「ぷひ」 彼が誰かご存知だろうか。ボタンである。 降りしきる雨の中とぼとぼと彼は歩き続けていた。 勢いもよく坂を駆け上がっていたもののすぐにバテておまけに道に迷った。 説明をさせていただけるならばボタンは現在菅原神社へと続く道を歩いていた。 所詮は年端もゆかぬ猪。道など分かろうはずもない。 そういうわけで彼はホテル跡で起こってきた惨劇や凄絶な戦いを目にすることも参加することもなく、 いわゆるボッチ状態で涙目だった。 ぐぎゅるるるる、とボタンの腹が鳴る。言うまでもない、食欲がボタンをせっついているのだ。 当然のことながらボタンは食料などもっているはずもないし、雑草が食べられるわけでもない。 次第に彼の脳内はご主人様への思いよりも食欲の方に支配されていくのだった。 所詮は獣畜生である。つぶらな瞳を輝かせながら彼は猪突猛進を続ける。やはり猪である。 しかしそんなボタンも野生の血を引き継ぐもの。ガサガサと聞こえる不自然な音が聞こえたのを逃さなかった。 「ぷひ?」 人間だろうか。しかし鼻を嗅いで匂いを探ってみてもそれらしき匂いや気配もない。 いくら雨の中だとはいえ獣の嗅覚は人間とは比較にはならないのである。 不可解な現象にぷひ、とボタンが疑問の鳴き声を上げる。 世の中には自然現象というものがある。今ボタンの体を濡らしきっている雨もそうだし、 台風や雪という現象があるのもボタンは知っている。 しかしこの島に来てからというもの、雨以外のそんな現象にはとんと覚えがない。 野生の勘が「何かある」と告げていた。 ここで留意していただきたいのは、ボタンは獣なれども人間に慣れ親しみ、共生してきた猪であることだ。 普通の獣ならば危険には極力近づかず、己の命を確保することに最善を尽くす。 しかしボタンはそうではない。藤林杏にしつけられ、彼女の忠実な僕とも言える存在だ。 山の上に向かおうとしたのだって杏ならばそうするという考えに基づいていたし、 獣なりの倫理感らしきものも存在していた。 もっとも今は空腹感に支配されているのだが。 とりあえず濡れるのは嫌だったし、そちらへ向かうことにした。 大抵の場合、何か物音がする現場には建物があるというのが相場である。 道を外れ、草叢の中をがさがさと侵入していく。 視界はさらに悪くなったが大体音のする方向は検討がついていた。 視覚と異なり、聴覚で方向を判断する能力は優れている。獣の面目躍如である。 そうしていくらか歩いたころであった。 地を揺るがすような大音量が響き、しかる後にけたたましい音が鳴り始めた。 「ぷひ!?」 今まで経験したことのないような音にボタンの頭が混乱の極みを迎える。 待てまてまてあわわわあわ慌てるなニホンイノシシは慌てないッ! ガタガタ震えることは……流石になかったが、杏に仕込まれたボタンが七つ奥義、『ぬいぐるみ』を発動させ、 さながら路傍の石が如く動きを止める。混乱すると命を優先する部分はやっぱり獣なのであった。 それからしばらくしてようやく音が止まる。最後にキーンという耳鳴りがあったような感覚のあるボタンだったが、 ぬいぐるみ中は無念無想の境地。殴られても投げられても無反応を貫く。 ま さ に ド M 。 なお、ボタンはSMという概念などないことをここに記しておく。 しばらく無音が続いたのだがボタンは念を押してぬいぐるみ状態を続ける。 この形態になればいかなる人間からも注目されたことはない。持っている人間が注目されることはあったが。 だがこの慎重さが裏目に出た。 収まったかと思えば今度はガサガサという音がボタン側の方に近づいてきたのである。 何者かが近づいてきたのは明白であったが、匂いはまるでない。そう、質量を持った音だけが近づいていたのだ。 どうすべきかとボタンは一瞬迷い、結局ぬいぐるみ状態を貫くことにする。この状態なら気配もある程度消せるのだ。 実際音はまるでこちらに気付くこともなく一直線に進んでいく。 まるで悩みなどないかのように、考えるべきことなどないかのように。 「……ぷひ」 気付いていないと判断したボタンはぬいぐるみを解いてみたが、やはりガサガサとした音は依然として変わらず。 次第に音は遠ざかっていく。一体何だったのだろう。 まるで正体の分からぬ音の主に生物的な恐怖は感じていた。だがそこに何かがあるという直感を持ったのも事実だった。 杏のことを頭に浮かべる。少しでも役に立つことがしたい。ここに来てからというもの、まるで主人の力になれてない。 ボタンを撫でて心を慰撫しているような素振りはあった。しかしそれだけだ。受動的にしか行動が出来ていない。 主人の危機には何ひとつ出来なかった。隠れているだけで、杏を助けたのはいつも他の人間だった。 妬ましいとは思わない。無性に自分が情けなかった。いつまで経っても自分は助けられる存在でしかないという事実。 ひいては立派な大人足り得ないということが悔しさを駆り立てる。 いつまでも子供ではいられない。立派になって恩返しをしなければならないのだ。 ならばボタンのするべきことはひとつしかない。その機会はまさに目の前にある。 思いに衝き動かされ、ボタンは音の根源を追った。耳が良かったし前進速度だけは速かったので追跡することができたのである。 それに加え、猪は元を辿れば山地に生息する動物だ。山はお手の物。空腹はいつの間にか忘れていた。 音を追って進んだ先。……そこは何もない草叢だった。 今までの草叢と同じく、ボタンの身長ほどもある雑草が青々と茂り、静かに揺れていた。 しかし音はここで途絶えていた。そう、音の根源はここで突如として姿を消したのである。 だがボタンでも知っている。突然消えるモノなどありはしない。 他に不審な音はない。ボタンの存在に気付き、隠れているような気配もない。 草叢だらけのこの場所で少しでも動こうものならたちまちのうちにボタンには察知できる自信があった。 ならば上なのだろうか。視線をずらしてみるが、そそり立つ木々の枝にも何かがぶらさがっている様子はない。 木の上を飛んでどこかに逃げてしまったのだろうか。それはないとボタンは思った。 迷いなく進んでいた音の主はそんな器用な思考を持ち合わせていないと思ったのだ。 生き物なら、一定間隔で動き続けることがどれほど不自然なことかボタンには分かっていた。 なのに忽然と消えた。ここには最初から何もなかった。そう結論付けるように草叢はただ広がっている。 「ぷひ?」 何かがあるという直感的な思いの元とことこと草を掻き分けて進んでいたボタンの鼻にツンとした刺激臭が漂ってきた。 それはボタンにさえ僅かに感じられる程度で、人間ならば気付きもしないレベルであっただろう。 この匂いの正体をボタンは知っている。冷房の匂いだ。 正確には冷房の効いた室内の匂いというべきだった。スーパーマーケット、コンビニ、デパートやオフィスに漂うそれ。 どことなく埃っぽいその匂いをボタンは不思議に思った。冷房は、人間の家にしか存在しない。 それともここは人間の家なのだろうか。もう一度上を見上げてみるが、黒い空が見える。雨は止んでいた。 空が見える以上、少なくともここは人間の家ではない。だが人間の家の匂いはする。 首を傾げてさらに進んでいくと、柔らかい地面にボタンの足が刺さった。 今まで堅かったはずの地面が突如柔らかくなり、ボタンの体勢が崩れる。こける。 しかもなにやらカチリという音までした。 なにか良くない予感がするのを感じつつボタンが起き上がると、そこには違う光景が広がっていた。 縦穴が広がっていたのだ。突然地面から現れたそれは、猛獣が口を開けて待つように開かれている。 この奇怪な現象をボタンは理解できなかったが、匂いの根源は理解することが出来た。 匂いは穴の中から漂っている。入り口の前まで足を進めてみると、チカチカとした赤い光の群れがボタンを迎えた。 左右の端に警告するように光っている赤いランプ。赤は危険な色だとボタンは知っている。 中は薄暗く、ここからでは何も確認出来なかった。確かめるには入ってみるしかない。 おそるおそる足を進める。入り口の前まで来たとき、唐突に声が流れた。 『侵入者を確認。識別コードが違います。首輪を爆破します』 「ぷ!?」 上の方から流れてきた声。ボタンにその正体は分からなかった。 おろおろして周囲を見回すが誰もいるはずはない。それもそうだった。 声の主はセンサーと連動しているスピーカーから流れたものだ。 その言葉の意味はここの参加者であるならばすぐに理解し、絶望に顔を青褪めさせただろう。 生体反応をキャッチし、コードが違えば即座に首輪を爆発させる防御システムは目の前のボタンに対し信号を送りつけた。 悲鳴を上げる間もなく、信号を送られた人間は首が吹き飛ぶはずだった。 ……しかし、ボタンは参加者ではない。首輪などあるはずがなかった。 当然のことながら信号は意味を為さず、送るだけでそれ以外の対処など持ち得ない機械のセンサーは無言を貫くだけだった。 参加者を即座に爆破する絶対無敵のシステムは『支給品』には何の意味もなかったのだ。 侵入者を抹殺し、役割を果たした入り口が再び閉じ始める。それも急速に。 「ぷひ!」 我に返ったボタンは閉じ始めた入り口と、外の世界を交互に見やり、やがて意を決したかのように中へと向けて走り始めた。 ボタンが闇の中に消えたと同時、入り口は完全に閉鎖され、元の殺風景な草叢の風景がただ広がるばかりになる。 猪を放り込んだ闇の在り処を、誰も知る由はなかった。 【時間:二日目午前23:50】 【場所:D-2】 ボタン 【状態:杏を探して旅に出た。謎の施設に侵入。主催者に怒りの鉄拳をぶつける】 - BACK