ラストダンスは私に







 
振り乱された長い髪が、深紅の霧を切り裂くように弧を描く。
黒髪の薄幕の向こうから襲い来る爪刃を、来栖川綾香が大きく身を反らして躱す。
真横に薙がれた爪の通り過ぎざま、重心は後傾姿勢から更に後ろへ。
入れ替わり、弾けるように跳ね上がったのは綾香の白い左脚である。
顎を縦に射貫く軌道は、しかし僅かに半歩を踏み込んだ柏木千鶴の頬を掠めて宙を舞う。
振り抜かれると同時、綾香の脚からぶつりと響いたのは肥大した筋繊維が遠心力に耐えきれず断裂した音だった。
盛り上がった肉の爆ぜた拍子に皮膚が破れ血の霧を撒き散らす。
頭上から鮮血の霧雨を浴びた千鶴はひうひうと奇妙に擦れた呼吸音を穴の開いた肺腑から漏らしながら追撃。
体勢の流れた勢いをそのままに空中で後転しようとする綾香の軸足を掴むや、力任せに引き抜いて振り回す。
掴み潰された腓骨の砕ける鈍く重い音が千鶴の手の中から聴こえた。
屠殺された獣の肉が叩いて伸ばされるように、片足を掴まれた綾香の体が無造作に振り上げられる。
そのまま無防備に岩盤に向けて振り下ろされるかと見えた寸前、千鶴の右側頭部を直撃したのは
綾香の空いた蹴り足、右の踵である。
こめかみを真横から打ち抜かれた千鶴の手が僅かに緩む間に、綾香の砕けた左脚が拘束を脱した。
中空、浮いた姿勢から千鶴の肩口を足場にして蹴りつけるように後ろへ跳ぶ。
着地の瞬間には、砕けた左の腓骨は既に半ばまで再生を完了している。
代わりに脹脛を構成する腓腹筋が着地の衝撃に耐えかねたように爆ぜて、粘り気のある血を周囲にばら撒いた。

ぐらりとたたらを踏んだ綾香の隙を見逃さず、千鶴が距離を詰める。
刹那の間、数歩分の距離を一足に踏み越えて迫るその速度は先刻までのそれとは比較にならぬほどに鋭く、速い。
綾香が迎撃に放つ左の逆突きを鎖骨に受け、折れ砕ける鈍い残響を残しながらも千鶴の加速は止まらない。
爛と煌く瞳の焔が、夜空に星の流れるように、金色の光の中に軌跡を残す。
視力など、そこにはもう殆ど残ってはいない筈だった。
しかし千鶴の眼は赤黒い涙を流しながらも見開かれ、一直線に綾香を捉えている。
宿る深紅の光に、躊躇の色はない。
ただ身体の内に燃え盛る焔にのみ衝き動かされるかのような、迷いの無さ。
それこそが千鶴の肉体をして限界をとうに越え、或いは生死の境を踏み越えてなお加速を続けさせる原動力であった。
その血の色の瞳には危険に対する防衛本能、被弾に対する恐怖というものが存在しない。
ただ己が目に映る獲物を掴み抉り引き裂く、原初の生を具現化したかのような、闘争の牙。
それだけを研ぎ澄まして、柏木千鶴は死線に臨んでいる。

深紅の軌跡は右下から袈裟懸けを逆さに辿るような爪の切り上げ。
咄嗟に肘を引き半歩を退いたその右腕と肝臓と第十二肋骨から下三本までを輪切りにして抜けた、
致死の斬撃にしかし、裸身の綾香は舌打ち一つ。
噴出す血潮に眼もくれず、左半身の構えから正拳で打つのは体の流れた千鶴の空いた顔面、鼻筋である。
一発、真後ろに弾けるようにのけぞった千鶴の突き出された顎にもう一撃。
三発目を放とうと引いた左の腕が、二の腕から爆ぜて血と肉を撒き散らした。
それでも綾香は流れを止めず、骨に纏わりついた肉の塊のような腕を伸ばす。
突きではない。拳を開いたその手が鷲掴みにしたのは千鶴の長い黒髪である。
ぐずぐずと赤黒い筋が泡立って糸を引く腕が千鶴の頭部を引き寄せ、強引に押し下げる。
同時、寸分の狂いもないタイミングで右膝が跳ね上がっていた。
来栖川綾香必殺の、顔面へ突き刺すような膝。
鼻梁と頬骨と眼窩とを粉砕せんとする鉄槌を一撃、二撃、今度は三撃までを叩き込んで、
四撃目が着弾すると同時に膨れた綾香の大腿筋が破裂した。
瞬間、流れるような打撃のリズムが止まる。
掴んだ髪を放り投げるように突き放すのが、一瞬だけ、遅れた。

爪が薙がれ、
黒髪が流れ、
金色の光の下、幾筋もの真紅が興を競うように舞い散った。
互いに二歩、三歩、たたらを踏んで距離を開けた、その姿は凄惨を極めている。

柏木千鶴の整った顔立ちは今や見る影もない。
鼻筋は折れ曲がって濁った血を垂れ流し、血涙を流す右の目の周りは青黒く腫れ上がり左眼は醜く落ち窪み、
どちらも眼窩の骨が砕けているのが一目瞭然だった。
或いは砕けた欠片が眼球にも刺さっているのかも知れない。
窪んだ左眼はびくりびくりと時折あらぬ方へ痙攣するように視線の向きを変えていた。
前歯は上下とも半ばまでが折れて見当たらず、ぽっかりと虚ろな穴の開いたような口腔からは
掠れた喘鳴だけが響いている。ひ、ひ、と奇妙な音と共に片肺が膨らみ、萎む。
もう片側の肺腑は刻まれた傷から裂け目が拡がって既に機能を止めていた。
震えるように蠢く心臓が送り出す血液が、どれほど残されているものか。
吹き曝しの臓物は既に震えてすらいない。
十の爪と瞳の奥の真紅だけが、辺りを満たす金色に抗うように、澄んでいる。

対峙する来栖川綾香もまた、その裸身を余すところなく血に染めていた。
五体はかろうじてその呈を留めている。
形を留め、しかしそれだけだった。
千切れかけた右腕はずるずると桃色の糸を引き、皮膚という皮膚の剥がれた左腕はぶつぶつと血の色の泡を噴いて止まらず、
爆ぜ飛んだ左の脹脛は肉が剥き出しのまま、右の腿は子供が傷に匙を突き込んで無邪気に掻き混ぜたようにぐずぐずと崩れ、
胴には既に薄皮が張っている右の腹部の代わりとでもいうように、真新しい創傷がざっくりと口を開けている。
腰の左側から切り上げるように腹膜を裂いた、それはたった今、離れ際に千鶴の爪が抉り去ったものであった。
垂れ落ちる鮮血が、なだらかな曲線を描く下腹部と腰とを伝って足元へ流れていく。
それは癒えるよりも速く、傷が増えていくものであったか。
否。先刻までは舐め取るように血を掬っていた、肉の糸の動きが鈍い。
傷の癒える速度は、明らかに落ちていた。
肉の爆ぜる度に撒き散らす真紅の霧に混じって鬼と仙命樹の血の次第に流れ出たものか。
或いは人体の許容量を遥か眼下に見下ろすように過剰投与された薬物の無理が、遂に治癒の限界を超えた結果か。
いずれ、不死の加護を受けたかとすら見えた女の、それは落日の兆候であった。

自身の全身を覆う致命の傷の数々を見下ろして、それでも悠然と笑んだ綾香の、
細めた左眼が、唐突に爆ぜた。
爆ぜて、しかしその速度を緩めながらも回復を始める左眼の、裂けた水晶体から垂れ落ちる血とも体液ともつかぬ
薄紅色の雫を、笑んだ綾香が、べろりと舐めた。

転瞬、距離が詰まる。
仕掛けたのはやはり千鶴。
突撃は極端な前傾、右の爪を内から外へ薙ぐ姿勢。
ガードの気配、或いはその意識自体がない千鶴へ綾香が迎撃に放つのは左の横蹴り。
赤い網目模様の血管が張り巡らされた桃色の腓腹筋が張り詰め、凝固し、打撃を構成する。
タイミングは十全、吸い込まれるように伸びた脚が千鶴の顔面へと直撃する。
残った前歯の根を砕き折って、ざくりと刺さった歯の欠片を足裏に残したまま引き抜かれようとした
綾香の左脚を、真紅の爪が薙いだ。
薄皮も張らぬ肉に直接食い込んだ刃が、ぶちぶちと音を立てて筋繊維を千切っていく。
加えて、もう一撃。
千鶴の空いた左の爪が、綾香の伸ばされた姿も艶かしい、無傷の太腿に突き込まれる。
刺さった爪刃が、ぐじゅりと濡れた音と共に、円を描くように肉を抉った。
白い肌に走る紅の紋様が寸断され、噴き出した鮮血に塗り潰されていく。
脚の一本を縦横に刻まれて声一つ上げぬ綾香の対応は簡潔。
軸足から体幹ごと捻るように重心を移動させれば、遠心力は伸びた左脚を真横へと振る。
真っ赤に染め上げられた血みどろの脚が、刃の刺さったまま強引に移動を開始。
ぶづぶづと、何本かの腱と筋とが断末魔の悲鳴を上げて切り裂かれていくのを完全に無視して、
綾香が体を左へと捻っていく。
塞がらぬままに攀じられた腹の傷からごぼりと粘つく泡の塊が撥ね散った。
肉を裂き骨に食い込んだ刃が引き抜ける刹那、僅かに引きずられるように流れた千鶴の右腕を、
綾香の桃色の薄皮の斑に張った手が、掴む。
べしゃりと濡れた音と共に綾香の左脚が大地に着いたその瞬間、互いのベクトルは共に
左回りで回転する体側に沿った円軌道。
軸は綾香。縁は千鶴。
正しく流れるように、綾香の手に引き寄せられた千鶴の身体が、加速する円の渦に巻き込まれる。
密着は一瞬。
釣り込む腕と体躯を捌く腰、崩れた重心を掬うように払われる足。
三点が連動し、ただの一瞬、回転という運動に破壊的な力を付与する。
変則の、しかし恐るべき威力を内包して放たれた、体落とし。
釣り手の制動は存在しない。千鶴の、剥き出しの肋骨と脊柱とが加速の頂点で岩盤に叩きつけられ、
受身を許されぬまま、鈍い音と共に幾本かが砕けて飛んだ。

仰向けに倒れびくりと震えた千鶴から、しかし見下ろす綾香は引き手を離さない。
間髪入れず、掴んだ腕を捻り上げるように内側へと捩じる。
同時、狙い澄ました打撃が奔った。
千鶴の肩関節と肘関節の回転可動域が、限界に達した瞬間である。
捌いた右足を引き戻しざまの、叩き付けるような綾香の下段蹴りが、
伸びきった千鶴の肘を裏側から正確に撃ち抜いていた。
ぐづゅごぐり、と。
尖った石を擦り合わせたような耳障りな音が、破壊された関節の絶叫だった。
千鶴の右腕が、あり得ぬ方向に、くの字を描いた。
真紅の爪刃を生やした五指が、見えない何かを掻き毟るように痙攣した、その直後。

鈍く重い音が、もう一つ。
咲いたのは真紅の霧の華である。
綾香の左脚が、蹴り足の衝撃を支えきれなかったとでもいうように、爆ぜていた。
肥大した筋繊維が、一瞬だけ奇妙なオブジェのように重なり合い、膨れて、弾ける。
千切れた腱が撥条仕掛けのように縮み、支える筋を失った骨がぐらりと揺らぐ。
肉の糸がふるふると細い手を伸ばし、しかし間に合わない。
軸足の支えを失い、血の霧の中に崩れるように倒れ込んだ綾香が一声、吼えるように息をついて
立ち上がろうとした、それを許さぬ、ものがある。
鬼の手だった。

漆黒の、罅割れた分厚い左の手が、しっかりと綾香の腕を掴んでいた。
掴んだ腕を骨ごと握り潰す怪力が、その胸で抱き止めるように綾香を引き寄せた。
視線の交錯は、ほんの一瞬。
千鶴の濁った紅い瞳が、弓形に細められる。
吐息のかかるような間近、笑むように、千鶴が口の端を上げた。
折れた前歯の残滓と切れて爛れた歯茎の向こう側は奇妙に暗い。
底知れぬ深淵を思わせる笑みが、拡がる。
裂けていく千鶴の口の端の、青黒い唇の中から、赤が、覗いた。
切歯を喪失し、臼歯の多くは砕かれて、しかし、そこにはまだ、残るものがあった。
鋭く、太い、犬歯。
乾きかけた血に汚れ、なお鋭利を以て己を誇示する、肉食の根源。
それが元来、牙と呼ばれていたことを見る者すべてに思い出させる、獣の刃。
がぱりと、笑みの形のまま、顎が開いた。

音と飛沫が、金色の光を真紅に染め上げる。

濡れた音は、牙が綾香の鎖骨の僅か上、きめの細かい肌を刺し、その張力の限界を超えて体内を侵す音。
重い音は、牙が綾香の身体を縦横に走る血管の、その最大の一本を探り当て、千切り、食い破る音。
びちゃびちゃと。
ぐちゃぐちゃと。
地面に広がる血の海に、新たな飛沫が上がった。
綾香の頚動脈から噴き出した鮮血が、千鶴の口腔から溢れて流れ出し、止め処なく垂れ落ちていた。

ひゅうと漏れた悲鳴じみた吐息は、動脈と共に綾香の気管までもが裂かれた証だった。
首筋に食い込んだ牙を引き剥がそうと、綾香の手が宙を掻く。
がり、と。
爪の食い込む柔らかい感触は、千鶴の眼窩に食い込んだものであったか。
見えぬまま、指の掛かるに任せて無理やりに引いた、綾香の左手が、その半ばから、喪失する。
首から離れた千鶴の牙が、その手に喰らいつき、細い骨と薄い腱とを咀嚼していた。

転瞬、鈍い重低音。
骨と肉とを噛んで含んで、鮮血を垂らしながら笑むように歪んだ鬼の貌が、弾かれるように真横へ流れた。
叩きつけられていたのは綾香が固めた右の裏拳、横殴り。
鬼の頬骨と己が中手骨とが同時に粉砕される手応えにも、綾香の拳は止まらない。
拳を止めず、しかし振り抜かず、肥大した筋力に任せて綾香は強引に打撃のベクトルを下へと向けていく。
二の腕が、爆ぜた。
舞う血の霧は激しく、しかしその霧の勢いに押されるように軌道を変えた綾香の拳が、千鶴の頭部を
大地に叩き付けた。
血溜まりが、撥ねる。

仰向けに倒れ伏した千鶴に、綾香がずるりと裸身を引き摺るように圧し掛かる。
同時、拳を、振り下ろす。
一撃。鬼の貌が奇妙に歪んで血を吐いた。
二撃。叩き付けた岩盤の罅割れに、薄紅色の何かが流れ出す。
三撃。拳を振るう綾香の背筋が膨れて弾けた。
四撃。硬い音はもうしない。
五撃。拳は砕けて五指の形を保てず。
六撃。綾香の腹に開いた傷からどろりと粘つく肉の塊が零れ落ちた。
七撃。癒えぬ脚がぐずぐずと融けるように真っ赤な泡を吹き。
八撃。塞がりかけた綾香の左眼が、再び血の霧を咲かせた。
九撃。肩が爆ぜ。
十撃。二の腕が爆ぜ。

千鶴はとうに動かない。
飛び散る血潮すら、既にない。
剥き出しの腹の中に、乾いた赤黒い臓腑が覗いていた。


 ―――最後までやろうよ。


だらだらと、赤い血と薄黄色の体液とを垂れ流す綾香の瞳が、
動かない千鶴の、動かない腹の中の、動かない臓腑を、見つめる。
横隔膜の向こう、肺腑の間に、命の根源が、見えた。

砕けて癒えぬ、震える手が、伸びた。
だらりと力なく絡みつく血管や神経束や筋を引き千切り、
粘つく肉を掻き分けて、
終に辿り着いたその手の中の、
もう動かない心臓は、
それでも生温く。


 ―――その、最後まで。


傲、と吼えて。
引き摺り出した。
 


 
【時間:2日目 ***】
【場所:***】

来栖川綾香
 【状態:仙命樹、ラーニング(エルクゥ、魔弾の射手)、オーバードース】

柏木千鶴
 【状態:死亡】
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