末期、少女病







 
懐かしい匂いに目を覚ます。
それは、夏の終わりの、隆山の夜の匂いだ。

夕立の上がった後の濡れた土。
川のせせらぎの運ぶ涼風は梢を揺らし、
草いきれは幻燈のように瞬く蛍の舞の中に消え、
一足早い松虫に誘われるように鳴き出した油蝉の聲が暗い森に吸い込まれていく。

浮かぶ月は青く、照らされる夜空は星の掴めそうなほどに近く。
炊かれる線香と送り火の煙がどこまでも棚引いて、
瞼を開ければそこには、
闇に沈んでなお鮮やかな夜の裏山の林が、
木々の向こうに垣間見える、満ちて引く潮騒の騒々しい静謐が、
土の匂いと、緑の匂いと、潮の匂いとが入り混じった、咽返るような命の力強さに満ちた空気が、
懐かしくて、切なくなるほど綺麗なものたちが、あるはずで、

あるはずなのに、

あるはずのものが、

そこに、ない。

 
 
目に映るそれは―――煉獄の情景だった。
芽生える命は、そこにない。心安らぐそよ風も、冷たい川のせせらぎも、
まだ色付かぬ紅葉と楠とに蔦を這わせる葛の葉の深い緑も、何もない。
そこにはただ吹き荒ぶ烈風と、飛沫く血潮と、最早誰のものとも知れぬ血溜まりに覆われた岩盤と、
そういうものがゆらゆらと揺らめく炎に照らされて、纏わりつくような腥い湿気の中、
闇と朱色の影芝居のようにぼんやりと浮き上がっている。
腐敗と背徳と罪業と、悪徳という悪徳に取り憑かれた者たちが死後に堕ちる冥府。
永劫に続く苦痛と惨劇の街都。
柏木楓の、片方が潰れて白く濁った瞳に映るのは、そういう世界であった。

すう、と息を吸えば鉄錆の味がする。
嫌悪感に引き攣った肺腑が横隔膜と腹筋とを巻き込んで盛大に抗議の声を上げた。
身を捩った拍子に傷口から漏れ出した血がぐじゅりと音を立てる。
既に痛みはない。それが良いことなのか、そうでないのか、判断はつかなかった。
代わりに滲んだ涙が、視界をぼやけさせる。
ぼやけた視界の中で朱色の光景が滅茶苦茶に捏ね回されて、潰れて消えた。
もう一度、息を吸う。

ぎり、と。
眼前の煉獄と、全身の苦痛とを噛み砕くように、歯を食い縛る。
目を閉じれば、瞼の裏側に朱色はない。
小さな闇の中、そこには懐かしい、濡れた土の匂いがある。
懐かしい満天の星空と、懐かしい蛍の光と、懐かしい潮騒と、
そこにはまだ、隆山の夜がある。
それで、充分だった。

身体は、まだ、動く。



***

 
 
跳んだ綾香の、緋色の霧を纏った身体が、爆ぜるように軌道を変える。
中空、大気を蹴りつけるが如き非常識な重心移動。
否。それは実に、空気抵抗を鋼鉄の壁となす速度を以て繰り出された蹴撃である。
人の肉体を容易く挽き潰す圧力に、綾香の右脚が骨と肉との塊に還元される。
それでも紅の弾丸は止まらない。
潰れた傍から癒えゆく脚を巻き付けるように綾香が身を捻る。
円弧から直線、間合いは数歩、いずれ差は僅か。
しかし弧を描く軌道を待ち構えていた千鶴に、最短距離で迫る綾香は捉えきれない。
超絶的な反応速度を以てすら対応できぬ、意識の間隙を突いた軌道から繰り出されるのは左の踵。
ばつり、と綾香の大腿筋が内側から膨らみ爆ぜて、強引に回転を加速させる。
刹那の間に一回転、二回転、更に半分までを回って、速度と全体重とを遠心力に積算した一撃が、
まともに千鶴の頭上へと落ちた。

「―――ッ……!」

が、と己が口から漏れた呻きの欠片を、千鶴の鼓膜は岩盤に叩きつけられた直後に拾い上げる。
みしり、と。ほんの一瞬前まで立っていた筈の岩盤に入った罅が、音を立てて頬に食い込むのを、
千鶴は感じていた。地面に倒れている、と認識。
無防備な顔面を庇って腕を翳すのと同時、被せるように追撃が来た。
びぢりと堅いものが砕ける嫌な音は、両の側から。
咄嗟にガードを上げた腕の向こう、振り下ろされた脚が荷重に耐えきれず粉砕していく音。
そして千鶴の頭を挟んで反対側、押し付けられた岩盤が、更なる衝撃に罅を拡げ、遂に陥没する音だった。

「―――ッ!」

呼気一閃。
ガードした蹴りを弾くように裏拳で振った千鶴の爪が空を切る。
僅かな間に、綾香は紅の軌跡の外側に飛び退っていた。
勢いを殺さず跳ね起きる。
立ち上がった拍子に、どろりと口元から垂れるものがある。
拭えば、鮮血。
振り払うように睨み付けた、千鶴の視線の先には綾香が哂っている。
ぶくぶくと泡を噴き、桃色の糸を縦横に伸ばして瞬く間に再生していく両の脚を気にした風もなく、
這い蹲るような低い姿勢から見上げるその瞳には、どろどろと濁った溶岩のような色が宿っている。

「生き汚い……!」

吐き棄てるように呟いた、千鶴の声が闇に溶けるよりも早く。
綾香が、加速する。
着いた手と薄皮の貼った脚とが、獣の四肢の如くに地を噛んだ。
膨らみ爆ぜたのは上腕上肢、ほぼ同時。
血霧を棚引かせて、地をのたくるように綾香が疾走する。
千鶴の膝丈ほどの極端に低い前傾体勢。
迎撃の爪は機能しない。
故に蹴り上げるか、踏み下ろすか、逡巡は一瞬。
蛇の如く迫る綾香に対し千鶴が反射的に選択したのは蹴り上げ。
単純かつ原始的な打撃。しかし鬼の筋力に吹きつける風に混じる砂粒をすら見分ける動体視力と
反射速度とが重なれば、それは致死の一撃へと変化する。
カウンターのタイミングは完璧。
コンマ数秒の狂いもなく綾香の顔面へと吸い込まれていく千鶴の脚が、

「……ッ!?」

綾香の手に、がっちりと掴まれていた。
先を読まれていた、と後悔する間もない。
掴まれた脚が、そのまま脇へと弾かれる。
崩れた重心を支えようとする軸足が、踝の裏側から掬われた。
千鶴の視界が流れる。
映るのは闇。蜀台の焔も届かぬ高い天井。
中空、仰向けの姿勢。
危険、と本能の鳴らす警告に、しかし千鶴の知識と経験とは回答を返せない。
危険。何が。危険。どう。危険。対処が。危険。できない。危険。誰が。誰?
そうだ、敵は、来栖川綾香はどこにいる、と。
ようやくにしてそこまでを思考した刹那、衝撃が来た。

「……ぁ、……ッ!」

か、と。
肺の奥から、呼気を一滴残らず搾り出される感覚。
気圧差に引きずられた舌が喉に詰まって貼り付く嫌悪感と嘔吐感。
一瞬だけ遅れて、突き抜けるような激痛。
真後ろ、背骨と右の肩甲骨の間を縫って叩き込まれた、それは突きか、蹴りか。
それすらも分からず、中空、体を入れ替えることも叶わないまま懸命に身を捩って振り向こうとした
千鶴の耳朶を打つ、低い声があった。

「生き汚い……?」

底冷えするような、暗い声音。
千鶴の視界を占める天井の闇を薄めて溶かしたようなその呟きが、消えると同時。
次の打撃が、来た。

「……っ」

今度は声も、漏らせない。
第二撃が襲ったのは、残された左の肺。
拡散していくのは痛みではなかった。
波のように広がっていく、それは痺れと痙攣。
そして、耐え難い寒気だった。
急激に鈍化していく論理思考の中、千鶴が己が異常を必死に分析する。
両肺への打撃。強制的に排出された酸素の不足。
加えて二つ目の打撃点は心臓に程近かった。
衝撃で生じた一時的な不整脈が、酸素を溶かさない血液を不定期かつ大規模に動脈へと送り出している。
結果、無酸素状態の筋肉が急速に機能を停止させつつある。
それこそが、麻痺と痙攣と悪寒の正体。
解決策はただ一つ。単純な回答、息を吸え。
そして、それが迂闊だった。

「 ――― 」

瞬間、千鶴の意識がホワイトアウトする。
見透かしたような綾香の第三撃は、既にどこへ打ち込まれたものかも分からない。
肌に感じる風の流れからただぼんやりと、自身が相当な勢いで吹き飛ばされているのを認識していた。
息を吸うとき、生物の筋肉は弛緩する。
気管を開けば、打撃は体内に浸透する。
呼吸のリズムを読まれるのは、敵に打撃のタイミングを教えるに等しい。
吐く息は長く、吸う息は短く。
何も知らぬ子供が入門したその日に教えられるような基礎中の基礎すら、柏木千鶴の知識には存在しなかった。
一撃、二撃と肺腑に与えられた打撃こそが布石であると、気付くことができなかった。

「……戦ってんだよ、あたしらはさぁ……!」

来栖川綾香の声は、届かない。


***

 
―――ぐう、と。

顔を上げれば、そこには映る。
吹き荒ぶ一対の風が描く、血の色の輪舞。

愚かしいもの。蔑むべきもの。
この世界に在っては、いけないもの。
そういうものが、柏木楓の目に映る。

握り締めれば、そこに爪。
身体は、動く。


***

 
がつ、と鈍い音が千鶴の鼓膜を揺らす。
どうやら頭から地面に落ちたようで、がりがりと尖った岩が頬を削るのを感じる。
びたりと受身も無しに妙な角度で叩きつけられた左の上腕が嫌な痺れ方をしていた。
まず間違いなく、肩口で折れている。
構わない。砕けているのでなければ、すぐに繋がる。
僅かな間を置いて、視界がゆっくりと回復していく。
周縁部に闇をまとわりつかせた中途半端な視野の中、捉えたのは赤い斑模様の裸身。
倒れ伏した千鶴に対して、姿勢は高い。
左腕を持ち上げようとして指先に鋭い痛み。
ならばと振った右腕が、あらぬ方へと走って空を切った。
抑止にもならぬ一閃を気にした風もない綾香の足が、前蹴り気味に伸びて千鶴の顔面を捉える。
さすがに、防いだ。
正面からの真正直な一撃ならば、『耐えられる』。
みずかと名乗る得体の知れぬ少女から授けられた、それが力の一つだった。
闇雲に振り回した迎撃の爪を避けるように、綾香の裸身が離れる。

腹筋だけで身を起こし、ぜひ、と喘鳴を漏らしながら伝線だらけのストッキングに覆われた膝を立てた、その瞬間。
吸った酸素が、まるで悪意でも持っていたかのように。
肺の内側を目の細かい紙やすりで擦られるような、圧倒的な嫌悪感が、千鶴を襲っていた。
咄嗟に吐き棄てた吐息が、ぬるぬると濡れている。
つんと鼻をつく異臭に、千鶴は初めて己が反吐を漏らしていることに気付いた。
嘔吐感はない。痛むのは肺腑であって、胃でも食道でもない。
それなのにただ胃液がせり上がって口の端から零れている。
異常を異常と認識できぬ、それこそが真に異常であると千鶴が自覚すると同時、ぐにゃりと視野が歪んだ。
まずい、と思ったその瞬間には、再び顔面から岩場に倒れこんでいた。
事ここに至って、千鶴はようやくに理解する。
どの段階で負ったものかは分からない。
分からないが―――柏木千鶴は脳神経系に、極めて深刻な打撃を受けている。
単純な脳震盪であればまだいい。或いはどこか、出血しているかもしれない。
危険だった。いかなエルクゥの驚異的な回復力といえど、脳への直接打撃は致命となり得る。
まして今は交戦中。相手は宿敵、来栖川。
そうだ、来栖川。敵だ、敵が、今、目の前に。
と。
ともすれば散逸しようとする意識を掻き集めて見上げた千鶴の視界を覆ったのは焔と闇と、
それから赤と白の斑模様だった。

「……ッ!?」

咄嗟にぐらぐらと揺れる頭を引いた、その眼前に足が落とされる。
転瞬、叩きつけられた綾香の膨らんだ腓骨筋が爆ぜ、真っ赤な鮮血の霧と衝撃で砕いた岩盤の礫とをばら撒いた。
文字通りの間一髪、数センチの距離を駆け抜けた致死の一撃に、千鶴が息を呑みながら跳び退ろうとする。
が、上体に力が入らない。どうにか身体を起こそうとして、そこまでだった。
ただ締まらない口元からぼたりと反吐の残りが垂れ落ちた。
唇から顎に糸を引く反吐が、ふと微かな風に吹かれて、その奇妙な冷たさに下腹の奥でぞわりと悪寒が走る。
右腕一本で地面を掻くように後ずさった、その一瞬後には綾香の薙ぐような蹴りが奔っていた。
咄嗟に顔を引く。壊れた撥条仕掛けの玩具のような、無様な回避。
鼻先を掠めていく一閃に、千鶴が戦慄する。
ほんの僅かの差で直撃していたであろう、恐るべき威力にではない。

―――見えなかった。

その一点である。
それだけがただ、柏木千鶴をして戦慄せしめている。
今の一閃。右方向からこちらの顔面を狙った左の蹴り。
何の変哲もない、工夫も小細工もない、ただ驚異的な速度と威力をもって放たれただけの、蹴りだっただろう。
それが、見えなかった。
目にも止まらぬ速さ、認識を超えた速度、そういう位相の話ではなかった。
ただ。ただ単に、来栖川綾香の蹴り足は、千鶴の視野の右側に拡がる闇から、唐突に現れたのだ。
子供だましの怪談映画の、黒一色の画面から手招きする白い腕のように、それは闇の中から突然に姿を現した。
それが来栖川綾香の獲得した何らかの異能であるかと、脳裏を過ぎりもした。
しかし今、狂ったようなリズムを刻む心臓の鼓動に追い立てられるように僅か右を向き、左を向いて、
その焔と血みどろの岩盤とゆらゆらと照らされる闇と、今まさに次の一撃を放とうと体を捻る斑模様の裸身と、
そういうもので構成される世界の隅にべったりと墨汁を溢したような闇がついてくるとなれば。
意味するところは一つ―――そこには最初から、闇などない。
己が右の視野が、ひどく欠けているのだと、柏木千鶴は、ようやくにして認める。

―――何たる無様。
服は乱れて引き千切れ、折れた片腕はまだ繋がらず、ぐらぐらと定まらぬ平衡感覚のまま反吐を垂れ流し。
挙句、瞳に世界を映すことすらままならぬ。
病持ちの河原乞食の、橋の下からぼんやりと立ち昇る陽炎を眺めるような、哀れで醜い間抜け面。
傍から見ればきっとそんな風に、締まりのない顔つきを晒しているのだろう。
く、と。内心の自嘲が漏れたか、千鶴の口の端が上がる。
思い通りに動かぬ身体が、こんな時ばかり気持ちに追従する。
その皮肉が、千鶴の意識をどろどろと濁った泥濘へと引きずり込んでいく。
心中、身を焦がすほどに燃えていたはずの黒い炎が、音もなく降りしきる嫌な臭いのする雨に消えていく。
ぶすぶすと上がった煙すらもが、灰色に澱んだ空に溶けていこうとしていた。

何をしようとしていたのか。
何を憤り、何を嘆き、何を叫んでいたものか。
ほんの今し方まで、永劫に忘れ得ぬと刻んでいたはずの想いまでもが、靄に隠れてぼやけて消える。

僅かな躓きだった。
柏木千鶴は未だ、敗れてなどいなかった。
何一つとして、失いすらしていなかった。
ただ一方的な蹂躙に終わるはずの、戦いとも呼べぬものになるはずだった戦いに、
これほどの無様を晒したそのことに、安い気勢を削がれたに過ぎなかった。
ただそれだけのことで、無為無策のままあらゆるものを手放そうとしていた柏木千鶴が、
迫り来る赤と白の斑模様の裸身の中の、染みのように滲んだ『それ』に気付いたのは、
だから、偶然である。


***

 
一撃、左の掌底。
二撃、右掌底。
決め手になったのは三撃目、腕を折り畳みながら放った延髄への肘だろうか。

茫洋として定まらぬ視線、緩慢な動作。
ぐったりと倒れた柏木千鶴の意識は完全に飛んでいると、綾香の経験は告げる。
リングの上であればゴングも鳴るだろう。
しかし、と綾香は更なる一歩を踏み込みながら思う。
しかしこれは、命のやり取りにまで辿り着く戦いだ。
そうでなければ、終わらない。終われない。

ぼんやりとこちらを見上げる赤い瞳に向けて、足を振り下ろす。
鼻筋から眼窩にかけて、頭蓋の薄い部位を踏み砕かんとする打撃。
微かな躊躇もなく、しかし同時にその瞬間、綾香には悪意や敵意、殺意すらもない。
ただ純粋に、息をするように敵の命を断たんと望む一撃は、僅かな差で回避される。
作用反作用の法則に従って、叩き付けた右脚と叩き付けられた岩盤が等しく砕け、飛び散った。
綾香が瞬間的に筋肉を肥大させて放つ一撃は、既に人体の耐久限界を大きく超過している。
着弾の度、運動エネルギーを殺しきれず破壊される手足を刹那の間に癒しながら、綾香は闘争に臨んでいた。
心拍数は毎分数百を遥かに超え、大小の血管は全身で弾けては繋がり、奇妙に捩じくれて綾香を構成している。
それが危うい綱渡りどころか、細い絹糸の上を足を踏み鳴らしながら駆け抜けるが如き蛮行であると、
その程度は理解していた。理解し、極端な危険性を認識してなお、綾香はそれを取るに足りぬと一蹴する。
眼前に闘争があり、倒すべき敵が存在し。
ならば来栖川綾香の生きるとは、糸の切れるを恐れることでは、断じてない。
切らば切れよと哂いながら、綾香が桃色の肉を剥き出した右脚を大地に突き立てて軸足とする。
放つのは左、中段回し蹴り。
おそらくは無意識に近い状態で半端に身を起こした、柏木千鶴の顔面を真横から刈る軌道。
視野正面に近い占位からの一撃。
相手の意識が霞んでいるとはいえ、半ば以上は『防護』されることを前提に放った布石の蹴りである。
無数の派生をシミュレートしながら放たれたその蹴りは、しかし意外な展開をみせた。
柏木千鶴が『防護』を選ばなかったのだ。
まるで直撃の寸前になって初めて蹴りの軌道に気付いたとでもいうような、奇妙な回避。
超反応に任せた見切り、という類の動作ではなかった。
ひどく余裕のない、焦燥感に満ちた躱し方。
何となれば、回避したはずの柏木千鶴の表情にも明白な驚愕が浮かんでいる。

となれば、と。
綾香の膨大な経験と知識とが、千鶴の反応から瞬時に状況を推測し、仮説を構築する。
薬物の浸透した脳細胞は触れれば焼けるほどに熱く、しかし同時に冷厳とすら呼べる沈着を保って
高揚した精神の手綱を制御する。限界まで充血し撓んだ筋肉がこれ以上は堪えきれぬと爆ぜ飛ぶ寸前。
仮説は傍証を得て有力な推論へと昇華し、ぶすぶすと焦げては繋がる神経系統が無数のバイパスを経て
綾香の全身に次に採るべき一手を伝達する。
転瞬、軛から解き放たれた肉体と精神とが狂喜に近い猛りと共に行動を開始。
一歩を踏み出せばそこは既に間合いの内。
牽制に放つ膝は座り込んだままの千鶴に躱され、気にせず更に踏み込んで伸ばすのは左の手。
無造作とも見えるその手が、しかし至極あっさりと千鶴の、血と埃とで汚れた頬へと届いた。
案の定、と綾香が哂う。やはり柏木千鶴は、右の目に何らかの障害を負っている。
出血や打撲や骨折、様々な理由で片側の視界を喪失した者たちの挙動は、それこそ幾十幾百を見てきたのが
来栖川綾香であった。感触に気付いた千鶴が慌てたように爪を振るう頃にはもう遅い。
真っ赤な紅を引いた唇から垂れる反吐を拭い取るように滑らせた綾香の手が、視界を覆い隠すように
千鶴の顔を鷲掴みにすると同時。奇妙に唸るような声を漏らして、綾香の肉体が歪む。
露わな胸元から両の肩、二の腕までが順番に膨れ、爆ぜ、鉄錆の臭いのする霧を撒き散らし、
しかし莫大な負荷と力とが集積されていく肘から先は膨れ上がることなく静謐を保っている。
否。びくり、と最初に震えたのは、手指でも筋繊維でもない、紅の紋様であった。
燃え上がる焔か、或いはちろちろと伸びる大蛇の舌先を連想させる綾香の腕に浮き出した紋様が、
まるで本当に独立した命を得たように震え、幾重にも枝分かれしたその身を互いに絡ませていく。
と、まぐわうように重なり合う紋様の中心、綾香の白い腕の内側に、ぽつりと染みが生まれた。
色は漆黒。最初は小さな黒子のようだったその染みが、瞬く間に拡がっていく。
紋様の紅を駆逐し、肌の白を蹂躙し、拡散し肥大する黒が、綾香の腕を包み込み、変生させる。
一瞬の後、そこにあったのは綾香の、優美とすら映る筋肉と薄い脂肪層とに覆われた腕ではない。
石炭とコールタールとを練り合わせて乱雑に塗り重ねたような、罅の入った醜くも太い豪腕である。
柏木千鶴の両腕と委細違わぬ、鬼と称されるものの、それは腕だった。


***

 
両の腕を漆黒と変じさせ、爛々と輝く瞳には血の色の深紅を湛え。
弓形に吊り上げた口腔からは折れた笛のような吐息を漏らして、来栖川綾香が拳を振り上げる。
みぢり、と。鬼と化した綾香の手に掴まれた千鶴の頭部が、嫌な音を立てて軋んだ。
座り込む千鶴を無理やりに引き起こすように顔面を鷲掴みにしたそれは、いまや千鶴の両目を完全に覆い隠している。
千鶴の異能が目に映り認識した打撃を『防護』するならば、視野そのものを潰せばいいとでもいうような、
ひどく暴論じみた、或いはどこか冒涜めいた光景。
固定した頭部を粉砕せんと、弓を引き絞るように構えられた綾香の漆黒の右腕が、解き放たれる。
一直線。流星の夜空に煌くように奔った拳が、

「―――」

がり、とじゃり、の間、削岩機が固い岩盤を噛むような音と共に、三叉に分かれていた。
食い込んでいたのは、深紅の刃。
噴き出す鮮血よりも先、紅く鋭い破片が飛び散って地面に落ちる。
真っ直ぐに伸びた綾香の右正拳をその手の甲の半ばまで切り裂いていたのは、柏木千鶴の爪刃である。
ざっくりと食い込んだ刃は、五指の内で三本までを折り砕かれながらも、確かに綾香の拳を止めていた。
刹那、静止した綾香の右腕を横合いから薙ぐ風がある。
千鶴の空いた右爪。
血風が、漆黒の腕に激突する。
至近、体重は乗らず体幹の回転もなく、しかし手打ちで叩きつけるような横薙ぎの一撃は、
ただ鬼の怪力を以て無双の破壊力を備えるに至る。
ぶづりぶぢりと嫌な音が響いた。
綾香の右腕、黒く硬化した皮膚に護られた神経組織と筋繊維が引き千切られていく音。
鎧の如き肌を切り裂いた深紅の刃は骨を食み、ようやく勢いを止める。
僅かに遅れて、思い出したように血が流れ出し、ぼたぼたと垂れ落ちた。

完膚なきまでに破壊された右腕にちらりと目をやった綾香の判断は一瞬。
千鶴の爪が縦横に食い込んだままの腕を、強引に引き戻す。
ぞぶりと拡がった傷から流れようとする血を、しかし傷口の断面からずぶずぶと伸びた桃色の糸が
瞬く間に舌を伸ばして嘗め取っていく。
抉られた肉が、削られた骨の欠片が、掬い取りきれない血に混じって落ちるのも綾香は意に介さない。
弓形に歪められた口の端が、牙を剥くように吊りあがっていく。
苦痛でも、憤怒でもない、それは混じり気のない悦楽の表情。
暴力の臭いに染まった笑みを浮かべた綾香の、いまだ千鶴の顔を押さえたままの左腕が、ぎしりと音を立てた。
無理やりに引き抜かれた爪からばたばたと返り血を落としながら振るわれる千鶴の一閃を、
間一髪のバックステップで躱すその刹那。
開く距離に、綾香が千鶴の顔から手を離そうとする、その瞬間。
哂う綾香の、漆黒の手から、深紅の爪が伸びた。
鋭く尖った、獲物を突き刺し引き裂くためだけに特化した刃が抉るのは、ただ一点。
頬骨を掠め、鼻梁を辿り、伸びる先には―――眼球。
がり、と。
怖気の立つような音を錯覚させる、一瞬。
針の如く尖った綾香の人差し指の爪の先が、見開かれた千鶴の、深紅に染まった左の瞳の、
角膜の数ミリを、削った。
ぷつりと、深紅の瞳孔の上に、鮮血の紅の珠が、浮かんだ。
彼我の距離が、離れる。

「―――」

悲鳴は、上がらない。
声なき声にのたうつでも、なかった。
咄嗟に左眼を押さえたその姿勢のまま、柏木千鶴は、微動だにしない。
庇うように翳された、その手の隙間から覗く右の目が、ただ爛々と光っている。
奇妙なことに、そこに苦痛の色はない。
ほんの僅か前までその瞳に燻っていた、霞のような自嘲も滓のような諦観も、既になかった。
浮かんでいるのは、どこか熱に浮かされたような、忘我とも妄執ともつかぬ、どろどろと粘りつくような色。

「その、腕……」

縋るように見据えるのは、綾香の腕。
漆黒に変生した、鬼の腕。
狩猟者と呼ばれる一族の、血の証。
奇妙に罅割れた、硬く醜く、剛い腕。
鬼と変じた娘、柏木初音のそれを模倣した、腕。
それだけを、見つめて。

「その、腕……!」

ぼたり。
ぼたり、ぼたり、と。
柏木千鶴の瞳から、深紅の雫が垂れ落ちる。

「その―――、腕ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ―――!!」

血涙の、地に落ちるよりも先に爆ぜて散るような。
絶叫に程近い、裂帛の咆哮。


刹那、風が、凪いだ。




***

 
 
 
時の凍りついたような、その刹那。

その瞳には、それが千載一遇の好機と映ったのかも知れない。
或いは実際にそうであったのかも知れなかった。

だが、それの動きは遅すぎた。
弱きに過ぎ、鈍きに過ぎ、蒙きに過ぎ、脆きに過ぎた。
人を凌駕し鬼を超え、生物種としての限界を超越する鬩ぎ合いを演じたその間に割って入るには、
何もかもが足りなすぎた。


それは、目障りな蝿を追い払うような仕草。
一対の鬼がほぼ同時に振るった爪の、ただの一薙ぎだった。

それが、致命傷となった。

柏木楓の腕は、ただのそれだけで十二の輪切りとなり。
柏木楓の胸は、ただのそれだけで肺腑から心臓までを断ち割られ。
柏木楓の命は、ただのそれだけで、絶えた。



ただ、世界は美しくあるべきだと、その生の最期の一瞬に至るまで、
何ら一片の曇りなく信じさせる病の名を、少女という。

柏木楓は、少女であった。



***

 
 
爪の先から伝わってくる鈍い手応えが、細波のように柏木千鶴に打ち寄せ、その身体を揺らす。
軽く、細く、小さな何かを断ち割った。
ほんの微かな、濡れたような感触。

脳髄の芯が痺れるような憤怒が、瘧のような昂奮が、砂の城のように崩れて消える。
わからない。
何が起きたのか、わからない。
わからないが、何か、取り返しのつかない何かが起きたことだけが、わかった。

わかりたくない、だけだった。

ばらばらと。
目の前を何かが落ちていく。
大きな、小さな、或いは丸く、或いは尖った、沢山の何か。

さらりさらりと。
涼やかな音さえ聞こえるような。
美しい黒髪が、流れていく。

ゆっくりと、ゆっくりと落ちていく、短く切り揃えられた絹のような髪の向こうから。
黒い瞳が、覗いていた。
光を映さぬ、瞳だった。

認識が、臓腑の奥底から悲鳴を運んでくるよりも早く。
奔るものが、あった。
千鶴の目に映るそれは、漆黒の拳。
一直線に千鶴を目指して駆ける、その軌道には、黒髪と、虚ろな瞳とがあって。

だから、その一瞬。
妹の首を抱き締めるように庇った、柏木千鶴の心には。
確かにそれを、柏木楓を護ろうという意志が、あったのだろう。

そうして。
撃ち出された、漆黒の拳。
来栖川綾香の放つ、拳には。
庇護の概念を穿ち貫く、魔弾の異能が、宿っていた。


―――意志の悉くが、貫かれる。

 
闇を纏うような拳が、柏木千鶴を穿った。
その無防備な背を易々と貫いた一撃が、肋骨を粉砕し脾臓と膵臓とを抉り横隔膜を引き裂き、
消化器系の左半分を喰らい尽くして桃色の合挽き肉へと変えた後、腹側から抜けた。
そこには、何も残らない。
大型の肉食獣に一息に噛み破られたような、無惨な傷痕から、ばたばたと止め処なく鮮血が流れ落ちる。
既に誰のものかも判らぬ血溜りが、新たな潤いに波立った。
ばたばたと、ばたばたと止め処なく。
柏木千鶴の命が、流れ落ちていく。
それ以上は、立っていることも、叶わなかった。
そこだけは無事でいられた両の腕に小さな首を一つ抱いて、千鶴がゆっくりと、倒れ伏す。

「……かえ、で」

顔を上げることもできないままに呟いた、その眼前。
ふつ、ふつと。
蜀台の焔が、消えていく。
広い、広い岩窟に灯された、何を焚き付けに燃えているかも分からぬ、奇妙な焔が、
一つ、また一つと、消えていく。
それはまるで、絶叫の音色を以て奏でられる、か細い慟哭に吹き消されるように。
闇が、広がる。



***

 
 
否。
最後の焔が消えた後も、岩窟を真の闇が支配することは、なかった。
漆黒に近い闇の中、立ち昇る一筋の光があった。

ゆらゆらと。
今にも途絶えそうに、ゆらゆらと。
煙のように立ち昇るのは、金色に近い、ひどく物悲しい色。

光は、一つではない。
目を凝らせば、闇に沈んだ岩窟のそこかしこに、それはあった。
いつからあったものかは判然としない。
或いは、焔の消える前から、それは立ち昇っていたものかも知れなかった。

光っているのは、指だ。
或いは骨片であり、爪だった。
肉の欠片や、髪束や、皮膚や目玉や腕だったものや脚だったものや腹だったものや、
そういうものの全部が、ほんの微かな光を放っているのだった。

一際強い光は、柏木千鶴の抱く、柏木楓の首から立ち昇っていた。
まるで、命や魂や、そういう名前で呼ばれる何かが、ゆらゆらと漏れ出して、天へと昇るように。

昇る光は中空、遥かな高みに集まっていく。
高みは、光の坩堝だった。
互いに手を取り合うように融けあい、その輝きを増した光が、やがて金色の光珠へと変じていく。
それはさながら、闇を打ち払う小さな日輪。
或いは、天へと続く、光の門のようにも、見えた。

「―――」

金色の光の下、柏木千鶴は動かない。
妹であったものを抱き締めて、ただ緩慢に死を待つように倒れ伏し、
ぼんやりと光の坩堝をその深紅の瞳に映している。


 
 
【時間:2日目 ***】
【場所:***】

来栖川綾香
 【状態:仙命樹、ラーニング(エルクゥ、魔弾の射手)、オーバードース】

柏木千鶴
 【状態:エルクゥ、瀕死】

柏木楓
 【状態:死亡】
-


BACK