覗かせた渚が、立ち尽くす志保と、ほんの少し遅れて床に倒れた春原に気付く。

「春原さん? ……春原さん!?」
「あ、」

声が、出ない。
春原を突き飛ばした手が、伸ばされたまま、震えていた。

「……お母さん! お母さん!!」

恐ろしく切迫した渚の声が耳朶を打つのを感じながら、志保の瞳はどこか他人事のように
目の前の状況を映していた。
凍りついた脳が、情報を処理しきれずにいるようだった。
倒れ伏した春原の、腰に巻いたシーツがまるで何か、水に濡れたその上に掛けたようにじわりと滲み、
瞬く間にその色を変えていくのも、だから志保はぼんやりと、ひどく無機質に、眺めていた。



******

 
 
長岡志保は走っている。
息は荒く、全身は汗みずくで、目尻には涙を浮かべながら、しかし休むことなく、走っている。
取り返しのつかないことをしたと、それだけがぐるぐると志保の脳髄を廻っていた。

晴れ渡っていたはずの空にはいつの間にか薄く、しかしじっとりと重たげな灰色の雲が
黴のように涌き出して、傾いた陽を覆い隠そうと機を窺っていた。
そのせいで木漏れ日と影との境がひどく曖昧で、荒れた足元は更に不安定になっている。
張り出した木の根を飛び越えた、その先の地面が小さく窪んでいるのに気付いたのは、
着地のほんの僅かに寸前、かろうじて顔を出した陽光が地面を照らしたからだった。
足を取られ転びそうになって、それでもどうにか体勢を立て直し、志保は疾走を再開する。

危険な状態です、と早苗は言っていた。
真剣な表情だった。

動かせないと。
お産が始まると。
破水が、陣痛が、他にも色々と言っていて、そのどれもが志保には届かなかった。
ただ、医者が必要なのだと。
この場にはいない、それが必要なのだと。
それだけが、志保に理解できた唯一のことだった。

それで、志保は走っている。
指定された帰還者たちの集合場所へと、影の濃くなってきた林道を荒い息をつきながら走っている。
何も守れず、何も掴めず、そうして挙句に何かを失いかけた今になって。
だけど、だから、長岡志保は、走っている。



 
【時間:2日目 午後3時すぎ】
【場所:I-6 林道】

長岡志保
 【状態:健康】


【場所:I-7 沖木島診療所】

春原陽平
【状態:破水】

古河早苗
【所持品:日本酒(一升瓶)、ハリセン】
【状態:健康】

古河渚
【所持品:だんご大家族(100人)】
【状態:健康】
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