インターセプト2







「……っ、きゃああああ!!!!!!」

上がった甲高い悲鳴は、恐らく広瀬真希のものだろう。
しかしそれも、すぐ銃声によってかき消されてしまう。
誰よりも反応が遅かった相沢祐一は、この騒音で今の異常にやっと気づいた。
はっとなった祐一の嗅覚を、火薬の嫌な臭いが満たしていく。
それは花火を遊んだ直後の様子を彷彿させるが、勿論そんな暢気な現場であるはずがないことはさすがの祐一もすぐに理解できた。

祐一は保健室の中でも奥まった場所である、少し埃臭いベッドに腰掛けている。
ベッドの内側を隠すように立て付けられたカーテンは開いているものの、やはり視界を狭めている感は否めない。
中々に広い保健室、争いは入り口付近で行われているらしく、その様子を祐一が正確に読み取ることはこの場所だと難しそうだった。

「うわっ?!」

身を乗り出そうと腰をあげたタイミングで、祐一は側面から強い打撃を受けた。
祐一を押し出そうとする力は、思いのほか強い。
突き飛ばされたような形で、祐一は受身も取れぬまま座っていたベッドの上から、転がるように落とされる。
肩口から床に放り出された衝撃は祐一の背中にも容赦なく襲い掛かり、その鈍痛は彼の負った腹部の傷にも走り抜けた。
臓腑を鷲掴みされたような圧迫感は想像以上で、祐一はちかちかする視界から逃げるように目を瞑ると静かに激痛と戦おうとする。

自然と伸ばしてしまった患部は傷が開いている様子もなく、恐らく異常はないだろう。
ただじくじくとした違和感だけは拭えず、その気持ち悪さに祐一は吐き気を覚えていた。
思わず身じろぐ祐一の手に、暖かくも柔らかな感触が伝わる。
それが何なのか確かめようともせず、祐一はその熱をまるで焦がれるかのように、ごく自然と強い力で掴んでいた。

「っ!」

ふにゃふにゃと気持ちの良いそれに触れているだけで、祐一の心はどんどんと静まっていく。
思いがけない心地良さ、その感覚に酔うような形で祐一は痛みに歪んでいた瞳をもとろんとさせてしまう。
この正体は、一体何なのだろう。
そっと開いた祐一の目に広がったのは、鮮やかな赤だった。

「こう、さか……?」

見覚えのあるピンクのセーラー服が、今祐一の目の前に存在する。
祐一が掴んでいたのは、そのセーラー服を着用していた人物の二の腕に当たる部位だった。
そこで祐一は、自分を庇うように覆いかぶさっていた人物がいたことにやっと気づく。

「馬鹿、ぼーっとしてたら死ぬわよ!」

祐一を見下ろすような体勢のまま、向坂環が叱咤する。
彼女の表情は厳しかった。
事態の大きさをそこまで認知していない祐一は、その環の様子にまず呆気にとられてしまう。

「それと。腕、力抜いて。痛いから」

四つん這いになっている環は祐一の顔の横に手を置き、そこで自身の体重を支えている。
彼女の二の腕にしっかりと自身の指が食い込んでいたことに気づくと、祐一はそっとその戒めを解いた。

その間も誰かがベッドの向こうで争っているとしか思えない、不穏な物音は断続的に続いている。
人の声もする。あれは誰の声だろうか、祐一は上手く捕らえることができなかった。
音声は、祐一が発せられた言語の意味を噛み砕く前に、光の速度で彼の右耳から左耳へと抜けていってしまう。
勿論それは錯覚だ。
しかし実際、祐一の処理能力が追いついていないのが現状である。

祐一の頭には、まだ様々な混乱が渦巻いたままであった。
読めない現在の状況、それに加え先ほど環から聞いた現実に対するショック。
藤林杏が、神尾美鈴が。柊勝平が。
感覚的にはさっきまで同じ時を過ごしていたはずの仲間に、何があったのか。
祐一にはそれが、全く分からない。分かることができていない。

二手に別れることになり、杏と勝平に手を振り一端離れたこと。
腹部をカッターナイフで刺され、ボロボロになった少女に観鈴を連れ去られてしまったこと。
薄れる意識の中、再会した勝平と話したこと。

結果を知ってしまったから故の、後悔。
精神を侵す闇は祐一の気力を削ぎ、彼の思考回路を鈍くさせていた。

「ちょっと。相沢君!」

環がまた叫ぶけれど、祐一の視線は虚ろなままだ。
環の声が正しく伝わっているのか、それすらも怪しいものがある。
苛立たしげに小さく舌を打つと、環は姿勢を崩しながらも祐一の右肩を掴み、再び声を荒げ力強い言葉を放つ。

「しっかりしなさい! 藤林さん達の二の舞を起こしたいの?!」
「?!!」

ビクンと。
大きく体を震わせた祐一が、ゆっくりとした動作で環に恐る恐ると視線を合わせる。
祐一の揺れる瞳を射抜くよう、環はしっかりと彼を睨み付けていた。
ただでさえ鋭い目の環には、拍車がかかった迫力がかかっていただろう。
そうして環の意志はしっかりとした主張となり、祐一の脳髄を駆け抜けていく。
彼の混乱も、じわじわと収まっていた。
自分が取り乱していたことをここに来てやっと自覚した祐一は、自分が作ったロスタイムを一人恥じる。

「悪い……俺、こんな時に……」
「御託はいいわ。まずは、ここを切り抜けるわよ」

先に体を起こした環に手を差し出され、祐一も慌てて起き上がる。
と同時、横になっていた体勢では全く確認できなかった光景が、祐一の視界に広がった。
唖然となる。
至近距離で行われていた争いは、祐一の予測を裏切る勢いがあった。



     ※   ※   ※


「……っ、きゃああああ!!!!!!」

続けざまに放たれた銃弾は、扉に最も近かった真希達二人を狙っていた。

「真希さん!」

真希の隣に寄り添っていた遠野美凪が、抱きつくような形で真希にタックルをかける。
二人して床に倒れ、そのまま扉とは逆方向へと転がっていく様を一ノ瀬ことみは冷静に見ていた。

「そのまま窓から逃げろ!」

二人に向かって霧島聖が叫ぶと同時に、乱入者である一人の少年が保健室の中に躍り出る。
その手に握られた黒光りする凶器は、保健室を照らしている蛍光灯の光を反射しながら、恐ろしい程の存在感を主張していた。
窓を開け逃走を図ろうとする真希と美凪を狙おうとする少年だが、ふと何かに気づいたように視線を逸らすと、そのまま視点を固定する。

「やあ。さっきは世話になったね」
「……」
「どうやら、僕の弾は誰にも当たらなかったみたいらしい。勿体無い、無駄弾を使っちゃったよ」

彼の目線の先には、相変わらずぽーっとはしているものの、しっかりと自身への支給品である十徳ナイフを握ったことみの姿がある。
にこにこと笑みを絶やさない少年の表情は、躊躇なく引き金を引くことができる彼の性分とはどこか遠い印象を受けるものがあった。
少年の静かな残虐性に、ことみが困ったように眉を寄せる。

一方、聖は少年の放ったその言葉で、彼が先程ことみが話していた怪しい相手だと察知する。
ことみの勘は当たったということだ。
一見人のよさそうな容姿をしているにも関わらず、こんなにも大胆なことを仕出かす少年の度胸に、聖は部の悪さを実感するしかなかった。
そもそも飛び道具を所持している以上、少年の方が優勢なことに変わりないのだ。

ちらりと。
目だけを動かし、聖はこっそり外に続く窓の様子を確認した。
どうやら真希と美凪は、無事に脱出を果たしたらしい。
血の跡なども見当たらなかったため、多分二人は大きな怪我を負ってないはずだ。
もし少年がこうしてことみに気づかなかったならば、彼は逃げようとする真希と美凪を集中的に狙っただろう。
その場合彼女達二人が大事に至らない可能性というのも、限りなく低くなってしまう。

照準をことみに固定させたままであるとはいえ、少年が発砲する気配がないということは、聖達にとっても幸いなことだった。
今在るこのロスタイムは、聖に与えられた反撃に出るチャンスである。
視線を戻し少年の様子を窺うとする聖の瞳には、まるで捜し求めていた獲物見つけられたと言ったような溢れる歓喜が眩しく映っている。
聖はそれに、おぞましさが隠せなかった。

やろうと思えば、今この場で彼はことみの命を奪えるはずである。
しかし少年は、そうしない。
ことみの動きを封じ、楽しそうに笑っている。
そこには一種の、弄ぼうとするような色すら垣間見えるようだった。

これは、少年からの完全な宣戦布告なのかもしれない。
少年の心に火をつけたのはことみだけれども、当の本人はその事実など知る由もないだろう。
聖もだ。
ただ、聖だって黙ってこのまま狩られる気はない。毛頭ない。
だから彼女は、少年にとって蚊帳の外であろう立ち位置にいるにも関わらず、ずけずけと彼の敷居を跨いで行こうとする。

「君か。ことみ君がパソコンルームで会った少年というのは」

一つ大きく深呼吸をし、、そう言って聖は少年とことみの間にゆっくりと割って入って行った。

「そういうあなたは、その前に彼女と一緒にいた人だよね」
「……見ていたのか」

まぁね、と鼻で笑う少年に対し、聖の脳裏を虫唾が素早く走り抜けていく。

「目的は何だ。私達の殲滅か?」
「勿論それもあるよ。でも僕は、彼女に興味があるんだ」
「……?」

聖の後ろ、少年に指を差されたことみが軽く首を傾げる。
彼の様子を見ていれば、ことみのことを気にかけているというのは一目瞭然だろう。
それでも自覚が生まれていないのか、ことみの様子は相変わらずであった。

「ひらがなみっつでことみちゃん、だっけ。彼女みたいなタイプ、ここに来て初めて見たからびっくりしたよ」
「何が言いたい」
「こうして僕が乗り込んできても、飄々として悲鳴も上げないし。どこにでもいる、ただの学生だと思ったら大間違いだったみたい」
「……」

関心するように言葉を紡ぐ少年は、やはり笑顔を湛えたままである。
敵意を剥き出しにし、視線で刺し殺そうとする聖のそれをいなしながら、ぽつりと少年は呟いた。

「でもね、思い出したんだ。君、ブラックリストに載ってるよ」
「何?」
「?」

ブラックリスト。
分かりやすい単語ではあるものの、しかしこの場では何を指しての言葉なのか、聖にもことみにも伝わっていない。
醸し出されている微妙な空気を理解しているのかしていないのか、少年はそれを無視したまま解答を口にした。

「下手な動きしたら、殺されるかもねってこと。それこそ、首輪でも何でも使われて」

少年のストレートな言葉に、場が凍る。
絶句。リアクションを取ることもできなければ答えを返すこともできず、聖はぽかんと口を開けた。
さすがのことみもぱちくりと数回の瞬きを繰り返し、その驚きをそこはかとなく表面に出している。

「ほんとはこういうの、言っちゃいけないんだろうけどさ。惜しいんだよ、君が」

さすがに後で怒られるだろうけどね。
嘲笑を交える少年の言い回しは、至って軽い。
何気ないその様子こそが不自然であるにも関わらず、さも当然といった少年の態度の不気味さに聖は辟易した。

「悪いが……私もことみ君も、君の言ったことが理解できていないのだが。説明してもらおうか」
「時間の無駄じゃない? 説明しても、分からないよ。きっと」
「ことみ君を狙っているのは誰だ、答えろ! ……貴様、何者だ。ただの参加者でじゃないな」
「君に伝える義理はないかな」

生まれた隙を帳消し、再び攻撃的な姿勢を取った聖の声色には、さらなる警戒が含まれている。
しかしそんな怒気を孕んだ聖の声にも、少年は余裕を崩そうとしない。
いや、彼はここに来ても聖をまず見ていなかった。
目の前を聖を透過させじっとことみだけを見つめている少年の作った空間に、聖が漬け込む余地はない。

「ことみちゃん。君、何か神的な凄い力を持ってるんだってね。見てみたいな」
「……?」
「藤林椋って、分かる? 君とその子を絶対引き合わせるなって指令が降りてるんだよ」
「椋ちゃん?」
「見てみたいなぁ、僕は話でしか聞いていないから。そして」

一つ。少年が、息を吐く。
仕草で影になった面に再び光が当たった時、そこにはぞくっとするぐらいの禍々しさが存在していた。
びりりと震える大気の螺旋が、聖の背中に突き刺さる。
悪意ではない。ではそれが何なのか。
聖が認識する前に、少年が言葉を紡ごうとする。
口を開こうとする。
そこに良い予感というものを、聖は一切感じなかった。
だから、その前に。

「本気で、君を潰してみたくなったんだ。ことみちゃん」

少年の唇が再度開かれ、その台詞が言い終わる前に。
聖は世界から、姿を消した。





瞬間凪いだ風の流れに沿うように、長い聖の髪が這っていく。
それは彼女が残した、確かな軌跡だ。
ベアクローが装着された自身の右手に勢いを乗せ、聖は少年に向けてその拳を振り下ろす。
狙うは、少年の顔面だった。

「おっと」

鋭い爪は、少年の取った最低限の動きでかわされた。
鼻先すらも掠らない。
揺れる柳を髣髴させる、軽やかさが垣間見える小さなステップを踏む少年の目は、そこでやっとことみから離れることになる。
ことみに向けられたいた銃口も、ずれる。
聖からすれば、それだけで充分だった。

続けざまに突きを放ち、聖はさらに少年とことみの距離を開けようとした。
聖の攻撃に迷いはなく、彼女の爪は明らかに少年の急所を狙っている。
手加減なんてできない。
手加減をしたら、どうなるか分からない。
本気で、相手を傷つけるぐらいの勢いでいかないと、こちらがどうなるかたまったものではない。
聖の持つ最上級の警戒は、しっかりと彼女の行動に反映されていた。

しかしそんな聖の猛攻にも、少年が動じる気配はない。
先程とは違い素早く後ろに下がった少年の前方を、聖の気迫が通り過ぎた。
連続で繰り出されていた聖の突き、ちょうど彼女の腕が伸びきった瞬間を狙って少年が手套を放つ。
水平に振られた掌は、空気を切り裂きながら聖の顔面……いや。聖の首に、向かっていった。

(ふざけた真似を!)

肩をずらし半身を回すことで、聖も回避を試みる。
聖と同じく一撃で相手を地に静めることも可能であっただろう少年の手套は、よけ損なった聖の右肩に食い込んだ。

「ぐっ……!」

致命傷を外すことができたと言っても、側面からの打撃では体勢が崩れやすい。
そのまま薙ぎ倒れ、マウントを取られてしまったら少年の思う一方になってしまうという不安が、聖の脳をちりちりと焼く。
痺れる半身にふんばりをかけ、聖は腰に体重を乗せるよう意識しながら少年との距離を作ろうとした。
そんな聖の目に、銃を持ち変えようとする少年の様子が入る。

……ここで飛び道具を出されたら、ひとたまりもない。
少年の準備が整うまでの刹那に何かをしなければいけないという焦りが、容赦なく聖を襲った。

「せんせ、伏せて」

そんな暗雲立ち込めかけていた聖の脳裏に、一筋の光が差し込む。
聖にとって、最早聞きなれたと言ってもいいことみの声は、相変わらずゆったりと、ボソボソとしたものだった。
それでも今は、無条件でそれを頼りに思う自分が在ることを聖はじんわりと自覚する。
迷う暇などない。迷う気持ちもない。
ことみの指示に反射的に従った聖は、地へ伏せるよう保健室の床へと自ら転がり落ちていく。
聖が床に辿り着いたのと、彼女の頭上を火がついた小瓶が通り過ぎたのは、ほぼ同時だった。



     ※     ※     ※


「なっ?!」

背後を襲う爆発音に、祐一は反射的に振り返った。
聖達が少年の足を止めている間に保健室を脱出した、祐一を含む四人の少年少女の目に驚愕が宿る。
それは広いトラックが描かれている校庭の先、緑の多い中庭からでもよく見く分かった。
少し距離はあるものの、確かに保健室は轟々と赤い炎を咲かせている。

「そんな、先生達がまだ……っ」

うろたえる真希を支えている美凪も、戸惑いが隠せないらしい。
彼女もいい案を思いつくことがないのだろう。美凪は俯き、しょんぼりと眉を寄せている。
今、保健室で何が起こっているかを彼女等は全く理解していない。
どのような争いが繰り返されているかも、分かっていない。
それに真希も美凪も、丸腰に近い状態だった。
喧嘩慣れしているわけでもない彼女等が、あの場に戻っても囮くらいにしかならないのは明白だ。
それはここにいる参加者の半数以上が当てはまるだろうが、それでも真希や美凪が脆弱であることには変わりない。

「美凪」
「……」

そんな、人と争うのに達したレベルを保持していない二人が、小さな目配せを軽くする。
二人の表情には、同じ意志があった。

「行こう。先生とことみ、フォローしなくちゃ」
「はい……」

怯え、震えるだけのか弱い乙女に成り下がることを認めない決意がそこにはある。
短い間だが馴れ合ったメンバーだ、そんな仲間を放置できる程彼女等は非常ではない。
それに。
彼女等は、まだ殺し合いという大前提の恐ろしさを理解していない。

「何をしようって言うのかしら」

駆け出そうとする二人の前、立ちはだかったのは環だった。
長身の環から見下ろされ、怯んだように真希が一歩下がる。環の目は冷たい。

「あなた達二人が行っても、足を引っ張るだけじゃないの?」
「な、何よその言い方!」
「守る人間が増える分、残った人達が動けなくなるんじゃないかってことよ」

言い返そうとする真希だが、それもある意味難なく想像できる事実故ぐうの音も出なくなってしまう。

「それでも放っておける訳ないでしょっ!」

苦し紛れの真希の台詞を、環は一笑する。
鼻につく環の動作で頭に血が上る感覚に翻弄されかける真希だったが、隣の美凪の大人しさを察知すると自身の鼓動も落ち着かせようと努力した。
激情家で力任せの言葉を吐きやすい真希にとって、いい意味で美凪はストッパーになっている。
その様子は、自己紹介をし合うこともなくこの状況に巻き込まれた環にも、すんなりと伝わっていた。

「残ったあの人達が、何のためにあなた達を先に逃がしたと思ってるの?
 巻き込まないためでしょ。これであなた達に何かあったら、悲しむのはあの人達よ」
「で、でも……っ」
「死ぬわよ」
「え?」
「断言してあげる。戻ったら、あなた達死ぬから」

きっぱりとした物言いの迫力、環のそれに真希が固まる。
死ぬという表現は、あまりにも大げさだ。
少なくとも、真っ先に真希が思ったのはそれである。
多少の怪我なら覚悟の上、それを言葉にするのは真希にとっても容易いはずだろう。
しかし。
何か口にしようとした時、真希の記憶が数時間前の現実を呼び起こす。

―― それは、血に塗れた一人の少年の姿だった。

フラッシュバックしたその光景は、すぐにまた真希の瞼の裏に還って行った。
掠れる真希の喉から、声は生まれない。
あの時浴びたショックが、再び真希の後頭部を殴り倒していく。

その少年、祐一はと言うと、環のすぐ後ろで黙ってこの場を見守っていた。
命に別状はない。
それは医者である聖も口にしていたことだから、確かであろう。
確かである。
それでもあのグロテスクな場面は、真希にとって一種のトラウマとしてこうして残ってしまっている。

「真希さん……」

そっと、隣で静かに佇んでいた美凪が、真希の片手に自分のそれを合わせた。
軽く汗ばんだ真希の左手を、なんの嫌な顔もせず包み込む美凪の仕草はあくまで優しい。

「真希さん」

もう一度、真希の名前を美凪が口にする。
その囁きには、真希を裂く棘というものが存在しない。
抉れてしまった傷の上を、柔らかな羽が撫ぜていくような心地よさを真希が実感した所で、彼女の高鳴っていた鼓動のスピードも平常なものに戻っていた。

「ありがと、美凪」
「いえ」

ふるふると首を振る少女に申し訳なさ気な笑みを浮かべた後、真希は改めて環と目を合わせた。
堂々と仁王立つ環は、先程と同じ姿勢のまま真希達に阻みをきかせている。

「あんたの言う通り、確かにあたし等は足手まといね。それは認めるわ」

一つ息を吐き、真希は自虐交じりの事実を口に出した。
腕っ節が強くもなければ、役に立つ武器も所持していないということ。
ことみのように頭が切れるわけでもない、真希も美凪もごくごく普通の女の子だ。
そんな真希に対し環はと言うと、一度ぴくっと眉を揺らしただけで、後は特にリアクションを取っていない。
だんまりのまま、真希が出すであろう言葉の続きを待っているらしい。

「でも、だからと言って先生やことみが見殺しになっちゃうかもっていうこの状態は、耐えられないから。無理、絶対無理」

ぎっと、強くなった真希の睨みが鋭い環の視線と交錯する。
凄む環の迫力はさらに増したものの、それでも真希は引こうとしなかった。
それだけではない。
にやりと口を歪め生意気さを顔の表情全体で表した真希は、環を挑発するようにその言葉を口にした。

「死んでもお断りね」

環の眉がぴくりと震える。
嫌味がたっぷり含まれた挑発には、底意地が決して良くはない真希の性格がよく現れていた。
してやったりとさらに口角を上げる真希、これで先ほどの返しは出来たようなものであろう。

対峙する両者の間、ぴんと張られた緊張の糸が緩む気配は全くない。
どちらも譲る気がないのか視線を逸らそうともしないため、傍にいる美凪や祐一も手が出せなかった。

それがどれくらい続いたのか。
ふっと、表情を取り戻したのは、環の方が早かった。
ため息をつき、ふるふると頭を揺すった環が顔を上げると、そこには呆れたような笑いが浮かんでいる。
それは悪意というものが秘められているようには到底見えない、朗らかなものだった。
環の豹変、真希もそれが不思議だったのだろう。
環の様子を探るよういぶかしげに見やってくる真希に対し、環はその笑みを湛えながら口を開いた。

「お人よし」
「はぁ?」

まるで友達をからかうような、環のその口調。軽さ。
真希の口からはストレートな疑問符が飛び出ていた。

「随分と優しいのねって。そう思っただけよ」
「べ、別にそんなんじゃないわよ! ただ、あたしはことみと先生が……」
「天邪鬼。でも、嫌いじゃないわ」

環の語尾には、先程あった冷徹さはすっかり抜けている。
いきなり向けられた好意の言葉に、さすがの真希も戸惑いが隠せなかった。
どうすればいいのか分からないといった様子で、真希は慌てたように隣の美凪へとアイコンタクトを送る。

「……?」
「ちょっと、首傾げてないで美凪も一緒に考えてよ!」
「考える……?」
「そう! この人が何企んでるのか、一緒に考えるのっ」

わたわたとする真希の姿が余程ツボに入ったのか、環は大きく肩を震わせ声にならない笑いを上げている。
環の一歩後ろで佇む祐一も訳が分からないようで、ひたすらきょろきょろと彼女達のやり取りを見やっていた。

「ふふ……ごめんなさい、からかったとかそういうのではないの。
 ほら、私あなた達のこと知らないから。どういう子なのかなって、気になっちゃって」
「な、何よ。それ」
「まぁ、余計な心配だったみたいだけど」

そう言って髪をかきあげながら真希達二人に背を向けた環の目線が、祐一のそれとぶつかる。
勢いに飲まれ言葉が発せないままである祐一にウインクを一つ投げると、環はそのまま彼の横を通り抜けた。
つかつかと、迷いのない環の足取りが進む先。
そこに赤い教室が待ち構えているのは、周知の事実である。

「向坂、どこに……?」
「ちょっとあんた、待ちなさいよ!」

真っ先に気づいた祐一が、思わず声を張り上げる。
そのすぐ後、はっとなった真希は一直線に環へと駆け寄り、自分より少し高い位置にある彼女の肩に手をかけた。
瞬間響いた、乾いた打撃音。真希の瞳が見開かれる。
力が込められていなかったためか鋭い痛みや腫れ等と言った症状は出ていないものの、環は容赦なく真希の手を叩き落としていた。

「痛かった? ごめんなさいね」

思ってもみなかったのだろう。
余程ショックだったのか、すぐさま入った環の謝罪にも真希はすぐの反応が返せなかった。
軽くじんじんとしている部分に自身のもう片方の手のひらを重ね、困惑で塗り固まった真希が呆然と立ち竦む。
それでも環は、真希を見ようともしない。ひたすら前だけを向いていた。
真希に向かってすかさず駆け出した美凪の足音を気にすることもなく、環はそのままの状態で口を開く。

「さっきのだけど」
「ぇ……?」
「あなた達が死ぬっていうのは、はっきり言って本気のつもり。
 あの二人を助けたいって気持ちは分かるけど、実際に何ができるかを明確な上で行動しない限り……やっぱり、邪魔なのよ」

環の言葉は、真希達の誠意にきっぱりとした否定を突きつけている。
それが侮辱に取れたのだろう、真希の形相が再び険しくなった。
悔しさで思わず握りこぶしを作り指を赤と白に変色させる真希の頭、そこでふと、ピンとひらめいたことがあった。

それならば、戦場である保健室に向かおうとする環には一体何が出来るのか、である。
自分に比べれば確かに体格は良いものの、一介の女学生である環が何故ここまで自分達をこけにするのかが、真希は気になった。
そこが、環への効果的な反論に値するヒビの一種とも、考えられる。

これはしめたと、浮いた疑問をすぐさま聞くために真希が唇を震わせる、しかし。
そこから声は、生まれなかった。
問う前に、真希は結果を目にしてしまっていた。

いつの間にやら真希達を無視する形で歩を再開させていた環は、ごそごそとスカートのポケットに手をつっこんでいたのだ。
そこから彼女が取り出したのは、彼女自身への支給品であった一丁の銃器である。
コルトガバメント。
重い鉄は朝陽に反射し、キラキラと輝きを放っている。
その凶器のリアルさに、真希の視線は釘付けとなった。
軍用の大型自動拳銃の持つ殺傷能力は、真希にとって未知数だろう。

「下がってて。援護には私だけが向かうから」
「そんな……っ」
「勘違いしないで。別にあなた達を守ってあげるとか、そういう訳でもないの。
 ……少しでも関わりがあった人が死ぬなんて、もう真っ平なのよ。私が嫌なの」

一瞬だけ俯かせた瞳に暗い藍色を光らせた環が、独り言のように小さく呟く。
後半、それは真希達に向けられたのか、それとも本当に環にとってはただの独り言だったのか。
真希が問おうとする前に、環はもう走り出していた。

「相沢君をお願い、腐ってもその子怪我人だからね」
「ま、待ちなさいよ!」

環も今度は止まらない。一晩熟睡し休んだ結果、彼女の体調は万全に等しかった。
このように全力疾走しても保健室までの距離くらいだったら息が上がることはないだろうと、環自身自負できる。
恵まれた体調に、恵まれた支給品。
生き残るための知恵も、賢い環には備わっていただろう。

しかし彼女は失った。
大切な仲間を喪った。
妹分に、共に宿を取っていたはずの明るい少女達。
そして。淡い恋心を抱いていた、一人の少年。

誰もが優しい人間だった。
そんな優しい人間達が、たった一夜で掻き消えた。
それも環の知らない時に。環の知らない場所で。
環にはそれが、耐えられなかった。

冷静さを奪う勢いで構成された秘めたる激情、それは彼女の内にびっちりとこびりついてしまっている。
刺激された環の正義感は、どのような状況に陥っているか読めることができない保健室へと一心に向いていた。





そんな、だんだんと遠くなっていく環の背中を、真希は黙って見つめ続ける。
真希は動けなかった。
動くことが出来なかった。ただそれを見送ることしか、出来なかったのだ。

「真希さん……」

美凪が再び、優しく真希の手を自身のもので包みこむ。
ずっと作られていた真希の握りこぶし、痛々くも頑なな固い拘束を美凪は一本ずつ解いていく。
そっと解かれた戒めに、美凪は真希を安心させるようにと彼女の指と自身のを絡め合わせた。
温い人肌に少女特有の柔らかい肉質、本来それは心を穏やかにさせる成分が含まれているはずであろう。

「……じゃない」

真希の口から零れた言葉、気づいた美凪が面を上げる。
真希の表情は、険しい。
噛み締められた彼女の唇には、きっとしっかりとした跡がついてしまうだろう。
真希は震えていた。
全身に力を込め、とめどなく溢れ出てしまう感情に翻弄されてしまっていた。

「結果は一緒じゃない!」

小さくなっていく環の背中を見やりながら、真希が低い叫びを放つ。それはまるで呪詛だった。
結局真希は、守られたのだ。
環の動機というものなど関係なく、結果として真希は戦場から隔離された。

「何よ、何なのよ! あの女、あの女……っ」

美凪の慈愛に気がつかないのか、真希は先ほどまでと同じ調子で手に力を入れてしまっている。
それに気づく様子も、今の真希にはない。

(せんせい、ことみ……っ!)

泣きそうな顔で保健室を睨み付ける真希の横顔を、美凪は心配そうに見つめている。
立てられた真希の爪は彼女の柔肌にきつく食い込んでいったが、美凪は何も言わなかった。
敢えて、何も口にしなかった。




【時間:2日目午前7時50分】
【場所:D−6・鎌石小中学校・一階・保健室】

一ノ瀬ことみ
【持ち物:主催側のデータから得た印付の地図、毒針、吹き矢、高圧電流などを兼ね備えた暗殺用十徳ナイフ、支給品一式(ことみのメモ付き地図入り)、100円ライター、懐中電灯、お米券×1】
【状態:少年と対峙】

霧島聖
【持ち物:ベアークロー、支給品一式、治療用の道具一式、乾パン、カロリーメイト数個】
【状態:少年と対峙】
【状況:少年と対峙・右肩負傷】

少年
【持ち物1:強化プラスチックの大盾(機動隊仕様)、注射器(H173)×19、グロック19(15/15)】
【持ち物2:支給品一式、レーション2つ、・MG3(残り10発)・予備弾丸12発】
【状況:ことみ、聖と対峙・効率良く参加者を皆殺しにする】




【時間:2日目午前7時55分】
【場所:D−6・鎌石小中学校・中庭】

向坂環
【所持品:コルトガバメント(残弾数:20)・支給品一式(食料少し消費)】
【状態:保健室へ戻る】

相沢祐一
【所持品:S&W M19(銃弾数4/6)・支給品一式(食料少し消費)】
【状態:鎌石中学校制服着用(リトルバスターズの男子制服風)、腹部刺し傷あり(治療済み)】
【備考:環を見送る・勝平から繰り返された世界の話を聞いている】

広瀬真希
【持ち物:消防斧、防弾性割烹着&頭巾、スリッパ、水・食料、支給品一式、携帯電話、お米券×2 和の食材セット4/10】
【状況:環を見送る】

遠野美凪
【持ち物:消防署の包丁、防弾性割烹着&頭巾 水・食料、支給品一式(様々な書き込みのある地図入り)、特性バターロール×3 お米券数十枚 玉ねぎハンバーグ】
【状況:環を見送る】
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