FOR OUR MUTUAL BENEFIT AND UNDERSTANDING
(Who stealed "The Card" ?)








 
ゆらり、ゆらりと。
金色の光が立ち昇り、闇の中に浮かぶ小さな日輪へと吸い込まれていく。
ぼんやりとそれを眺めながら、来栖川綾香は岩壁に背を預けている。

ぐずぐずと爛れたように桃色の肉を晒す四肢は既に崩壊を始めていた。
肉の糸は弱々しく絡み合い、しかしその殆どは癒合できずに力尽きて赤い血潮へと還っていく。
息を吸い込めば焼けつくように熱く、吐き出せば血と痰と、或いは何かの塊とが混ざり合った
どろどろとしたものが喉の奥からまろび出てくる。

拳は砕け、立ち上がる足もなく、だから綾香はぼんやりと光を眺めていた。
柏木千鶴の躯から立ち昇る金色の光は、中空に浮かぶ小さな日輪へと吸い込まれていく。
光を吸い込むたびに、日輪はその輝きを増していくように思えた。
その光景がまるで死者の魂を喰らって肥え太る冥府の獣のように見えて、小さく笑った瞬間、
光が消え、闇が落ちた。

否。
そうではない、と綾香はすぐに理解する。
消えたのは、日輪の光ではない。
光を受容する、瞳だ。
爆ぜたのは眼球か、視神経か。
既に痛覚も触覚も失われて久しく、故に損傷の箇所も程度も認識できず、
しかしいずれ日輪は今も視線の先に輝いているのだろう。
単に目が見えなくなっただけだ。

 
―――これが、最期か。

大きく息を吸い込んで、咳き込み、しかし綾香は笑う。
暗闇の中、浮かぶのは幾つもの煌きだった。
それは、たとえば松原葵の、命の向こう側で立ち上がった瞳の奥の、透き通った炎。
それは、柏木初音の漏らした、猛るような息遣いに潜む悦楽の色。
それは、坂神蝉丸の、日輪に照り映える白銀。
それは、柏木千鶴の爪刃の、光と霧とを裂いて奔る、真紅の軌跡だった。

幾つもの煌きが、視界を覆った一面の暗闇に散りばめられて星空のように輝いていた。
それはきっと、坂下好恵が高度二十五メートルの鉄柵を越えた先で目にした光景と、よく似ている。

それは充実。
それは快。

それは、完結だった。

そこに付け加えることはなく。
そこから差し引かれるものもなく。
それは正しく、来栖川綾香の望んだ、終焉だった。


それでいい。
それが、最期なら。
それでいい。



***


 
 
 
 
それでいい―――はずだった。






***

 
 
来栖川綾香の世界から、暗闇が払われていく。
代わりにそれを満たしていたのは、ゆらゆらと揺れる光だった。

「―――」

その目に映るものが、中空に浮かぶ金色の光の坩堝であると気付くまで、僅かに間が空いた。
ぼんやりと光が映るのは、視界の半分、左側。
綾香の身体に残った治癒の力の、その最後の意地がせめて片目だけを癒したものか。
切断された視神経か、割れて砕けた水晶体か角膜か、或いはその全部かが修復されて、
薄ぼんやりとした視界が、綾香に戻っていた。

「―――」

ゆらり、ゆらりと。
光の坩堝は、輝いている。

「―――、」

輝いて、淡い光で辺りを満たし、
来栖川綾香の安息を、侵していく。

「―――あ、」

ゆらり、ゆらりと。
淡く輝く光の中に、音もなく降りてくるものがある。

「ああ……」

金色の光を練り固めて、人の形の鋳型に流し込んだような。
長い髪をさらさらと揺らし、ゆらゆらと、金色の羽衣を纏ったように輪郭を揺らしながら、
何かを抱き寄せるように大きく手を広げた、それは。

「姉、さん……」

来栖川芹香と呼ばれていた女の、形をしていた。


***

 
「来るな……」

じり、と。
後ずさろうとした綾香の背を、岩壁が阻む。
見上げれば、そこには光。
来栖川芹香が、手を伸ばしている。

誘うように、導くように。
ゆらり、ゆらりと。
降りてくる。

「来ないで、姉さん……!」

懇願するように、首を振る。
来栖川芹香は、止まらない。
ただ綾香の記憶にあるのと同じように、ほんの微かな笑みだけを含んで凪いだ表情のまま、降りてくる。

「あんたはもう、関係ない……!」

それは、一点の光明だった。
来栖川綾香の最期を満たす暗闇の、そこに映る星空のような煌きを侵す、ほんの小さな滲み。
しかし光は次第に強くなる。
点のようだった光明はすぐに面へと変じ、面は空間となって、瞬く間にその領土を拡げていく。
代わりに喪われていくのは、闇だった。
目映い光に照らされて、居場所をなくした暗闇が、そこに映る星々が、一つ、また一つと、消えていく。
来栖川芹香の齎す、それは無情な夜明けだった。

「あんたの居場所なんて……どこにもない……!」

夜が明けて、星が消えていく。
煌きが、見えなくなっていく。
松原葵が、霞んでいく。
柏木初音が、坂神蝉丸が、薄れていく。

「これは私の世界なんだ……!」

柏木千鶴が、光に呑まれて消えていく。
日輪の輝きに照らされて、夜の闇は、もう見えない。
坂下好恵の目にした高度二十五メートルの残像が、もう、見えない。

「これは私の戦いなんだ……!」

夜を穢し。
闇を踏み躙って。
来栖川綾香を満たそうと迫るのは、光。


「これは……!」


来栖川芹香の形をした光が手を伸ばし、
拒むようにそれを払った綾香の、砕けた拳が硬く握られ、
光が抱き締めるように綾香を包み、


「これは私の……」


嗚咽を堪えるような言葉と、
咽び泣くような拳とが、


「私だけの物語だ―――」


来栖川芹香を、貫いた。




******


 
 
 
理の外にある護りを穿ち貫く、魔弾の拳が、
光の坩堝を、撃ち砕く。

どこかで、何かの、底が抜けるような、音がして。


光が、溢れた。





******


 
 
 
網膜を灼くような目映い光が、広い岩窟の隅々までを照らしていた。
それはまるで、金色の坩堝を逆さに振って蓄えられていた中身の全部をぶち撒けるような、光の爆発。
その、闇の存在を赦さぬかのような光の中で、来栖川綾香は一つの声を聞いていた。

「―――   、」

ほんの微かな、そよ風にもかき消されてしまうような、か細い声。
来栖川芹香の、紛れもない、それは声だった。

「え……?」

綾香の耳は、確かにその声を捉えていた。
聞き取って、しかしその意味が、すぐには分からず。
聞き返そうとしたときには、来栖川芹香の姿は薄れかかっていた。

「姉さ……、」

思わず引き止めようと伸ばした手をすり抜けるようにゆらりと揺れた芹香が、
胸に空いた穴から、辺りを満たした光に融けて、薄れていく。
やがて、ふつりと。
音もなく消える、その最後の瞬間。
綾香の目に映ったのは、その生涯で一度も見せたことがないような、満足げな笑顔だった。

「は……はは……」

乾いた笑いが、漏れる。
けふりと吐いた咳には、もう混じる血も薄い。
流れ尽くして、癒えもせず。

「何だよ、それ……」

ぐるぐると回るのは、芹香の言葉。
姉のかたちをした光の遺した、最後の言葉。
来栖川芹香の、来栖川綾香に遺した、遺すべき、言葉。

それは、ありがとう、でも。
或いは、さようなら、でもなく。
ただ一言、

―――よくできました―――

と。

「何なんだよ、それ……」

燃え尽きた。
やり遂げた。
何もかもに、満足していた。

「畜生……」

燃え尽きた、筈だった。
やり遂げた、筈だった。
何もかもに、満足していた、筈だった。

「畜生……畜生……」

来栖川芹香の光に満たされて、夜が明けて。
目を閉じても、暗闇はもう、どこにもない。
星空のような煌きは、もう、見えはしない。


―――これが、最期か。


来栖川芹香の望んだ何かに侵されて、
来栖川綾香の望んだ終焉は、訪れない。

大きく息を吸い込んで、咳き込み、

「畜生―――」

光を見上げて呟いた、その瞬間。
来栖川綾香の心臓が、爆ぜた。





【時間:2日目 ***】
【場所:***】

来栖川綾香
 【状態:???】
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