鼠色の瞳の賭博師に捧ぐ







 
*** ―――来栖川綾香・1



ゴングは鳴らない。
レフェリーは止めに入らない。
観客のブーイングも、セコンドからのタオルもない。
それでも。

―――最後まで、やるかい?

綾香は声に出さず、問う。
問いながら、答えなど聞くまでもないと、笑う。
この女に、柏木千鶴に、或いは自分に、来栖川綾香に、否やのあろう筈がない。
これは、そういう闘いだ。
否。自分は、自分たちは、そういう生き物なのだ。
続き続く生の、残りの全部を焼き尽くしたとしても。
振るうべき拳と、追い立てられるような焦燥と、胸を焦がすような高揚が、この身を衝き動かす。
来栖川綾香の、それは決意であり、確信であり、或いは既に遠いどこかへの、訣別でもあった。

―――最後までやろうよ。

その、最後まで。





 
*** ―――柏木千鶴・1



そこには風が、吹いている。


無色透明な風だ。
からからに乾いていて、肌を切るように冷たくて、
そうしてどんなに微かな音も立てない、それは無音の風だ。

無音の風が吹く光景は、それ自体が音を吸い込まれてしまったように静かで、
まるでヘッドホンのジャックが刺さったままのテレビの画面みたいだった。
深夜、うたた寝から眼を覚ましたときの、暗く沈んだ部屋にぼんやりと白く浮かび上がる四角い画面。
その中に映る古い洋画の、牧歌的で鷹揚な人々の歩き回る、無音の世界。
時計の針に目をやっても、闇に沈んで何も見えない。
体を預けた三人がけのソファーの、広く空いた隣に誰がいたのかも、思い出せない。
薄暗く、寂しくて、ほんの少しだけ、懐かしくなるような。
そんな風が、吹いていた。

音のない世界はひどく虚構じみている。
晴れた空の青は書き割りのようで、談笑は脚本の段取りのままに進行する一幕芝居。
作り物。何もかもが安っぽい作り物で、そんなことは分かっていて、それでも。
それでも、そこにあるのは今でも夜毎に夢にみる、どれほどに手を伸ばしてももう届かない、
大切な、本当に大切な、光景だった。

それは柏木の家だった。
夏には暑く、冬には寒い、歩けば軋みの響くような旧い造りの家。
透明な風の吹く、音のない世界の真ん中にあるのは、がらんとした居間だ。
微かに黄ばんだ襖はいつも開け放たれて、続きの部屋と中庭とを吹き抜ける風の通り道になっていた。
背の低い箪笥の上には湯呑みと急須。
がたがたと安定の悪い、小さな丸い卓袱台を囲むように座るいくつかの背中。
―――いくつかの? 
いいや、いいや。
私の目に映る背中は、ずっと昔から、たったひとつだった。
居間の奥まった一角、上座に置かれた座椅子に腰掛ける、大きな背中。
いくら手を伸ばしても届かない、遠い、遠い背中。

ああ、どうして音が、聞こえないのだろう。
あの場所には、ゆっくりと、本当にゆっくりと時間が流れていくあの暖かい居間にはきっと、
小さなラジオから流れるノイズ混じりの掠れた音が満ちているはずだというのに。
それは、あのひとが好きだった音。
テレビは忙しなくて嫌だと笑って、いつもラジオの音楽とニュースばかりを聴いていたあのひとの、
だからそれは、思い出の音だ。
だけど大切な音が、私には聞こえない。
聞こえないから私はいなくて、それで談笑は安っぽく、空は薄っぺらい書き割りで、
そんな作り物の思い出にも、私は届かない。

ぴしり、と。
もどかしさに歯噛みする私の目の前で、世界に罅が入る。
いや、それは傷だった。
風呂上りの肌を爪で引っ掻くような、薄く小さく、鈍い傷。
そんな傷が、何本も、何本も入って音のない世界を汚していく。

だけどそれは、仕方のないことだ。
無音の風に音は融けて、音のないその居間には、だから大切なピースが欠けている。
不完全な構造の光景は、初めから軋みを上げていて。
まるで壊れたデッキに入れたビデオテープが絡まって何度も何度も同じシーンを再生するように、
安っぽい作り物の談笑を、書き割りの空を、私の大切な光景を、がりがりと掻き毟るように傷つけながら、
繰り返しているのだ。

傷が、疾った。
おおらかに口を開けて笑う誰かの影が、首の辺りから千切れるように、傷に引き裂かれた。
それを寂しいと、思う。
だけど涙は流れない。

―――考えるな。

傷が増えていく。
困ったように相槌を打つ小さな影は、細かい傷に覆われて、いつの間にかもう見えない。
それを辛いと、思う。
だけど涙は流れない。

―――考えるな。

傷が、色々なものを塗り潰す。
凍りついたような無表情のまま箸を動かしていた影の、その箸を持つ手が、傷に掻き潰されていく。
それをやるせないと、思う。
だけど涙は、流れない。

―――考えるな。

寂しくて、辛くて、やるせなくて切なくて、だけど涙は流れない。
どうしてだろう、と問うまでもなく。


―――気付くな。認めるな。


答えなんて、初めから分かっていた。


―――理解するな。認識するな。自覚するな。


ああ、私は。
何もかもが塗り潰された世界の中で、たったひとつ。
たったひとつの大きな背中だけが、そこに残っているのなら。
それだけが、色褪せずにいるならば。
他の何が消えたって。


―――気付いてしまえば、


悲しくなんか、ないのだ。


―――もう、


もうどこにもいない、大切なひと。


―――戻れない。


柏木賢治の、思い出だけが、あれば。






 
*** ―――来栖川綾香・2



誰の心にも、棘は刺さっている。
来栖川綾香に刺さるそれは、細く短く、しかし確実にその身を蝕む毒を秘めた、硬い棘だった。
あるとき、それは視線だった。
またあるとき、それは冷笑だった。
あるときはあからさまな蔑みの言葉であり、またあるときは呆れたように首を振る仕草であり、
そしてそれは常に、声だった。

何故戦うと、問う声だ。
その問いは幼い頃から幾度も、幾度も繰り返され、しかし綾香は一度も、その問いに答えたことはなかった。
回答など返すまでもないと、綾香は確信していた。

逆に問い返したかった。
何故そのような、愚かな問いを発し得るのかと。
ただ在るべくして在ろうと志すならば、戦うよりないと。
抗うよりないと、切り開くより他に道などないと、それが何故分からないのかと。

ならば、在るべくして在るとは何だ。
重ねられる問いに、来栖川綾香は、拳を握る。
拳を握って、歩を踏み出す。
それが、返答だった。

ただ一点、ただの一点。
来栖川綾香が来栖川綾香であるためのただ一点。

来栖川綾香はただ来栖川綾香であるのだと、他の何者でもないのだと、
或いは、私は私であり、誰かが誰かであり、他の何者でもないのだと。
何故、誰もが全ての外側に在るのだと気付けずにいるのか、
何故、そうではなくなった自らに目を瞑っていられるのか。

それは詰問であり回答であり、慟哭であり絶叫であり、悲鳴であり希求であり、
そして同時にまた、宣戦でもあった。

自らを彼岸を蠢く死者に非ずと、ただそれを証し立てる術の、その悉くが。
闘争という名で、呼び習わされる。
故に来栖川綾香は拳を握り歩を踏み出し。
故にそれをして、来栖川綾香は―――或いは柏木千鶴は―――己が道を、生と呼ぶ。



「―――こんな、最後か?」



問いは、誰に発したものか。
金色の光の坩堝の下、踏み出した足に力を込めれば、眼下には敵。
剥き出しの臓物を微かに震わせて動かぬ、柏木千鶴がそこにいる。
握った拳を、胸元まで引き寄せた。

「……、」

と。
ほんの僅か、立ち昇る光が、揺らいだ。
それは静かな問いの、此岸と彼岸との境にも、届いたものであろうか。

「……は、」

初めに聞こえたのは、囁くような声。
ぴくりと、千切れた横隔膜が震えるのが見えた。

「はは、あはははは、」

声はやがて、弾けるように拡がる。
ぐらりぐらりと、合挽き肉のように潰れた大腸が揺れていた。

「あはははは、あはははははははははははははははは、」

そして爆ぜるように、哄笑が、響いた。
柏木千鶴が、抉れた腹とひしゃげた骨と崩れた臓腑を捩って、血を吐きながら哄っていた。

「あはははははははははははははははは、あはははははははははは、はははははははははははははは、」
「―――」

見下ろす綾香の瞳には、細波の一つも立たず。
断ち切るように、拳を振り下ろした。






 
*** ―――柏木千鶴・2



肌を刺すような冷たい雨が好きだった。
そんな雨の降る日には一日中、あの背中が書斎の文机に向かっていて、
私はそれをずっと静かに、見ていられた。
それが、私の幸福だった。

愛している。
柏木梓を愛している。
あの家に響く笑い声やどたばたと喧しい足音を、愛している。
それが喪われたことが、こんなにも寂しい。

愛している。
柏木初音を愛している。
あの家の台所から響く包丁の音や風呂桶を磨く音と一緒に聞こえてくる控えめな鼻歌を、愛している。
それが喪われたことが、こんなにも辛い。

愛している。
柏木楓を愛している。
あの家に満ちる笑い声を凍りつかせる一言や食後にいつも駆け込む洗面所から漂う胃液の臭いを、愛している。
それが喪われたことが、こんなにもやるせない。

ああ、今こそ。
欺瞞なく、誇張なく、はっきりと告げよう。
私が護りたかったのは、私の妹ではない。
柏木楓という名の少女でもない。
それは柏木梓という名前でも、柏木初音と呼ばれるものでもなかった。

柏木千鶴がその心から、その身を捧げて護ろうと誓い、殉じたのは―――柏木の家、そのものだ。
血筋ではなく、家族でもなく。
愛おしく夢想する柏木の家を構成するすべてを、私は護りたかった。
柏木の家に笑う梓を、柏木の家の台所に立つ初音を、柏木の家の洗面所を汚す楓を、私は愛していた。

それは、思い出の入れ物。
化粧台の抽斗の中に仕舞われた小さな飾り箱、その煌く宝石に彩られた箱の中の、一枚の写真だ。
写っているのは輝いていた頃の世界。
心から、笑っていられた頃の。
懐かしい、色褪せない、一枚の写真。
柏木賢治の穏やかな笑顔が写る、それこそが、私がすべてを投げ打って護りたかった、思い出のかたちだった。

梓も。楓も。初音も。
その写真を形作る、大切な、大切な、歯車だったのに。
今、私の目の前で、その最後の欠片が光になって、




『―――こんな、最後か?』




声が、聴こえた。




 
それは、水面に落ちたひと滴。
微かな波紋はやがて漣となり、漣はうねりを呼び、うねりは波濤となって、私の中の、一番奥に打ち寄せた。
押し寄せては引き、引いてはまた押し寄せる奔流が、ずっと底の方に沈んでいた何かを呼び覚ましていく。
それは、鋭く、細く、手を触れることもできないほどに熱く灼けた何か。
止まりかけた心臓と、痙攣するだけの肺と、弛緩した筋肉の全部をいっぺんに叩き起こすような、
それは紅く、紅く、激流を染め上げてなお紅い、名前のない感情だった。
感情が、目を覚ます。
感情が、立ち上がる。
感情が、拳を握って。
感情が、口を開いた。

感情が、叫ぶ―――赦さない、と。

赦さない。
赦せない。
大切な写真のフレームが、歪んでいくのが、赦せない。
柏木の家を形作る何もかも、私の夢想する大切な何もかもが穢されていくのが赦せない。
私の抱く無上の幻想に、来栖川綾香は土足で踏み込んだ。
ただ、それだけだった。
それだけで、十分だった。
柏木の血を、嘲笑うように。
柏木の家を、踏み躙るように。
奪い盗んだに違いない鬼の手を翳す、あの女を。
柏木千鶴は、赦さない。

梓の笑顔が、楓の視線が、初音の微笑が脳裏を過ぎる。
最後にほんの少しだけ、柏木耕一の顔を思い浮かべた。
柏木耕一。あのひとの影。
あのひとがいなくなって、ふわふわとどこかへ飛び去ってしまいそうな私を縛り付ける、あのひとのかたちをした楔。
その死は、辛い。辛く、寂しく、やるせない。
だけどそれはきっと、指で傷口を無理やりに押し広げて血を流すような、そういう類の痛みだ。

かたかたと鳴る歯を、食い縛る。
漏れる吐息にはもう、温度が感じられない。
構わなかった。
生きるも死ぬも、既に問題ではなかった。
復讐でも報復でもなく、赦せないから、殺す。
そうあらねばならない。
私は、来栖川綾香を殺し尽くさねばならない。
台無しにされた、思い出のフレームの代わりに。
それが公正で、正当で、真っ当な―――あるべきこの世のかたちに、他ならない。
そうでなければならないのだ。
柏木千鶴の夜ごとに愛おしく抱き締める、甘やかな思い出を捧げる飾り棚の如き世界は。
そういう風にできていなければ、それはつまり、間違っているということだ。
間違っているのならば―――それは、正されなければならない。
殺し尽くされるべき来栖川綾香が生きているのならば、それは殺し尽くされねばならないのだ。
他の全部は些細なことだ。
他の誰が生きて死のうが、そんなものは些細なことだ。
私の如きが生きて死のうが、そんなものは些細なことだ。
ただ私は、私の大切な思い出が歪められた、そのことだけが赦せない。
それだけが、唯一にして絶対の罪業。
だから私は、ただ一つのことを、それだけを、思う。

お前を赦さない。
故に、死ね。

「―――はは、あはははは、」

口の端から漏れたのは、溢れ出した鮮血か、それとも余分な感情か。
げたげたと、けたけたと、からからと漏れ、響き、私を揺らす。
箍の外れたような、けたたましい笑い声の中、私は胸に抱いた楓の首を引き寄せて、
その青白い唇に、キスをした。





 
*** ―――ふたり



振り下ろされた一撃の先に、柏木千鶴の姿はない。
空しく大地を割った拳をゆっくりと引きながら視線を上げた、来栖川綾香の眼前。

血の色の鬼が、ゆらりと、立ち上がる。
その身を染める深紅は、返り血と己から流れ出したそれとが混じり合って昏く。
漆黒の両腕の先端、爪刃の朱と爛々と燃える焔色の瞳だけが、辺りを満たす金色の光を圧して鮮やかに煌き。

鬼は、哄っていた。
視界の欠けた右の眼と、抉り裂かれた左眼と。
両の目から血涙を流しながら、すすり泣くように姦しく、咆哮の如く密やかに、哄っていた。
その手の中にはもう、柏木楓の首はなかった。
十の爪はそのすべてが薙いだものの命を奪う凶器としての本性を取り戻したように研ぎ澄まされて美しく、
眼前の敵へと振るわれる時を待っている。

抉られた腹は桃色の腹膜と動脈血に濡れた臓腑とが蠢く様を隠そうともせず、
左の腹側筋と腹直筋を千切り取られた脊柱が立位を可能とする筈がなく、
消化器系と循環器系との半分方を喪失して生命活動が維持される道理もなく、
しかし、その何もかもを無視して、鬼は、柏木千鶴は、立っていた。
そう在ることが当然だと、傲岸に言い放つが如く、その両足は地を踏み締めている。

「―――」

視線が、交錯する。
鬼の瞳に燃える焔を、来栖川綾香は、真っ直ぐに見据える。
見据えて、哂った。
愉しそうに、心の底から幸福そうに、牙を剥いて、哂った。

す、と。
綾香の両手の爪が伸びて、交差するようにもう一方の腕へと、添えられる。
左の爪は右腕に、右の爪は左の腕に。
腕を組むような姿勢は一瞬。
真紅の刃が、漆黒の腕に静かに食い込んだかと見えるや。
ぞぶりと、寸分違わぬ間を以て、両の爪が、両の腕を、引き斬った。

濡れた、重い音が足元から響く頃には、傷の断面から先を争うように伸びた桃色の肉糸が、絡み合い、
骨を造って肉を盛り神経を張り巡らせて薄皮を貼り、瞬く間に白い手指の再生を完了していた。
生まれたばかりの長い、しかし拳胼胝だらけの節くれ立った指が、地に落ちた黒い腕を、拾い上げる。
己が切り落とした己の腕を、弄ぶように手に取って、硬く罅割れた黒い皮膚の感触を確かめるように
指の腹でそっと撫で回し、

「これはもう―――」

おもむろに握って、力を込めた。
音はない。
主を喪った漆黒の腕は、ただ花の枯れるが如く、灰のように砕けて散った。

「―――いらないな」

舞い散る灰が、金色の光に照らされてきらきらと輝いている。
きらきらと舞う光の渦の中、小指から一本づつ折り畳まれていく指が、やがて白い拳を形作る。
裸身を這うように伸びた紅の紋様が絡み付いて、固めた拳を彩った。

ゆらりと、金色の光が揺らいだ。
まるでそれが、合図であったかのように。
二人が同時に、地を蹴った。





 
【時間:2日目 ***】
【場所:***】

来栖川綾香
 【状態:仙命樹、ラーニング(エルクゥ、魔弾の射手)、オーバードース】

柏木千鶴
 【状態:エルクゥ】
-


BACK