it's all we could do V/ Ein Sof Ohr







 
「……ねえ、ところでさあ」
「何だ」

まるで一ミリたりとも視線を動かすまいと固く神に誓ってでもいるかのようにじっと『それ』を
見つめながら問いかける志保に、どんよりとした表情で国崎が答える。

「まさかとは思うけど……あれがパンっていうんじゃないわよね……」
「俺に聞くな……」

言いながら脂汗を拭った国崎の視線もまた、志保と同じくその物体に吸い寄せられている。
興味や好奇心を掴んで離さない、というわけでは決してない。
むしろ直視する時間に反比例して精神の許容量が音を立てて削られている気すらする。
だが、目を逸らすわけにはいかない。
本能が命じていた。
絶対に気を緩めるな、油断すれば待つのは一片の情け容赦もない無惨な未来。
ここは野生の戦場だ、敵は眼前、我らは哀れな被捕食者だ。
目を逸らさず、刺激せず、一歩づつ、否、半歩づつ距離を取れ。
音を立てるな立てれば死ぬぞ。
牙を剥き飛びかかってこられたら我らに抵抗の術はない。
背を向けるな、しかし戦うな、我らの為すべきはこの場を生き延びてあれという存在の危険性を
叩き込んだ遺伝子を子々孫々に残すことだ。

そんなはずはない、と。
理性の一部は告げている。
うららかな午後のリビングはいつから戦場になったのだ。
野生などどこに存在する。
目の前にあるのはパンだ。小麦粉を主原料とした食物の一種だ。
少なくとも制作者はそう呼称している代物だ。
目を逸らしても牙は剥かない襲い掛からない。
逃げ出す必要がどこにある。
そう告げてはいるが、その声はひどく弱々しい。
思考の国会議事堂に逃げ込んだ理性の保守本流が拡声器で告げる声は遠く掠れて聞き取りづらい。
残りの理性はといえば、中道右派から改革派まで大連立を組んでシュプレヒコールを上げている。
馬鹿にするな、我らは理性だ。
目の前の事実を認めろ現実認識を歪めるな。
パンという存在は、とりあえず食物に分類されるパンというものは、ふしゅるふしゅると音を立てたりしない。
ぶよぶよと不定形に揺れ、あるいは時折どろりと何かの汁をこぼしながらぐねぐねと皿の上を這い回らない。
青く、黒く、赤く白く桃色であったり紫色をしていたり、それらの混じり合った玉虫色の内部から
自ら淡く光を放っていたりはしない。
牙はない触手もないぎょろりぎょろりと辺りを見回す大きな濁った一つ目など存在しない。
そういう怖気の立つような様々な属性がくっ付いている代物を、我らは決してパンと呼ばない。
などと肩を組んで大合唱する過半数の理性たちは、よく見ればしかし手に手に酒瓶を持っている。
顔を赤らめアルコールに逃避しながらアナーキズムに酔う理性は、自らの存在意義を半ばから放棄している。
常識の枠外からの侵略者に対して、理性は実に無力であった。

「くそ……なんで俺がこんな目に……」
「あのさ……」

そんな内心の葛藤に頭を抱えながら、国崎は『それ』をどんよりと睨んでいる。
くい、と国崎のシャツの裾を引く志保の指先もじっとりと嫌な汗で湿っていた。

「もし、もしかしたらの話よ」
「何だ」
「まだ目を覚ましてなかったら、あたしもアレを……」

ごくり、と恐怖に染まった表情で唾を飲み込む志保。

「……ちっ、その手があったか」
「殺す気!?」
「生き返らせるんだろう」
「できるかっ!」
「ぐぁっ!? 俺が言ったわけじゃ―――」
「……できますよ、きっと」

すぱん、と叩かれた頭を抑えながら言い返そうとした国崎の言葉を、穏やかな声が遮る。
振り返ればそこにはいつの間に戻ってきたのか、古河渚の姿があった。
その手には大きな紙袋を持っている。

「見たことも聞いたこともないようなもの、皆さんが頑張って探し出して、それを舞さんが持って帰ってきて。
 そうやってできたパンですから。たくさんの気持ちとか、願いとか、そういうの、きっと篭ってます。
 なら、起きてほしいなって思いませんか。魔法みたいなこと」

訥々と告げるその顔には、静かな笑みが浮かんでいる。
それは眼前の気弱で小柄な少女が、しかし確かに古河早苗の血を引いていると思わせる、穏やかな静謐である。

「……」
「……」
「わ、わたし、もしかして何か、すごく偉そうなことを言っちゃいましたか……!?」

気圧されるように言葉を失った国崎と志保を前に、少女が急に頬を紅潮させる。
慌てたように手を振って、言葉を継ぐ。

「そ、それに、お母さん言ってました!」
「早苗さんが……?」

手にした紙袋が、がさがさと音を立てる。

「わたしたちは、食べるためにパンを焼くんだって! えっと……だ、だから!
 もし何も起きなくたって、そのときはわたしたちで食べちゃえばいいんです! これ!」

びし、と指さした先に、うぞうぞと蠢くこの世の怪奇。

「……」
「……」
「あ、そうでした。何をしに来たんだか、すっかり忘れてました」

文字通りの意味で絶句し、蒼白な顔で己を見つめる二人の様子には気付くこともなく、
渚がぽんと小さな手を打つ。

「これ、いつまでも出しっ放しにしておいたらダメなんだそうです。乾いちゃいます」

ひょい、と無造作に手を伸ばし、きしゃあと奇妙な威嚇音を立てるのを無視して
充血した一つ目の辺りをがしりと掴む。

「ひ……!」
「お、おい……」

持ち上げた拍子に、自動車から漏れた油のように七色に光を反射する黒い汁が垂れる。
ずるりと暴れる触手が指に巻きつくのをまるで意に介さず、渚が表情も変えずにそのおぞましい物体を
紙袋に放り込み、口を閉じた。

「……? どうかしましたか?」
「お前……いや、何でもない……」
「い、意外と根性あるわね……」

がさがさと不気味な音を立てる紙袋を手にしながら首を傾げる渚。

「お母さんの準備が終わるまで、くつろいでて下さいね」
「あ、ああ……」
「うん……」

かける言葉を見失った二人が、沈黙のままにその背を見送る。
扉の閉まる音と同時、顔を見合わせると、ほぼ同時に深い溜息をつき、
疲れきったように椅子に座り込んだ。

「しかし……」
「ねえ……」
「あれが何であるかはさておくとして」

肩をすくめた国崎が、テーブルの端に置かれていたカップを手に取って呟く。

「死人が生き返るだの、んな非常識なことが―――」

つい今しがたまで悪夢の産物に支配されていたテーブルの中央には、いやらしく粘つく黒い汁が
点々と飛び散っている。
それに眉を顰めながら冷めた紅茶を啜った、その瞬間。

「ぐああぁぁぁっ!?」
「な、何よ、また!? 今度はどうしたってのよ!?」

突然奇声を上げて椅子から転げ落ちた国崎が、そのままゴロゴロと床をのた打ち回る。
取り落とされたカップが床に落ち、重い音を立てた。

「うぉぉーっ! 口が! 俺の口が!」
「く、口が!?」
「口の中が!」
「口の中が……!?」
「か、痒い! 熱い! かゆ熱ぃー!」
「……。微妙な症状ね……」

びたんびたんと水揚げされた魚のようにのたうつ国崎が酸素を求めるように突き出した舌は
しかし明らかに赤く腫れている。

「何だ、何を入れやがった!? 毒か! 毒なのかっ!?」
「ちょ、あんた、毒って……ああ、これっ!」

言われ、国崎の取り落としたカップに目をやった志保が表情を凍らせる。
中身はすっかり床の上にぶち撒けられていたが、陶器のカップ自体は小さく欠けただけで
粉々に割れることもなく転がっている。
恐る恐る拾い上げた志保がたった今、目にしたものを確かめるように中を覗き込む。

「……やっぱり」
「な、何だ!? やはり、毒だったのか……!?」
「いいえ、違うわ。……自分で見てみなさいよ」

床に倒れたまま腫れ上がった舌を突き出し、息も絶え絶えといった風情の国崎の鼻先に
志保がカップを差し出した。
それを目にして、国崎が思わず呻き声を漏らす。

「……! 何……だと……」
「理解したようね……」

悲しげに首を振る志保が、手にしたカップにもう一度目をやる。
その小さく欠けた飲み口にはくっきりと、どす黒く、しかし不気味な七色に照り輝く痕が付着していた。

「アレの……汁が……」
「そう、一滴……紅茶の中に撥ねてたのよ……」
「くそ……そうとも知らず、俺は……」
「可哀相だけどあんた、もう助からないかもね……」

目を伏せた志保が、

「……ん?」

ちょいちょい、と奇妙な感触に振り返る。
視界を埋めていたのは見事な白銀の体毛である。

「あら、あんた……えーと、カワ……川なんとか」
「……川澄舞」

ぼそりと答えた白銀の主が、志保の制服の裾を摘んでいた。

「そうそう、川澄。川澄さんね。で、その川澄さんが何か志保ちゃんにご用?」
「……」
「ちょ、ちょっと……?」

ずい、と志保を押し退けるようにして身を乗り出した舞が、無言のまま蒼い顔の国崎を見下ろす。

「というか、お前ずっといたのか……」
「……」
「まるで気付かなかっ……もがッ!?」

国崎の言葉を遮ったのは、物理的な障害である。
舞がその手を、否、その手に握り締めた何かを国崎の赤く腫れた口腔へと捻じ込んでいた。

「あんた、何を……!」
「……」

慌てて止めに入った志保が舞の腕を掴むが、時既に遅し。
その手にしていた何かは、国崎の力なく開かれた口の中へと放り込まれている。
ただ、ぱらぱらと白い粉のような何かが、舞の手から零れ落ちるだけだった。

「な、何だこりゃ―――ぐおおおっ!」
「……! ど、どうしたの!? まさか……更に毒を……!?」

途端、口元を押さえて突っ伏した国崎を見て志保が戦慄する。
横目で睨んだ舞の表情は変わらない。
白銀の長髪の向こうに見える瞳の涼やかさは、いまや冷徹に実験動物を見つめる
厳格な研究者のそれであるかのように志保の目に映る。

「あ、あんた……!」

言いかけたときである。

「……、」
「何!? 何が言いたいの!?」

痙攣する身体を抱き締めるように蹲った国崎が、何事かを呟いたように聞こえて、
志保が耳を寄せる。

「……、し……」
「し……?」
「……し……!」
「うん、うん、それから!?」

一言一句を聞き漏らすまいと、志保が精神を研ぎ澄ませる。

「し、し……」
「……」
「……しょっぺえええっ!」
「紛らわしいわっ!」

思わず全力で引っぱたいた。

「うっさいのよあんた! もう静かに死になさいよ!」
「お前、大概ムチャクチャ言うな!」
「うわ、汚なっ」

叫び返した国崎の口から、何かが吹き出す。
舞に捻じ込まれた、それは白い粉のようなもの。

「これ……もしかして、塩?」

頬に飛んだそれを指先に取り、しげしげと眺める。
舐めてみる蛮勇はない。
しかしそれは、普段から食卓の上で見慣れた結晶……食塩のそれであるように、志保には思えた。

「ああ……だからそう言ってるだろ……」
「あんたねえ……!」
「畜生……口の中がかゆ熱しょっぺえ……ん?」

もう一発いってみようか、と憤りに任せて平手を振り上げた志保の前で、
国崎が目をしばたたかせる。

「死ぬほど塩辛いが……痒くも、熱くもない……?」
「え……?」

目の端に涙が滲んだままの国崎を見れば、果たして真っ赤に膨れていたはずの唇からも
その腫れが引きつつあるように感じられる。

「どうして……」

呟いた志保の背後に、静かな気配。
向ける視線の先に、白銀の少女が立っている。
その手には澄んだ水をなみなみと湛えたグラス。
す、とグラスを国崎に差し出した舞の表情には、ある種の確信が浮かんでいた。

「あんた、あの塩……もしかして」
「……消毒」

こくりと頷く。

「そういうことは、まず口で言えっ!」

塩を吐き出し、瞬く間に水を飲み干した国崎が舞に食って掛かろうとする。
リビングに穏やかな声が届いたのは、まさにその瞬間であった。

「皆さーん、準備が終わりましたよー」

古河早苗の声が、奇跡の開幕を告げていた。


***

 
「しかし、ただの一滴であの惨劇だぞ……本当に食べさせていいのか……?」
「被害者が言うと説得力が違うわね……」

遮光性のカーテンを閉め切った薄暗い診察室の中に、ぼそぼそと囁き声が響く。
白いパイプベッドを囲む影は五つ。
いまだ目を覚まさぬ春原陽平を除く、沖木島診療所に集った全ての人間が一同に会していた。
中心にいるのは古河早苗である。
その手にした紙袋からは時折がさごそと不気味な音が聞こえてくる。

「そもそも食べさせるったって……なあ」
「そうね……相手があれじゃあ、ねえ」

彼らの囲むベッドの上には、横たわる一つの躯がある。
川澄舞の持ち込んだ、その少女の名を吉岡チエという。
失血死とみられるその死に貌は暗い室内にぼんやりと浮き上がるように白い。
苦痛に歪むことのない、眠るように目を閉じた無表情がひどく、冷たかった。

「ただ寝てるのとはワケが違うぞ……」
「しっ、……始まります」

尚もこぼす国崎の言葉を遮ったのは古河渚である。
がさり、と音がした。
早苗が、口を開いた紙袋に手を入れていた。
ぽう、と淡い光が漏れる。
早苗の手に掴まれ、引きずり出された怪奇の結晶がほんのりと光を放ち、薄暗い室内を照らしていた。

「ん……?」

何かに気付いたように国崎が声を漏らす。

「この光の、色……」

先刻、陽光の下で見たそれは白く輝いているように思えた。
しかし闇の中、それの放つ光だけを見れば、そこにあるのは白の一色ではない。
限りなく澄んだ純白の海の中に、ただ一滴の異彩が混じっている。
それは、淡い淡い、空の青。

「これ……」
「……」

呟いた志保と、ほんの僅か表情を険しくした舞が見つめる、その目の前で、
ぞろぞろと蠢くそれが、少しづつ、少しづつ光を強めていく。
澄み渡る白から、透き通るような青へ。
輝きを増すにつれ、その光は彩を変えていく。

「この……、感じ……?」

煌く青い光が、小さな世界を、包み込んでいく。
それは吉岡チエを照らし、古河早苗と古河渚を包み、川澄舞の白銀の毛皮を輝かせる。
国崎往人が目を覆い、そして長岡志保は一つの記憶を呼び起こす。

「あの時と……同じ……!」

神塚山の麓、小さな社の境内で。
弾けた青が、世界を割り裂き、長岡志保に、流し込む。
痛みと、混乱と、そうして届けた小さな祈りの、記憶。

「また、何か……、拡が、って……!」

ぬめりと歪んだ視界が、意識を刈り取ろうとする。
強くあろうと、その先にある願いを、祈りを、意思を届けようと、決意したはずだった。
しかし、踏ん張ろうとした足に力が、入らない。
膝が、震えていた。
心が克服したはずの恐怖を、身体が揺り起こそうとしていた。
視界は歪む。
力が抜ける。
身体が、どこにあるのか曖昧になっていく。
心が、何を支えればいいのか分からなくなっていく。
揺らぐ記憶が、次第に黒く、腐って糸を引く絵の具で塗り替えられていく。
長い、絶望的に長い悪夢だけが、そこにあったように、感じられた。
正気と狂気の狭間を遥かに飛び越えた、息もできない無間の地獄。
そんなものに、もう一度浸らねばならないのか。
癒えきらぬ疲労と苦痛への恐怖とが志保の足元を掬い、抵抗する力を奪っていく。
ぐらり、と。
ついに重力に逆らえず上体が傾ぐのを、志保はどこか、他人事のように感じていた。
倒れる、と。
支えきれない、と。
諦念が意思を塗り潰そうとした、その小さな体を、

「―――」

がしりと掴む、手があった。
思わず目をやり、歪む視界は影しか映さず、しかし、声は聞こえた。

「今度は、支えてやる」

国崎往人の、声だった。


刹那。
世界が、変わる。



******

 
 
そこには何も、残らない。


それは、ただの一言、ただ一つの想いを伝えるだけの、束の間の夢物語だ。


それを奇跡と、人は呼ぶ。



***

 
 
古河渚が目にしたのは、笑顔である。
光の中だった。
薄暗い診察室はどこにも見えない。
小さな瓶の沢山置かれた薬棚も、乱雑に書類や本の散らばったデスクも、
銀色の舌圧子が幾つも立てられたグラスも、光の中に溶けたように見当たらない。

ふわふわと、浮き上がるような感覚が足元から伝わってくる。
光の海にたゆたうように立つ渚は、しかしそんな情景を気にかけることもない。
ただ、目の前に突然現れた影に心を奪われ、言葉もなく立ち尽くしている。

「―――」

影が、笑う。
慣れ親しんだ笑みに、その力強さに浮かぶ涙を抑えきれぬまま、その名を呼んだ。

「お父さん……!」

古河秋生。
渚が父と呼んだその影は、言葉を返すこともなく、ただ静かに笑んでいる。
その目に浮かぶ儚い色に、古河渚は気付かない。
ただ父に、我と我が身と、そして家族とを護るその広い胸に飛び込まんと、駆け出そうとする。

「お父さん、お父さん、お父さ……!」

足元がふわふわとして走りづらい。
躓きそうになりながら歩を踏み出す渚の、今まさに駆け出そうとしたその腕が、

「え……!?」

ぐ、と引き寄せられていた。
強い、力。
思わずバランスを崩し、光の海に転びそうになる渚を、やわらかいものが受け止める。

「……お母さん……?」

見上げれば、古河早苗がそこにいた。
渚を抱きしめるように腕の中に包んだ早苗が、無言のまま、首を振る。

「お母さん! お父さんが来てくれましたっ! これで皆でお家に帰れますっ!」
「……」

言葉はない。
渚を包む腕に、ほんの僅か、力が込められる。

「お母さん! ほら、お父さんですっ! お帰りなさいをしないと!」
「……」
「お母、さん……?」

間近に見上げた母の瞳は、しかしその奥に秘めた色を垣間見せることもなく、
薄暮の静謐だけを浮かべている。
じっと、光の中に立つ秋生だけを真っ直ぐに見つめながら、早苗はただそっと、
渚を抱きしめて立っている。

「―――」

母の瞳が意味するところを、古河渚は理解できずにいた。
その腕に抱きしめられたまま、ただ温もりとやわらかさだけを感じながら、
言葉を差し挟むこともできず、ぼんやりと眼前に立つ父を見つめていた。
眠りに落ちる寸前のような心地よさが、渚の全身に行き渡っていく。

「……」

次第に薄れていく光が、落ちかけた瞼の重さによるものか、それとも光そのものが
本当に小さく消えていくものなのか。
微睡みが、思考と弛緩との境界をかき消していく。

消えていく。
淡い光が、
浮き上がるような感覚が、
そうして最後に父の笑顔が、
消えていく。

最後まで、最後まで。
古河秋生は静かに、しかし力強く、笑っていた。



***

 
 
光の中に、立っていた。

「 く に さ き ゆ き と ー ! 」
「うぉっ!?」

背後から響く元気のいい声に、反射的に身を躱しながら振り返る。
捻った身体のすぐ脇を、鉄砲玉のように駆け抜けていく姿は―――そこにない。
代わりに佇むのは、どこか困ったような、ばつの悪そうな苦笑いを浮かべた少女である。

「久しぶり」
「みち、る……?」

見上げてくる少女には、顔をくしゅりと歪めるような満面の笑みも、或いは稚気に満ちた怒りも、
常に浮かんでいたはずのそのどちらの表情もない。
咎めるような、それでいながらどこか甘えるような苦笑は幼い少女には不釣合いで、
しかし国崎は違和感を無視して少女に駆け寄る。

「お前、今までどこに……いやそんなことはいい、無事だったんだな!
 遠野は、遠野は一緒じゃないのか!?」
「……ここまで、残ったんだねえ」

手を体の後ろで組んだまま、くるりと少女が踵を返す。
苦笑が隠れ、黄昏色の声音だけが残った。

「みちる……?」
「どうしよっかなー。こんなやつ、たよりにならないしなー」
「おい……!」

見えない石を蹴るように足をぶらぶらさせながら、組んだ手の指をせわしなく動かしながら、
少女は国崎を無視するように何事かを呟いている。
その声が何故か、幼子が震える口元を引き結んで張り詰めた心の糸の上を歩いているように、
今にも泣き出しそうになるのを必死に堪えているように聞こえて、国崎が少女へ手を伸ばす。

「おい、みち―――」
「うんっ!」

振り向かせようと、肩に手を掛けようとした瞬間、少女が大きく頷く。
思わず、手を引いた。

「いいよ、って。きっと、ゆってもいいよって。美凪はきっと、ゆるしてくれるから。
 だから、国崎往人に、おねがいしようかな。……うん、そうしよう」
「お前、何を言って―――、」

何度も何度も、誰かに言い聞かせるように頷いた少女が、くるりと身体ごと振り向く。
泣き顔の形に歪んだ目の端に浮かんだ涙を勢いよく拭って、無理やりに笑うまで、ほんの一瞬。
言葉を失った国崎に、少女がびしり、と指を突きつける。

「―――ここまで来い、国崎往人っ!」

高らかに言い放つそれは、命令のかたちをした、願いである。

「わたしのところまで! 今すぐ! 十数えるうちに来なかったら承知しないぞ!」

笑みに隠した懇願と、涙に融かした哀願と、声音に秘めた切願と。

「わかったか、へんたい誘拐魔!」

だから、国崎往人はそういうものを受け止めて、取り落とさぬよう顔を顰めて。
いつも通りの仏頂面で、難儀そうに天を仰いで、深い溜息をついて、

「……気が向いたらな」

それだけを、返す。

「うん」

ひどい面倒事を押し付けられたような、ぶっきらぼうに響く国崎の声音にも、
少女は怒ることも、落胆することもなく、ただ頷く。
無理やりに作られた仮面の笑みの中、ほんの僅か滲んだのは、少女の年相応の、
本当の笑顔だっただろうか。
くるりと再び踵を返したその表情は、もう見えない。

「……きっと、きっとだからね」
「……」

小さく手を振ったその後ろ姿が、次第に薄れて消えていく。

「じゃね。ばいばい」

その声を最後に。
少女の姿は、もう見えない。

「―――」

小さく、細く、疲れたように息をついた国崎が、身を屈める。
光の中、少女の消えた場所に落ちているもの。

「……お前、もう動かないんじゃなかったのか」

それは掌に収まるほどの、みすぼらしく薄汚れた何か。
国崎往人と共に長い旅を終えたはずの、小さな相棒。

「―――」

それは、言葉を話さない。
縫い付けられた口は開かない。
汚れて黄ばんだ継ぎ接ぎだらけの布切れと、ボタンや毛糸の顔立ちと。
そういうもので、できている。

「……ああ、分かってる」

人形の指さす先には、窓がある。
光の中に浮かんだ窓は、診察室のものによく似ている。
似ているが、違った。

「あれ、か……」

窓の外には、森の緑と蒼穹と、そうしてそれらを繋ぐ、黒い糸が見えている。
診療所まで歩く最中、嫌でも目に付いたそれは島の南東端に突如現れた、異様な建造物だった。
北向きの窓から見えるはずのないそれを指さす人形は、つまりそういうことなのだろうと頷く。

「あれ登らなきゃならんのか……面倒だな。やめちまうか」
「―――」

人形は言葉を話さない。
しかし黒いボタンの瞳はじっと、国崎を見つめている。

「……」
「―――」
「……冗談だ」

何度目かも分からない深い溜息をついて、国崎が肩をすくめる。

「行ってやるさ。それがこの旅の、本当の終わりならな」

言って頷いた、その途端。
それを聞いて、まるで安心したかのように。
ぱたり、と小さな音がした。

「……」

手を、伸ばす。
拾い上げて、埃を払った。
黄ばんだ継ぎ接ぎだらけの小さな相棒は、もう動かない。
もう二度と、動くことはなかった。


「……長い間、ご苦労さん」



***

 
 
どこまでも拡がる暗闇の中に、一筋の光が射している。
浮き上がるように照らし出されているのは白く簡素なベッドである。
小さな寝台の他には何もない、書き割りの空間。
そんな子供だましの舞台装置のようなベッドの傍らに、川澄舞は立っていた。
舞の覗き込む、どこからか射す光に照らされて目映いほどの白さを際立たせる寝台の上には、
一つの骸が横たわっている。

それがたとえ、二度と開かぬはずの眼をゆっくりと瞬かせ、やがてしっかりと見開いたとして、
散大しきった瞳孔のどんよりとした昏さは黄泉路にある者のそれである。
或いは血の通わぬ青黒い唇を震わせるようにして何事かを囁いたとして、
それは冥府に惑う亡者のおぞましい聲である。
蘇る、ということの醜悪さを前にして、しかし川澄舞は表情を変えない。
静かに、ただじっとその瞳を見返し、囁きを聞き届けようと耳を澄ましていた。

「……とび、ら……、」

眼前に横たわるそれは、決して生者ではない。
その手を取り、彼岸からの帰還を喜び合う道理もない。
だが、と。
川澄舞は、思考にすら届かぬ、その在り方を以て断言する。
それが、なんだ。
生者とは死んでいないものだ。
死者とは生きていないものだ。
ただ、それだけのものだ。
喪われたことを悔やむなら、抗えばいい。
生死の境とはこの世の理の根幹であり、ただそれだけのものだ。
この世すべてに抗うならば覆る、その程度の境でしかない。
それをして川澄舞を押し留めることなどかなわない。

「……せ……り、か……ひら……く……」

故に眼前の生にも死にも意味はなく、吉岡チエという命が喪われたことを、川澄舞は悔やまない。
それは自身の取り戻すべき力ではなく、護るべき、奪還すべき約束の地ではなく、
ならばそこにあるのはただ、果たすべき約定の果たされた、その結果でしかない。
吉岡チエという骸を見つめる舞の瞳は、だから何も映していないかのように揺ぎ無く冷ややかで、
その思考、その在り方が既に此岸に生きるもののそれではないことを自覚しないまま、
川澄舞という異形はじっと亡者の聲を聞いている。

「……あり……が……と……」

砂埃を散らしながら乾いた荒野を吹き抜ける風のように掠れた聲が最後にそう呟き、
やがて震える口を閉じ、どろりと重い瞼を閉じて、前触れもなく光が消えても、
川澄舞はただゆっくりと一つ、瞬きをしただけだった。
その瞳が見つめる先には、真黒い闇だけが残っている。
その先にあったはずの白い寝台は、もう見えない。



***

 
 
そうして、夢は醒める。


ただの一言、ただの一つ、想いを伝えて、束の間の奇跡は、その幕を下ろす。


残されたものを、人という。



******

 
 
光が消え、目を開ければそこは、薄暗い診察室の中だった。
時が止まったかのような静けさが、そこにあった。
五人の囲んだ白い寝台の上には、目を閉じた吉岡チエの骸が、変わらず横たわっている。
青白い瞼を開けることもなく、起き上がることも、止まった心臓が再び鼓動を刻み出して
その全身に熱い血潮を送り込むことも、なかった。
骸は骸として、そこにある。
それは光の弾ける前と、何一つとして変わらない光景のように、見えた。
ただ古河早苗の手から落ちたらしき怪奇の産物が、居心地悪そうにもぞもぞと床の上を
這い回ろうとしているのだけが、幾ばくかの時間の経過を示しているようだった。

「今の……は……」

ぼんやりと重い頭を振って呟いた、長岡志保の言葉がきっかけであったかのように、
時計の針が動き出す。
弾かれたように振り向いたのは古河渚である。

「お母さん! 今の……!」
「夢……だったんでしょうか……」

珍しく噛みつかんばかりの勢いで迫る渚に、しかし早苗の反応は冴えない。
こめかみを押さえながら歯切れの悪い答えを返す母に渚が食ってかかる。

「そんなことないです! お父さん、いました! だけど消えちゃって……!
 あれ、どういうことでしょうっ!?」
「ごめんなさい、渚……私にも、よく分かりません……」

嘘だ、とそのやり取りを眺めていた志保は直感する。
古河親子が何を見たのかは分からない。
結局のところ、志保には声や想いや、自身を通り抜けていくそういうものが何であるのか、
どういったものであるのかを理解することはできなかった。
それは色であり、音であり、光であり、それらすべての断片だった。
砂粒ほどのピースを繋ぎ合わせて意味を見出すことなどかなわない。
乱れる鼓動も、いまだ収まらぬ荒い呼吸も、胃が引っくり返りそうな嘔吐感も、
それを解明する鍵にはならなかった。
しかしそれでも、と志保は思う。
その何かを受け取った者たちを眺めるだけで分かることも、中にはある。
伏せた視線を落ち着かない様子で細かく動かしながら言いよどむ早苗の挙動不審は一目瞭然であった。
あれ程に分かりやすい嘘はそうあるまい。
渚が見たという父の姿、それをはぐらかしているのはつまり、その男について早苗は
何かを知っているということだ。
或いは、その身に何が起こったのかを。

「お母さん、あれはきっと夢なんかじゃありませんっ」
「……」

それを隠す理由は、分からない。
だが察することは、できた。
それはきっと、知ってしまえば渚自身が深く傷つく、そういうことだ。

「ねえ、ちょっとあんた……」

困り果てた様子の早苗に助け舟を出そうとした、そのときである。
きい、と。
錆びた蝶番の立てる軋んだ音が、薄暗い診察室に響いていた。

「なあ、誰かいるの……?」

続いて聞こえてきたのはどこか間の抜けた、眠たげな声。
もうすっかり耳に馴染んだ、その脱力感に満ちた声に、志保が思わず振り向く。

「……! あんた……!?」
「あれ、長岡……? 国崎さんも……」

ぼりぼりとその乱れた金髪を掻き毟り、大きなあくび交じりに自らを指さすその少年に、
駆け寄った志保が挨拶代わりに平手を入れようとして、その身に巻きつけたシーツの下で
まるで膨らみを隠せていない腹が目に入り、咄嗟に手を止める。
代わりに、その名を呼んだ。

「バカ春原……!」
「いきなりご挨拶ですねえっ!」

春原陽平。
希代の神秘をその身に宿した、傷だらけの少年が、そこにいた。

「バカで済ませてやったんだから感謝しなさいバカ!」
「はあ? ムチャクチャ言うなよ、おまえっ」
「散々心配させて……!」
「……」

テンポよく続く罵声に何かを言い返そうとした春原が、言葉を止めた。
志保の表情に、紛れもない安堵の色があるのを見て取ったからだろうか。
悪態の代わりに、辺りを見回して不審そうに尋ねる。

「……なあ、それよりここ、どこ? あの人たちは……?
 っていうか、僕ぁ一体……」
「ああ、えーっと、話せば長くなるような、そうでもないような感じなんだけど―――」
「何だ、目を覚ましたのか春原。なら、丁度いいな」
「そうだ、あんたからもこのバカに説明を……、って何で荷造りしてんのよあんた!?」

振り返った志保が思わず声のトーンを上げる。
その視線の先では、屈み込んだ国崎が自らのデイパックをごそごそと弄りながら
必要なものとそうでないものを選別し、中身を入れ替えようとしていた。

「何って、外に出るからに決まっているだろう」
「そういうことを聞いてるんじゃないっ!」
「痛ッ!? いきなり蹴りを入れるな!」

荷を詰め終わったのか、デイパックの口をしっかりと閉めた国崎が立ち上がり、
蹴られた背中をぱたぱたとはたいてから荷物を背負う。

「ったく……。すぐに戻る、そう心配するな」
「心配なんかしてないわよ! 説明しなさいって言ってるの!」

答えず、国崎が顔を向けたのは古河早苗である。

「なあ、あんた……」
「はい、何でしょう?」
「志保ちゃんを無視するなぁーっ!」

志保の大声に片耳を塞いで、国崎が軽く早苗に頭を下げる。

「悪いが、俺が戻るまでこいつらを頼めるか」
「ええ、それは構いませんが……」
「ちょっと、あんたねえ……!」
「ぼ、僕も状況についていけてないんですけどっ!?」
「やかましいっ!」
「ひぃぃっ!?」
「あ、あの皆さん、落ち着いてくださいっ……」
「……」

背後の喧騒を完全に無視して戸口へと歩き出した国崎に、早苗が声をかける。

「そういえば、どちらへ?」

振り返らずドアノブに手を掛けた国崎が、肩で扉を押し開けた。
開いた扉の隙間から差し込む光は逆光になり、国崎のシルエットだけを映している。
影になった国崎が、片手を挙げて答えた。

「ちょっとそこまで、迷子のガキを迎えにな」

きい、と閉まる扉の向こうにその姿が消えるまで、ほんの数秒もかからない。
止める声も、なかった。

「いってらっしゃい。……あら」

ふとした気配に横を見れば、そこには輝く銀の毛皮。
いつからだろうか、川澄舞が立っていた。
片手には部屋の隅に転がしていたはずの抜き身の一刀を提げている。

「舞さんも、お出かけですか?」

こくりと頷いた拍子に、白銀の長髪がさらさらと流れた。

「これ……」

ぼそりと呟いて掲げた手に、もぞもぞと蠢くもの。
朽ちた自動車から垂れ落ちる廃棄油のような、不気味に照り輝く玉虫色の何か。
至宝の結晶、怪奇の根源をむんずと握り締め、舞が尋ねる。

「もらっても、いい?」
「ええ、構いませんよ」

即答に、思わず外野が反応を返す。

「いいの早苗さんそんな簡単に!?」
「ええ、元々は舞さんが材料を揃えてきたものですし……」
「うわ何あれ怖っ!?」
「あんたはちょっと黙ってなさい」

それらの声を聞いているのかいないのか、ぼたぼたと垂れるおぞましい汁で
美しい毛皮に覆われた足をべったりと汚しながら、舞が僅かに表情を変える。

「……ありがとう」

ほんの幽か。
春の風に滲む花の香りのような微笑に、早苗が満面の笑みを返して、頷いた。


 
  
【時間:2日目 午後2時すぎ】
【場所:I-7 沖木島診療所】

古河早苗
【所持品:日本酒(一升瓶)、ハリセン】
【状態:健康】

古河渚
【所持品:だんご大家族(100人)】
【状態:健康】

長岡志保
 【所持品:なし】
 【状態:健康】

春原陽平
 【所持品:不明】
 【状態:妊娠】


国崎往人
 【所持品:人形、ラーメンセット(レトルト)】
 【状態:法力喪失】

川澄舞
 【所持品:村雨】
 【状態:健康、白髪、ムティカパ、エルクゥ】
-


BACK