スタートライン







 家の縁側に座り込み、じっと世界を見つめ続けている人影があった。
 赤を基調とし、袖の白いパーカーにどこにでもありそうなジーンズ。

 自分でも地味だと感じ、似合わないとさえ思う。
 典型的な日本人の服装は西洋人的な特徴のある我が身には向いていないのだろう。
 小さな唇が笑みの形を作り、すらりと整った顔立ちが柔らかいものになる。
 自分が何者でもないという実感と、そして何にも縛り上げられていないことがただ可笑しくて笑った。

 今の私は誰でもないのだ。
 これまでの自分を全て捨て、一から道を選び取って進んでいかなければならない。
 ただ、それを不思議と苦痛には感じていない。
 今まで道が一つしかなかったのが、実はそうではなく、いくつもの分岐点があると気付けたからなのかもしれない。
 ここまで来るのに結構な時間がかかってしまったが。

 春原が人としてのありようを教えてくれて、美凪が自分にもそうすることが出来るということを教えてくれた。
 少なくともこの二人がいなければここまで『うー』らしくはなれなかっただろう。
 忘れてしまおうと決めた言葉をまだ覚えていることに我ながら呆れる。
 こんな短期間で忘れられるわけもないし、故郷は嫌いではなかったのも事実ではある。

 だがそれ以上に自分はこちら側に近づきすぎた。もう『うー』無しではいられないのも事実。
 『るー』の生き方はそれを許さないのだろう。だから元の名前を捨て、ルーシーという名を語るに至った。
 父母のことを思わないではなかった。自分を優秀だと信じ、送り出してくれたことも未だに思い出せる。
 それを忘れることはきっと悪いことなのだろうし、寂しいとルーシーは思う。

 けれども『るー』として生き、この土地を永久に離れなければならないことの方がよほど寂しい行為のように思えた。
 そう、だから自分は『るー』を捨て、『うー』を選ぶ道を進んだ。
 そのことを後悔してはいないし、いくらかの寂しさはあってもつらくはない。
 本当の勝利。生きる価値のある命。この言葉が勇気を与えてくれている。
 ただ勝つだけの勝ちには意味はないし、そうして生き長らえた命にも意味はない。
 そうだろう、なぎー?

 手を伸ばして十字架の感触を確かめる。元は制服のタイピンであり、量産品でしかないそれは格別な重みもない。
 だが確かに命の重みがここにはある。手触りに安心している我が身を確かめ、ルーシーは苦笑した。
 結局のところまだまだ子供なのかもしれない。春原が贈ってくれた服と、美凪の十字架。

 この二つに守られながら自分は生きている。けれどもそれでいいと納得する。
 ここで暮らしていくには、自分は何も知らなさ過ぎるのだから……
 借りはいずれ返せばいいと結論し、ルーシーは穏やかに息を吐き出した。

「さて、そろそろ行くか。渚が待ってる」

 腰を上げ、縁側から外へと踏み出す。まだ雨は降っているかと思ったが、いつの間にか止んでいた。
 空を見上げてみるがまだ雲に覆われているのか、月明かりも見えず黒々とした夜陰が広がっているばかりだ。
 故郷だった星と自分は隔絶されている。そうなのかもしれないと思い、ルーシーは笑った。

 次に見るときは、あの星も星座の一部に成り果てているだけなのだろう。
 それでいい。見えるということは、まだ未練を残しているということに他ならないのだから。
 目を地上に戻し、ルーシーは歩き始めた。
 他の何者でもない、自分だけの名前を背負って。

     *     *     *

 乱雑に並べられた武器や道具の数々をぼんやりと眺めながら、伊吹風子はこれまで交し合った言葉の中身を反芻していた。

 自分にもう少し正直になってもいいんじゃないか。
 弱いのかもしれない。だけど、無力じゃない。
 人はいくらだって強くなれるし、考えだって変えられる。

 優しすぎる言葉だ。少なくとも、今の情けない自分にとってみれば。
 それだけに心が痛くなるし、そう思ってもいいとどこかで受け入れている自分もいる。
 己にその言葉が向けられる価値なんてないのにと思う一方で、だが彼らの言葉もまた事実なのだと思ってもいる。

 救われてもいいのだろうか。

 そんな考えが頭を過ぎるたびに、由真や花梨、みちる、そして朋也の姿が思い出される。
 生きたかったはずなのに生きられなかった人達。守るために我が身を犠牲にしていった人達。
 それを思うと、ただ辛かった。どうしてその人達の代わりに自分が生きているのだろうとさえ思う。
 だからといって自分に死ぬことは許されない。既に生きることは責務となり、見殺しにしてきたことは自分の罪だ。
 贖うことこそが生きている意味であり、価値であり、それ以上のものは何もないはずだった。

 しかし新しく出会ったひとの言葉が風子の中身を揺さぶる。断じて変わらないはずの枷を壊そうとしている。
 それでいい、と思う心と、そんなことがあってはいけないと思う心。
 揺れ動いたまま、何も結論を見出せないでいる。そうしてずっと悩み続けていた。

 自分はどう生きたらいいのだろう。

 この質問は出せるわけもないし、出したところで答えてくれる人はいない。
 自分で考え、自分で選ばなければならない問題だった。今の風子にはあまりにも難しすぎる問題だ。
 これから逃げることもまた許されてはいないし、そうするのは最低の人間に他ならない。
 ただすぐに結論が出せるわけでもない。だからこそ彼らは自分に考える時間を与えてくれたのかもしれない。

 俯けていた頭を上げ、風子は短く息を吐き出した。やはり考えはまとまるべくもなかった。
 黙りこんで考え続けていても駄目なのだろう。
 少しでも体を動かせばまた何か思うこともあるかもと考えて、
 風子は散らばった武器道具の数々をリビングに集めて並べておくことにした。

 一度に運びきれる量でもなかったので数度に分けて運び出す。改めて見てみると随分強力そうなラインナップだった。
 風子と死闘を演じた男が持っていたマシンガンにグレネードランチャー、ショットガンに拳銃。
 ひょっとすると、一人で残らなければいけない我が身を案じて強力な武器を残しておいてくれたのかもしれないと風子は思ったが、
 流石にそれは自惚れすぎだと自嘲する。どうしてもまだ、それだけの価値がある人間だとは思えなかった。

 道具の中には鉄でできた扇やフライパン、トンカチやカッターナイフもあった。日曜大工でも出来そうだ。
 そんなことを考えつつ最後の道具を運び出す。すると今まで気付かなかったのだが、奇妙なものが混じっていることに気付いた。
 リモコンのような形状のものに、ひとつ大きなスイッチが付いている。あからさまに怪しい。
 何だろうと風子は思ったが、説明書はどこにもないし本体にも何も書かれていない。
 かといって押してみるだけの度胸はなく、風子は何となく煮え切らない気分を抱えてスイッチを置いた。

「……でも」

 気になる。置いてなお、視線はじっとスイッチへと注がれている。あからさまに押せと語っている。
 ならば押さない道理はない……が、何はともあれ危険を潜り抜けてきた風子の経験が押すなと警告してもいる。
 気になりすぎるので逆に考えてみる。あのスイッチは何だ?

 支給品なのは間違いない。問題はどういう場所で使うべきものなのかということだ。
 見間違いがなければだが、あのスイッチにはスイッチ以外何もない。赤外線や電波を送信するためのアンテナがない。
 いや、代わりにあるものがあった。裏側にスピーカーらしき穴があった。

 ……だとするとあそこからは音が出る仕組みになっているのではなかろうか。ならば押しても危険はなさそうだ。
 だが罠の可能性もある。スピーカーに偽装した送信装置ということもあり得る。
 だとするとやはり罠で、押した瞬間自爆したり、なんてことがあるかもしれない。
 やはり危険だ。いつの間にかスイッチを手に取っていた風子は慌ててスイッチを置く。

 どうやら生来の好奇心はここに至っても旺盛なのだと確認して、ふっと苦笑を浮かべる。
 何をやっているのだろう、と思う。遊んでいる暇も楽しむ資格も己には存在しないというのに。
 迷っている。頑として動じなかった心がこんなにもあっけなく揺れている。
 彼らの言葉が優しかったというだけではない。本当に自分の存在を願い、無言で手を差し出してくれていることが分かる。
 だからこそ不実に満ちた我が身を思い、踏み出していいのか悩むのだ。

 けれども、もし無力なのではなく、弱いだけなのだとしたら。
 変わっていこうという意思を持っているのだとしたら。
 踏み出さないことこそ、真に逃げているということではないのか。
 泣かず、逃げず、目を背けないと決意しながら、その実言い訳にして現実を見ようとしていないのではないか。
 どうせ自分に価値はないと、情けなく生きていることしか出来ないと分かった風になって。
 それこそ自分が最も嫌い、そうはなるまいと思ってきた人の姿ではないのか。
 最後の最後まで、走り続ける努力を怠っているのではないのか。
 たとえ判定がアウトになろうとも、次の塁を目指すという努力を。

「……岡崎さん」

 もし、まだ機会が残されているのだとしたら。
 選択の余地はまだあるのだとしたら。
 自分の、意思は――

 内奥に向けていた意識は、ガタッという玄関から聞こえてきた音によってかき消された。
 続いてガラガラと扉を開く音がする。風子はここで、鍵を閉め忘れていたということを思い出した。
 なんという失態だろうか。いくら動けなかったからといって今の今まで忘れていたなんて。

 後悔という名の苦渋が口の中に広がり、だがこうしている暇も惜しいと風子は咄嗟にショットガンを掴む。
 武器が近くにあったのがせめてもの救いだった。玄関とリビングに通じる扉に向けて風子は構える。
 往人たちだろう、とは思わない。そうであるならば声をかけてきているだろうし、
 何よりやかましいまーりゃんが黙っているはずはない。それに時間的にも早すぎる。
 ここからどんな選択をするにしろ、まだ死ぬわけにはいかない。

 しかし撃てるのか、と風子は思った。何回か発砲はしているがまだ人を殺したことはない。
 少なくとも、自ら攻撃を仕掛けたことはない。
 ホテルの中にいた連中の姿を思い出す。或いはそうであって欲しいと思っているのかもしれなかった。
 それならば、多少は恨みで紛らわせることが出来るのだから。

「誰か、いるのか」

 しかし幸か不幸か、突如発された声は聞き覚えのない女性のもので、風子の知った声ではなかった。
 またまた間の悪いことに、玄関に靴を置き忘れたことを風子は思い出した。
 どうにもこうにも、自分は間抜けというべき種類の人間なのかもしれないと嘆息する。

 だが、何故相手は声をかけているのだろう。普通建物を探るなら自分の存在を知らせるべきではないのは分かっているはずだ。
 ここに至って平和ボケしているなどというのは論外だ。自分でさえ、殺し合いの惨禍には巻き込まれている。
 ならば敵ということではない?

 希望的観測はいけないとこれまでの経験が語りながらも、正直なところ疑うことにも風子は疲れていた。
 どうせ侵入されていることには変わりないし、鉢合わせもするのだろう。だったら友好的に関わってみるほうがいい。
 自ら進んで疑ったり腹を探ったりするなんてことはしたくなかったから。

「どちら様ですか」

 一応ショットガンを下ろし、風子は声に応じた。
 息を呑む気配が伝わり、「本当に反応があった」とひとりごちていた。
 なんとなくだが間抜けさを指摘されたようで悔しさ半分情けなさ半分の風子だった。

「あぁ、済まない。入ってもいいか」
「……どうぞ」

 風子のぶすっとした不貞腐れた声に苦笑する声が返ってくる。本当に格好悪いと思う。
 強くなりたい、と思わないわけにはいかなかった。これが切欠というのもまた格好がつかない話だが。
 そうこう考えているうちに声の主がひょいっと姿を現した。
 その時風子が思ったのは、美人さんだ、という感想だった。

 すらりとした体躯に透き通るような肌の色。ところどころ泥や汚れが見えるものの、それがかえって肌の白さを浮き立たせている。
 西洋によく見られる高い鼻と、色素の抜けた赤みを帯びた瞳。
 そして日本人にはないブロンド風の髪の色が自分とは違う人種であることを際立たせていた。
 そう、まるで御伽噺に出てくるようなお姫様だ。大人だ、と風子は羨まずにはいられなかった。

 見た感じ自分とは胸の大きさもそんなに変わらないというのに……
 そこまで思って、いけないと思いなおした風子は若干の嫉妬を以って睨み上げた。
 ここは年上の風格を見せるべきときだ。たとえ童顔だろうと怯んではいけない。

「何の用ですかとっとと言いやがれふぁっきん!」
「……」
「はっ、つい必要以上に辛口になってしまいました。すみませんでした」
「私よりヘンな奴だな……」
「がーん! 変人に変人って言われました! 大ショックです!」
「まあ、私も似たようなものか」

 言った相手はふふ、と笑う。なんとなく上品で、綺麗な笑い方だった。羨ましい。
 なんとなく和やかな雰囲気になる。お互いにショットガンとマシンガンを持ってはいたが。

「ところで、なんでここに来たんですか」
「ん? ああ、足跡が見えてな」

 この家からは複数の足跡が続いていて、戸口も泥やら何やらで汚れていたのだという。
 そこで誰かがいるのかもしれないと思い、探りを入れてみたらしい。
 反応を返したのが風子というわけだ。

 なるほどと風子は思う。となると侵入された原因は寧ろ往人たちにあるのではないだろうか。
 そう考えると自分にさほどのミスはなかったのかもしれないし、
 あったとしても往人たちも同様のことをしていることになる。
 なんとなく気分が軽くなる。思っているほどには失態を犯しているというわけでもなさそうだった。
 ひょっとすると今までもそうだったのかと思うと、我知らず苦笑が漏れた。

「なんだ、バレバレだったんですね……」
「確証はなかったが。声を返してくれてホッとした。
 お前の声があったから無駄に探らずに済んだ。こう言うのも変な話だが、ありがとう」

 無駄に疑いたくなかったという旨の言葉が伝えられ、
 どうやら同じことを相手も思っていたようだという事実がさらに風子を楽にさせた。
 案外、自分たちは疑わずに生きていけるものなのかもしれない。そんな感想を抱いた。

「どういたしまして。ですが風子の名前は、伊吹風子です」
「風子? 渚の友達か?」
「渚さんを知ってるんですか!?」

 風子は身を乗り出していた。まさかこんなところで渚の知人と出会うとは思わなかったからだ。
 息のかかりそうな位置まで近づいてきた風子は「落ち着け」と肩を叩かれる。
 はっ、と我を取り戻した風子は頷いて深呼吸を繰り返した。
 リラックスリラックス。年上の風格年上の風格……

「渚とはついさっきも会っている。もっともすぐに分かれてしまったが」
「さっき会ってたんですかっ!?」
「……落ち着け」

 唇から1センチの距離まで近づいていた。
 どうどうと宥められ、そこで我を取り戻した風子は再び深呼吸を繰り返す。
 そこから先は説明が続いた。

 渚たちとの邂逅、些細なすれ違いから一時は別れてしまったこと、
 それが原因で友人を失ってしまったこと、そして仇である水瀬名雪を倒したこと、
 そして今、渚は仲間を助けるために行動を続けているということ。

 淡々と、しかし時折感情を滲ませながら語られた言葉に、風子はなんとなく親近感のようなものを覚えた。
 大切な友人たちを失ってなお生き続けることを課せられた彼女。
 助けられなかった不実を悔やみながらもどうすることも出来ない事実が苦痛となって苛む。
 風子と違うのは、そこからでもまた道を選び、少しでもまともになれるように努力していこうと決めているところだった。

 やはり逃げていたのだ、自分は。
 そう思うと情けなる一方、こうして歩んでいる仲間を見つけられたのもまたありがたかった。
 悩んでいたのは自分ひとりではない。

 いや、既にそんなことは分かりきっていたはずなのだ。
 見つめようとしなかっただけで、誰もがこの思いを抱えていることを知っていた。
 だからこそあんな言葉をかけてくれたというのに。

 結局のところ、自分はその域にすら達していなかった。
 恥ずかしいと身が縮こまる思いだったが、ようやくスタートラインに立てたのだという気持ちもまた、確かにあった。
 お姉さんになるにはまだまだ遠いと思いながら、どこかすっきりした胸の内を眺めて、風子は話を聞き終えた。

「そうですか……渚さんは、やっぱり強いですね」
「ああ。あいつは強い。羨ましくなるくらいに。でも、だからこそ、一緒にいたいと思える」

 こうして燻ってはいるがな、と薄く笑いを浮かべて肩を竦めた。
 彼女もまた、風子よりはほんの少し先に進んでいるだけにしか過ぎない。
 そういう意味で自分たちはまだまだ弱い。――でも、無力じゃない。変わっていけるのだ。

「しばらくここで休憩していけばいいと思います。じきに帰ってくると思いますから。……えっと」
「ルーシーだ。ルーシー・マリア・ミソラ」
「ルーシーさんの言っていた那須宗一さん、実は風子も会ってます。ついさっき、ここを出て行きましたから」

 そうなのか、とルーシーは目をしばたかせた。そして奇特な縁だな、と笑った。
 渚は人を惹き付ける力があるのかもしれない、と風子は思った。あの強さが人を惹き付け、結びつける。
 皆と進んでいくだけの力を与えてくれる。そう思えた。

「他にもたくさんの人がいます。……みんなヘンな人たちです」

 風子も笑った。
 それはスタートラインから一歩踏み出した、大人の道を歩みだした人間の笑みだった。




時間:2日目午後23時30分頃】
【場所:F−3・民家】

伊吹風子
【所持品:サバイバルナイフ、三角帽子、青い宝石(光四個)、グロック19(0/15)、支給品一式】
【状態:泣かないと決意する。全身に細かい傷、及び鈍痛。民家に残る】

ルーシー・マリア・ミソラ
【所持品:IMI マイクロUZI 残弾数(20/30)・予備カートリッジ(30発入×4)、支給品一式×2】
【状態:生き残ることを決意。髪飾りに美凪の制服の十字架をつけている】
【目的:たこ焼き友だちを探す。少々休憩を挟んだ後宗一たちと合流】 

【その他:民家には以下のものが置かれています。
イングラムM10(0/30)、イングラムの予備マガジン×1、M79グレネードランチャー、炸裂弾×2、火炎弾×9、Remington M870(残弾数4/4)、予備弾×17、スイッチ(未だ詳細不明)、トンカチ、カッターナイフ、SIG(P232)残弾数(2/7)、仕込み鉄扇、ワルサー P38(0/8)、フライパン】
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