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降りていく。 暗い、暗い地の底へ、どこまでも降りていく。 射していた光も、もう届かない。 *** 冥府までも続くような深い闇の中を、来栖川綾香は下っている。 それは地割れでできた断崖であったはずだった。 しかし今、綾香の踏み締めるは剥き出しの岩くれではない。 切り出され、敷き詰められた明らかに人工の石材である。 断崖を下れば下るほどに足場が良くなっていくという怪奇が、綾香の行く手にあった。 怪奇の萌芽は下るのに都合良く突き出した石であり、窪みである。 いつしかそれらは積み重なって断崖に刻まれた険しい道へと姿を変え、 道はやがてなだらかな段差を形作り、足元からは泥や岩が消えていき、 ついに現れたのはぐるぐると果てしなく延びる、石造りの螺旋階段である。 ぺたり、ぺたり、かつり。 裸足の足音が、塵一つない階段を一歩づつ下っていく。 時折響く硬い音は、綾香の鍛えられた足裏にできた胼胝が床を叩いて鳴るものである。 ぐるぐると、どこまでも螺旋が続く。 あり得ぬことであった。 地割れによって生じた断崖の奥に、このような階段など存在する筈もない。 如何なる手管、如何なる外連の為せる業か。 闇の中に生じた怪奇は既にうつし世を離れ、常世じみた魔境へと往く者を誘うかのようでもあった。 灯り一つない闇の中、血の色の瞳を爛々と、鬼火のように揺らめかせながら、しかし綾香は足を止めない。 歩を止めず、ぐるりぐるりと螺旋を下りながら、来栖川綾香は哂っていた。 何となれば、下る先から漂う微かな風である。 ねっとりと粘つくように吹くそれは、紛れもない悪意と憎悪とを存分に孕んで生温い。 出来すぎた舞台装置を用意した何者かの、この先に待つという証であった。 従者を迎えるその足が、討ち果たすべき何者かへの歩みともなる。 それをして己が道、己が生であると、来栖川綾香は哂っている。 ぐるぐると、ぐるぐると。 螺旋の階段は闇の中、どこまでも続いている。 *** 広い、広い空間である。 射していた光が消え、周囲が闇に包まれるや否やのことだった。 柏木楓が数歩を踏み出せば、目の前にはいつの間にか広大な空間が拡がっていた。 「……」 それは、地下に生じた巨大な空洞のようだった。 振り返れば岩盤を剥き出した壁面は左右遥かに続いて僅かな弧を描き、対面の果ては微かに紛れてよく見えない。 列を成した星のように見えるのは、壁面に等間隔に設えられた蜀台に揺らめく灯火であろうか。 見上げれば天井もまたどこまでも高く、まるで巨大な鳥篭に迷い込んだような錯覚を覚えさせられる。 奇妙、不可解を通り越したその空間の異質に、柏木楓が小さな溜息をつく。 それほどに下った覚えはなく、それほどに歩んだ記憶もない。 このように巨大な空間が神塚山頂の直下、せいぜい数十メートルに存在できよう筈がなかった。 「……」 声を上げるのも、その名を呼ぶのも嫌だった。 だから代わりに、柏木楓はその白い手指を振り上げる。 刹那、細くしなやかな指が、変成していく。 白から黒へ。 たおやかな手指が、禍々しい骨と罅割れた皮膚とで構成された無骨なそれへ。 鬼と呼ばれる、黒い腕。 そして、鮮血を垂らしてかき混ぜた月のような、赤い、赤い爪。 長く、美しく、そしておぞましい刃が、灯火揺らめく薄闇を切り裂くように、弧を描いた。 果たして、 「―――お帰りなさい、楓」 じわり、と。 闇の向こうから滲み出すように姿を現したのは、一人の女。 柏木楓の奉ずる嫌悪を、捏ねて固めて練り上げたような、その女の名を、柏木千鶴という。 「……」 予想はしていた。 覚悟もしていたはずだった。 だが、それでも。 ざわざわと、灰色をした足の多い虫が這い回るような悪寒が、楓の臓腑を掻き乱す。 虫は胃の腑を食い荒らし、ぽろぽろと零れ落ちながら背筋を駆け上って脊髄をかりかりと擦る。 頬の隅にできた吹き出物のような、潰して抉って綺麗な水で肉ごと洗い流したくなるような、 圧倒的な嘔吐感が、楓の三半規管を締め上げる。 今すぐに反吐を吐き散らして、熱いシャワーを浴びて白くてゆったりした服に着替えられたら、 どんなにか素敵だろう。 そんな益体もない空想に縋って、柏木楓はそれが視界に映るという不快に耐えている。 「どうしたの、楓。こっちにいらっしゃい」 紅を塗った唇が、弓形に歪んでいる。 それは、笑顔のつもりなのだろうか。 男に売る媚ばかりを仕舞った倉庫には、きっとそれ以外のものはただの一欠けらも入っていないのだ。 濡れたような唇の隙間からは、くらくらするような極彩色の毒気が漏れ出している。 「もう何も心配は要らないわ。私がずっと守ってあげる」 夜の色の髪がさらさらと、閨の衣擦れのような音を立てて癇に障る。 同じ色をしたこの髪を、この瞳を、毎夜鏡を見るたびに引き裂いてやりたくなる衝動に駆られていた。 どうして、と楓は叫ぶような切実さをもって思う。 どうして私は私でいたいだけなのに、それだけであんなものと似てしまうのだろう。 違うと泣いても。 そんなことないと、首を振っても。 どれだけ否定したって、よく似てきたね、と。 おぞましい呪いの言葉は、私に付きまとう。 その度に、私は私を切り裂いて。 流れる血に、嫌なものが脂のように浮いて流れていってしまうように祈って。 そうして何も、変わらない。 「もうすぐ終わる世界を、二人で越えましょう」 身体に混ざる、どろどろとした、舐めると甘い汁のようなものが、厭わしかった。 そういうものが、澄みきっていたはずの身体を濁らせていくと、柏木楓は信じていた。 日ごと夜ごとに作り変えられていく身体が、疎ましかった。 太く。醜く。弱く。 そういうものになっていくのが、堪えられなかった。 「神様の死んだ、この場所で」 吐いても、吐いても。 切っても、切っても。 自分が、女になっていく。 汚いものに、なっていく。 じくじくと腐って、柏木楓が死んでいく。 喉も嗄れよと叫んでも。 時計の針は止まらない。 「私たちは、家族なのだから」 つう、とこの頬を伝う涙はきっと、身体を満たした嫌な気持ちと汚い汁と、 そういうものに押し出されてきた、私の欠片だ。 口の端に溜まる雫を嘗め取って、舌先に広がる微かな塩辛さに、柏木楓は息を吐く。 一息ごとに朽ちていく、柏木楓であるはずのものが、なくなってしまう前に。 嫌な気持ちの全部と、じゅくじゅくと泡立つ、汚らしいファンデーションの臭いのする汁の全部を、 その大元を、消してしまわなければ。 それが、それだけが、時計の針を止める、たった一つの方法。 「これからも、ずっと」 言葉の端々に混じる吐息が、ひどく不快で。 隙のない口紅から揮発する臭いが、色のない糸を引くようで。 息が、詰まる。 胸を掻き毟りたくなるような猫撫で声が、視界にばらばらと細かい灰のようなノイズを振り撒いていく。 それはどこまでも無為で、限りなく無駄で、果てしなく無益だった時間のリフレイン。 どこもかしこも薄く黄ばんだあの古ぼけた家の、化粧の臭いが充満していたリビングの、 端から何もかもを引っ繰り返して滅茶苦茶にしてやりたくなる衝動と必死に戦っていた時間の、 それは悪質な再現だった。 だから柏木楓は、害と断ずるその声に、 「―――煩い」 と、それだけを、返す。 死ねとは、言わなかった。 消えろとも、言わなかった。 あれは、あってはならないものだ。 あれは、あれば害を為すものだ。 怖気の立つような声と、気持ちの悪い仕草と、吐き気のするような服と化粧と香水と、 そういうもので、たいせつなものを汚してしまう害悪だ。 だからそれは死ぬべきで、消えるべきで、柏木楓が命じる必要などなくただ世の理に従って あるべき姿に還ればいい。 あんなものがなければ、柏木楓の世界は今よりずっと美しくなる。 今よりずっと綺麗な空気と、今よりずっとたいせつなものだけが光り輝く、そういう場所になる。 あってはならないものがあるという、そのことだけが間違いなのだ。 だから、言葉など必要ない。 ただ爪を、血の色の爪を長く伸ばして、その刃を向ければ、それでいい。 「……楓」 嫌な臭いを吸わないように、息を止めて切り刻もう。 着いた血を、いい香りのするボディソープで洗い流そう。 さらさらとした肌触りの白いワンピースを着て、あの縁側で風を感じよう。 夏が終わるまで、次の夏がやってくるまで。 「駄目よ……やめなさい」 綺麗なものだけを、素敵なものだけを部屋に並べよう。 リビングの家具も、ぜんぶ取り替えよう。 静かで、清潔で、やさしい家にしよう。 ずっとずっと、穏やかな空気だけが流れるような。 そんな家に、しよう。 「……殺せないわ、楓。私には、最後の家族を殺したりできない」 深紅の爪が、刃となって。 嫌悪という毒を、塗り込んで。 ちかちかするように瞬く視界の中で。 ただの一歩、踏み込む。 跳躍にも似た、加速。 「―――!」 柏木楓が、世界をあるべき姿に戻す刃を。 一直線に、振るう。 *** ぼとり、と。 水の詰まった袋が地に落ちるような、重い音がした。 だらり、だらりと。 零れ落ちる何かが薄闇の中、ねっとりと黒い水溜りを拡げていく。 「―――」 ゆらりゆらりと灯火の揺らめきが光と影との端境を曖昧にぼやかして、 ざらざらとまとわりつくように暗がりが染み渡る。 ゆらり、 ゆらり、だらり、 だらり、ぐらり、ぐらり。 光と影とが入れ替わり、つられて上と下とが曖昧にでもなってしまったかのように。 世界が、歪む。 頬に感じる感触は、いったい何だろう。 ひんやりと冷たくて、ごつごつと硬くて、岩のようだ。 これではまるで、気付かない内に倒れ伏して、地面に横たわっているみたいじゃないか。 分からない。 どうしてこうなったのか、分からない。 何が起きているのか、まるで理解できない。 振るった刃が風を裂き、ぼとりと落ちたものがあった。 それは勝利を、世界があるべき姿を取り戻したという、そのことを意味していたはずだ。 ならばどうして、倒れている。 ならばどうして、起き上がれない。 ならば、だらりだらりと黒い水溜りを広げていく、あれは一体、何だというのだ。 ―――ああ、ああ。 ようやく、分かった。 目を凝らしてみて、やっと理解が追いついた。 倒れている。横たわっている。起き上がれずにいる。 その全部が、繋がった。 成る程、それなら仕方がない。 だって、ぼとりと落ちて、だらりだらりと黒を撒き散らすそれは。 ―――柏木楓の、右腕だ。 刹那、悲鳴が迸る。 痛みはない。 ただ、生命という単位の危急に際して打ち鳴らされる警告が、少女の全身を激しく殴打していた。 狩猟者の遺伝子が生存を最優先に緊急活動を開始する。 切断面の筋肉が収縮し血管を結紮し再生を加速する。 それは生命の設計図に刻まれた本能であり、本人の意思が介在する余地はない。 脳の演算機能のすべてが応急と再生とに費やされ、精神を保護するためのフィルタが取り払われる。 最初に感じたのは熱である。 貫かれ、修復の途上にあった左眼の奥。 眼窩の底で繋がりかけていた神経の修復が中断され寸断され轢断され、それに対する猛烈な抗議が脳髄へと、 あらゆる緩衝を受けずダイレクトに伝えられていた。 熱い、と感じたのは一瞬。 寸秒を経て、それは衝撃へと変容する。 抉り出された眼球の裏を丹念に炎で炙られるような、地獄の責め苦。 衝撃は、止まらぬ。 燎原の火の如く、それは拡がっていく。 鬼と呼ばれる血に潜む驚異的な再生機能。 その恩恵に与っていた全身の傷、そのすべてが眼窩と同様の、或いはそれ以上の衝撃を以て、 少女という個体を責め苛んでいた。 脚が、胸が、腹が首が肩が腿が指が骨が肉が、歪み、軋み、引き裂かれ捻じ切られ、 また無造作に貼りつけられて捏ね回される。 脳髄という城砦は今やその将兵のすべてが右腕の戦場に出払い、防衛力として機能していない。 ぎ、と獣じみた悲鳴を上げた拍子に噛んだ舌先が千切れ、需要過多の血液を無益に消費する。 びくりびくりと痙攣する全身は残る左腕を抑えきれず、変生した黒腕と紅爪が岩盤を抉って辺りに散らした。 生きようとする本能が、柏木楓を挽き潰していく。 *** 「―――殺せないわ、楓。私には、殺せない」 響く声など、少女に届く由もない。 それでも、のたうつ少女を見下ろして、その白くたおやかな指の先からぽたりぽたりと真っ赤な雫を 垂れ落としながら、女は言葉を続ける。 「あなたは大切な家族ですもの」 血溜まりの中、呼吸と悲鳴との入り混じった声を漏らす実妹を見下ろす、その瞳に宿る光はひどく冷たい。 夜空に青白く輝く星の、数万度の冷厳を湛えて、柏木千鶴が薄く笑む。 「私には、殺せない」 紡がれた声音の意味を理解する余裕は、少女にない。 殺せないと呟いた、息の根は止めぬ、ただそれだけと見下ろした、慈愛と酷薄とが矛盾なく混じり合う その笑みを、地獄の責め苦に苛まれる柏木楓は見ていない。 見えぬことを、聞こえぬことを知りながら紡がれた千鶴の、その言葉と笑みとは、故にその実、 少女に向けられたものではない。 聞く者は、他にいた。 「―――」 ゆっくりと振り向いたその先に、降り立つ一つの影がある。 薄暗がりに裸身を晒す、それは女の影だった。 「……結構な姉妹愛だな、化け物」 呆れたように肩をすくめる影を真っ直ぐに見据え、深く笑んだ柏木千鶴の双眸は、 足元に流れ出す妹の血を呑んだように紅く、どこまでも昏い。 【時間:2日目 ***】 【場所:***】 柏木楓 【状態:エルクゥ、重体(右腕喪失、全身打撲、複雑骨折多数、出血多量、左目失明)】 柏木千鶴 【状態:エルクゥ】 来栖川綾香 【状態:仙命樹、ラーニング(エルクゥ、魔弾の射手)】 - BACK