この物語の最後の戦い







 
「家庭の問題です。口を挟まないでいただけるかしら」

ぽたり、ぽたりと。
実妹の肉片のこびり付いた深紅の爪から粘りつくような血を垂らしながら、
柏木千鶴が薄く笑う。
足元、切り落とされてなおびくびくと蠢く黒腕とその主には目もくれない。
血の海にもがく妹の、声にならぬ悲鳴が広い洞内を反響するのも聞こえぬように、
優雅とすら映る仕草で胸元から白いハンカチを取り出すと、濡れた爪を拭い出した。
純白を彩る精緻な刺繍が、瞬く間に鉄錆の赤黒さに侵されていく。

「まあ、興味はないね」

来栖川綾香が肩をすくめれば、鋼線に薄い脂を巻き付けたような裸身が焔に揺らめいて艶かしい。
ひたり、と歩を進める。
素足が赤黒く滑る水溜りに踏み込んで、粘ついた音を立てた。

「それより……家の人間がこっちに顔、出さなかったかな」

生温い血が、ねっとりと糸を引くように足裏に絡みつく。
気にした風もなく、切り出した。

「お宅の方、ですか。……さあ、存じませんが」

貼り付けたような笑みを浮かべたまま、ほんの僅か虚空を眺めるようにして、千鶴が答える。
一呼吸、二呼吸。
垂れ落ちる鮮血を指先で掬って、互いの気管に塗り込め合うような沈黙の後。

「―――ああ、もしかして」

弓形に歪んだ深紅の瞳に、瑞々しい侮蔑と匂い立つような嘲りとを浮かべて、
千鶴が糊の効いた、真新しい濃紺のスーツの懐に手を差し入れる。
仕立てのいい上質の布が、さらさらと耳を楽しませる衣擦れの音を立てた。
その長い手指が、ゆっくりと懐から掴み出したのは、

「これの、ことかしら」

はらはらと。
はらはらと、音もなく舞い散る、絹糸のような何か。
揺らめく焔の光を拒むような漆黒。
力なく横たわる蛇の亡骸の如く地に落ちて広がる、それは。

「―――」

長く、美しい、女の黒髪。
切られたものではない。
断たれたものではない。
その片端に、白い毛根と脂とをこびり付かせたそれは、刃によって裁断されたものでは、あり得ない。
薄桃色に見えるのは皮膚組織とその下の、血に塗れた小さな欠片だろうか。

「残りは……ほら」

五指に纏わり付く黒髪を払った千鶴が、周囲を睥睨するようにその両手を広げる。
ゆらゆらと、蜀台の炎に薄暗がりが照らされて、岩場の陰影を際立たせる。
つられるように、綾香がゆっくりと視線を向けた、その先に。

「その辺りに、散らばっているわ」

ゆらゆらと揺れる影と、ひたひたと拡がる血溜まりと、はらはらと舞う黒髪と。
悶える少女と、起伏の激しい剥き出しの岩場を彩る、もう一つ。
千切り取られたような、掌に収まるほどの、何かが一つ。

「―――」

ポタージュに浮かぶ、小さなクルトンのような。
血溜まりに落ちた、塊がある。
白と、赤と、薄黄色と桃色と。
およそ、人の皮を剥いた下にある、色の全部が、そこにある。
ゆらゆらと、揺らめく光に照らされて。
ゆらゆらと、血の池に浮かんでいる。
骨ごと削り取られた、肉と脂と皮と、人体がそこに、浮かんでいる。

目で追えば、もう一つ。
その向こうに、更に一つ。
ああ、言われてみれば。
バケツに一杯のペンキを、辺り構わず何度もぶち撒けたような。
一面に拡がる鮮血は、今し方に切り落とされた腕一本から流れ出るには、多すぎる。

「―――」

ぬるりと。
意識をすれば、吸い込む大気に甘い香りの混じっているような錯覚を覚える。
取り込んだ肺の内側、小さな胞の一つづつを染め上げる、潰えた命の香り。
挽き潰された香辛料のような、爪の先の血管まで染み渡る、濃密で鮮烈な刺激。
それは途絶えた命の、途絶えさせられた命の、殻の中の甘い実の立てる、悲鳴だ。

「―――」

岩場に転がる小さな塊が、揺らめく焔を照り返す。
染み出た脂が包むのは、胃の腑の欠片だろうか。
あちらに見えるは腹の肉。
丁寧に臍の周りを丸く抉り取っているから判じ易い。
そら、よく見ればあれは足先だ。
剥がされた爪がほんの少しの肉片をこびり付かせて並べられている。
してみれば、その向こうに乱雑に放り出されているのは手指の成れの果てだろうか。
或いは捻じ曲げられ、或いは細切れにされ、或いは踏み躙られたものだろうか、
幼子が飽きた玩具を放り捨てるようにばらばらに散らばっている。
ふるふると震える、薄黄色い葡萄の房のようなものは何だろう。
大きさからすれば乳房の中身かもしれない。
腕は何処だ。肩は何処だ。肺腑は何処だ。肝臓はあそこにあった腎臓は向こうに見える。
脾臓は何処だ膵臓は何処だ腸は何処だ子宮は何処だ骨盤は何処だ性器は何処だ掌は何処だ。
脚は何処だ腿は何処だ膝は何処だ脹脛は何処だ踝は何処だ足は何処だ。
肋骨と腰椎と脊椎と延髄と脳髄と眼窩と眼球と鼻腔と口唇と頬と眉と顎と耳と、
犬歯と臼歯と切歯と内舌筋と外舌筋と喉頭と声帯とは何処にある。

ああ、ああ。
集めればそれは、人体と呼べるものに、なるのだろうか。
掬い上げて、練り合わせて、再び人と呼べるもののかたちに、戻るだろうか。
それほどに、散らばったものは数多く、乱雑で、複雑で、猥雑で、そして、醜い。

それは、かつてそれが人であったことに思いを馳せるにはあまりに遠く。
それが、かつて来栖川芹香と呼ばれていたことを思い出すにはあまりに脆く。
しかし。

「……ああ、そっちのつもりじゃあ、なかったんだが」

だから、ではなく。
故に、でもなく。
ただ、表情を変えずに、来栖川綾香は、小さく呟いた。

「まあ、いいさ」

そこに情はなく。
そこに色はなく。
水底に沈む神代の宮殿のような、透明の静謐を以て来栖川綾香は、その惨劇を首肯する。

「姉が世話になった」

細く呟く、その瞳は奇妙に凪いでいる。
来栖川芹香であった肉の欠片たちを見下ろしてなお、その瞳は揺らがない。
冬の夕暮れ時の、雨にも雪にもならぬ薄曇りのどこか霞がかったような昏さだけが、そこにある。

「いいえ、とんでもない。退屈しのぎには充分でした」

可笑しくて仕方がない、というように笑む柏木千鶴にも、綾香は感情を返さない。

「何よりだ。連れ帰ってもいいかな」
「どうぞ、ご随意に」

す、と。
深く笑んで頷いた、柏木千鶴が優美な仕草で歩を踏み出す。
高いヒールが、かつりと音を立てた。
踏み出したその細い足が、文字通り間髪を入れず捻られる。
ぐり、ざら、と、嫌な音を立てて踏み躙られるのは、地に落ちて広がる長い黒髪の束。
来栖川芹香の、遺髪だった。

「……」
「どうか、されましたか」

蹂躙される黒髪が焔の影に煽られて、乱れた繻子のようにその綾を変えていく。
がり、と音がする度に、長く美しかった髪が傷つき、千切れる。
その暴虐を、しかし無感情に見返して、綾香が口を開いた。

「別に。……本題に入ってもいいかな」
「何でしょう」

襟足で短く切り揃えられた髪をかき上げながら、綾香が瞼を閉じ、開く。
光届かぬ高い天井の、黒々とした闇を一瞬だけ見上げて、視線を下ろした。

「家の使用人は見てないかな。元々、捜してたのはそっちの方でね」
「使用人、と仰ると」
「メイドロボ。特注の一品物でね」

綾香の口元が、微かに緩む。
それが笑みの萌芽とでも呼ぶべき表情であると、綾香自身も気付いていたかどうか定かではない。
しかしそこには、確かな温度があった。
姉の身の無惨をして無色透明を貫いた女の顔に浮かぶ、それは感情の欠片だった。

「……さあ、存じません」

その微笑を見返して、こちらは笑顔という面の形に練り上げられたような柏木千鶴の、
深紅の瞳が冷ややかに細められていく。

「妙な鉄屑なら、あちらの方に落ちてきたように思いますが」

目線だけを動かした、その先には闇が広がっている。
血溜まりは見えない。
浮かぶ塊は見えない。
暗闇に飲まれて、そこには何も見えない。
しかし、赤い瞳の鬼は笑みを深めていく。
熱という熱を奪い去るような、暗く深い、冷笑。

「ただ何しろ我楽多のこと、ガタガタとやかましくて敵いませんでしたので―――」

色と音とを喪って、透き通る氷の華が鋭い棘を伸ばすように。
鬼が、嗤う。

「―――螺子の一本に至るまで、つい」

くつくつ、くつくつと。
言葉を切って、肩を震わせる。

「そういえば」

くつくつと。
声を漏らして、忍び嗤う。

「お姉様は随分と礼儀正しくていらっしゃるのね」

くつくつと。
本当に、心の底から嬉しそうに。

「五体くまなく切り刻まれているのに、悲鳴の一つも上げないなんて」

くつくつと。
歓喜と法悦とに、突き上げられるように。

「はしたなく泣き叫んでくれれば、もう少し楽しかったのだけれど」

くつくつ、くつくつと。
腐った傷から、膿が垂れて流れるように。

「あなたにも見せてあげたかった。とても残念だわ」

ぐつぐつ、ぐつぐつと。
嗤う。

「―――そうかい」

膿を掬って鍋に集めて、火にくべて煮込むような音の中。
噴いた灰汁の泡立ってぶつぶつと潰れるような笑みの中。
その悪意を凝集し憎悪を結晶させたような湯気の立つ中に、来栖川綾香は霞んでいる。
霞んでしかし、立っている。

「厳しい家訓が我が家の売りでね」

立って返した、言葉の色は白。
降り積もる雪の、どこか青みがかったような深い白。

「……ああ、それと」

浮かべた笑みの色は群青。
明けゆく夜に名残を惜しむような、淡い星に彩られた群青。

「―――化け物が、人間面して礼儀を語るなよ。気分が悪い」

吐息に混じる色は緋。
紅蓮を燃え盛る焔の纏う衣に宿る、灼業の嚆矢たる緋。

「……これは、申し訳ありません」

ちろちろと、己を舐める炎に炙られて柏木千鶴が笑みを収める。
代わりに浮かぶのは、混じり気のない侮蔑。

「成り上がってたかだか百年程度のお家柄に、作法のお話は難しすぎましたか」

ひと吸いで人の善意を侵し尽くすような汚辱。

「道を空けろ、売女」

べっとりと肺の内側に貼り付くように濃厚な嘲弄。

「力ずくでどうぞ、河原者のお嬢様」

軽侮と憎悪と怨嗟と恩讐とを捏ねて焼き上げた器を、地面に叩きつけて割るような。

「そうするさ」

言葉が、途絶える。



***

 
 
先手は風。
疾風と化した来栖川綾香である。
疾走開始の一歩目、走るより跳ぶに近い前傾姿勢。
二歩目、体を更に落とす。
三歩目、間合いに踏み入らんとする刹那、綾香が体幹を軸に身を捻る。
慣性を回転力へと変換し、遠心力を加えて薙ぐのは一度大きく後ろに振り出した右の脚である。
細いピンヒールを履いた千鶴の両足を刈り込むような軌道は初手奇襲、下段後ろ回し蹴り。
迫るのは二択。跳ぶか、退がるか。
地面すれすれ、踵で足首関節を狙う絶妙の狙いはカットで凌げない。
跳ぶならばよし。
顔面へ打ち下ろされる迎撃の蹴りを警戒しつつ遠心力を維持。
接近しての左肘、或いは足を取って関節、二秒で折る。
退がるならば追撃。
押し込んで距離を詰め、刃の爪の間合いの内側で打撃戦に持ち込む。
入りは左のフェイントから、髪を掴んで右の膝。
考えられる迎撃は無限、対応のパターンもまた無限。
しかし膨大な経験が或いはそれを有限とする。
流れに組み込めぬ水面蹴りの大きなモーション、ならば初手。
女王と呼ばれたストライカーの、それが思考である。
だが。

「ちぃ……ッ!」

舌打ちは綾香。
前進が止まっている。
対峙する千鶴は、跳ぶも退がるもしていない。
ただ悠然と、立ち尽くすのみである。
躱されたのではない。
綾香の踵は、寸分の狂いもなく千鶴の足首を真横から打ち抜いている。
だが、揺らがぬ。
まるでそれは、大地に根ざした巨樹の如く、小揺るぎもしておらぬ。
硬く、重く、誤って分厚い壁にでも蹴りを当てたような、痺れるような痛み。
重量に大きな差があるとも見えぬ。
太極の技の如く、打撃の瞬間に力を逃がされたわけでもない。
ならばそれは慣性を、作用反作用を、物理法則を無視した異様であった。
原理原則は知れぬ。
しかし確かなのは、眼前に迫った危険である。
格闘家としての経験則がすべての疑問を棚に上げて綾香を衝き動かす。
蹴り足を引きつつ、抱え込んだ軸足を全力で解放。
後転と側転の合間を縫うような後ろ受身から、上体へのガードを固めつつ一気に立ち上がる。
追撃の一発は覚悟。胴への警戒は半ば放棄する。
よしんば横薙ぎの爪の一閃で切り裂かれたとして、それも想定の内。
人体には致命傷となるはずの斬撃に対しても、綾香にはある種の計算があった。
必要なのは覚悟と認識。
何が死に直結し、何がそうでないのか。
死ぬ一撃と、それ以外。
真の意味で刹那をしか見ない綾香の思考は、既に生物として破綻している。
痛覚など無視すればそれで済むという高揚が、湧き上がってくる。
暗い水底に沈んでいた感情が泡を吐きながら浮上してくるような、どこかで空転していた歯車が
かちかちと噛み合って一つの機構となって、巨大で重いギアをようやくにして回そうとしているような、
そんな天井知らずの昂奮。
背筋に奇妙な電流の走る感覚を、綾香は愉しんでいる。
来栖川綾香という存在がその意義を満たそうとしているという、錯覚の自己認識。
空腹に任せて焼けた肉を噛み千切るが如き多幸感に包まれて、綾香は己を切り裂く刃を待っている。
願うは胴を断ち臓腑を引き裂いて背骨を粉砕せしめる圧倒の刃風。
破滅よ迫れと、告死の神よ来たれと、近づいたその黒衣を抱いて口を吸うような、倒錯の悦楽。
終焉を紙一重を隔てた刹那をこそ、ダンスパートナーに選ぶように。
白い裸身に歓喜を纏い愉悦を履いて暴虐で身を飾り、来栖川綾香は破滅を踊る。

果たして―――、一閃。

広がるのは血潮。
飛沫を上げる赤をその舌で舐め取って、綾香が一歩、二歩を下がり、止まる。
ひぅ、と漏れた吐息が濡れている。
追撃はない。
柏木千鶴は深紅の爪を無造作に振り抜いた姿勢のまま、悠然と立っていた。
その瞳に宿る殺意と憎悪と、そして微かな失望の色とを見て取って、綾香が嗤う。
ぱっくりと開いた傷口を押さえた手の中に、ぐずりと滑るものがある。
溢れる血と混じって零れる、それは薄い脂肪の膜だ。
探る手指は腸には触れない。
創傷は、臓物までは届いていないようだった。
皮膚と脂肪と、腹筋と。
それだけを抉って、そこまでを引き切って、刃は引かれていた。

「面倒ね」

―――成る程。
嗤う綾香が、呟く千鶴の声に内心で頷く。
気にくわない。
この傷は、実にまったく、気にくわない。
あのタイミング、あの反応、あの速さで斬られておいて、これではひどく―――浅すぎる。
成る程、成る程。
ぎり、と噛んだ奥歯が音を立てた。
その鈍い音に感じる不快に身を任せて、ぼたぼたと垂れる自らの血溜まりに足を踏み入れる。
一歩と半分で、蹴りの間合い。
再び迫る綾香に、柏木千鶴は表情を変えない。
つまらなそうな、冷ややかな瞳が綾香を射抜く。
構わず、踏み込んだ。
迎撃は変わらず右手の爪。
向かって左の側から横薙ぎに振られるそれに綾香は左腕を翳す。
ばつりと筋繊維が断裂する感覚を、単なる神経情報として処理。
更に一歩を踏み込む。
既に突きの間合いをすら越えている。
殆ど密着するようなクロスレンジ。
半ばまで断たれた左腕から刃が抜き去られるのを感じながら選択したのは右脚。
裂けた腹を押さえた右の腕で胴を抱え込むように、強引に体幹を捻る。
垂直にかち上げた腿から、更に体を引きつつ膝下だけを外側からしならせるように蹴り上げる。
驚異的なバランスに加え、筋肉のみならず関節の柔軟性をすら要求される、密着からの外廻し蹴り。
芸術とすら云える軌道から狙うは側頭、薄い頭蓋に覆われた神経組織―――テンプル。
音に近い疾さを以て放たれた一撃を、しかし、迎え撃つのは鬼神の反応。
微かに表情を変えた千鶴が、白くたおやかと見える左の腕を上げる。

神速がほんの僅か、音速を凌駕した。
蹴り足が、打点の寸前で止められていた。
やはり手応えというものを感じさせず綾香の一撃を止めたのは、細い五指である。
ただ翳されているだけとすら思える細腕を、薄い掌を、摘めば折れてしまいそうな白い指を、
綾香の蹴りは打ち抜けない。
風をも切り裂く蹴撃をまるで見切ったかのように己の足首をしっかりと掴む手に、
綾香が苦笑に近い形で口元を歪める。
跳んで身を引く事も許されず、体を支えるのは軸足一本。
左腕は半ばまでを断たれ上がらず、即ちそれを隙という。
隙は窮地となり、窮地は瞬く間に危地へと変わる。
与えられた間は、許された思考時間は正しく刹那。
誤れば死へと繋がる絶対の分水嶺が眼前に迫っていた。

―――闘え、と。

声が、聞こえた。
勝利するために闘えと、己を突き上げる声が聞こえると、綾香には感じられていた。
闘え。恐怖を捻じ伏せ怯懦を切り伏せ闘争と繁栄との本能を鬩ぎ合わせろ。
拳と意地のやり取りの中で培ってきたものたちを炉にくべろ。
勝利への執念を手がかりに無敗の矜持を足がかりに危地の山脈を踏破しろ。
闘争せよと、勝利せよ蹂躙せよ君臨せよと命じる声が、来栖川綾香を加速する。
それらは今、唐突に聞こえてきた声ではない。
それは常に来栖川綾香の内に在る声で、誰の耳にも聞こえているはずの声で、誰も聞こうとしない声だ。
衝き動かされるように、思考は言語を凌駕して演算を開始。
敵、柏木千鶴の姿をイメージに投影。
一瞬前を、その一瞬前を、更にその僅か前を思い、並べ、時という連続体の錯覚を設定。
彼我の状況を分析し解析し解読する。
敵の必殺は爪、恐れるべきは右の斬撃。
頭部への一閃を避けるのが至上命題、他の部位はくれてやれと優先順位を設定。
引き抜かれた右は戻りきらず至近に突きはあり得ない。
必殺の斬撃と化す鬼の爪による一撃は、しかし故に刃と同じ対処を適用できる。
伸びる爪刃は掌より凡そ五寸。

引けぬ、と判断。
ここから距離を開ければ敵にとって絶好の間合いとなる。
逆に相手はこちらを突き放すことを第一の目標と定めて動くと仮定。
密着状態、重心は僅かに後傾、考え得る攻守の手筋を思い浮かべる。
定石ならばまず頭突き、側頭への肘、打ち下ろしての鎖骨打ち、或いは寸打に近い胸骨打ち。
いずれ単体では致命に至らず、しかし彼我の距離さえ離してしまえば投了へと続く筋。
先は取れず、守勢に回れば手が詰まるか―――否。
否、と綾香は結論付ける。
定石だけを考えるな。リングの上の常識で相手を図るな。思考を、縛るな。
柏木千鶴がこれまでに見せた動きのすべてを思い起こせ。
圧倒的な力、異様な防護、戦慄すべき反応と速度―――違う。
スペックではない。見方を変えろ。探すべきは付け入る隙。
振るう爪の直線的なモーションはどうだ。
視界に入った打撃を直截に防ごうとする後手の反応を考えろ。
体の捌きは、重心移動は、視線の位置は攻防予測は間合いの読みは。
幾つかの断片から見えてくる絵が、綾香をして内心で大きく頷かせる。
敵は鬼。怪力乱心、無双を誇る怪物だ。

―――しかし、鬼でしか、ない。

その打撃には、鍛錬がない。
練磨なく、研鑽なく、修養がない。
素養に胡坐をかいた、それは磨かれることのない巨大な原石だ。
故に定石を知らず、故に基礎と応用と機に臨んで応えるだけの抽斗が存在しない。
彼我の間に横たわる断崖を、資質という。
その断崖に架ける橋の名を、経験と、そして修練と呼ぶ。
ならば―――と。
手筋を練り上げるまでに要したのは、実に刹那の間。
しかし均衡を保つのも、それが限界だった。
瞬間、足首を掴んだ繊指からの圧力が膨れ上がるのを感じて、綾香が哂う。

「……だよなあ、化物」

そうだ。そうするしか、ないだろう。
みしみしと、己が肉と骨とが軋む音を耳朶の奥に感じながら綾香が推論の正しさを確信する。
鬼の思考にはこちらを突き放すための定石がない。
距離を開けるために思いつく手段が、限られている。
そして選ぶのは、その中で最も直線距離の近いもの。
短絡とすら呼べる、しかし確実で容易い手段だ。

「―――!」

転瞬、変生が始まる。
白くきめ細やかな肌が、まるで悪性の病に冒されたかのように黒く分厚く、醜く罅割れていく。
しなやかだった五指は一瞬の内に野太く膨れ上がり、その錆びた鉄条網を芯にして委細構わず
砂礫や石くれを練り込んだような刺々しく硬い手が、万力の如く綾香の足首を締め上げる。
そして変生を締め括るように顔を覗かせたのは、刃である。
漆黒の手指の先から伸びるそれは深紅。鬼の手に生える、爪だった。
柏木初音も見せた、両腕の変生。
いや増す鬼気に綾香の背筋を戦慄に近い悦楽が走った、その瞬間。

痛覚神経が、緊急を脳髄に伝達してくる。
最優先と銘打たれけたたましく鳴り響く信号は同時に四つ。
曰く表皮が裂け曰く真皮が爆ぜ曰く血管が破れ曰く神経が抉られ曰く筋繊維が千切られ、
曰く骨膜が斬られ骨質が砕かれ骨髄が欠損し―――即ち鬼の手の、親指を除く四本の爪が
綾香の右脚に深々と突き立てられ、豆腐に包丁を立てるようにその半ばまでを易々と切り裂いて、
肉と骨とを、食んでいた。

「―――」

声の一つも、漏らさない。
苦痛として変換されようとする痛覚を、過剰に分泌される脳内麻薬が相殺していく陶酔感。
生物としての本能が発する死に繋がる信号は、既に来栖川綾香には脅威と認知されていない。
ぐらりと揺れる世界に、上体の傾きが増していると認識。
血飛沫の珠が、明度の落ちた視界を彩る。
ぱっくりと口を開けた四つの傷跡から緋色の尾を引きながら、右脚が流れていく。

「ああ、本当に面倒なこと」

半ば放り棄てるように、或いは突き飛ばすように。
人体としての機能を停止させつつある綾香の右脚を力任せに払い除けて、柏木千鶴が呟く。
掴んだその手を握り締める、単にそれだけの動作で人を破壊せしめた鬼の左手が、空いた。
突き放された綾香を支えるのは軸足一本。
左腕と右脚は骨に達する傷を負い、上体を支持する腹筋は大きく抉られ、最早抗すべくもない姿を
その冷たい瞳に映して、千鶴が心底から憂鬱そうに息を吐く。

「こう脆くては……嬲り殺すにも、苦労する」

容易く二つに裂けたはずの胴を薙がず。
苦もなく切り落とせた左の腕を、ほんの少し力を込めるだけで断ち切れた右脚を落とさず。
ただ、あっさりと殺してしまわぬようにだけ腐心したと言わんばかりに辟易した表情を浮かべる千鶴の、
深紅の爪が、高々と振り上げられる。
次に薙ぎ、裂き、抉るのはさて、何処にしようか。
目玉に十字を刻もうか。かんばせに二目と見られぬ恥辱を描こうか。

―――そんな風に考えているか、化物。

天頂を指し、今まさに振り下ろされんとする爪刃を目の端に映して、綾香が哂う。
哂うその眼には、恐怖も覚悟もない。
そこにあるのは、闘争に身を置き勝利と生と死と敗北とを隔てず渾然と認識する者だけが宿す、
爛々と光を放つ焔である。
込めるのは力。そして、意志。
脳髄から神経を通して伝えられる指令に、全身の細胞が励起する。
開いた距離を繋ぐように迫る斬撃の、その緋色の軌跡よりも早く。
来栖川綾香が、躍動する。
それは練り上げた手筋から、ほんの僅かも逸れることのない、澱みのない流れ。
柏木千鶴に弾かれ、放り棄てられた綾香の右脚は、股関節と重力との描くモーメントに従って
外側へと弧を描いて落ち、しかしその勢いは止まらない。
骨の半ばまでを断たれ、鮮血を噴いて力なく垂れ落ちるはずの脚が、地を摺るように加速。
円弧の運動をそのままに、後傾させた上体を軸として跳ね上げられる。
時計回りの軌道は遂に真円を描くが如く、加速の頂点で千鶴の顎を刈るように吸い込まれていく。
視界の外、想定の外から迫る打撃に、如何な千鶴の神速の反応とて追いつかない。
振り下ろさんとする左の爪、突き入れんとする右の爪。
共に、迫る打撃を防ぐことはかなわない。

「その、脚で―――」

蹴りを放てるはずがない、と言おうとしたものか。
或いは、苦し紛れの打撃に威力のあるはずもない、と続けようとしたものだったか。
いずれ柏木千鶴の言葉は途切れていた。

「……!?」

驚愕に彩られたその瞳に、綾香の笑みが深くなる。
それが映しているものを、怪奇と受け取ったか。
成る程、この身に宿るは鬼をして戦慄せしめる怪異であったかと、綾香が声を漏らして哂う。
さも、ありなん。
円を描いて奔る綾香の右脚は、ずぐずぐと泡を噴きみぢみぢと音を立て、奇怪に満ち面妖に溢れている。
噴き出していたはずの鮮血は既にない。
流れきり、絶えたものではない。
千切られ抉られて断面を見せていた血管は、とうの昔に癒えていた。
否。癒えているのは、血管ばかりではなかった。
傷が、ばっくりと裂け骨を覗かせていたはずの創傷が、見る間に癒えていく。
ぶつぶつと黄色い泡が桃色の肉の断面を覆い尽くせば、肉はたちまち腐って爛れるように融け崩れ、
しかし直後にはめりめりと奇妙な音を立てて粘ついた糸を引き、肉の断面から伸びる糸同士が繋がって
傷を塞ぐように癒着していく。
塞がった傷から漏れ出した泡が固まって薄皮が張り、桃色の真皮はすぐに肌のきめを取り戻す。
存在していたはずの傷跡は、そうしてどこにも見当たらない。
右脚が、左腕が、裂かれた腹が、そうしてみぢみぢと、めりめりと、ぶつぶつとずぐずぐと、癒えていく。
それは、鬼の血が持つ驚異的な治癒力をすら一顧だにしない、怪異の領域。
仙命樹と呼ばれる不死の妙薬をもってしても遠く及ばぬ、醜怪な神秘。
その二つを共に宿した来栖川綾香の身の内に起きる霊妙を、語り得るものはない。
自身ですら、それが如何にして為されるものかを理解してはおらぬ。
しかし一度は人の形をも喪った来栖川綾香に、再び大地を踏みしめさせたのはこの力であった。
何時まで続くものかは知れぬ。
何処まで耐えられるかも判らぬ。
だが来栖川綾香は、怪異の上に立っている。
立って打ち放ったその蹴りが、柏木千鶴を、その整った顎先を、掠めるように射貫く。

「―――」

一撃。
右内廻し蹴り、太極拳に云う擺蓮脚。
脚を畳むように身に寄せると同時、軸足でバックステップ。
三歩を下がった綾香の眼前で、深紅の爪が力なく空を切る。
必殺とみえた刃を振り抜いた千鶴が、ぐらりと揺れ、たたらを踏む。

「へえ」

その様子に、最早流れ出た血の跡すら見当たらぬ白い裸身を誇らしげに晒して、綾香が口を開く。

「脳震盪か。鬼の頭にも入ってるんだな、脳味噌くらいは」
「……」

僅かな沈黙。
変生した漆黒の掌をこめかみに当てるようにして細く息を吐いた千鶴が、静かに眼を見開いて、
綾香を見据える。色は深紅。
魔の跋扈する夜に浮かぶ月の色。
鮮血と臓物の色の瞳に燃えるような憤怒をはっきりと湛えて、千鶴が言葉を返す。

「……訂正するわ」

かつり、と響くのは踵を踏み鳴らした千鶴の靴の、細いヒールが折れる音。
菜園を荒らす芋虫を踏み躙るような仕草で靴を放り出した千鶴が、広がる血溜まりに足を踏み出す。
ひたり、と淡い色のストッキングが粘る血を吸い込んで赤黒く染まっていく。

「それだけ頑丈に出来ているのなら―――嬲り殺すには、丁度いい」

剥き出しの殺意に、綾香が愉しげに、哂った。



 
【時間:2日目 ***】
【場所:***】

来栖川綾香
 【状態:仙命樹、ラーニング(エルクゥ、魔弾の射手)】

柏木千鶴
 【状態:エルクゥ】

柏木楓
 【状態:エルクゥ、瀕死(右腕喪失、全身打撲、複雑骨折多数、出血多量、左目失明)】

来栖川芹香
 【状態:死亡】
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