Crazy for You







痙攣する気管を抑え込んで、震える肺に酸素を取り込む。
ひ、ひ、と奇妙に高い音が喉から響くのを、柏木楓は自ら流した鮮血の池に頬を擦りつけながら聞く。
口元から流れ込む鉄錆の味が苦い唾液と混ざり合って粘膜を刺激する。
反射的に滲んだ涙の向こう、ぼやけた世界に、浮かぶものがある。

それは、珠だ。
紅く、黒く、小さな、ぶよぶよと僅かに形を歪ませる、小さな球形。
流れ拡がる血が飛沫を上げて撥ねた、そのひと雫が中空に結晶した、泡沫の紅い珠。
ほんの刹那、痛みも苦しさも忘れたようにその結晶珠に見入った、楓の眼前。
風が吹き―――珠が、弾けた。

ひょう、と。
鮮血の珠を二つに断ち割って吹き抜けた烈風が、倒れ伏す楓の前髪を揺らす。
その一瞬、風は実体と質量とを備えた影となり、それで楓はようやく気付く。
風は、影は、人だ。

風と感じるほどに疾く、影と見紛うほどしなやかに体躯を操ってぶつかり合うのは、二人。
ぼんやりと霞む視界と錆が挟まったかの如く回らぬ思考の中、懸命に目を凝らそうとした楓を
思い出したように襲ったのは、地獄の苦痛である。
ぶつりと、片肺に針の刺さるような激痛に楓の呼吸が止まる。
取り込んだ大気に棘でも生えているかのような、身体の芯を貫く惨苦。
まるで逃避は赦さぬと、眼前の死に向かい合えと命じるように響く煉獄の責め苦が、楓の脳髄を空転させる。
視界が狭まる。音が遠くなる。吹く風を感じる肌の感覚が、ひどく鈍くなっていく。
暗い井戸の底に引きずり込まれるような感覚。
冷たい岩肌を掻く指先が、がり、と音を立てて、柏木楓に新たな傷を作った。


***

 
一対の風は吹き荒れる虞風となり、瞬く間に嵐となって周囲のあらゆるものを薙ぎ払う。
じ、と摺り足に近い運びで半歩の更に半分だけ間合いを詰めた来栖川綾香が左構えから繰り出すのは左中段蹴り。
定石通りの肝臓打ちを狙った軌跡は、定石の範疇外から迎撃される。
柏木千鶴の右爪は外側へ無造作に薙ぎ払う動き。
肉を裂き骨を断つ刃を前に、しかし綾香は足を止めない。
濃密な筋肉を湛えた白い腿が、爆ぜるように膝から下の蹴り足を撃ち出す。
速度と質量との積算が即ち力であると証明するように、綾香の一撃が深紅の爪と激突する。
転瞬そこにあったのは、一秒を何倍にも引き伸ばす映写機に映せばぞぶりと音が聞こえてきそうな光景だ。
刃と化した千鶴の爪が触れた途端、綾香の白い肌がぷつりと裂ける。
裂けた皮は捲れ上がり血の珠を浮かべ、続いて顔を覗かせる桃色の肉を祝福するかのように紅く染まる。
ずぶずぶと肉を抉った刃が目指すのは脛骨。
と、人体第二の威容を誇るそれを断ち割らんと往くそれが、がくりと勢いを落とす。
骨を噛んだ刃が、桃色の肉に飲み込まれようとしていた。
肉から伸びるのは細い糸。ぬるぬると滑り、どろどろと粘り、ぶつぶつと泡を噴くそれは
深紅の切っ先を取り込んで癒合しようとでもいうかのように刃爪に絡みつく。
文字通り振り切るように、千鶴の爪に力が込められた。
滑る肉の糸をぶちぶちと千切りながら進む紅の刃が、食い込んだ脛骨の罅を広げていく。
びきりびきりと音を立てる五本の罅は無数の枝分かれを経て互いに近づいていき、終にはその肢を繋いだ。
鋭い欠片を撒き散らして周りの肉を傷つけながら太い骨が折れ砕ける。
勝利を謳歌する刃が、余勢を駆って腓骨を襲う。
抵抗は儚い。腓骨は腓腹筋とヒラメ筋を伴って断ち切られた。
深紅の爪が、血と肉と骨と皮との長い隧道を、抜ける。
脳髄から続く連結を断たれた綾香の左下腿が、重力に従って落ちるか。否。
輪切りにされたその瞬間には、ざらざらと汚らしい傷口のいたるところから肉の糸が伸びている。
糸はぐずぐずと縒り合わさり結びつき、更には噴き出そうとする鮮血を嘗め取るように掬って肉の内側に運んでいく。
ばらばらに断ち切られたはずの足が、瞬く間に繋ぎ合わさって傷を塞ぎ、痕には何も残らない。
繋がった綾香の左足が、勢いを殺さぬまま千鶴の腹を狙う。
舌打ちして千鶴が半歩を下がる。
体を開いた構えの僅かに前を、鋭い蹴りが駆け抜けた。

ここまでが、一瞬。
蹴り足を斬撃で輪切りにしてのける柏木千鶴も異形なら、顔色一つ変えずに断ち切られた足を繋ぎ、
むしろそれを織り込んだかのように蹴り抜いてみせた来栖川綾香も、正しく異形であった。
躱された左中段を戻しながら体を引こうとする綾香に迫る色は深紅。
千鶴の左爪が斜め下、右脇腹から切り上げる形で大気を斬る。
対する綾香は右半身に近い姿勢で軸足も右、回避は困難。
ならば右腕を犠牲にガードを固めるか。否。
綾香が採ったのは更なる攻めの一手であった。
即ち、軸足の右一本で前傾から、全体重と慣性とを飲み込んで加速。
元より詰めるほどの間合いもない。
文字通りの意味で手が届く距離からクロスレンジへ移行。
流れるような動作から叩き込むのは、眉筋ひとつ動かさぬ千鶴の、生き血を煮詰めたような瞳の間。
眉間への、縦方向の肘のかち上げである。
ご、と鈍い音に続く、ぞぶりと濡れた音。
肘打ちは命中。千鶴の眉間、頭蓋を直撃している。
しかし当然、ガードを捨てた綾香の右脇は無防備であった。
迫っていた爪刃の、それを見逃すはずもない。
五つの真っ赤な筋が綾香の白い裸身、薄い脂肪に覆われた肋骨の下から盛り上がった乳房までを深々と切り裂いている。
砕いた肋骨と肺腑とを混ぜて捏ねるように食い込んだ爪がぐるりと抉られるのと同時、綾香がバックステップ。
力任せに爪を引き抜いた傷口から鮮血の漏れたのは一瞬。
見る間に癒えていく傷を誇るように笑みを浮かべた綾香の口から漏れる呼吸も、間を置かず
喀血の混じった湿り気のある音から、乾いた鋭い音へと整えられていく。
千鶴の右爪が追い討ちをかけるように突き込まれたときには、既に綾香は間合いの外である。

攻防を組み立て直すように距離を取った綾香が、とん、と小さなステップを踏む。
軽快な足捌きは、徐々に小さく右へ、右へと回り込もうとする動きへと変わっていく。
対する千鶴はあくまで待ちの姿勢。
自身を中心として円を描く綾香を目線で追いながら、時折足を引いて白い裸身を正面へと置くように向き直る。
その冷徹な眼差しが光る貌に腫れはない。
肘打ちの直撃を受けたはずの眉間には、微かな鬱血の気配すらみられなかった。
何らの誇張もない無傷という、怪異。
それを一瞥した綾香もまた浮かべた笑みを隠さない。
代わりに唾を一つ吐き捨てて、ステップを続ける。

じり、と。
千鶴が何度目かに左足を引いた、その刹那。
視線が揺れ、重心がずれ、向き直ろうとする動作に両足が揃う、その一瞬を狙い澄ましたかのように綾香が掻き消えた。
否。正確を期するならば、千鶴の視界から消えるように、綾香が加速していた。
右へ、右へと回り込むステップから一変。
ほんの僅かな間だけ身を起こすと同時、倒れ込むように低い姿勢を取って慣性を相殺。
逆方向、向かって左側へと地を蹴り、緩い弧を描いて千鶴へと迫る。
フェイントと緩急による心理的、或いは視覚的な錯覚を最大限に駆使した、疾走。
押し退けられた大気が巻き起こす風とその中に混じる殺意とに千鶴が眼を向けた瞬間には遅い。
綾香は爪刃の間合いの内側、懐に飛び込んでいる。
密着に近い状態から、しかし綾香は速度を緩めない。
僅かに身を起こすが、未だ打撃に移るには低すぎる前傾姿勢。
女王の選択は初手、右の肘。
肝臓へと捻じ込んだ肘には微かな手応えも、やはり千鶴の体躯は揺らがない。
構わず、肘を抉り込みながら更に半歩。肩から全体重を腰骨へと叩き込む。
同時、空いた左手は千鶴の右腿を後ろから掬うように回り込んでいる。
変則のスピアー・タックル。
千鶴の経験次第では容易に膝でのカットもあり得ただろう、それは純粋にして古典的な突撃。
しかし密着からの攻防ではリングの女王に一日の長があった。
綾香の肩を支点、掬われた足を力点とした円運動は止まらない。
真後ろに回転していく視界の中、千鶴が咄嗟に身を捩ろうとする。
それが、失策だった。右の腿を抱えられたままの姿勢、自然と体は左側へと捻られる。
それは即ち、綾香へと背を向けながら岩場へ倒れるということである。
千鶴の足に絡みついた綾香が、得たりとばかりに笑む。
腿に絡む腕を振りほどくことも、視界に入れることも叶わぬまま倒れ込む瞬間、
タイトスカートのベルトに綾香の手が掛かるのを、千鶴は感じていた。
べしゃりと音を立てて二人の倒れた岩場には血の池が広がっている。
見る間に赤黒い染みに汚れていく千鶴の真新しい濃紺のスーツが、淡いベージュのシャツが、
ずるりと引き摺られ、更なる惨状を晒した。
ベルトに手を掛けた綾香が、半ば力任せに千鶴を仰向けに転がしたのである。
腿までまくれ上がったスカートの、仕立ての良い生地が、び、と音を立てて裂けた。

「……!」

状況を把握できぬまま本能的に上体を起こそうとした千鶴の目に飛び込んできたのは、
ごつごつと硬い角質に覆われた足の裏である。
反射的に爪で薙ぎ払い、裂いた足が出血もそこそこにぞぶぞぶと肉の糸で繋がるのに舌打ちした千鶴が
何かに気付いたように己が脚に目をやった頃には、既に綾香の仕掛けが完成していた。
いつの間に身を反転させていたものか、綾香は千鶴の足指を眼前に愛でるような姿勢。
その白い裸身を妖しく摺りつけるように、両手両足で千鶴の右脚を抱え込んでいる。
右の肘は千鶴の踵に添えるようにフック。
クラッチした腕と両脚とが、淡色のストッキングに覆われた千鶴の膝を挟むように絡みつく。
それがヒールホールドと呼ばれる、容易に膝関節を破壊せしめる危険な技であると千鶴は知らない。
知らぬがしかし、本能が告げる警告のまま、千鶴の身体が動いていた。
それは、綾香が完璧なホールドから上半身を捻り、千鶴の膝靭帯を捩じ切るよりも僅かに早く。
鮮血を煮詰めたような濃密な鬼気を口から漏らすと同時、千鶴の右脚がぐ、と持ち上がる。
眼を見開いたのは仕掛けた綾香である。
腹筋を使えぬ片足の筋力だけで、しかも膝を曲げ固定された姿勢から人ひとりの重量を支え、
あまつさえ持ち上げるなどは尋常ならざる驚異であった。
驚愕の内にも千鶴の膝を極めた上体を捻ろうとするが、遅い。
ふわ、と。一瞬の浮遊感。

「―――!」

僅かな間を置いて響いた轟音には、濡れた音が混じっている。
鉞の如く振り下ろされた千鶴の足が、絡みついた綾香ごと、血に塗れた岩盤を粉砕していた。
脊椎と骨盤と五臓とをいちどきに破壊され、さしもの綾香もけく、と奇妙な音を口から漏らして全身の力を抜く。
飛び散った血液と肉片と骨片とはすぐさま集合を開始、まるで逆回しの映像のように綾香の胴を再形成していくが、
その隙に千鶴は足を引き抜き、二歩、三歩を下がって呼吸を整えている。
がつ、と足元を踏み拉いたその右脚が、僅かに震えた。
渾身の力を込めた千鶴の一撃は、己が身体にも無視できぬ痛手を与えているようだった。



***

 
 
ぞぶりぞぶりと再生しながら、来栖川綾香が思考する。

―――今のやり取りは、惜しい。惜しいが、負けだ。
僅か半目の差で遅きに失した。これで命一つ。
ずるり、ずるり。
千切れた腸が癒合していく。

―――敵は両手に刃持ち。
悠長に締め落とす選択肢はない。
それは松原葵の辿った道だ。
ならば、と極め技を試してみればこの有様だった。
障害は常軌を逸した筋力と超絶的な反応速度。特に後者は厄介だ。
サブミッションは構造上、仕掛けに入ってから結果を出す、即ち相手の関節を破壊するまでに
どうしてもタイムラグが存在する。
それがたとえ寸秒であれ、人外の反応速度で対応されてしまえば何度仕掛けても結果は同じだ。
極める、という方向性も現段階で捨てざるを得ない。
それが、今の攻防で得た第一の結論。

―――しかし。
と、べちゃべちゃと子供が口を開けて物を噛むような音を立てて腹の穴が塞がっていくのを感じながら、
綾香が思考を先鋭化させていく。
締めるも極めるも通じないとなれば、残るは投げと打撃。
本来的にストライカーたる綾香の専門分野だ。
だが立ちはだかるのは、あの常識を逸脱した防護である。
防護と呼んではみたが、魔弾の拳で撃ち抜けない以上は防衛的な概念ではないのかも知れない。
まるで打ち込みの威力、運動エネルギーや慣性そのものを完全に相殺されているかのような手応え。
いずれ硬い、重いという位相を超越した、何かまったく別の物理法則が働いているかのような、
絶対障壁とでもいうべき何かであった。ある意味で筋力や反応速度といった、超絶的ではあっても
リングの上の物差しで計れるものより余程得体が知れぬ。
故に綾香もグラウンドに活路を見出そうと試みたものだったが、その道の一端は見事に断たれていた。
しかしそれとても決して無駄な行為ではなかったと、綾香は考えている。
一連の攻防、その流れの中には打撃戦に持ち込むための方法論、或いはその重要な手がかりが
転がっていると、膨大な経験に裏打ちされた勘が告げていた。

―――極限を思考し構築し適応しろ。
自らに与える猶予は一秒。
彼我の距離、呼吸のリズム、再生速度。デザイン、トレース、エミュレート、アジャスト。
寸暇を惜しんだ修練と実戦とで末端細胞に至るまで叩き込んだ動作を展開し実践。
来栖川綾香の戦場に無様は要らない。
その手に掴み、掲げるべきは勝利の二文字。
そこへ辿り着くための道筋を、寸秒の間に導き出せ。

―――ここまでの攻防、通った打撃は二つ。
密着の内廻し蹴り、そしてフェイントからのレバー打ち。
共通点は一つ。いずれも不意打ちの類、視野の外からの一撃。
その他の打撃は、過たぬ直撃を含めて悉く手応えがない。
即ち推論、あの異質な防護は視認によって為される。
否、修正。通った打撃はしかし、振り抜く前に威力の半分方を殺されていた。
超反応と考え合せれば推論の二、防護は打撃に対する認識と同時に為される。
一撃、ヒットの瞬間に認識が開始され、何らかの形で防護を形成しているとなれば説明がつく。
いずれにせよ導き出される結論は単純にして明快。
勝利するには視野の外、認識の埒外からの一撃で防護が形成される前に痛撃を与える。

―――道筋は見えた。
しかしまだ、至るには足りぬ。
往く手には幾つもの谷が、壁が、急峻な山がある。
越えるには足りぬ。
力が足りぬ。
砕くには足りぬ。
重みが足りぬ。
登り詰めるには足りぬ。
速さが足りぬ。
否。
否、否、否。

―――足りぬは、焔。
命を火種と燃え盛る、赤々とした焔が足りぬ。
鬼を灼く拳に至るは、ただそれだけが足りぬ。
それだけがあれば、事足りる。

ああ。
ああ、ああ、成る程。
ならば、燃やせばいい。
命の如き。
生の如き。
この身を焦がす衝動の前に、何程の価値がある。

それが闘うということだ。
それが来栖川綾香であるということだ。
それが松原葵であり坂下好恵であったということだ。
ならば、ならば命の如きを火にくべるのに、何の躊躇が必要か。

―――来栖川綾香は、来栖川綾香の選択を肯定する。


***

 
刹那の思考が、終わる。
ぎらぎらと、路地裏に餓える子供の、一切れのパンを見るような。
略奪を渇望し蹂躙を羨望し充足を切望する瞳に宿る常軌を逸した熱に浮かされるが如く、
来栖川綾香が口の端を上げる。紅を注したように赤い唇が、笑みの形に割り裂けた。

「―――なあ、おい」

声と共に、吐息が漏れる。
鼻を刺すような鉄の臭いと、えづくような汗の臭いが入り混じった、どろどろと色の滲みつくような吐息。

「こいつ、知ってるか」

べろり、と。
唇と同じ色の、赤い舌が伸びる。
長く、厚く、ぬめぬめと照り光るやわらかい粘膜の上に、何か小さなものがあった。
透き通る素材は硝子だろうか。
小指ほどの長さの円筒形を満たすように、中には液体が詰まっている。
琥珀を酒に溶かしたような薄黄色の、薬じみた液体。

「まあ、知らないよな」

事実、それは薬品であった。
それは坂神蝉丸との戦いにおいて使われ、人を凌駕する力を綾香に与えながら、
同時に人としての形をすら喪わせる破滅を齎した、悪夢の産物。
ゆらゆらと揺れる炎に照らされた綾香が舌の上で転がすのは、その劇薬を詰めたアンプルであった。

「大したもんじゃあ、ない」

かり、かり、と。
口の中で硝子製のアンプルを弄ぶ綾香が、すう、と微笑う。
微笑って、透き通ったそれを、一気に噛み砕いた。
鈍い音。砕けた硝子の欠片が綾香の口腔に刺さり、粘膜を裂いて血に染める。
染まった傍から癒えていく傷口の、その隙間を縫うように、薄黄色の液体が滲み込んでいく。
ぶるり、と震えて己が肩を抱くようにした綾香が、白く鋭い歯を剥き出して、笑んだ。
癒えた傷から抜け落ちた硝子の欠片が、がちがちと牙を鳴らすように震える口の中を跳ね回って
新たな傷を作るのを、綾香は気にした風もない。
吊り上げた口の端から、だらだらと唾液と鮮血が垂れ落ちた。
一瞬だけ白目を剥いた綾香の、血の色の瞳孔がぐるりぐるりと廻りながら開閉を繰り返す。

「ほんの少し―――」

ひう、ひうと。
奇妙に表情を歪めて短い呼吸を繰り返す綾香の顔を、彩るものがある。
初めに浮き上がったのは右の目の下、小さな発疹のような、赤。
一呼吸、すぐ下に赤点がもう一つ。
二呼吸、点と点が繋がって、頬を裂くような線になる。
次の瞬間、線が、爆ぜるように増えた。
膨れ上がった血管の全部が、内圧に耐え切れず浮き出してきたように、整った鼻筋を熱病の痕が冒すように。
女郎蜘蛛の互いに脚を絡め合うが如き不気味な紅の、それは綾香の顔の半分を覆う、紋様。

「―――頑張れる、クスリさ」

或いは立ち枯れた木々の、葉の一枚も残らぬ節くれ立った枝を幾重にも重ね合わせたような紋様に
端正な顔立ちの半ばまでを侵されながら、綾香が笑う。

「で……、」

じゅぶ、と。
濡れた雑巾を叩きつけたような、音。
笑んだ綾香が、自らの脇腹、肋骨の僅か下に、指を突き込んでいる。
だらりだらりと鮮血が垂れる。
根元までを肉に埋めた指は、ぐじゅぐじゅと桃色の糸を伸ばす肉を押し退けるようにして、
腹腔の中を掻き回しているようだった。
やがて何かを探り当てた指が、ずぶりと引き抜かれる。

「これが、残り、全部」

鮮血と脂肪とリンパ液とに濡れた指が、てらてらと光る。
示すように差し出した、その指の間には透明な円筒。
先刻綾香が噛み砕いてみせたのと寸分違わぬアンプルが三本、そこにあった。

「一々呑むのも、面倒だ」

告げた綾香が、空いた片手を白い喉に添える。
躊躇なく、爪を立てた。
か、けく、と血の泡が漏れ出したのは、気管と動脈とを傷つけたものだろうか。
間髪入れず、三本のアンプルが赤黒い泡を噴く傷へと差し込まれ、掴んだ指に力が込められる。
甲高い音は一瞬。ほぼ同時に三本の円筒が砕け散って、薄黄色の中身を溢す。
舐め取るように、血と肉とが硝子を練り込んだまま傷口を塞いでいく。
一瞬の、後。

「―――」

ぎぢ、と。
歯車の、錆を噛むような音。
生理的な嫌悪感を伴う音が、綾香の全身から響いていた。
ぎぢ、ぎぢ、ぎぢぎぢぎぢ。
ざらざらとした音が響く度、綾香の顔に蔓延る紅の紋様が、その版図を広げていく。
と、白い裸身に蔦の這うが如く拡がっていく紋様を追うように、綾香の身体に瘤が生まれる。
皮膚組織を内部から押し出すように膨れたそれは、見れば筋繊維の極端に肥大したもののようであった。
ぼこり、ぼこりと綾香の身体のいたるところで膨らんだ瘤が、しかし唐突にその肥大を止める。
刹那の間を置いて、鈍い音と共に、瘤が爆ぜた。
水風船の、割れて中身を撒き散らすように、爆ぜた筋繊維から舞い散った鮮血が赤い霧となって、
綾香の周りに漂った。

「……ここ、から、」

ぎぢぎぢと錆びた音の中、血の霧の舞う中で、紅の紋様に覆われた裸身が、声を放つ。
爆ぜた筋肉が、撥ねた血を呑んで蘇るように濡れた音を立てて癒えていく。
それはまるで内燃機関の、燃焼と爆発とを以て動力と変えるように。
白の裸身が、紅の紋様と桃色の肉と深紅の霧とを交互に纏って、立っていた。

「ここから、だ、化け物」

そこに人の面影はない。
それは断じて、人の範疇に納まり得ない。
ただ人の形を模した、人に非ざる何かが、そこには哂っている。
人を棄ててげたげたと哂う女が、跳んだ。



 
【時間:2日目 ***】
【場所:***】

来栖川綾香
 【状態:仙命樹、ラーニング(エルクゥ、魔弾の射手)、オーバードース】

柏木千鶴
 【状態:エルクゥ】

柏木楓
 【状態:エルクゥ、瀕死(右腕喪失、全身打撲、複雑骨折多数、出血多量、左目失明)】
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