it's all we could do







 
つう、と頬を伝う涙の意味を、古河早苗は知っている。
知っていながら声は漏らさず、ただ静かに目を伏せて、流れる雫を拭った。
傍らに眠る愛娘の髪を、濡れた指先でそっと撫でる。
涙から滲む悲しさが、温もりに溶けていくように、感じられた。

「ん……」

薄く開いた古河渚の目に映る早苗は、だからいつも通りの微笑みを浮かべていられただろうか。
蒼穹を染めた赤光を、渚は知らない。


***

 
「おはようございます、お母さん……」
「おはよう、渚」

寝ぼけ眼を擦りながら上体を起こした古河渚が、ぼんやりと辺りを見回す。
ゆっくりと右を見、左を見て、小さなあくびを一つ。
低速回転を続ける脳が、ここが自室ではないことを徐々に認識していく。
沖木島診療所に併設された居住空間、その小さなリビングと仕切り一枚で隔てられた部屋。
現状と記憶とがようやく一致して、渚の表情が曇る。
ほんの少し、肩を落とした。

「……わたし、また寝ちゃってたんですね」
「色々あったから、疲れていたんでしょう」
「そうでしょうか……。あれ、お母さん」

首を捻る渚が、不意に早苗へ呼びかけた。
毛布を畳みながら早苗が答える。

「何です?」
「なんだか、目が赤くありませんか?」
「……」

ぴくり、と。
畳んだ毛布の四隅を揃える手が、僅かに揺れた。
表情には微笑を貼り付かせたまま、早苗が口を開く。

「……これは」
「……?」
「……私も、少しうとうとしちゃいましたから。そのせいかも知れませんね」
「そうですか……お母さんもお寝坊さんです。……あ、いえ、違いますっ」

言ってから、わたわたと顔の前で渚が手を振ってみせる。

「お母さんはわたしなんかより、ずっと疲れているはずですっ!
 少しくらい眠たくても当たり前です! こ、今度はわたしがちゃんと起きていますので
 お母さんはベッドで休んでくださいっ」
「……ありがとう、渚。でも大丈夫ですよ」

容易く誤魔化されてくれるその純粋さと拙い気遣いとが微笑ましく、また哀しくて、
早苗の声が微かに喉に詰まり、掠れる。
たとえそれが単なる先送りであっても、いま伝えなくてもいい真実があると、思いたかった。

「さ、顔を洗っていらっしゃい。それから帰る支度を始めましょう」
「え……?」

きょとんとした顔。
畳み掛けるように続ける。

「渚が寝ている間にまた放送があったの。この島の、」

口をついて出そうになる、殺し合い、という単語を辛うじて止めた。
渚には、聞かせたくなかった。
誰に失笑されようと、そういうものから遠くあってほしかった。
慎重に言葉を選ぶ。

「……戦いは、もう終わったのですって。六時には帰りの船が出るそうです」
「そうなんですか……」
「だから、用意をしないとね」
「あ、お父さんはどうするんですか?」
「……」

何度目かの短い沈黙が降りた。
渚がその意味を推し量ることは、ない。

「やっぱり、ここで待っていた方がいいんでしょうか……?」
「……秋生さんなら、大丈夫ですよ」

結局、それだけを口にするのが精一杯だった。


***

 
洗顔を終え、少し饐えた臭いのするタオルで顔を拭きながら戻った渚が目にしたのは、
ダイニングテーブルの上に細々としたものを並べている母の姿である。

「……何してるんですか?」

見ればそこには大小のボウルや目の粗いザル、麺棒に秤、幾つかの匙と小皿。
小麦粉、砂糖、塩、色の濃い小さな瓶。
そしてそれらの中心には、どこから探してきたのか大きな木製のこね板。

「見ての通りですよ」
「でも、これって……」

小麦粉の袋と並べられた牛乳や卵の賞味期限を気にしながら、渚がテーブルの上を見回す。
さすがに物心ついたときから慣れ親しんだ光景である。
理解は早かった。

「パンの材料……でしょう?」
「そうですよ」

蛇口をひねり、計量カップに水を溜めながら早苗が振り向く。
その笑顔には一点の曇りもない。

「―――パンを、焼きましょう」

それは、古河渚がこの世に生を受けてからずっと見てきた、始まりの笑み。
どれほど古い記憶の中にもある、無尽蔵の温もりと優しさとをもたらす、笑顔だった。
それが当たり前に存在する幸せを目一杯に享受して、しかしそのくすぐったさを誤魔化すように、
渚が珍しく少しだけ悪戯っぽい表情を作る。

「……お母さんが?」
「ええ、何か?」

まるで通用しなかった。
理解されなかったわけではないのだろうと思う。
ただ、受け止められた。

「い、いえ……」

かなわないな、と思いながら言葉を濁す。
代わりに浮かんだ疑問を口にした。

「だけど、天沢さんたちや川澄さんはまだ……あ、もしかしてそれもわたしの眠ってる間に……?」
「違いますよ、渚」

やわらかく、それでもきっぱりと否定された。
どこか遠く、たとえば十年後や二十年後や、そういうものを見ているような表情で、早苗が続ける。

「私たちは何かを食べなければ、生きていけないから……だから、パンを焼くんです」

ひどく透き通った声音だった。
まるで今ではないいつか、ここではないどこかに向けて語りかけるような言葉。
文字通りの意味よりもずっと重い、今はまだ自分の知らない何かを含んでいるように、渚には思えた。
それが何かは分からない。
悲しいもののようにも、苦しいもののようにも、あるいは本当に愛おしいもののようにも、思えた。
そう思えて、だけど何だかは分からなくて、分からないから手を伸ばそうと、渚が口を開きかける。

「お母さ―――」

ばん、と。
テーブルの上の小さな瓶が倒れるような衝撃を伴って響いた、恐ろしいほどの音に言葉がかき消される。
飛び上がるように振り向いた、その先には扉がある。
白地の薄い扉の向こうには、沖木島診療所の診療室と、待合室。
音は、そちらの方から聞こえた。

「……」

誰かが、いる。
暴力的な手段で診療所に侵入した誰かが、扉の向こうにいる。
唾を飲み込もうとして、口の中が乾いているのに気付く。
起きてから水の一杯も飲んでいなかった。
貼りつくような喉の痛みが、奇妙な静けさと混ざり合って鼓動を速めていく。

「―――」

す、と。
音もなく歩を踏み出した母の背に、かける言葉も浮かばない。
一歩、二歩、三歩。
震えも怯えも、その背には感じ取れない。
表情は、見えなかった。
ドアノブに手を、掛ける。
ゆっくりと回し、流れるように戸を引いた、そこに音はなかった。

「……、」

扉の向こうには、暗がりが広がっている。
直射日光に弱い薬品類も置いてある場所だ。
日差しの少ない北向きの窓に、更にブラインドが閉められている。
暗く、どんよりと重いその空間に、

「―――おかえりなさい、舞さん」

白く輝く毛並みが、あった。



***

 
 
窓から射すやわらかい陽光が室内を満たしている。
音もなく、暖かく。

はらはらと、雪が舞う。
それは黒い雪だ。
夜空の剥がれて地に落ちるように、漆黒の断片が降り注ぐ。

川澄舞の左腕を覆っていた、それはかつて遥か天空の彼方より飛来した狩猟者の血を引く者たちの証。
鬼と呼ばれる者の、闇を封じた腕である。
罅割れ、欠け落ちていく黒い皮膚の下から本来の肌が顔を覗かせれば、病的なまでに白い腕には
静脈のように薄い青緑色の、しかし決して血管ではあり得ない何かの紋様が刻まれている。
薄い脂としなやか筋肉とを包むきめの細かい肌を侵すように拡がり、手の甲から手首、
肘の辺りに至るまでをぐるぐると幾重にも取り巻くように螺旋を描いたその紋様は、
どこか獲物を前にとぐろを巻く蛇を思わせる。

否、それは事実、蛇である。
刺青のように舞の腕を取り巻いていた紋様は、己を縛り付けていた黒の皮膚がすっかり剥がれ落ちた途端、
まるで生きているかのように、ずるりと動き出していた。
奇妙な青蛇の紋様が、ぞろぞろと気味の悪い音を立てながら舞の腕の中を這い回る。
ややあって、ちろちろと舌を出し入れするその頭が向かったのは腕の先、手指だった。
手首の盛り上がった骨を嬲るように舐め回し、白い手の甲に思うさま己を摺り付け、
掌をゆっくりと撫で上げて、青蛇が舞の指へと辿り着く。
長い、骨ばった指の一本一本を値踏みするように頭を突き入れ、爪の先までをぐずぐずと蹂躙しながら、
嘲笑うようにまた手の甲までを引き戻る。
それを幾度か繰り返し、五指の隅々までを己が慾のままに味わい尽くして、刺青の蛇が最後に
その行く先と定めたのは、人が生涯を縛る鎖を結びつける約定の指―――薬指であった。
産毛すら生えない指の背が、幽かに脂のついた白い腹が、爪の下の赤い肉が、青黒い蛇の紋様に埋め尽くされ、
その色を喪っていく。

ぷつりと、指の先に血の珠が浮く。
窓から射す陽光の下に晒して黒い、それは死んだ血の色だった。
つう、と浮いた珠から濡れた糸のように粘つく血が流れ落ちていく。
垂れ落ちて拡がる刹那、糸の先でちろりと舌を出すように、黒い血が僅かに跳ねた。
ずるり、ずるりと音を立てて、蛇の尾が舞の手指から消えていく。
やがて血が止まったときには、もうその手に青黒い紋様は、見えなかった。

その代わりとでもいうように、いつの間にか舞の手に握られていたのは小さな珠である。
子供の遊ぶ硝子玉のような、透き通った丸い珠。
掌中で弄ぶように転がしていた舞が、その珠を指先に摘み上げる。
珠は陽射しの中で黄金色にも、薄く白みがかっているようにも見えた。
ほんの僅かの間を置いて、珠にぴしりと罅が入る。
摘んだ指に力を入れるまでもなく、珠はその役割を自ら知っているように罅を広げていく。
繊細な焼菓子のように割れ砕ける瞬間、珠が立てたのは澄んだ音である。
混じりけのない、清新な高音。
感情も想念もない、純粋を集めて吹いたような音が消えていく。

その余韻を惜しむように、はらはらと舞うものがある。
色は純白。
風のない部屋の中、黒の雪と、青黒い血と、透き通った欠片の散らばった上を覆うように、
何もかもを真白く染めて、祝福は深々と降り積もる。


四つの至宝の織り成す、それは儀式である。


求め、奪い合い、ついに手にした者たちの、これが物語の終着点であった。
長い争いの中に願いがあり、祈りがあり、命があり、生と死とがあり、ならばそれは、叶えられる。
そうでなくてはならなかった。
それを許さぬものが世界であるならば、世界を赦さぬが物語である。
ならばその終幕へと至る道程の、目に見えず在り続ける最後の素因を、物語は請願する。


―――希望あれ、と。



***

 
 
ふつふつと、音がする。
コンロに掛けられたヤカンの湯が沸き立つ音だ。

「……あとは焼けるのを待つだけです」

小さなオーブンを見やった早苗が微笑むのへ、舞がこくりと頷く。

「た、食べられるんでしょうか、あれ……」
「……?」

どこか怯えたような娘の表情を不思議そうに見返す早苗。

「パンはいつも食べているでしょう?」
「そういうことではなく……」
「さ、お湯も沸いたみたいですし、お茶にしましょうか」

意に介した風もなく立ち上がり、コンロの火を細める早苗の後ろ姿に、
渚が二の句を継げずに口を閉ざす。

「渚、そこの戸棚からカップを―――」

言い掛けた途端だった。

「―――おい、誰かいるか!?」

響いたのは、男の大声である。
息せき切ったような切羽詰った声音が、診療所の方から聞こえていた。

「医者はいないか! 急患を連れてきた!」
「……あらあら」

火を止めた早苗が困ったように、しかし表情から微笑は消さずに診療所へと続く扉に向かう。

「今日は本当に、お客様がたくさんいらっしゃる日ですね。
 ……渚、お茶は少し多めに淹れておいて頂戴ね」

ドアノブに手を掛けて振り返った、その顔に緊張の色はない。
その空気に引きずられるようにティーセットの用意を始めながら、渚は突然の来訪者にも
椅子から立ち上がろうとすらしない舞の輝くような白い毛並みは犬系だろうか、
それとも猫系のそれだろうか、などとひどく場違いなことをぼんやりと考えている。
目が覚めてからこちら、驚愕と仰天とが重なりすぎて神経が麻痺しているのかもしれない。

「もう、どんなことがあっても驚かない気がします……」

呟いた渚は無論、この上まだ常識を塗り替えられる事態が壁一枚隔てた傍にまで迫っているなどと、
よもや想像だにしていない。



 
【時間:2日目 午後1時すぎ】
【場所:I-7 沖木島診療所】

古河早苗
【所持品:日本酒(一升瓶)、ハリセン】
【状態:健康】

古河渚
【所持品:だんご大家族(100人)】
【状態:健康】

川澄舞
 【所持品:村雨】
 【状態:白髪、ムティカパ、エルクゥ】


国崎往人
 【所持品:人形、ラーメンセット(レトルト)】
 【状態:健康・法力喪失】

長岡志保
 【所持品:なし】
 【状態:意識不明】

春原陽平
 【所持品:不明】
 【状態:妊娠・意識不明】
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